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二章 ― 香 ―

二章-4

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「私自身は正月当日、高熱のせいであまりよく覚えていない。中宮から聞くのは妥当と思う。だから中宮に話を付けた」
「本当にございますか」

「ああ。まずはそなたに会ってみたいと言うてな、薫物合たきものあわせに出席して欲しいと」

 薫物合。練香ねりこうを各々持ち寄って、その香料の合わせ方によって、判者が勝敗を決める、物合ものあわせの一種だ。宮中で催される遊びの中でも、優雅で華やかなものゆえ、人も多く集まるはず。

「そのような、中宮様や他の方々に危険が及ぶようなこと、出来ません」
「尚薬が毒小町であることは、中宮には話しておる。その上で、女房たちには知らせぬようにと言ってある。中宮は、工夫はしておくから安心しろ、と言っておった」

「しかし、わたしは夜しか外を歩けぬ身でございます」
「毒小町であることを伏せて、参加せよ。そなたの顔を知っている者は少ない。藤壺周辺の者で知っている者はまずおらぬ」

「ですが……」
「中宮がそなたに興味を持っておるようだ。会ってやってくれ」

 帝に下手に出るような言い方をさせてしまったことに、菫子は焦った。中宮が会いたがっているのなら、話を聞くことが出来るのなら、願ってもないことだ。それでも、毒小町である菫子が、宮中の遊びに参加するなんて。

「そうだな、そこの小鬼も参加を許そう。小鬼は毒が効かぬのであろう」
 ここまで言われれば、さすがに菫子が頷くしかない。

「……主上がそこまでおっしゃるのでしたら。かしこまりました」
「あたしも行くの? 藤小町を守ればいいんでしょ。任せてよ」

「紫苑、わたしから、他の方々を守るのよ。間違えないで」
「えー、そう変わらないと思うけど」

 帝は菫子が了承したことに、満足そうに頷いた。

「尚薬よ」
「はい」

「ここへ来てすぐに、青梅の件を見抜いたそなたの手腕、信用しておる。焦らずともいい。時間をかけてよい。犯人を見つけ出せ」
「心得ております。必ず、お応えいたします」
「うむ。とはいえ、祭は心置きなく楽しみたいものだな」

 祭というのは、賀茂祭かものまつりのことを指す。卯月、中の酉の日に行なわれる一大行事で、特に路頭ろとうの儀と呼ばれる、斎院と勅使を中心とした行列は、路上に見物客が溢れかえるほどの人気と聞く。

 この祭まで、つまりはおおよそ、ひと月の期間が与えられたということだ。菫子は気を引き締めて、頭を垂れた。

「かしこまりました」
「そういえば、そなた、鈍色以外の着物は持っておるか。薫物合で、あの装束では毒小町と公言しているようなものであろう」

「申し訳ございません。手持ちがございません」
「ならば、下賜するか。いや、俊元に選ばせる方がよいな。言っておこう」

 着物のことは帝に言われるまで思い至らなかった。だが、菫子が何か言う前に帝の中で解決したらしく、頷いていた。

「さて、長居してしまったのう。そろそろ戻るとする。ではな」

 帝は、さらりと立ち上がると、戸を押し開けて、そのまま夜の庭を堂々と歩いていった。何故あれで見つからないのか不思議である。

 何だか嵐が過ぎ去った後のような、疲労感があった。凄いことになってしまった気がするが、今日は大人しく寝ることにした。
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