上 下
8 / 16
第二話 兄×弟

番犬の献身

しおりを挟む
 芙雪ふゆきは、親王しんのう三の宮三男に婿入りした。
 今の帝の従兄弟いとこだが、帝位は遠く、三の宮三男であるから、世継よつぎを産まなければならない重圧もない。英国に留学して商社に職を得て、その日本支社に勤めている。
 駄々をこねると思っていたのに、芙雪は形ばかりの見合いをして、何ヵ月も続く長々しい公家くげの婚礼の儀式をて、婿入りした。
 自分に抱きついて離れないと思っていた芙雪は、いともたやすく離れて行った。


 朝、起きて、学校へ行き、勉強をして、家に帰り、夜、寝る。
 一人きりの部屋では、よく眠れず、何の会話もなく食べる食事は味気あじけなく、ほとんど残していた。勉強も、嫡男である以上は、分家であっても、卒業すれば、親が選んだΩをあてがわれ、番って、世継となるαを産ませるだけの人生なのだと思うと、どうでもよかった。芙雪の夫のように世の中で職を得られるほどの能力もない。
 学校から帰って、着物を着替えると、何もすることがなく、よく眠れないから、いつも眠くて、畳に横になって、うとうとしていた。

 足音に目を覚ます。――芙雪であるはずはないのに、芙雪の足音ではないと思ってしまう。ぺたぺた、少し速歩きで芙雪は歩く。聞こえている足音は、どたどた、近付いて来る。

 閉め切った障子しょうじに写った影は、意外にも二人だった。一人の足音しか聞こえなかったのに。
 慌ててしゅうは起き上がり、正座して、寝乱れた髪を、着物を直した。影のひとつが、すっと障子の向こう、座った。もうひとつの影も座る。

「柊。翡翠ひすいです」
「翡翠様。わざわざのお出まし、ありがとうございます」
 両手をつき、礼をする柊の前、礼儀もなく障子が開かれた。
「そういうの、やめてくれって言っているだろう、柊。敬称も敬語も無しだ。顔を上げてくれ」

 柊は顔を上げる。名と同じ翡翠色の着物に白絹しらぎぬはかま翡翠ひすいと、薄青の着物に同じ白絹の袴のりんだった。どたどたという足音は臨で、翡翠は公家くげにふさわしくり足で足音を立てず歩いて来た。

 臨が、見るからに粗末そまつな紙の包みを、柊に差し出す。
「翡翠が、『独りで補習を受けるのは、さびしい』」
「そんなことは言っていない」
「って顔してたから、」
「そんな顔もしていない」
 翡翠は言い張る。
「落ちこぼれがいないと、補習が早く終わってしまってな。暇だったから、寄っただけだ」
「主席の翡翠にそんなこと言われたら、ぼくだけじゃなく、学校の全員みんな、落ちこぼれだよぅ」
 言い返す芙雪がいなければ、会話も続かなかった。

 柊と芙雪の家も、翡翠の家も、公家くげだった華族ではあるが、翡翠の父は、世が世であれば、摂政・関白となり、政事まつりごとつかさどっていたことだろう。今も宮内省に勤めて、帝のそばちかく仕えている。
 芙雪も、士族の輝葉も紫陽も、平民の臨ですら、翡翠に言われた通り、敬称も敬語も無しでしゃべっていたが、柊は、どうしてもできなかった。

 翡翠は土瓶どびんと茶碗を三つ載せた盆を部屋の中に入れると、膝を進め、白絹しらぎぬの袴を乱すことなく、入って来る。
「こういう入り方できないから、ごめんね」
 臨は包みを持って、立ち上がって入って来る。
「つんのめって、畳に頭から突っ込む」
「翡翠、バラさないで~」


 包みは煎餅せんべい麦湯むぎゆで買って来た冷やされた麦湯を土瓶から翡翠が、柊の家に代々、伝えられている名品の茶碗に入れる。
 柊の前に茶碗が置かれ、臨には煎餅を持たされたけれど、口にする気にはなれなかった。

 翡翠は、はしたなく口を開け、ばりんと大きな音を立てて煎餅を噛み割って、ばりばり、噛み締める。茶碗を茶の作法で持ち上げ、麦湯を飲む。

「私たちは好きなαと番える身ではないのだから、」
「好きな人がいるのか?!」
 いきなり翡翠が言い出して、臨が驚いて聞き返した。
「一般論として言っているだけだ」
「そうか…」
 臨の、安心したような、残念そうな顔を見て、柊は、ああ、この番犬も、主人翡翠を愛しているんだと思った。

 柊の唇に笑みが浮かぶ。その笑みは、ろくに食事も取っていない乾いた唇を微かに裂いて、柊に痛みを与えた。

 番犬が主人を愛するのは当たり前だ。愛していなければ、たやすくαは欲望にまみれて、Ωをけがしてしまう。愛しているから、番犬αは欲望を殺し、Ω主人を清い体のまま、護れる。

 柊は言った。
「ありがとう、臨」
「え?」
「え!」
 翡翠と臨は同時に声を上げた。『犬は飼い主に似る』というのは本当らしい。

「俺、何にも言ってないよ」
「私の話は途中だぞ。――だから、良家りょうけに婿入りするのが、幸せというものだろう」
「好きな人と番ったって、良いおうちに婿入りしたって、幸せになったって、さびしいものはさびしいんだよ」
「そんなことはないよ」
 否定する柊を、驚いて翡翠と臨は見た。柊は笑顔だった。

