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別れの曲(改)
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ピアノの鍵盤に置かれた両手を見ただけで、何の曲か、わかる。
12の練習曲 作品10 第3番『別れの曲』
弾き始める。
この曲を弾いている右手と左手を見ていると、微妙な距離を離れて、並んで歩いている二人みたいだと思う。決して二人の間が近付くことはなく、でも、並んで、ずっと歩き続ける。
この曲のテンポは、Vivace(活発に)、Vivace ma non troppo(活発に、しかし過度にならずに)、Lento ma no troppo(ゆっくりと、しかし過度にならずに)と、作曲家のショパン自身、悩んで、何度も変えてるけど、もう少し、いっしょにいたいな…と思って、ゆっくり歩く、そんなテンポが正解だと思う。
曲調が変わる曲の中間部へと向かう前、さあ、聴かせどころだぜ!!って誰もが、ピアノの音を大きくして、肩も大きく上下させて、がんばって弾くところだが、そうしない。でも、いつの間にか気付かないうちに音は大きくなっていて、曲調が変わる。
入り乱れる音、鍵盤の上、入り乱れる指。
こんなに強く激しく、お互いを想い合っているのに、鍵盤の上、左手と右手が交差する瞬間、まるで心がすれ違う瞬間を、目の前で見るようで、胸が、きゅううううううっと、締め付けられる。
けれど、二人は、微妙な距離を保ったまま、並んで歩き続ける、何も言わないまま。
――ラストも、ここぞとばかりに、ピアノの音を大きくして聴かせるところだが、それもしない。曲が終わり、鍵盤から両手を下ろす。
クラシックを聴かない人だって、どこかで耳にしたことのあるメロディーで、この曲を聴いた後に耳に残るのは、そのメロディーだろう。
でも、黎は、わざとそのメロディーを強調することなく弾いたせいで、中間部の狂おしく入り乱れる音が、心に残る。
聴き慣れた曲なのに、ううん、聴き飽きた曲なのに、こんなに聴いた後の感じがちがうなんて、そりゃ予備予選も通っちゃうよおおおおお。
黎が弾く『別れの曲』を聴いて、幸真は、ぶえぶえ、泣き出す。演奏の最中は、ジャマをしないように、泣き声をこらえていたが、時々、涙にむせて、ぐごっとか、ぅぎゅっとか、聞こえて、黎は必死に笑いをこらえて弾いていた。
幸真が泣いている理由は、感動だけじゃなかった。この曲を黎が弾くピアノの音に、幼稚園生の幸真は恋したのだ。
幸真は、まだピアノを弾く気持ちにはなれなくて、だけど、ピアノの音が聴きたくて、黎に「何か弾いて」と言った。
二人でレッスン室へ行き、幸真が廊下に置いてある付き添いの保護者のためのイスを持ち込んで、座ると、黎が『別れの曲』を弾き始めた。
この曲が『出会いの曲』であることを黎が、ちゃんと覚えていてくれたことに、幸真は、ぶえぶえ、泣く。
幸真は、コンクール出場時には、番がいたことを申し出て、審査員と事務局が協議の上、審査にΩのフェロモンの影響はなかったとして、優勝の剥奪は取り消された。
黎はブチギレた。
「てめえ、それが狙いだったのか」
「ちがうよう。中出しセックス、キメて、番にしてもらったら、頭も心も、スッキリして、思いついただけだよお。ダメ元で言ってみたら、認められちゃった」
「ウソだ。絶ッ対、ウソだ」
「ほんとだって~」
途端に、Ωであることを隠していた幸真への非難は、手のひらを返し、Ωだというだけで才能を正当に評価しないクラシック界を非難している。
――それも数日も過ぎれば止んで、すぐに誰からも忘れ去られる。幸真がΩであることを隠していたことも、国際ピアノコンクールで日本人初・最年少優勝したことも。
黎は、幸真に利用されただけだった。幸真にだけじゃなく、母たちにも利用されていた。
幸真が自分がΩだと言った日の時点で、黎の母はゴミ袋を持ったまま、幸真の家に行って、
「うちの息子を、息子さんの番にどうかしら?」
と、幸真の母親と話し合っていたのだ。
そして、母たちの陰謀で、さっさと番になるように、黎も、幸真も、弱い抑制剤しか飲まされていなくて、さらに幸真は、避妊薬まで飲まされていたのだった。
「お尻の穴が痛いなんて、言ってないで、俺、ピアノの練習するっ」
幸真はイスを立ち上がり、ごしごし、パジャマの袖で涙を拭った。黎はピアノ椅子を立ち上がりながら、聞いた。
「ごめん。やっぱ、そんな痛い?」
「痛い」と言ってしまうと、黎が不必要に、やさしくなってしまうので、幸真は慎重に言葉を選んだ。
「フツーに座ってるのは、ヘーキ。ただね、黎、ピアノ弾くのってね、」
幸真はピアノ椅子に座り、黎を見上げた。
「アナルで支えて、体を動かしてるんだよ」
「ぶははは」
「マジだって!!」
「んなわけねえだろ」
笑って黎は、幸真の首の後ろの髪をかきあげ、うなじの噛み跡に、くちづけた。
