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第六章 ————の場合
三 ◯ ————【 12月30日 午後9時00分 】
しおりを挟む「ええと、ごめん。何だって?」
十二月三十日。もう年の瀬も年の瀬だが、俺は目の前で生ビールを豪快に飲む男…柳瀬川和彦から、昨日相談があると飲みに誘われた。
柳瀬川と俺は同郷出身、中学校まで同じ学校で過ごした旧知の仲である。まあ、実際この歳になるとそう頻繁に会いはしない。最後に会ったのはもう何年前だろうか、それすらも覚えていない程である。
このたび彼に呼び出された俺は開口一番、にわかには信じ難いことを伝えられたのだった。
「だ、だから。俺、人を殺せって脅迫されているんだよ」
柳瀬川は空になったグラスをテーブルに置いた。既に顔が真っ赤である。俺の仕事が終わったのがついさっき、午後九時過ぎだ。先に西街の居酒屋で待っている、と連絡が入ったのが午後七時。二時間もあって、酒につまみもあればさぞかし酔いが回っていることだろう。
俺も店員に生ビールを頼み、煙草に火を点けた。
「なあ。俺、どうすれば良いのかな」
顔色を伺うように、柳瀬川が聞いてくる。俺は煙草の煙を燻らし、肘をテーブルの上についた。
「どうするも何も。一体誰に、どんな理由で脅迫されているのか。それを話してくれないと良く分からんよ。経緯を話せ、経緯を」
「あ、ああ。そうだった。ごめん」
柳瀬川は頭を下げ、気を取り直して続ける。
「脅迫してきたのは、この街にあるキャバクラの愛彩って店で働く、アンナって名前の女。お前、知っている?」
その女は知らなかったが、キャバクラのことは、訳あって知っていた。
「アンナねえ。偽名?本名?」
「さ、さあ、知らないよ。源氏名だし、偽名でしょ」
「偽名、か」
「しかも、脅迫の際はその偽名とはさらに違う…なんだったかな、Aだったかな。そうそう、英語の頭、エイだよエイ。それで呼べって言うんだ。別の偽名で呼べ、なんて言うから余計混乱するよ」
柳瀬川はふん、と鼻を鳴らす。
「…まあそれはもう良いよ。それで?脅迫されている理由。それって何だよ」
そう続けて聞くと、柳瀬川は急にもじもじと落ち着き無く震えだした。
「早く言えって」催促すると、そのまま上目遣いで俺を見てくる。
「…誰にも、言わないで欲しくて」
「ああ。ここだけの話だ、もとより」
それを聞いて覚悟を決めたのか、続けて話し出した。
「俺、クリスマスに不倫相手と一緒にいたところを、その、アンナって女に見られちゃってさ。それを昨日、嫁に…春子にばらすって脅されて」
俺は溜息をついて、頭を垂れる。柳瀬川はテーブルに両手をつき、俺を見た。
「な、何だよ」
「自業自得じゃないか」
「まあ、そ、そうなんだけど」
「…それで?そのことを漏らさない代わりに、殺せってことか」
「そうそう。まあ正確には殺せって訳じゃないんだけどさ。消せって言われてる」
「消せ?一体…」
「生ビールご注文のお客さまー、お待たせしました」
その時、気の抜けた声色で女性従業員が生ビールの入ったグラスを持ってきた。話を一旦中断し、酒を呷る。
「どういうことなんだ、それ」
半分程に量の減ったグラスをテーブルに置き、聞く。
「知らないって。殺さずとも、その鷺沼って男の存在を消してくれればそれで良いんだってさ。でも、存在を消せってつまり殺せって意味だよなあ。金井、お前はどう思う?」
「…まあな」
俺が軽く同意したことに、柳瀬川は笑みを浮かべる。そのまま、自分のバッグに手を入れる。
「この、ええと、これだ。この写真に写っている、鷺沼崇って男を消してほしいって」
そこで、柳瀬川は男の写真をテーブルの上に置いた。写真を手に取る。この人相の悪さ、どこかで見たような。そんな既視感を覚える。
…そうだ。あの時の。
「俺、こいつ知っているぞ。確か一年前、パトロール中に俺が取り押さえた奴だ」
「え、ほ、本当?」
「ああ、思い出した。確か交際相手のキャバクラ嬢に別れ話を持ちかけられて、逆上して切りつけた奴だったかな」
ん?交際相手のキャバクラ嬢?
