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第一幕 天気雨
天気雨―3
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ご婦人がそう言った直後、舞台の上から、コツコツと床を踏み鳴らす音が聞こえてきた。観客たちの視線が一斉に舞台に向いた。たくさんの目線を受けて、一人の少女が下ろされた幕の前に立った。豪奢なドレスに身を包んだ少女は、雰囲気こそ違うが、先ほどあさぎを客席まで案内してくれた、花音だった。
『昼と夜の狭間、黄昏時にだけ語られる物語。あやかしものがたり。さあ、本日も幕が上がります。――覚ものがたり』
抑えた声なのに、客席全体に通る声だった。再びコツコツと足音を響かせて、舞台から捌けていった。
幕が上がる。
「わあ……」
舞台上には、豪奢な西洋館の空間が広がっていた。真っ赤な絨毯が敷かれ、壁にはアーチ状の窓、天井には一際輝くシャンデリアがある。奥にはバルコニーも見える。これが舞台上の作り物であることを、忘れてしまうほどだった。
「すごい」
「これは、鹿鳴館か……」
「こんなの見たことないわ」
観客は口々に感嘆の声を漏らす。小声ではあるが、さざ波のようにその声が広がっていく。その時、舞台中央に立っていた一人の青年がくるりとこちらを見た。客席が水を打ったように静まり返った。背を向けて立っていた彼の姿は、動き出すまで背景に溶け込み、一枚の絵画のようだったのだ。
『全く、洋装というものは堅苦しくってしようがない』
彼は気だるげにそう言った。黒いジャケットにパンツスーツ、ネクタイを締めた西洋風の恰好であった。手を首元にかけて、今すぐにでもネクタイを外したいという意思が見て取れた。
洋装を身に纏っていて雰囲気もだいぶと異なるが、演じているのは琥珀だ。
『あらあ、若旦那じゃあありませんか。今宵もいらしてたんですね』
『ええ、まあ』
きらびやかに着飾った女性が、彼を若旦那と呼び、駆け寄ってきた。女性の真っ赤なドレスは腰の部分が細くなっていて、裾にも袖にも装飾がふんだんに施されている豪奢なものだ。
『今宵こそ、ご一緒してくださる?』
猫撫で声でそう言う女性を、若旦那は無言で見つめる。
すると、女性の動きがピタリと止まり、無表情に機械仕掛けのように口だけが動いた。
『――家柄だけは良いこの人をどうにか、引き込まなければ。家柄とお金が必要。お父様の言いつけ通りに』
女性は、何事もなかったかのように、表情に笑顔を戻すと、若旦那の返答を待っている。
『期待には沿えませんね』
『そんな、どうかお待ちを』
女性を振り払い、絨毯の上を歩くと、またすぐに別の女性に捕まった。鮮やかな黄色のドレスの女性は、花音だった。若旦那の行く先に立ちふさがるようにして、女性はドレスを持ち上げて礼をした。
『若旦那さま、おひさしゅうございます。少しお話しいたしませんこと?』
またしても、女性がピタリと止まり、口だけが動く。
『――貸付の延長を承諾していただかなければならないわ。でないと、わたしの婚約が消えてしまう』
無表情が取れると、女性は上目遣いで若旦那を見上げる。若旦那は表情を緩めることなく、女性を避けて再び歩き出した。
『失礼します』
『若旦那さま、少しだけでも』
背後からの声にも振り返らず、若旦那は絨毯を踏みしめる。会場の端までやってきたらしい若旦那は、深くため息をついた。
『……疲れた』
壁にもたれかかった若旦那の表情は暗い。落胆と諦めの入り混じったような、そんな表情。
『覚の宿命とはいえ、聞きたくもない心の声を聞くのは、疲れる。ここに来れば家柄、金、そんなことばかり。もううんざりだ』
覚という妖は、心の声を聞くことが出来るらしい。静止した女性たちが口にしていたのが、彼女たちの心の声、ということ。実際に口にした言葉と心の声、正反対だ。
初めて見る芝居、初めて知る妖。あさぎは、どんどんこの芝居に引き込まれていった。
『義務とはいえ、帰りたいものだ』
うんざりした様子の若旦那は、フロアからそっと抜けて、バルコニーへと出た。柵にもたれ掛かるようにして、若旦那は空を見上げた。
『星は、何も聞こえてこなくていい』
その時、女性もバルコニーへとやってきた。淡い緑色のドレスの女性を演じているのは、凪だ。淑やかに、柵まで歩み寄ると、若旦那と共に星を見上げた。しばらくの間、何も言わず、二人は並んで星空を見上げていた。
『あの、ご令嬢、何か御用がおありですか』
沈黙が気になった若旦那の方が声を掛けた。すると、令嬢は一言だけ答えた。