 芙雪がいなくなっても、何も失われてはいない。
 この想いは誰にも奪われることもない。
 ぼくは芙雪を愛している。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

こじらせΩのふつうの婚活

深山恐竜
BL
宮間裕貴はΩとして生まれたが、Ωとしての生き方を受け入れられずにいた。 彼はヒートがないのをいいことに、ふつうのβと同じように大学へ行き、就職もした。 しかし、ある日ヒートがやってきてしまい、ふつうの生活がままならなくなってしまう。 裕貴は平穏な生活を取り戻すために婚活を始めるのだが、こじらせてる彼はなかなかうまくいかなくて…。

Ω様は支配される

あかさたな!
BL
弱虫で泣き虫な陽平がαで、ガキ大将と良い意味でも悪い意味でも言われていた俺がΩだった。 幼馴染なはずなのに、いつのまにか陽平は強くてカッコよくなってるし、まさかあいつに守ってもらう日が来るとは… 神様、絶対何かミスしたんだって! なんで俺がαじゃないんだよ! 【いじめられっ子×いじめっ子】 な幼馴染同士の 逆転甘々なお話です! 本能の前ではプライドは脆く、崩れ落ちるのみ…。 __________ こちらは 【下剋上な関係を集めた短編集】 に収録されている 頭脳派×脳筋な幼馴染@力か作戦か というお話をベースに作られています。 いろんな下剋上っぽいお話の短編集になっております。 このお話は特に、構想が短編集に収まる文字数ではなかったので、こちらで別で書かせていただきました。 では、ごゆっくりお楽しみください! __________

お世話したいαしか勝たん!

沙耶
BL
神崎斗真はオメガである。総合病院でオメガ科の医師として働くうちに、ヒートが悪化。次のヒートは抑制剤無しで迎えなさいと言われてしまった。 悩んでいるときに相談に乗ってくれたα、立花優翔が、「俺と一緒にヒートを過ごさない?」と言ってくれた…? 優しい彼に乗せられて一緒に過ごすことになったけど、彼はΩをお世話したい系αだった?! ※完結設定にしていますが、番外編を突如として投稿することがございます。ご了承ください。

次男は愛される

那野ユーリ
BL
ゴージャス美形の長男×自称平凡な次男 佐奈が小学三年の時に父親の再婚で出来た二人の兄弟。美しすぎる兄弟に挟まれながらも、佐奈は家族に愛され育つ。そんな佐奈が禁断の恋に悩む。 素敵すぎる表紙は〝fum☆様〟から頂きました♡ 無断転載は厳禁です。 【タイトル横の※印は性描写が入ります。18歳未満の方の閲覧はご遠慮下さい。】

運命の番が解体業者のおっさんだった僕の話

いんげん
BL
僕の運命の番は一見もっさりしたガテンのおっさんだった。嘘でしょ!?……でも好きになっちゃったから仕方ない。僕がおっさんを幸せにする! 実はスパダリだったけど…。 おっさんα✕お馬鹿主人公Ω おふざけラブコメBL小説です。 話が進むほどふざけてます。 ゆりりこ様の番外編漫画が公開されていますので、ぜひご覧ください♡ ムーンライトノベルさんでも公開してます。

後天性オメガの合理的な番契約

キザキ ケイ
BL
平凡なベータの男として二十六年間生きてきた山本は、ある日突然バースが変わったと診断される。 世界でも珍しい後天性バース転換を起こした山本は、突然変異のオメガになってしまった。 しかも診断が下ったその日、同僚の久我と病院で遭遇してしまう。 オメガへと変化した自分にショックを隠しきれない山本は、久我に不安を打ち明ける。そんな山本に久我はとんでもないことを提案した。 「先輩、俺と番になりませんか!」 いや、久我はベータのはず。まさか…おまえも後天性!?

【完結】「幼馴染が皇子様になって迎えに来てくれた」

まほりろ
恋愛
腹違いの妹を長年に渡りいじめていた罪に問われた私は、第一王子に婚約破棄され、侯爵令嬢の身分を剥奪され、塔の最上階に閉じ込められていた。 私が腹違いの妹のマダリンをいじめたという事実はない。  私が断罪され兵士に取り押さえられたときマダリンは、第一王子のワルデマー殿下に抱きしめられにやにやと笑っていた。 私は妹にはめられたのだ。 牢屋の中で絶望していた私の前に現れたのは、幼い頃私に使えていた執事見習いのレイだった。 「迎えに来ましたよ、メリセントお嬢様」 そう言って、彼はニッコリとほほ笑んだ ※他のサイトにも投稿してます。 「Copyright(C)2022-九頭竜坂まほろん」 表紙素材はあぐりりんこ様よりお借りしております。

煽られて、衝動。

楽川楽
BL
体の弱い生田を支える幼馴染、室屋に片思いしている梛原。だけどそんな想い人は、いつだって生田のことで頭がいっぱいだ。 少しでも近くにいられればそれでいいと、そう思っていたのに…気持ちはどんどん貪欲になってしまい、友人である生田のことさえ傷つけてしまいそうになって…。 ※ 超正統派イケメン×ウルトラ平凡

処理中です...