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第6章「最高神生誕祭」
125話 Cult
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真夜中の繁華街にある、大量の蔦が這う白い教会の廃墟────その地下には、とある組織の隠れ家がある。
エンゲルは、白いローブを深く被ったまま、薄暗い廊下の壁際に寄りかかり目を閉じていた。周りの黒いローブの者たちは、ほとんどがある同じ方向へ歩いている。そんな中、エンゲルはただ一人動かずにいた。
「こんばんは、エンゲルさん」
歩くローブの集団から、一人だけがエンゲルの元へ近づいた。子供のような高い声色だが、相手もまたフードを深く被っているのでどのような人物かわからない。
エンゲルは、声だけで誰が話しかけてきたのかを理解した。
「おや、ノルンではないですか。久しぶりですね」
「今日は大事な会合があるという話でしたので。お疲れですか?」
「いや、問題ありません。これから向かおうと思っていたところでしたから」
「それでは、ご一緒していいですか?」
「ご自由に」
話しかけてきたローブの人物──ノルンが隣にやってきたので、エンゲルは壁から離れてローブの集団に混じって同じ方向へと歩いた。
周囲のローブたちは、顔も素性も見せることはないが、口々に自由な会話をしていた。今日はもう眠いだとか、最近は面白いことがないだとか────
ただ、彼らはみんな、これから始まる「会合」を楽しみにしているようだった。
「ノルンは、会合に参加するのは何度目くらいです?」
「えっと、十回は参加してます。エンゲルさんは結構参加していらっしゃるのでしょう?」
「そうですね。ノーファ様にも積極的に参加するよう言われてきましたし」
やがて、エンゲルとノルンを含めたローブの集団が行きついたのは、廊下の突き当たりにある木製の両扉だった。既に扉は全開にされており、スムーズに集団が入っていく。
扉の先には、屋敷の大広間のようなスペースが広がっていた。シャンデリアも比較的簡素なもので、白いテーブルクロスがかけられたパーティーテーブルには、小さなケーキやクッキーなどのお菓子が置かれていた。
パーティー会場のような大部屋に集まった者たちは、基本的にみんな黒いローブを羽織っていた。誰もが顔を隠し、素性を一切見せていない。違いを述べるとすれば、エンゲルだけが白いローブを被っているくらいだ。
「皆さん、もう既にお集まりのようですね」
「始まりの時間が近づいてきていますからね。さて、シファ様とノーファ様にご挨拶に行かないと────」
「あら、みんなごきげんよう」
エンゲルとノルンの前に、白髪緑目の少女が歩いてきた。横には、周りと同じくローブを被った者が一人ついていた。
朗らかな微笑みを浮かべる少女を前に、エンゲルは深く頭を下げた。ノルンも少し遅れて礼をする。
「ノーファ様、ごきげんよう」
「エンゲル、お疲れ様。ノルンも」
「え、ええ。そちらの方は?」
「ピオーネよ、忘れちゃったかしら? って、みんなローブを被っていたらわからないわよね、うふふ」
可愛らしく甘い声で笑う彼女──ノーファは、ローブも何も羽織っておらず、普段から身にまとっている白いドレス姿であった。無論、有象無象ともいえるほど存在する黒いローブたちにとっては、何よりも目立つ存在だった。
「シファ様はご準備でしょうか?」
「ええ、預言者様をお連れしているところよ。本当はわたくしがしようと思っていたのだけど、ピオーネがどうしても一緒がいいってね」
「それでは、もうじき始まるってことですね」
「もう少しだけ待っていてちょうだい。ピオーネのお菓子でも食べながらね」
ノーファはピオーネと呼ぶ黒いローブの人物を連れて、どこかへ去っていった。エンゲルとノルンは、近くのパーティーテーブルに歩み寄り、会合が始まるのを待っていた。
テーブルには、小さなイチゴケーキやモンブランが置かれていた。最初はかなりの数が作られていただろうが、今は数個程度しか残されていない。