「次は、もっとやさしくする」
「あ~、も~、やっぱ、言われた~」
幸真は『別れの曲』を弾き始める。
12の練習曲 作品10 第3番『別れの曲』
弾き始める。
この曲を弾いている右手と左手を見ていると、微妙な距離を離れて、並んで歩いている二人みたいだと思う。決して二人の間が近付くことはなく、でも、並んで、ずっと歩き続ける。
この曲のテンポは、Vivace(活発に)、Vivace ma non troppo(活発に、しかし過度にならずに)、Lento ma no troppo(ゆっくりと、しかし過度にならずに)と、作曲家のショパン自身、悩んで、何度も変えてるけど、もう少し、いっしょにいたいな…と思って、ゆっくり歩く、そんなテンポが正解だと思う。
曲調が変わる曲の中間部へと向かう前、さあ、聴かせどころだぜ!!って誰もが、ピアノの音を大きくして、肩も大きく上下させて、がんばって弾くところだが、そうしない。でも、いつの間にか気付かないうちに音は大きくなっていて、曲調が変わる。
入り乱れる音、鍵盤の上、入り乱れる指。
こんなに強く激しく、お互いを想い合っているのに、鍵盤の上、左手と右手が交差する瞬間、まるで心がすれ違う瞬間を、目の前で見るようで、胸が、きゅううううううっと、締め付けられる。
けれど、二人は、微妙な距離を保ったまま、並んで歩き続ける、何も言わないまま。
――ラストも、ここぞとばかりに、ピアノの音を大きくして聴かせるところだが、それもしない。曲が終わり、鍵盤から両手を下ろす。
クラシックを聴かない人だって、どこかで耳にしたことのあるメロディーで、この曲を聴いた後に耳に残るのは、そのメロディーだろう。
でも、黎は、わざとそのメロディーを強調することなく弾いたせいで、中間部の狂おしく入り乱れる音が、心に残る。
聴き慣れた曲なのに、ううん、聴き飽きた曲なのに、こんなに聴いた後の感じがちがうなんて、そりゃ予備予選も通っちゃうよおおおおお。
黎が弾く『別れの曲』を聴いて、幸真は、ぶえぶえ、泣き出す。演奏の最中は、ジャマをしないように、泣き声をこらえていたが、時々、涙にむせて、ぐごっとか、ぅぎゅっとか、聞こえて、黎は必死に笑いをこらえて弾いていた。
幸真が泣いている理由は、感動だけじゃなかった。この曲を黎が弾くピアノの音に、幼稚園生の幸真は恋したのだ。
幸真は、まだピアノを弾く気持ちにはなれなくて、だけど、ピアノの音が聴きたくて、黎に「何か弾いて」と言った。
二人でレッスン室へ行き、幸真が廊下に置いてある付き添いの保護者のためのイスを持ち込んで、座ると、黎が『別れの曲』を弾き始めた。
この曲が『出会いの曲』であることを黎が、ちゃんと覚えていてくれたことに、幸真は、ぶえぶえ、泣く。
幸真は、コンクール出場時には、番がいたことを申し出て、審査員と事務局が協議の上、審査にΩのフェロモンの影響はなかったとして、優勝の剥奪は取り消された。
黎はブチギレた。
「てめえ、それが狙いだったのか」
「ちがうよう。中出しセックス、キメて、番にしてもらったら、頭も心も、スッキリして、思いついただけだよお。ダメ元で言ってみたら、認められちゃった」
「ウソだ。絶ッ対、ウソだ」
「ほんとだって~」
途端に、Ωであることを隠していた幸真への非難は、手のひらを返し、Ωだというだけで才能を正当に評価しないクラシック界を非難している。
――それも数日も過ぎれば止んで、すぐに誰からも忘れ去られる。幸真がΩであることを隠していたことも、国際ピアノコンクールで日本人初・最年少優勝したことも。
黎は、幸真に利用されただけだった。幸真にだけじゃなく、母たちにも利用されていた。
幸真が自分がΩだと言った日の時点で、黎の母はゴミ袋を持ったまま、幸真の家に行って、
「うちの息子を、息子さんの番にどうかしら?」
と、幸真の母親と話し合っていたのだ。
そして、母たちの陰謀で、さっさと番になるように、黎も、幸真も、弱い抑制剤しか飲まされていなくて、さらに幸真は、避妊薬まで飲まされていたのだった。
「お尻の穴が痛いなんて、言ってないで、俺、ピアノの練習するっ」
幸真はイスを立ち上がり、ごしごし、パジャマの袖で涙を拭った。黎はピアノ椅子を立ち上がりながら、聞いた。
「ごめん。やっぱ、そんな痛い?」
「痛い」と言ってしまうと、黎が不必要に、やさしくなってしまうので、幸真は慎重に言葉を選んだ。
「フツーに座ってるのは、ヘーキ。ただね、黎、ピアノ弾くのってね、」
幸真はピアノ椅子に座り、黎を見上げた。
「アナルで支えて、体を動かしてるんだよ」
「ぶははは」
「マジだって!!」
「んなわけねえだろ」
笑って黎は、幸真の首の後ろの髪をかきあげ、うなじの噛み跡に、くちづけた。
「次は、もっとやさしくする」
「あ~、も~、やっぱ、言われた~」
幸真は『別れの曲』を弾き始める。
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