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第四章 再会
難波亮
しおりを挟む綾と別れ、俺は職場である小学校に戻った。
道中夕飯をコンビニで買い、戻るともう午後七時を迎える頃。しかし今日の仕事はまだ終わらない。これから今日訪問した家庭の状況をまとめ、明日の授業の準備もしなければならない。
「あ、先生。お疲れ様です」
職員室に入ろうとした時、横から甲高い声で呼び止められた。声がした方向を見ると、若い男が朗らかな表情を俺に向けている。
男の顔を見て、俺は一瞬固まった。この男は。
男はずんずんと近寄ってくる。難波、亮。稲本から聞いた、校舎裏の池で殺害された人物だった。
「どうされました?」
俺の挙動の不審さに、彼は首を傾げて尋ねる。俺は瞬時に頭を切り替え、彼の前に立った。
「…いや、なんでもないよ。それよりお疲れ様。難波先生も遅くまで大変だね。まだ残っていたんだ」
そう言うと、難波は「はいー」とだらしなく笑う。
「明日の朝の算数のテストを作っていたら、授業の準備に取り掛かるのが遅くなっちゃって」
「なるほどね。まだまだやっていくの?」
「いえ、あとは野口先生にチェックしてもらって、それで終わりです。…先生は家庭訪問に行かれていたんでしたっけ?」
「あ、ああ、そうそう。行ってきたよ」
「俺も明日から行くんですよ。なんだか緊張しちゃいます」
「なんたってそんな。ただ家に行って保護者や子どもから話を聞くだけだろう」
俺が目を丸くしていると、彼はあははと笑った。
「まだ新米ですよ、俺。先生みたく、全然慣れてませんて」
「そうか、そうだよな」
難波は採用されて、一年目の新人教師だった。実務経験は一ヶ月程度だが、教師不足の昨今、例外なく学級担任を受け持っている。
しかし本校では、既に学級担任を何度も経験をしているベテラン教師が、副担任というポストで半年の間、張り付くことになっている。言うなれば新人育成期間である。ベテラン教師からの指導で経験を積み、その後は一人で全て行うという形になる。
彼は二年二組の担任だった。現在二年一組の担任であり、自他共に認めるベテラン教師の野口が副担任を兼務している。
「この学校の人達はできる方ばかりで。香住先生や、稲本先生みたいなお若い…あ、俺よりは上ですがね。そんな方々も能力があって。のっけから良い環境に身を置くことができたなって思います」
拙い敬語に笑いそうになるが、難波は本心からそう言っているのだろう。そう思えば、微笑ましく思えるものだ。
「俺も最初はそうだったよ」
「先生がですか?」
「ああ」
「そんなあ、思えないです。一ヶ月…もうあと六日もすれば二ヶ月ですが、俺くらいの頃にはもうバリバリ働いてそうじゃないですか」
「いや、そんなもんさ。まずは一年、担任を持てばある程度掴めるようになる。だからそんな…」
そこで俺は先を続けることをやめた。あと六日で、二ヶ月?
「先生?」
「あのさ。今日は何日なんだっけ」
震えた声でそう尋ねる。そんな俺を訝しげに見ながらも、難波は腕につけた、安っぽい腕時計に目をやった。
「五月二十五日ですよ。四時間も経てば次の日になっちゃいますが。まあ、そんなこと気にしていたら教師なんてやってらんないよって、よく稲本先生が言ってますが。あれだけ爽やかな顔でそう言われちゃ、俺も頑張らなきゃって思いますよ。…って、先生?」
難波の最後の方の言葉は、もう俺の耳に入っていなかった。
あと四時間も経てば、次の日。五月二十六日。なんと、いうことだ。目の前にいる剽軽な顔をした若者を見た。
彼は今夜、死ぬ。正確には午後十時から午前0時にかけて。殺され、朝方に用務員が、彼の死体を見つけることになる。俺は、そんな日の前夜の記憶を見ているのか。
「せ、先生。今日はなんだかお疲れのようですね」
まるで声をかけたことが誤りだったかのように、難波は上目遣いで俺を見る。そんな難波の真正面に向き直る。
「一つ、聞きたいことがあるんだけど」
「なんですか?」
「難波先生は、誰かに恨まれたり妬まれたりされる、そんな心当たりってあるかな。それこそ」息を吸うために言葉を区切る。「…殺されても仕方ないくらいの」
難波は表情を固くさせたが、後にいつもどおりにっこりと笑顔を見せた。
「なんの冗談ですか、殺されるなんて」
「冗談なんか言っていない。真面目に答えてくれないか」
焦りがあるのか、語気を強めながら詰問した。難波はむっとしたのか、微かに顔を歪めたが、しぶしぶと考え出した。
