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第二話 兄×弟
番犬の献身
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芙雪は、親王家の三の宮に婿入りした。
今の帝の従兄弟だが、帝位は遠く、三の宮であるから、世継を産まなければならない重圧もない。英国に留学して商社に職を得て、その日本支社に勤めている。
駄々をこねると思っていたのに、芙雪は形ばかりの見合いをして、何ヵ月も続く長々しい公家の婚礼の儀式を経て、婿入りした。
自分に抱きついて離れないと思っていた芙雪は、いともたやすく離れて行った。
朝、起きて、学校へ行き、勉強をして、家に帰り、夜、寝る。
一人きりの部屋では、よく眠れず、何の会話もなく食べる食事は味気なく、ほとんど残していた。勉強も、嫡男である以上は、分家であっても、卒業すれば、親が選んだΩをあてがわれ、番って、世継となるαを産ませるだけの人生なのだと思うと、どうでもよかった。芙雪の夫のように世の中で職を得られるほどの能力もない。
学校から帰って、着物を着替えると、何もすることがなく、よく眠れないから、いつも眠くて、畳に横になって、うとうとしていた。
足音に目を覚ます。――芙雪であるはずはないのに、芙雪の足音ではないと思ってしまう。ぺたぺた、少し速歩きで芙雪は歩く。聞こえている足音は、どたどた、近付いて来る。
閉め切った障子に写った影は、意外にも二人だった。一人の足音しか聞こえなかったのに。
慌てて柊は起き上がり、正座して、寝乱れた髪を、着物を直した。影のひとつが、すっと障子の向こう、座った。もうひとつの影も座る。
「柊。翡翠です」
「翡翠様。わざわざのお出まし、ありがとうございます」
両手をつき、礼をする柊の前、礼儀もなく障子が開かれた。
「そういうの、やめてくれって言っているだろう、柊。敬称も敬語も無しだ。顔を上げてくれ」
柊は顔を上げる。名と同じ翡翠色の着物に白絹の袴の翡翠と、薄青の着物に同じ白絹の袴の臨だった。どたどたという足音は臨で、翡翠は公家にふさわしく摺り足で足音を立てず歩いて来た。
臨が、見るからに粗末な紙の包みを、柊に差し出す。
「翡翠が、『独りで補習を受けるのは、さびしい』」
「そんなことは言っていない」
「って顔してたから、」
「そんな顔もしていない」
翡翠は言い張る。
「落ちこぼれがいないと、補習が早く終わってしまってな。暇だったから、寄っただけだ」
「主席の翡翠にそんなこと言われたら、ぼくだけじゃなく、学校の全員みんな、落ちこぼれだよぅ」
言い返す芙雪がいなければ、会話も続かなかった。
柊と芙雪の家も、翡翠の家も、公家だった華族ではあるが、翡翠の父は、世が世であれば、摂政・関白となり、政事を司っていたことだろう。今も宮内省に勤めて、帝の側近く仕えている。
芙雪も、士族の輝葉も紫陽も、平民の臨ですら、翡翠に言われた通り、敬称も敬語も無しでしゃべっていたが、柊は、どうしてもできなかった。
翡翠は土瓶と茶碗を三つ載せた盆を部屋の中に入れると、膝を進め、白絹の袴を乱すことなく、入って来る。
「こういう入り方できないから、ごめんね」
臨は包みを持って、立ち上がって入って来る。
「つんのめって、畳に頭から突っ込む」
「翡翠、バラさないで~」
包みは煎餅。麦湯屋で買って来た冷やされた麦湯を土瓶から翡翠が、柊の家に代々、伝えられている名品の茶碗に入れる。
柊の前に茶碗が置かれ、臨には煎餅を持たされたけれど、口にする気にはなれなかった。
翡翠は、はしたなく口を開け、ばりんと大きな音を立てて煎餅を噛み割って、ばりばり、噛み締める。茶碗を茶の作法で持ち上げ、麦湯を飲む。
「私たちは好きなαと番える身ではないのだから、」
「好きな人がいるのか?!」
いきなり翡翠が言い出して、臨が驚いて聞き返した。
「一般論として言っているだけだ」
「そうか…」
臨の、安心したような、残念そうな顔を見て、柊は、ああ、この番犬も、主人を愛しているんだと思った。
柊の唇に笑みが浮かぶ。その笑みは、ろくに食事も取っていない乾いた唇を微かに裂いて、柊に痛みを与えた。
番犬が主人を愛するのは当たり前だ。愛していなければ、たやすくαは欲望にまみれて、Ωを穢してしまう。愛しているから、番犬αは欲望を殺し、Ωを清い体のまま、護れる。
柊は言った。
「ありがとう、臨」
「え?」
「え!」
翡翠と臨は同時に声を上げた。『犬は飼い主に似る』というのは本当らしい。
「俺、何にも言ってないよ」
「私の話は途中だぞ。――だから、良家に婿入りするのが、幸せというものだろう」
「好きな人と番ったって、良いお家に婿入りしたって、幸せになったって、さびしいものはさびしいんだよ」
「そんなことはないよ」
否定する柊を、驚いて翡翠と臨は見た。柊は笑顔だった。
芙雪がいなくなっても、何も失われてはいない。
