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終章 S区警察署にて
二
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「芳川、探したぞ」
尚哉が署内の喫煙スペースにいると、野本が入ってきた。ずんぐりとした体躯は、まるで大型の熊だ。
「ああ、すみません。なんだかぼーっとしたくて」
「良いんだ良いんだ。誰にでもそういう時はある」
野本は手をひらひらさせ、紙の煙草を取り出した。
「あれ、野本さん。電子でしたよね」
尚哉の言葉に、彼は顔をしかめる。「やめた。吸った気にならねえし、あんなもん」
「…そう、ですか」
尚哉は自分のライターで、彼の煙草に火をつけた。ありがとな、と野本は小さく肯く。
「ここ、そろそろ撤去されちまうらしいなあ」
「そうみたいですね」
「今のご時世、煙草は害悪害悪うるせーし。実際、煙は迷惑とは思うから、撤去は仕方ねえけど。ほんと、喫煙者に世知辛い世の中に変わりつつあるな」
野本はあーあ、と大袈裟に溜め息をつく。
「…五年前の、違法カジノの大捕物のことだが」
「はい」
「お前が藍田冬子から聞いた、その場に橋本がいたって話。安西に聞いたら確かに、あいつを逃したらしい。署長…元か、彼の指示でな」
冬子が言っていた。大河内は当日、橋本を逃すよう現場の捜査官に指示をしたと。その捜査官は、彼だった。
「どうして安西さんは、元署長の言いなりに」
「今のところ、安西に聞いても答えん。ただ、あいつらは警視庁時代からの仲らしいからな。大河内さんに弱みを握られていたのか、何なのか。とにかくあいつは大河内さんに、文字どおり支配されていたんだろう」
その大河内もまた、藍田夫妻に支配されていた。その藍田夫妻は、藍田の血に支配されていた。そんな藍田の血を濃く継ぐ勝治への復讐に、叔父の貴明は支配され、そんな叔父への嫉妬に、父の尚人は支配されていた。皆、誰かに、何かに支配されているのだ。その支配という名の鎖から、解き放たれたいと願おうにも、それは口にできる程容易なものではない。
かく言う尚哉も、以前まで芳川の血に支配されていた。支配されなくても良い。そう、思えたのもつい最近で、まだ十年も経っていない。支配する、される関係。それは想像以上に根深いものであることを、尚哉は身をもって知っていた。
「まあ時間はたっぷりある。これからゆっくりと…」
「あの、野本さん」
「ん?」
「これを」
「何だ、これは」
尚哉から渡された白封筒を受け取り、彼の真意を知った野本は吸い始めの煙草を灰皿に押し潰した。そうしてゆっくりと、顔を彼に向ける。尚哉は自然と顔に力が入った。
「今回の事件、俺の親父と叔父が、深く関わっています。署内にこのまま俺がいるのは、周りに示しがつかないと思います」
事件が終わって数日経った今でさえ、自分を見る周囲の目が冷たいままであることを、尚哉は感じ取っていた。
「それに、俺が若月にした罪は、きちんと償わないといけないですから。だから」
「刑事を辞めることが芳川、お前の罪滅ぼしか?」
「えっ」
「お前、何か勘違いしてないか」
尚哉が何も言えないままでいると、大河内は肩をすくめた。
「そりゃあ、今のお前が何か、法に触れることをしていたら、俺はお前の味方をすることはできないよ。それこそ、大河内さんや安西みたくな。
でも、俺は今のお前しか知らないんだ。今のお前は、少しだらしないところとあるが、仕事はきちんとするやつ。俺は、そんな芳川尚哉しか知らないんだよ。
確かに今、お前を見る周りの目が厳しいよ。でもそれは今だからって話だ。これから先どうなるかは、お前次第なんだ。そうだろ」
「それは、そうですが」
だろ?と、野本は軽くウィンクする。
「お前はまだ若い。時間はある。汚名返上、名誉挽回。やって見せろ。お前ならできる。俺が保証するよ」
「野本さん…」
そこまで言ったところで「まあ、とにかく。ここまで俺に言わせて、こんなもの渡しっぱな訳、無いよな」と、野本は尚哉から渡された封筒を、尚哉の目の前に差し出した。「これからも頼むぞ、芳川刑事」
本当に、この人は変わらない。自分が警官になった時から。捜査一課に配属されてからもそう。彼のこの強引な性格には、何度も救われてきた。