『星が綺麗だったもので』
他の女性たちと同じように、動きが止まり、心の声が聞こえてくるのだと分かった。若旦那の顔が、またか、と言いたげに曇る。
『――早く、帰りたいわ。こんなところ』
『ははっ』
若旦那は、思わずといった様子で笑った。
『……まさか、同じような人に出会うとは』
『あの、今何かおっしゃりましたか?』
『いいえ、独り言ですよ』
なおも不思議そうな顔をする令嬢に、若旦那は笑いかけた。
『失礼ながら、こういう場があまりお得意ではないようだ』
『ええ、恥ずかしながら、そうですわ』
『私もです』
ふいに、音楽が流れてきた。ゆったりとしたワルツのような曲調。二人は顔を見合わせた。
『曲が流れたということは、踊らなくてはならないわけですが、お誘いしても?』
『わたし、ダンスは得意ではありませんが……』
『では、ここで踊りましょう。バルコニーに注目する人はいませんから。それとも、相手が私では不足でしょうか』
『いえ。よろしく、お願いいたしますわ』
若旦那が手を差し出し、そこに令嬢がおそるおそる手を重ねる。両手とも真っ白い手袋をしている令嬢の手が若旦那の手と合わさる。若旦那が令嬢を導いていて、音楽に合わせて、二人はダンスをする。星空の下でのダンスはとても幻想的で、美しく、あさぎは思わずため息を零した。
曲が終わると、二人はそっと体を離し、一礼をした。
『ここで、楽しいひと時を過ごせるとは思わなかった。ありがとう』
『いえ、こちらこそ』
その後に聞こえてきた心の声は。
『――ダンスについていくので必死だったけれど、楽しかった。ご迷惑ではなかったかしら』
若旦那は驚きつつ、顔をほころばせた。
『ああ、声を聞いて、不快ではなかったのはいつぶりだろうか』
独り言の後、若旦那は令嬢に向けてこう言った。
『お名前を聞いてもよろしいですか』
『あの、ええっと』
何やら歯切れの悪い返答をする令嬢の動きが止まる。心の声が、聞こえる。
あさぎは、若旦那と同じようにそれを、固唾を飲んで待った。
『――わたしは姉の代理で来ただけ。でもそれは言ってはいけないと、きつく言われているし。そもそもわたしはまだ女学生の身だし。ああ、でもお答えしなければ失礼になってしまう』
若旦那は、令嬢の手を取ると安心させるように微笑んだ。
『事情がおありなら、聞くのはやめましょう。またいつか、お会い出来れば』
『ええ。いつか、また星の下で』
二人は約束を交わして、バルコニーを後にした。
幕が下りる。
『昼と夜の狭間、黄昏時にだけ語られる物語。あやかしものがたり。さあ、本日も幕が上がります。――覚ものがたり』
抑えた声なのに、客席全体に通る声だった。再びコツコツと足音を響かせて、舞台から捌けていった。
幕が上がる。
「わあ……」
舞台上には、豪奢な西洋館の空間が広がっていた。真っ赤な絨毯が敷かれ、壁にはアーチ状の窓、天井には一際輝くシャンデリアがある。奥にはバルコニーも見える。これが舞台上の作り物であることを、忘れてしまうほどだった。
「すごい」
「これは、鹿鳴館か……」
「こんなの見たことないわ」
観客は口々に感嘆の声を漏らす。小声ではあるが、さざ波のようにその声が広がっていく。その時、舞台中央に立っていた一人の青年がくるりとこちらを見た。客席が水を打ったように静まり返った。背を向けて立っていた彼の姿は、動き出すまで背景に溶け込み、一枚の絵画のようだったのだ。
『全く、洋装というものは堅苦しくってしようがない』
彼は気だるげにそう言った。黒いジャケットにパンツスーツ、ネクタイを締めた西洋風の恰好であった。手を首元にかけて、今すぐにでもネクタイを外したいという意思が見て取れた。
洋装を身に纏っていて雰囲気もだいぶと異なるが、演じているのは琥珀だ。
『あらあ、若旦那じゃあありませんか。今宵もいらしてたんですね』
『ええ、まあ』
きらびやかに着飾った女性が、彼を若旦那と呼び、駆け寄ってきた。女性の真っ赤なドレスは腰の部分が細くなっていて、裾にも袖にも装飾がふんだんに施されている豪奢なものだ。
『今宵こそ、ご一緒してくださる?』
猫撫で声でそう言う女性を、若旦那は無言で見つめる。
すると、女性の動きがピタリと止まり、無表情に機械仕掛けのように口だけが動いた。
『――家柄だけは良いこの人をどうにか、引き込まなければ。家柄とお金が必要。お父様の言いつけ通りに』
女性は、何事もなかったかのように、表情に笑顔を戻すと、若旦那の返答を待っている。
『期待には沿えませんね』
『そんな、どうかお待ちを』