この想いは誰にも奪われることもない。
ぼくは芙雪を愛している。
今の帝の従兄弟だが、帝位は遠く、三の宮であるから、世継を産まなければならない重圧もない。英国に留学して商社に職を得て、その日本支社に勤めている。
駄々をこねると思っていたのに、芙雪は形ばかりの見合いをして、何ヵ月も続く長々しい公家の婚礼の儀式を経て、婿入りした。
自分に抱きついて離れないと思っていた芙雪は、いともたやすく離れて行った。
朝、起きて、学校へ行き、勉強をして、家に帰り、夜、寝る。
一人きりの部屋では、よく眠れず、何の会話もなく食べる食事は味気なく、ほとんど残していた。勉強も、嫡男である以上は、分家であっても、卒業すれば、親が選んだΩをあてがわれ、番って、世継となるαを産ませるだけの人生なのだと思うと、どうでもよかった。芙雪の夫のように世の中で職を得られるほどの能力もない。
学校から帰って、着物を着替えると、何もすることがなく、よく眠れないから、いつも眠くて、畳に横になって、うとうとしていた。
足音に目を覚ます。――芙雪であるはずはないのに、芙雪の足音ではないと思ってしまう。ぺたぺた、少し速歩きで芙雪は歩く。聞こえている足音は、どたどた、近付いて来る。
閉め切った障子に写った影は、意外にも二人だった。一人の足音しか聞こえなかったのに。
慌てて柊は起き上がり、正座して、寝乱れた髪を、着物を直した。影のひとつが、すっと障子の向こう、座った。もうひとつの影も座る。
「柊。翡翠です」
「翡翠様。わざわざのお出まし、ありがとうございます」
両手をつき、礼をする柊の前、礼儀もなく障子が開かれた。
「そういうの、やめてくれって言っているだろう、柊。敬称も敬語も無しだ。顔を上げてくれ」
柊は顔を上げる。名と同じ翡翠色の着物に白絹の袴の翡翠と、薄青の着物に同じ白絹の袴の臨だった。どたどたという足音は臨で、翡翠は公家にふさわしく摺り足で足音を立てず歩いて来た。
臨が、見るからに粗末な紙の包みを、柊に差し出す。
「翡翠が、『独りで補習を受けるのは、さびしい』」
「そんなことは言っていない」
「って顔してたから、」
「そんな顔もしていない」
翡翠は言い張る。
「落ちこぼれがいないと、補習が早く終わってしまってな。暇だったから、寄っただけだ」
「主席の翡翠にそんなこと言われたら、ぼくだけじゃなく、学校の全員みんな、落ちこぼれだよぅ」
言い返す芙雪がいなければ、会話も続かなかった。
柊と芙雪の家も、翡翠の家も、公家だった華族ではあるが、翡翠の父は、世が世であれば、摂政・関白となり、政事を司っていたことだろう。今も宮内省に勤めて、帝の側近く仕えている。
芙雪も、士族の輝葉も紫陽も、平民の臨ですら、翡翠に言われた通り、敬称も敬語も無しでしゃべっていたが、柊は、どうしてもできなかった。
翡翠は土瓶と茶碗を三つ載せた盆を部屋の中に入れると、膝を進め、白絹の袴を乱すことなく、入って来る。
「こういう入り方できないから、ごめんね」
臨は包みを持って、立ち上がって入って来る。
「つんのめって、畳に頭から突っ込む」
「翡翠、バラさないで~」
包みは煎餅。麦湯屋で買って来た冷やされた麦湯を土瓶から翡翠が、柊の家に代々、伝えられている名品の茶碗に入れる。
柊の前に茶碗が置かれ、臨には煎餅を持たされたけれど、口にする気にはなれなかった。
翡翠は、はしたなく口を開け、ばりんと大きな音を立てて煎餅を噛み割って、ばりばり、噛み締める。茶碗を茶の作法で持ち上げ、麦湯を飲む。
「私たちは好きなαと番える身ではないのだから、」
「好きな人がいるのか?!」
いきなり翡翠が言い出して、臨が驚いて聞き返した。
「一般論として言っているだけだ」
「そうか…」
臨の、安心したような、残念そうな顔を見て、柊は、ああ、この番犬も、主人を愛しているんだと思った。
柊の唇に笑みが浮かぶ。その笑みは、ろくに食事も取っていない乾いた唇を微かに裂いて、柊に痛みを与えた。
番犬が主人を愛するのは当たり前だ。愛していなければ、たやすくαは欲望にまみれて、Ωを穢してしまう。愛しているから、番犬αは欲望を殺し、Ωを清い体のまま、護れる。
柊は言った。
「ありがとう、臨」
「え?」
「え!」
翡翠と臨は同時に声を上げた。『犬は飼い主に似る』というのは本当らしい。
「俺、何にも言ってないよ」
「私の話は途中だぞ。――だから、良家に婿入りするのが、幸せというものだろう」
「好きな人と番ったって、良いお家に婿入りしたって、幸せになったって、さびしいものはさびしいんだよ」
「そんなことはないよ」
否定する柊を、驚いて翡翠と臨は見た。柊は笑顔だった。
芙雪がいなくなっても、何も失われてはいない。
この想いは誰にも奪われることもない。
ぼくは芙雪を愛している。
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