「これ、全部ピオーネさんが作ったんですかね」
「そうらしいですよ。その点をノーファ様が気に入って、連れてきたそうですし」
「……エンゲルさんって、ノーファ様やシファ様とよく話しているんですか?」
「さあ、それはどうでしょうね」
エンゲルがノルンの質問に答えていると、シャンデリアの明かりが落とされる。辺りが闇に包まれると同時に、拍手が巻き起こる。
大部屋の最奥、舞台のような形になっている場所に光が落ちる。光の中心には、ノーファがドレスの裾を指先でつまんでカーテシーの姿勢をとって佇んでいる。ピオーネの姿は舞台の上にはなかった。
「ごきげんよう、『ミストリューダ』の同胞たちよ。集まっていただき感謝しますわ」
ノーファの言葉で、再び拍手が巻き起こる。ノルンはもちろん、エンゲルもノーファへ向かって敬意を込めた拍手を送る。
「まもなく、シファが預言者様をお連れします。預言者様が登壇される前に、わたくしから少し前置きをさせてくださいな」
微笑みを崩さずにいたノーファの目に、真剣の色が宿る。ローブたちは拍手をやめ、ノーファの声に耳を傾けた。
「デミ・ドゥームズデイ以降、わたくしたちは活動範囲を大きく広げてきました。しかし、我々の宿敵……『偽神』たちは、わたくしたちの存在に未だ気づいておりません。度重なる事件で警戒は強まっているようですが、敵の住処がすぐそこにあることまでは知らないでしょう」
ローブたちは無言で言葉を聞き続けている。少し前に歩き出し、ノーファはローブたちへと両腕を広げた。
「近々、偽神たちは『最後の平和』を甘受することになるでしょう。それが、彼女たちの最期……そして、わたくしたちにとっての始まりとなりますわ。これを踏まえて、預言者様のお言葉をお聞きくださいな」
やがて、舞台の袖から二人の人物がやってくる。ノーファとほぼ同じ背丈の子供──シファが、もう一人の人物の手を引いていた。
腕を引かれる、背の高い人物に誰もが目を釘付けにされた。短い銀髪と虚ろな銀の瞳、左頬の泣きぼくろが特徴的だった。黒い装束には高貴な装飾がいくつも施され、片手には真っ黒で長い杖を持っている。
舞台の中央に銀髪の人物──預言者が立つと、シファが手を離してノーファとともに後ろに下がる。杖を片手に、預言者は顔を上げて口を開いた。
「久しいね、我が同胞たち」
男とも女とも判別がつかない、不思議な声色にローブたちから一斉に歓声が上がる。両手を組み合わせ、祈るような姿勢をとりながら声を上げるローブたちは、この場における「信者」そのものだった。
預言者は無表情を保ちつつ、一定のトーンを崩すことなく言葉を続ける。
「我らが救世主、真の神たるヴァニタス様の復活の日は、目前に迫っている。偽神たちも、それを察知していることだろう。しかし、底知れぬ虚無は我らの味方、絶対なる力である。この世の神は真の神ではない、臆することなく戦うがよい」
預言者が杖を掲げたとき、高揚は最高潮に達した。信者たちの熱狂した叫びが、大部屋すべてを満たしていく。
『この世の神は真の神にあらず!! この世の神は真の神にあらず!!』
『真なる神はヴァニタス様! ヴァニタス様!! ヴァニタス様!!!』
真夜中の地下、闇が充満した空間で、信者たちは「真なる神」への信仰を叫ぶ。預言者は無表情を貫く中、ノーファとシファは頭を深く下げて笑みを浮かべていた。
預言者が退場すると同時に、会合は終わりを告げた。ローブたちの熱狂が収まりきらぬ中、次々と大部屋から退出していく。
ノルンも同じように立ち去ろうとしたが、エンゲルはその場に留まったまま動かない。ノルンは、そんなエンゲルの様子が心配だったため、立ち去ることはせずエンゲルのそばにいた。
「エンゲル、ノルン。あなたたちは戻らないの?」
二人の前に、またもや黒いローブで素性を隠した者が近寄ってきた。声は女のものだった。
ノルンはきちんと向き直るが、エンゲルは顔だけその者に向ける。
「リコリス。あなたこそ、早く地上に戻った方がよろしいのでは?」