「はい」
尚哉は彼の言葉に心から肯き、野本から封筒を受け取った。
尚哉が署内の喫煙スペースにいると、野本が入ってきた。ずんぐりとした体躯は、まるで大型の熊だ。
「ああ、すみません。なんだかぼーっとしたくて」
「良いんだ良いんだ。誰にでもそういう時はある」
野本は手をひらひらさせ、紙の煙草を取り出した。
「あれ、野本さん。電子でしたよね」
尚哉の言葉に、彼は顔をしかめる。「やめた。吸った気にならねえし、あんなもん」
「…そう、ですか」
尚哉は自分のライターで、彼の煙草に火をつけた。ありがとな、と野本は小さく肯く。
「ここ、そろそろ撤去されちまうらしいなあ」
「そうみたいですね」
「今のご時世、煙草は害悪害悪うるせーし。実際、煙は迷惑とは思うから、撤去は仕方ねえけど。ほんと、喫煙者に世知辛い世の中に変わりつつあるな」
野本はあーあ、と大袈裟に溜め息をつく。
「…五年前の、違法カジノの大捕物のことだが」
「はい」
「お前が藍田冬子から聞いた、その場に橋本がいたって話。安西に聞いたら確かに、あいつを逃したらしい。署長…元か、彼の指示でな」
冬子が言っていた。大河内は当日、橋本を逃すよう現場の捜査官に指示をしたと。その捜査官は、彼だった。
「どうして安西さんは、元署長の言いなりに」
「今のところ、安西に聞いても答えん。ただ、あいつらは警視庁時代からの仲らしいからな。大河内さんに弱みを握られていたのか、何なのか。とにかくあいつは大河内さんに、文字どおり支配されていたんだろう」
その大河内もまた、藍田夫妻に支配されていた。その藍田夫妻は、藍田の血に支配されていた。そんな藍田の血を濃く継ぐ勝治への復讐に、叔父の貴明は支配され、そんな叔父への嫉妬に、父の尚人は支配されていた。皆、誰かに、何かに支配されているのだ。その支配という名の鎖から、解き放たれたいと願おうにも、それは口にできる程容易なものではない。
かく言う尚哉も、以前まで芳川の血に支配されていた。支配されなくても良い。そう、思えたのもつい最近で、まだ十年も経っていない。支配する、される関係。それは想像以上に根深いものであることを、尚哉は身をもって知っていた。
「まあ時間はたっぷりある。これからゆっくりと…」
「あの、野本さん」
「ん?」
「これを」
「何だ、これは」
尚哉から渡された白封筒を受け取り、彼の真意を知った野本は吸い始めの煙草を灰皿に押し潰した。そうしてゆっくりと、顔を彼に向ける。尚哉は自然と顔に力が入った。
「今回の事件、俺の親父と叔父が、深く関わっています。署内にこのまま俺がいるのは、周りに示しがつかないと思います」
事件が終わって数日経った今でさえ、自分を見る周囲の目が冷たいままであることを、尚哉は感じ取っていた。
「それに、俺が若月にした罪は、きちんと償わないといけないですから。だから」
「刑事を辞めることが芳川、お前の罪滅ぼしか?」
「えっ」
「お前、何か勘違いしてないか」
尚哉が何も言えないままでいると、大河内は肩をすくめた。
「そりゃあ、今のお前が何か、法に触れることをしていたら、俺はお前の味方をすることはできないよ。それこそ、大河内さんや安西みたくな。
でも、俺は今のお前しか知らないんだ。今のお前は、少しだらしないところとあるが、仕事はきちんとするやつ。俺は、そんな芳川尚哉しか知らないんだよ。
確かに今、お前を見る周りの目が厳しいよ。でもそれは今だからって話だ。これから先どうなるかは、お前次第なんだ。そうだろ」
「それは、そうですが」
だろ?と、野本は軽くウィンクする。
「お前はまだ若い。時間はある。汚名返上、名誉挽回。やって見せろ。お前ならできる。俺が保証するよ」
「野本さん…」
そこまで言ったところで「まあ、とにかく。ここまで俺に言わせて、こんなもの渡しっぱな訳、無いよな」と、野本は尚哉から渡された封筒を、尚哉の目の前に差し出した。「これからも頼むぞ、芳川刑事」
本当に、この人は変わらない。自分が警官になった時から。捜査一課に配属されてからもそう。彼のこの強引な性格には、何度も救われてきた。
「はい」
尚哉は彼の言葉に心から肯き、野本から封筒を受け取った。
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