記憶さがし

ふじしろふみ

文字の大きさ
上 下
36 / 81
第四章 再会

難波亮

しおりを挟む

 綾と別れ、俺は職場である小学校に戻った。
 道中夕飯をコンビニで買い、戻るともう午後七時を迎える頃。しかし今日の仕事はまだ終わらない。これから今日訪問した家庭の状況をまとめ、明日の授業の準備もしなければならない。
「あ、先生。お疲れ様です」
 職員室に入ろうとした時、横から甲高い声で呼び止められた。声がした方向を見ると、若い男が朗らかな表情を俺に向けている。
 男の顔を見て、俺は一瞬固まった。この男は。
 男はずんずんと近寄ってくる。難波、亮。稲本から聞いた、校舎裏の池で殺害された人物だった。
「どうされました?」
 俺の挙動の不審さに、彼は首を傾げて尋ねる。俺は瞬時に頭を切り替え、彼の前に立った。
「…いや、なんでもないよ。それよりお疲れ様。難波先生も遅くまで大変だね。まだ残っていたんだ」
 そう言うと、難波は「はいー」とだらしなく笑う。
「明日の朝の算数のテストを作っていたら、授業の準備に取り掛かるのが遅くなっちゃって」
「なるほどね。まだまだやっていくの?」
「いえ、あとは野口先生にチェックしてもらって、それで終わりです。…先生は家庭訪問に行かれていたんでしたっけ?」
「あ、ああ、そうそう。行ってきたよ」
「俺も明日から行くんですよ。なんだか緊張しちゃいます」
「なんたってそんな。ただ家に行って保護者や子どもから話を聞くだけだろう」
 俺が目を丸くしていると、彼はあははと笑った。
「まだ新米ですよ、俺。先生みたく、全然慣れてませんて」
「そうか、そうだよな」
 難波は採用されて、一年目の新人教師だった。実務経験は一ヶ月程度だが、教師不足の昨今、例外なく学級担任を受け持っている。
 しかし本校では、既に学級担任を何度も経験をしているベテラン教師が、副担任というポストで半年の間、張り付くことになっている。言うなれば新人育成期間である。ベテラン教師からの指導で経験を積み、その後は一人で全て行うという形になる。
 彼は二年二組の担任だった。現在二年一組の担任であり、自他共に認めるベテラン教師の野口が副担任を兼務している。
「この学校の人達はできる方ばかりで。香住先生や、稲本先生みたいなお若い…あ、俺よりは上ですがね。そんな方々も能力があって。のっけから良い環境に身を置くことができたなって思います」
 拙い敬語に笑いそうになるが、難波は本心からそう言っているのだろう。そう思えば、微笑ましく思えるものだ。
「俺も最初はそうだったよ」
「先生がですか?」
「ああ」
「そんなあ、思えないです。一ヶ月…もうあと六日もすれば二ヶ月ですが、俺くらいの頃にはもうバリバリ働いてそうじゃないですか」
「いや、そんなもんさ。まずは一年、担任を持てばある程度掴めるようになる。だからそんな…」
 そこで俺は先を続けることをやめた。あと六日で、二ヶ月?
「先生?」
「あのさ。今日は何日なんだっけ」
 震えた声でそう尋ねる。そんな俺を訝しげに見ながらも、難波は腕につけた、安っぽい腕時計に目をやった。
「五月二十五日ですよ。四時間も経てば次の日になっちゃいますが。まあ、そんなこと気にしていたら教師なんてやってらんないよって、よく稲本先生が言ってますが。あれだけ爽やかな顔でそう言われちゃ、俺も頑張らなきゃって思いますよ。…って、先生?」
 難波の最後の方の言葉は、もう俺の耳に入っていなかった。
 あと四時間も経てば、次の日。五月二十六日。なんと、いうことだ。目の前にいる剽軽な顔をした若者を見た。
 彼は今夜、死ぬ。正確には午後十時から午前0時にかけて。殺され、朝方に用務員が、彼の死体を見つけることになる。俺は、そんな日の前夜の記憶を見ているのか。
「せ、先生。今日はなんだかお疲れのようですね」
 まるで声をかけたことが誤りだったかのように、難波は上目遣いで俺を見る。そんな難波の真正面に向き直る。
「一つ、聞きたいことがあるんだけど」
「なんですか?」
「難波先生は、誰かに恨まれたり妬まれたりされる、そんな心当たりってあるかな。それこそ」息を吸うために言葉を区切る。「…殺されても仕方ないくらいの」
 難波は表情を固くさせたが、後にいつもどおりにっこりと笑顔を見せた。
「なんの冗談ですか、殺されるなんて」
「冗談なんか言っていない。真面目に答えてくれないか」
 焦りがあるのか、語気を強めながら詰問した。難波はむっとしたのか、微かに顔を歪めたが、しぶしぶと考え出した。
「うーん。そうですねえ」腕を組み何度か唸るも、最終的に首を横に振る。