「ちょっとノーファ様と話がしたくて。預言者様のお世話を邪魔してはいけないから、待っているの」
リコリスと呼ばれたローブの人物は、「そういえば」とエンゲルに話題を振った。
「ねぇ、エンゲル。さっきの会合に『人間』が混じってるって本当?」
「……いや、ぼくは知りませんが」
「本当だとしたら、私すっごく嫌なんだけど。ノーファ様かシファ様に、人間を仲間にするのはやめてくださるよう言ってくれない?」
あまりにも個人的な頼みを聞かされたエンゲルは、フードの下で深くため息をついた。
「リコリス、それは『真なる神の子』たるあのお二人に逆らうことと同義ですよ。本気で言っているのですか?」
エンゲルの問いに、リコリスは黙り込む。どんな表情をしているのかは誰にも読み取れないが、身体をふっと後ろに向けた。
「『お母様』からの愛を忘れてしまったんだね、エンゲル。かわいそうに」
その言葉が終わるのと同時に、エンゲルがリコリスの胸ぐらを掴む。
「いい加減口を慎みなさい、リコリス。調子に乗っていると痛い目を見ますよ」
普段よりも語気を強め、エンゲルは告げる。リコリスは一瞬の沈黙の後、なぜか「うふふ」と小さく笑った。深く被った黒いローブから垣間見える口元も緩くなっている。
「それはあなたにも言えることだよ、エンゲル。私、あなたが何者なのか知ってるもの。だから私、あなたが嫌いなの」
リコリスが立ち去り、闇の中へと消えていった。エンゲルはただでさえ深く被っているフードを、さらに深く被る。
その隣で、ノルンはぽつりと呟いた。
「エンゲルさん……僕たちは、お互いに正体を明かしてはいけないんですよね」
「ええ。それがミストリューダでの決まりですから」
「リコリスさんはエンゲルさんの正体に気づいているのではないですか? だから、あんなことを……」
「たとえ知っていたとしても、関係ありません。ぼくの願いを叶えていただくのは、ノーファ様だけですから」
二人はその後、何の言葉も交わすことなく、大部屋を後にした。他に誰もいなくなった大部屋の扉がしまり、部屋には果てのない黒だけが残る。
真夜中の繁華街にある、大量の蔦が這う白い教会の廃墟────その地下には、とある組織の隠れ家がある。
エンゲルは、白いローブを深く被ったまま、薄暗い廊下の壁際に寄りかかり目を閉じていた。周りの黒いローブの者たちは、ほとんどがある同じ方向へ歩いている。そんな中、エンゲルはただ一人動かずにいた。
「こんばんは、エンゲルさん」
歩くローブの集団から、一人だけがエンゲルの元へ近づいた。子供のような高い声色だが、相手もまたフードを深く被っているのでどのような人物かわからない。
エンゲルは、声だけで誰が話しかけてきたのかを理解した。
「おや、ノルンではないですか。久しぶりですね」
「今日は大事な会合があるという話でしたので。お疲れですか?」
「いや、問題ありません。これから向かおうと思っていたところでしたから」
「それでは、ご一緒していいですか?」
「ご自由に」
話しかけてきたローブの人物──ノルンが隣にやってきたので、エンゲルは壁から離れてローブの集団に混じって同じ方向へと歩いた。
周囲のローブたちは、顔も素性も見せることはないが、口々に自由な会話をしていた。今日はもう眠いだとか、最近は面白いことがないだとか────
ただ、彼らはみんな、これから始まる「会合」を楽しみにしているようだった。
「ノルンは、会合に参加するのは何度目くらいです?」
「えっと、十回は参加してます。エンゲルさんは結構参加していらっしゃるのでしょう?」
「そうですね。ノーファ様にも積極的に参加するよう言われてきましたし」
やがて、エンゲルとノルンを含めたローブの集団が行きついたのは、廊下の突き当たりにある木製の両扉だった。既に扉は全開にされており、スムーズに集団が入っていく。
扉の先には、屋敷の大広間のようなスペースが広がっていた。シャンデリアも比較的簡素なもので、白いテーブルクロスがかけられたパーティーテーブルには、小さなケーキやクッキーなどのお菓子が置かれていた。