「うーん。そうですねえ」腕を組み何度か唸るも、最終的に首を横に振る。
「すみません。よく考えても、殺される程の恨みをかったことはないですね」
「本当に?忘れているだけってことは?」
「いえいえ、そんなことないですって」
「…そうか。それならいいんだけど」
その言葉を完全に信じるとなれば、大津らの言ったとおり、難波亮自身に殺されるだけの理由は無さそうである。
それにもかかわらず、彼は何者かに殺害される。それは確定した未来なのである。何か、何かしら、理由があるはずなのだ。
「変な質問をして悪かったね」
しかし仕方ない。これ以上何度も聞き返すと、温和な彼であっても機嫌を損ねそうだ。一度鞘を収めておこう。
「いやあ、そんなでもないです」
彼は、えへへと苦笑する。そのあと、失礼を承知で言いますがと前置きをして話し出す。
「さっきも言ったとおり、顔色も悪いし、先生お疲れなんじゃないですか。今日は帰ってゆっくり休んで、体調を整えられても良いかもしれませんよ。明日もあるんですしね」
神妙な面持ち。本気で俺を心配する難波を見て、言葉を返すことができなかった。今日が終われば明日がやってくる。それは誰もが知っている常識、世の理である。しかし、目の前の若者に明日は無い。そう考えると、やるせない気持ちで胸が一杯になった。
「難波先生!」
突然、後方から声が聞こえた。二人共に振り向くと、電気のついていない廊下から、難波の指導担当である野口が姿を現した。
野口はずかずかと近寄り、俺たちの…特に俺の顔を怪訝そうに見た後、難波に顔を向ける。
「小道具を取りに行くにしては遅いと思ったけど。油を売ってる場合じゃないでしょ。早く教室に来ること」
「は、はい。すみません」
難波は慌てて頭を下げる。その様子を見た野口は俺に向かって軽く頭を下げ、また廊下の闇の中へと消えた。
「じゃ、じゃあ。この辺で、また」
「あ、ああ」
難波は俺に一礼して、野口の後を追いかける。俺は彼の背中をぼうっと見ていたが、何だか心が落ち着かなくなってきた。
このまま行かせてしまって良いのか。このまま、何も得るものも無いまま。
よく考えろ。力を入れて目を瞑る。俺は今、過去の記憶を見ているだけである。これは恐らく、現実ではない。ここは嫌われる覚悟で、何か情報を引き出すべきではないか。
しかしそれなら、何を聞く?殺される理由が不明な以上、気になるのは彼を殺した犯人が何者かということだが。「今夜お前は誰に殺される?」なんて聞いても、不愉快な気分にさせるだけで会話にならないだろう。それに、彼が質問に対する答えを持っているとは思えない。
どうする…どうする。
「そういえば。先生!」
難波は数歩歩いた所でくるんと振り向き、小走りで自分のもとに寄ってきた。
「一つだけ。先程お尋ねになった件に関係するか、分かりませんが…気になることがありまして」
それを聞いた俺は驚きに目を見開いた。まさか。俺の焦燥感が伝わったのだろうか。
「やっぱり何かあったのか!?」
「あ、え、ええ」
俺の剣幕に圧倒されつつも、彼は強く頷いた。
「ありましたも何も、つい一昨日のことなんですが。僕、恐ろしいことを聞いたんです」
「恐ろしい、こと」無意識のうちに体が強張る。
「何を聞いたんだ?」
そう尋ねると、難波は続きの声量を幾分か下げる。
「このことは内緒にしてくださいね。一昨日、残業でもう少し遅くまでここにいたんですが。そろそろ帰るかって、職員室を出た時。そこにある職員用トイレの中から、話し声が聞こえてきたんですよ」
彼は指で、職員室の扉を開いて少し歩いた先にあるトイレを指差した。
「話し声だって?」
「真夜中に、トイレの中でこそこそ話し声。興味湧くじゃないですか。それで…よろしくないとは思いつつも、物音を立てないように扉の前まで近づいたんです」
「そ、そこには。誰がいたんだ」
話し声ということは、その場には少なくとも二人の人間がいたということになる。しかし難波は首を横に振った。
「いや、それは、あの。えーっと。小さい声だったし、実際トイレに入ってはいないですから。ただ、多分一人だったと思います。携帯電話で話していたし」
「…ふうん。それでも、何を話していたかは分かっているんだよね。恐ろしいことって言うくらいなんだしさ」
そうゆっくりと先を言うよう促す。難波は一瞬躊躇いを見せたが、その後続きを口にした。
「『トウジマミツルを殺したのは間違いだった』。その誰かはそう言っていました」
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