「すみません。よく考えても、殺される程の恨みをかったことはないですね」
「本当に?忘れているだけってことは?」
「いえいえ、そんなことないですって」
「…そうか。それならいいんだけど」
 その言葉を完全に信じるとなれば、大津らの言ったとおり、難波亮自身に殺されるだけの理由は無さそうである。
 それにもかかわらず、彼は何者かに殺害される。それは確定した未来なのである。何か、何かしら、理由があるはずなのだ。
「変な質問をして悪かったね」
 しかし仕方ない。これ以上何度も聞き返すと、温和な彼であっても機嫌を損ねそうだ。一度鞘を収めておこう。
「いやあ、そんなでもないです」
 彼は、えへへと苦笑する。そのあと、失礼を承知で言いますがと前置きをして話し出す。
「さっきも言ったとおり、顔色も悪いし、先生お疲れなんじゃないですか。今日は帰ってゆっくり休んで、体調を整えられても良いかもしれませんよ。明日もあるんですしね」
 神妙な面持ち。本気で俺を心配する難波を見て、言葉を返すことができなかった。今日が終われば明日がやってくる。それは誰もが知っている常識、世の理である。しかし、目の前の若者に明日は無い。そう考えると、やるせない気持ちで胸が一杯になった。
「難波先生!」
 突然、後方から声が聞こえた。二人共に振り向くと、電気のついていない廊下から、難波の指導担当である野口が姿を現した。
 野口はずかずかと近寄り、俺たちの…特に俺の顔を怪訝そうに見た後、難波に顔を向ける。
「小道具を取りに行くにしては遅いと思ったけど。油を売ってる場合じゃないでしょ。早く教室に来ること」
「は、はい。すみません」
 難波は慌てて頭を下げる。その様子を見た野口は俺に向かって軽く頭を下げ、また廊下の闇の中へと消えた。
「じゃ、じゃあ。この辺で、また」
「あ、ああ」
 難波は俺に一礼して、野口の後を追いかける。俺は彼の背中をぼうっと見ていたが、何だか心が落ち着かなくなってきた。
 このまま行かせてしまって良いのか。このまま、何も得るものも無いまま。
 よく考えろ。力を入れて目を瞑る。俺は今、過去の記憶を見ているだけである。これは恐らく、現実ではない。ここは嫌われる覚悟で、何か情報を引き出すべきではないか。
 しかしそれなら、何を聞く?殺される理由が不明な以上、気になるのは彼を殺した犯人が何者かということだが。「今夜お前は誰に殺される?」なんて聞いても、不愉快な気分にさせるだけで会話にならないだろう。それに、彼が質問に対する答えを持っているとは思えない。
 どうする…どうする。
「そういえば。先生!」
 難波は数歩歩いた所でくるんと振り向き、小走りで自分のもとに寄ってきた。
「一つだけ。先程お尋ねになった件に関係するか、分かりませんが…気になることがありまして」
それを聞いた俺は驚きに目を見開いた。まさか。俺の焦燥感が伝わったのだろうか。
「やっぱり何かあったのか!?」
「あ、え、ええ」
 俺の剣幕に圧倒されつつも、彼は強く頷いた。
「ありましたも何も、つい一昨日のことなんですが。僕、恐ろしいことを聞いたんです」
「恐ろしい、こと」無意識のうちに体が強張る。
「何を聞いたんだ?」
 そう尋ねると、難波は続きの声量を幾分か下げる。
「このことは内緒にしてくださいね。一昨日、残業でもう少し遅くまでここにいたんですが。そろそろ帰るかって、職員室を出た時。そこにある職員用トイレの中から、話し声が聞こえてきたんですよ」
 彼は指で、職員室の扉を開いて少し歩いた先にあるトイレを指差した。
「話し声だって?」
「真夜中に、トイレの中でこそこそ話し声。興味湧くじゃないですか。それで…よろしくないとは思いつつも、物音を立てないように扉の前まで近づいたんです」
「そ、そこには。誰がいたんだ」
 話し声ということは、その場には少なくとも二人の人間がいたということになる。しかし難波は首を横に振った。
「いや、それは、あの。えーっと。小さい声だったし、実際トイレに入ってはいないですから。ただ、多分一人だったと思います。携帯電話で話していたし」
「…ふうん。それでも、何を話していたかは分かっているんだよね。恐ろしいことって言うくらいなんだしさ」
 そうゆっくりと先を言うよう促す。難波は一瞬躊躇いを見せたが、その後続きを口にした。
「『トウジマミツルを殺したのは間違いだった』。その誰かはそう言っていました」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