パーティー会場のような大部屋に集まった者たちは、基本的にみんな黒いローブを羽織っていた。誰もが顔を隠し、素性を一切見せていない。違いを述べるとすれば、エンゲルだけが白いローブを被っているくらいだ。
「皆さん、もう既にお集まりのようですね」
「始まりの時間が近づいてきていますからね。さて、シファ様とノーファ様にご挨拶に行かないと────」
「あら、みんなごきげんよう」
エンゲルとノルンの前に、白髪緑目の少女が歩いてきた。横には、周りと同じくローブを被った者が一人ついていた。
朗らかな微笑みを浮かべる少女を前に、エンゲルは深く頭を下げた。ノルンも少し遅れて礼をする。
「ノーファ様、ごきげんよう」
「エンゲル、お疲れ様。ノルンも」
「え、ええ。そちらの方は?」
「ピオーネよ、忘れちゃったかしら? って、みんなローブを被っていたらわからないわよね、うふふ」
可愛らしく甘い声で笑う彼女──ノーファは、ローブも何も羽織っておらず、普段から身にまとっている白いドレス姿であった。無論、有象無象ともいえるほど存在する黒いローブたちにとっては、何よりも目立つ存在だった。
「シファ様はご準備でしょうか?」
「ええ、預言者様をお連れしているところよ。本当はわたくしがしようと思っていたのだけど、ピオーネがどうしても一緒がいいってね」
「それでは、もうじき始まるってことですね」
「もう少しだけ待っていてちょうだい。ピオーネのお菓子でも食べながらね」
ノーファはピオーネと呼ぶ黒いローブの人物を連れて、どこかへ去っていった。エンゲルとノルンは、近くのパーティーテーブルに歩み寄り、会合が始まるのを待っていた。
テーブルには、小さなイチゴケーキやモンブランが置かれていた。最初はかなりの数が作られていただろうが、今は数個程度しか残されていない。
「これ、全部ピオーネさんが作ったんですかね」
「そうらしいですよ。その点をノーファ様が気に入って、連れてきたそうですし」
「……エンゲルさんって、ノーファ様やシファ様とよく話しているんですか?」
「さあ、それはどうでしょうね」
エンゲルがノルンの質問に答えていると、シャンデリアの明かりが落とされる。辺りが闇に包まれると同時に、拍手が巻き起こる。
大部屋の最奥、舞台のような形になっている場所に光が落ちる。光の中心には、ノーファがドレスの裾を指先でつまんでカーテシーの姿勢をとって佇んでいる。ピオーネの姿は舞台の上にはなかった。
「ごきげんよう、『ミストリューダ』の同胞たちよ。集まっていただき感謝しますわ」
ノーファの言葉で、再び拍手が巻き起こる。ノルンはもちろん、エンゲルもノーファへ向かって敬意を込めた拍手を送る。
「まもなく、シファが預言者様をお連れします。預言者様が登壇される前に、わたくしから少し前置きをさせてくださいな」
微笑みを崩さずにいたノーファの目に、真剣の色が宿る。ローブたちは拍手をやめ、ノーファの声に耳を傾けた。
「デミ・ドゥームズデイ以降、わたくしたちは活動範囲を大きく広げてきました。しかし、我々の宿敵……『偽神』たちは、わたくしたちの存在に未だ気づいておりません。度重なる事件で警戒は強まっているようですが、敵の住処がすぐそこにあることまでは知らないでしょう」
ローブたちは無言で言葉を聞き続けている。少し前に歩き出し、ノーファはローブたちへと両腕を広げた。
「近々、偽神たちは『最後の平和』を甘受することになるでしょう。それが、彼女たちの最期……そして、わたくしたちにとっての始まりとなりますわ。これを踏まえて、預言者様のお言葉をお聞きくださいな」
やがて、舞台の袖から二人の人物がやってくる。ノーファとほぼ同じ背丈の子供──シファが、もう一人の人物の手を引いていた。
腕を引かれる、背の高い人物に誰もが目を釘付けにされた。短い銀髪と虚ろな銀の瞳、左頬の泣きぼくろが特徴的だった。黒い装束には高貴な装飾がいくつも施され、片手には真っ黒で長い杖を持っている。