女性を振り払い、絨毯の上を歩くと、またすぐに別の女性に捕まった。鮮やかな黄色のドレスの女性は、花音だった。若旦那の行く先に立ちふさがるようにして、女性はドレスを持ち上げて礼をした。
『若旦那さま、おひさしゅうございます。少しお話しいたしませんこと?』
またしても、女性がピタリと止まり、口だけが動く。
『――貸付の延長を承諾していただかなければならないわ。でないと、わたしの婚約が消えてしまう』
無表情が取れると、女性は上目遣いで若旦那を見上げる。若旦那は表情を緩めることなく、女性を避けて再び歩き出した。
『失礼します』
『若旦那さま、少しだけでも』
背後からの声にも振り返らず、若旦那は絨毯を踏みしめる。会場の端までやってきたらしい若旦那は、深くため息をついた。
『……疲れた』
壁にもたれかかった若旦那の表情は暗い。落胆と諦めの入り混じったような、そんな表情。
『覚の宿命とはいえ、聞きたくもない心の声を聞くのは、疲れる。ここに来れば家柄、金、そんなことばかり。もううんざりだ』
覚という妖は、心の声を聞くことが出来るらしい。静止した女性たちが口にしていたのが、彼女たちの心の声、ということ。実際に口にした言葉と心の声、正反対だ。
初めて見る芝居、初めて知る妖。あさぎは、どんどんこの芝居に引き込まれていった。
『義務とはいえ、帰りたいものだ』
うんざりした様子の若旦那は、フロアからそっと抜けて、バルコニーへと出た。柵にもたれ掛かるようにして、若旦那は空を見上げた。
『星は、何も聞こえてこなくていい』
その時、女性もバルコニーへとやってきた。淡い緑色のドレスの女性を演じているのは、凪だ。淑やかに、柵まで歩み寄ると、若旦那と共に星を見上げた。しばらくの間、何も言わず、二人は並んで星空を見上げていた。
『あの、ご令嬢、何か御用がおありですか』
沈黙が気になった若旦那の方が声を掛けた。すると、令嬢は一言だけ答えた。
『星が綺麗だったもので』
他の女性たちと同じように、動きが止まり、心の声が聞こえてくるのだと分かった。若旦那の顔が、またか、と言いたげに曇る。
『――早く、帰りたいわ。こんなところ』
『ははっ』
若旦那は、思わずといった様子で笑った。
『……まさか、同じような人に出会うとは』
『あの、今何かおっしゃりましたか?』
『いいえ、独り言ですよ』
なおも不思議そうな顔をする令嬢に、若旦那は笑いかけた。
『失礼ながら、こういう場があまりお得意ではないようだ』
『ええ、恥ずかしながら、そうですわ』
『私もです』
ふいに、音楽が流れてきた。ゆったりとしたワルツのような曲調。二人は顔を見合わせた。
『曲が流れたということは、踊らなくてはならないわけですが、お誘いしても?』
『わたし、ダンスは得意ではありませんが……』
『では、ここで踊りましょう。バルコニーに注目する人はいませんから。それとも、相手が私では不足でしょうか』
『いえ。よろしく、お願いいたしますわ』
若旦那が手を差し出し、そこに令嬢がおそるおそる手を重ねる。両手とも真っ白い手袋をしている令嬢の手が若旦那の手と合わさる。若旦那が令嬢を導いていて、音楽に合わせて、二人はダンスをする。星空の下でのダンスはとても幻想的で、美しく、あさぎは思わずため息を零した。
曲が終わると、二人はそっと体を離し、一礼をした。
『ここで、楽しいひと時を過ごせるとは思わなかった。ありがとう』
『いえ、こちらこそ』
その後に聞こえてきた心の声は。
『――ダンスについていくので必死だったけれど、楽しかった。ご迷惑ではなかったかしら』
若旦那は驚きつつ、顔をほころばせた。
『ああ、声を聞いて、不快ではなかったのはいつぶりだろうか』
独り言の後、若旦那は令嬢に向けてこう言った。
『お名前を聞いてもよろしいですか』
『あの、ええっと』
何やら歯切れの悪い返答をする令嬢の動きが止まる。心の声が、聞こえる。
あさぎは、若旦那と同じようにそれを、固唾を飲んで待った。
『――わたしは姉の代理で来ただけ。でもそれは言ってはいけないと、きつく言われているし。そもそもわたしはまだ女学生の身だし。ああ、でもお答えしなければ失礼になってしまう』
若旦那は、令嬢の手を取ると安心させるように微笑んだ。
『事情がおありなら、聞くのはやめましょう。またいつか、お会い出来れば』
『ええ。いつか、また星の下で』
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幕が下りる。
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