鬼上司と秘密の同居

なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳 幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ… そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた… いったい?…どうして?…こうなった? 「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」 スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか… 性描写には※を付けております。

【完結】極貧イケメン学生は体を売らない。【番外編あります】

紫紺(紗子)
BL
貧乏学生をスパダリが救済!?代償は『恋人のフリ』だった。 相模原涼(さがみはらりょう)は法学部の大学2年生。 超がつく貧乏学生なのに、突然居酒屋のバイトをクビになってしまった。 失意に沈む涼の前に現れたのは、ブランドスーツに身を包んだイケメン、大手法律事務所の副所長 城南晄矢(じょうなんみつや)。 彼は涼にバイトしないかと誘うのだが……。 ※番外編を公開しました(10/21) 生活に追われて恋とは無縁の極貧イケメンの涼と、何もかもに恵まれた晄矢のラブコメBL。二人の気持ちはどっちに向いていくのか。 ※本作品中の公判、判例、事件等は全て架空のものです。完全なフィクションであり、参考にした事件等もございません。拙い表現や現実との乖離はどうぞご容赦ください。 ※4月18日、完結しました。ありがとうございました。

Talking Rain~4月の雨と君の魔法~

雪村穂高
ミステリー
中学2年の春、主人公・シャロの所属するクラスで小さないじめが発生する。 シャロは学級委員を務める友人・彩に協力を依頼され、その件を解決に導いた。 無事クラス内からいじめは根絶されたかと思われたが、今度はクラス内で上履きの窃盗事件が起きてしまう。 さらにその窃盗犯の第一候補にシャロが挙げられてしまい――

わけありのイケメン捜査官は英国名家の御曹司、潜入先のロンドンで絶縁していた家族が事件に

川喜多アンヌ
ミステリー
あのイケメンが捜査官? 話せば長~いわけありで。 もしあなたの同僚が、潜入捜査官だったら? こんな人がいるんです。 ホークは十四歳で家出した。名門の家も学校も捨てた。以来ずっと偽名で生きている。だから他人に化ける演技は超一流。証券会社に潜入するのは問題ない……のはずだったんだけど――。 なりきり過ぎる捜査官の、どっちが本業かわからない潜入捜査。怒涛のような業務と客に振り回されて、任務を遂行できるのか? そんな中、家族を巻き込む事件に遭遇し……。 リアルなオフィスのあるあるに笑ってください。 主人公は4話目から登場します。表紙は自作です。 主な登場人物 ホーク……米国歳入庁(IRS)特別捜査官である主人公の暗号名。今回潜入中の名前はアラン・キャンベル。恋人の前ではデイヴィッド・コリンズ。 トニー・リナルディ……米国歳入庁の主任特別捜査官。ホークの上司。 メイリード・コリンズ……ワシントンでホークが同棲する恋人。 カルロ・バルディーニ……米国歳入庁捜査局ロンドン支部のリーダー。ホークのロンドンでの上司。 アダム・グリーンバーグ……LB証券でのホークの同僚。欧州株式営業部。 イーサン、ライアン、ルパート、ジョルジオ……同。 パメラ……同。営業アシスタント。 レイチェル・ハリー……同。審査部次長。 エディ・ミケルソン……同。株式部COO。 ハル・タキガワ……同。人事部スタッフ。東京支店のリストラでロンドンに転勤中。 ジェイミー・トールマン……LB証券でのホークの上司。株式営業本部長。 トマシュ・レコフ……ロマネスク海運の社長。ホークの客。 アンドレ・ブルラク……ロマネスク海運の財務担当者。 マリー・ラクロワ……トマシュ・レコフの愛人。ホークの客。 マーク・スチュアート……資産運用会社『セブンオークス』の社長。ホークの叔父。 グレン・スチュアート……マークの息子。