舞台の中央に銀髪の人物──預言者が立つと、シファが手を離してノーファとともに後ろに下がる。杖を片手に、預言者は顔を上げて口を開いた。
「久しいね、我が同胞たち」
男とも女とも判別がつかない、不思議な声色にローブたちから一斉に歓声が上がる。両手を組み合わせ、祈るような姿勢をとりながら声を上げるローブたちは、この場における「信者」そのものだった。
預言者は無表情を保ちつつ、一定のトーンを崩すことなく言葉を続ける。
「我らが救世主、真の神たるヴァニタス様の復活の日は、目前に迫っている。偽神たちも、それを察知していることだろう。しかし、底知れぬ虚無は我らの味方、絶対なる力である。この世の神は真の神ではない、臆することなく戦うがよい」
預言者が杖を掲げたとき、高揚は最高潮に達した。信者たちの熱狂した叫びが、大部屋すべてを満たしていく。
『この世の神は真の神にあらず!! この世の神は真の神にあらず!!』
『真なる神はヴァニタス様! ヴァニタス様!! ヴァニタス様!!!』
真夜中の地下、闇が充満した空間で、信者たちは「真なる神」への信仰を叫ぶ。預言者は無表情を貫く中、ノーファとシファは頭を深く下げて笑みを浮かべていた。
預言者が退場すると同時に、会合は終わりを告げた。ローブたちの熱狂が収まりきらぬ中、次々と大部屋から退出していく。
ノルンも同じように立ち去ろうとしたが、エンゲルはその場に留まったまま動かない。ノルンは、そんなエンゲルの様子が心配だったため、立ち去ることはせずエンゲルのそばにいた。
「エンゲル、ノルン。あなたたちは戻らないの?」
二人の前に、またもや黒いローブで素性を隠した者が近寄ってきた。声は女のものだった。
ノルンはきちんと向き直るが、エンゲルは顔だけその者に向ける。
「リコリス。あなたこそ、早く地上に戻った方がよろしいのでは?」
「ちょっとノーファ様と話がしたくて。預言者様のお世話を邪魔してはいけないから、待っているの」
リコリスと呼ばれたローブの人物は、「そういえば」とエンゲルに話題を振った。
「ねぇ、エンゲル。さっきの会合に『人間』が混じってるって本当?」
「……いや、ぼくは知りませんが」
「本当だとしたら、私すっごく嫌なんだけど。ノーファ様かシファ様に、人間を仲間にするのはやめてくださるよう言ってくれない?」
あまりにも個人的な頼みを聞かされたエンゲルは、フードの下で深くため息をついた。
「リコリス、それは『真なる神の子』たるあのお二人に逆らうことと同義ですよ。本気で言っているのですか?」
エンゲルの問いに、リコリスは黙り込む。どんな表情をしているのかは誰にも読み取れないが、身体をふっと後ろに向けた。
「『お母様』からの愛を忘れてしまったんだね、エンゲル。かわいそうに」
その言葉が終わるのと同時に、エンゲルがリコリスの胸ぐらを掴む。
「いい加減口を慎みなさい、リコリス。調子に乗っていると痛い目を見ますよ」
普段よりも語気を強め、エンゲルは告げる。リコリスは一瞬の沈黙の後、なぜか「うふふ」と小さく笑った。深く被った黒いローブから垣間見える口元も緩くなっている。
「それはあなたにも言えることだよ、エンゲル。私、あなたが何者なのか知ってるもの。だから私、あなたが嫌いなの」
リコリスが立ち去り、闇の中へと消えていった。エンゲルはただでさえ深く被っているフードを、さらに深く被る。
その隣で、ノルンはぽつりと呟いた。
「エンゲルさん……僕たちは、お互いに正体を明かしてはいけないんですよね」
「ええ。それがミストリューダでの決まりですから」
「リコリスさんはエンゲルさんの正体に気づいているのではないですか? だから、あんなことを……」
「たとえ知っていたとしても、関係ありません。ぼくの願いを叶えていただくのは、ノーファ様だけですから」
二人はその後、何の言葉も交わすことなく、大部屋を後にした。他に誰もいなくなった大部屋の扉がしまり、部屋には果てのない黒だけが残る。
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