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出発の日

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 幸真が学校から帰ると、母親は、いつもと何も変わらなかった。
 今朝、母親は「幸真が、実はΩだった!」なんてヘンな夢を見たことを話しただけだったのに、幸真が現実のことだと、かんちがいして一人で大騒ぎしてただけなんじゃないかと、思えるほどだった。

 夕飯を食べて、お風呂に入り、パジャマで幸真が黎の家へ行こうとしても、母親は止めなかった。
 外は雨が降っていた。泥ねで汚れないように、パジャマの裾を膝下まで折り返して、傘を差して行く。門のインターフォンを押すと、黎のお母さんが玄関の扉を開けて傘を差して出て来て、門の鍵を開けてくれた。
「よく降る雨ねえ」
 他には、何も言われなかった。

 レッスン室でピアノの練習をして、黎の部屋に行き、ベッドに寝て、毛布を掛け、目を閉じた。しばらくして、スリッパの足音が近付いて来て、ドアが開き、黎が部屋に入って、ドアが閉じられる。ベッドに上がり、毛布にもぐり込んで、幸真の横に寝る。
 黎は、甘い匂いを嗅いでも、幸真に何にも言わなかった。



 ポーランドの音楽院へ留学する出発の日、幸真は部屋から出て来なかった。
 2段ベッドの下の段に寝ている弟は、夜中に引きずり出されて、部屋を追い出されていた。兄弟ゲンカをして、部屋を追い出されたり、自分から出て行くことはよくあるので、弟は、リビングルームで、並べた座布団の上、毛布にくるまって寝ていた。

「やっぱ留学、やめる」と、幸真が駄々をこねることは想定済みで、たっぷり2時間、余裕を持って、家を出る時間を決めていた黎は、全く慌てなかった。

「ドアを開けたら、窓から飛び降りるって、あの子、言って…」
 幸真の母親は半泣きだった。運動神経がいい幸真なら、2階から飛び降りたって、無事っぽいけど。と思いながら、黎は言った。
「まだ飛行機の時間まで、全然、間に合うので、だいじょうぶです」
 スーツケースを玄関に置かせてもらって、家に上がり、階段をのぼる。母親は、幸真に刺激を与えないように、階段下から見上げていた。


 黎が階段を上り切ると、甘い匂いがまとわりついた。――やっぱり、幸真はΩなんだと、黎のαの体が思い知る。「留学したくない」と駄々をこねているんじゃないことも、わかった。

 幸真の部屋のドアの前、黎は小さな声で言った。耳のいい幸真には聞こえるはずだった。
「Ωの匂いは、抜けば、薄まるんだって」

 α、β、Ωは、見た目で判断できるわけじゃない。βはフェロモンを発さない・感じない。αとΩはフェロモンを発し、お互いのフェロモンを感じる。
 フェロモンさえαに嗅ぎつけられなければ、幸真がΩだとは気付かれない、多分。
 そう思って、Ωのフェロモンについて、黎は調べた。

「そんなこと知ってる」
 ドアの向こうから、か細い幸真の声が聞こえた。そんな幸真の声を、黎は聞いたことがなくて、胸がキュウッと痛くなった。
「幸真」
「だめなんだよ…抜いても、だめなんだよ…」

 黎は息を吸い込み、言おうとして、胸に甘い匂いが満ちて咳き込んだ。
「黎?だいじょうぶ?」
「だいじょうぶ…」
 フェロモンを深く吸い込まないように気を付けて、呼吸を整え、黎は言った。
「俺が、抜こうか?」
「…………………そんなことできない…」
「俺はできる」

 正確には、Ωのフェロモンを静めるためには、射精すればいいわけでなく、性的絶頂を得られなくてはならない。自慰で、幸真は気持ちよくなれないのだろう。

「いやだったら、幸真は、目を閉じてればいいから。ドアを開けて。幸真。」
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