【コミカライズ】歌姫の罪と罰

琉莉派
ミステリー
「第2回めちゃコミック女性向け漫画原作賞受賞作」 徳大寺百合亜は百年にひとりのリリコ(ソプラノ)と謳われる新人オペラ歌手。 ある事件をきっかけにオペラ界を追われた彼女は、格下と見下していたミュージカルの世界で再起を目指す。 物語の舞台となるのは、日本一のミュージカル劇団「明星」。 大ヒットブロードウェイミュージカル「ラ・ボエーム」日本版の主役オーディションで最終候補に残った百合亜は、ファーストキャストに選ばれるべく一ヶ月間の最終審査に挑む。 その過程で次々に不可解な事案が勃発。役を巡るどろどろとした女優同士の争いもからんで、ついには殺人事件へと発展――。 警察が捜査に乗り出し、百合亜は自分の身を守るために戦う。 最後に現われた犯人は、まったく意想外の人物だった。 バックステージものとサスペンスミステリーの融合作。 ミステリーというより、サスペンス色の強い女性ドラマといえます。  もちろん、犯人さがしの謎解き要素もあります。   普段、知ることのできないロングランミュージカルの舞台裏をちょっとのぞいてみませんか? 現在、めちゃコミックにて「歌姫の復讐 ~私の中の怪物~」としてコミック化され、連載中です。

探偵の作法

水戸村肇
ミステリー
朝霧探偵事務所、探偵見習い・久能連三郎が、所長兼探偵・睦美姫子、へっぽこ事務員・架純栞と共に事件に挑むミステリー小説。

運命のパズル

葉羽
ミステリー
神藤葉羽は、普通の高校生活を送る中で、学園祭の準備を通じて仲間たちと共に謎解きゲームを企画する。しかし、学園祭の準備が進む中、突如として届いた予告状や文化祭の資金消失事件、さらには行方不明になった会計係の山田の失踪が彼らを巻き込む。 葉羽は推理力を駆使し、仲間たちと共に事件の真相を探り始める。すると、学園内に隠された過去の秘密や、特別な才能を持つ生徒たちを育成する組織の存在が浮かび上がる。葉羽たちは、この組織が未来を操ろうとする陰謀に立ち向かうことになる。 物語は次第に緊迫感を増し、葉羽は未来から来た自分の息子と出会う。彼は未来の悲劇を回避するために警告を発し、葉羽たちは新しい教育システムを構築する決意を固める。しかし、その矢先に学園の秘密が外部に漏れるという新たな危機が襲いかかる。 果たして葉羽たちは、この危機を乗り越え、真に多様性と協力を重視した新しい学園を作り上げることができるのか?彼らの選択が未来を変える鍵となる。 --- このあらすじでは、物語の主要なテーマやキャラクターの成長、そして物語全体の流れを簡潔にまとめています。読者に興味を引く要素や緊張感も含まれており、物語の魅力が伝わる内容となっています。

女神の白刃

玉椿 沢
ファンタジー
 どこかの世界の、いつかの時代。  その世界の戦争は、ある遺跡群から出現した剣により、大きく姿を変えた。  女の身体を鞘とする剣は、魔力を収束、発振する兵器。  剣は瞬く間に戦を大戦へ進歩させた。数々の大戦を経た世界は、権威を西の皇帝が、権力を東の大帝が握る世になり、終息した。  大戦より数年後、まだ治まったとはいえない世界で、未だ剣士は剣を求め、奪い合っていた。  魔物が出ようと、町も村も知った事かと剣を求める愚かな世界で、赤茶けた大地を畑や町に、煤けた顔を笑顔に変えたいという脳天気な一団が現れる。  *表紙絵は五月七日ヤマネコさん(@yamanekolynx_2)の作品です*

処理中です...