「柳瀬川、これはひょっとすると…」
彼の目を見ると、どうやら同意見のようだ。緊張の色が混ざった、固い表情で頷く。
「あ、ああ。そのキャバクラ嬢が、アンナなのかな?」
「…すると。鷺沼を消せっていうのは、痴情の縺れによるものって訳だ」
「な、なるほど。だけど、そんな二人の問題に、俺を巻き込んでくれるなよ…全く」
ぶつぶつと文句を垂れる柳瀬川。しかし、それはお前自身疚しい行為をしていたことに付け込まれた結果だろうと、心の中で蔑む。
「まあそれはともかくさ。結局お前はどうしたいの?」
「だから、それが分からなくて。俺、どうすれば良いのかな。た、助けてくれよ。これって脅迫なんだよな、多分。お前の仕事ってそういうの得意だろ」
「まあ、そうなんだが」
そう懇願する柳瀬川を見て、俺は複雑な心境だった。彼の言うとおり脅迫として扱っても良いのだが、そうなると原因となった彼の不貞行為も公の下に晒されることになる。それを、この男は理解しているのだろうか。
再度、ビールを呷る。しゅわしゅわとした炭酸と、ホップの苦味が口の中で弾ける。
「ちなみに、お前の不倫相手って一体誰なんだよ。もちろん誰にも言わないから」
ふと、好奇心からか、ついでに俺は聞いてみた。途端に柳瀬川は、更に小声になった。
「だ、誰かに、話したりしない?」
「ああ」
「ほ、本当に?」
「くどいな、言わないって」
何度も確認し、柳瀬川はやっと口を開いた。
「そのアンナと同じ店で働く、カオルって女。本名は本多瑞季って言うんだけどさ…」
「えっ?」
自分の耳を疑う。今、この男はなんて言った?
「お前、今なんて?」
しどろもどろに、そう聞き返す。柳瀬川は珍妙な眼差しで俺を見る。
「だから、キャバクラの女。そ、そんな驚いた?」
「そこじゃなくて、その女の名前。もう一度言ってみろ」
焦りからか少々語気が荒くなりつつも、柳瀬川に言う。
「え、ああ、カオルね。本名は本多瑞季」
本多瑞季。聞き間違いではない。そんな、馬鹿な。雷が落ちたかのように頭の中が真っ白に。また、火山が噴火したかのように心臓がどくんと脈打った。手が震える。
「ど、どうした?」
「い、いや。何でもない。どうしてその女と?」
「実はね。前々からあの店でお気に入りの子だったんだよ。ただ結構ガードが固くて。ずっと断られていたんだ」そこで、柳瀬川もビールを口に運ぶ。「それでも、好みの女だったら落としてやりたいじゃないか。なあ、分かるだろ?」
酒臭い息を俺に吹きかけながら、柳瀬川は一人うんうんと頷く。そして、彼は人差し指と中指を立てて、俺の眼前に示した。
「だから金を渡したんだ、二十万」
「二十万円だって?」
「うん。後で聞いた話だと彼女、よく分からないけど、変な男に金をよこすよう脅されていたようでさ。それこそ彼女自身、借金もする程だったんだって」
(しゃ、借金?)
「そんな、借金なんて。聞いていないぞ」
「え?」
「あ、いや何でも無い。そ、それで?」
「つまりね、あの子は金が入用だったってことだよ。そんな時に金を渡せば、そりゃもうまさに俺は救世主。目の色を変えて、俺の言うことを聞いてくれたよ」
それを聞いた瞬間、いても立ってもいられなくなった俺は、両手で机を叩き、思い切り立ち上がった。その突然の態度に、柳瀬川は目をまんまるにして俺を見る。
「ど、どうしたのさ?」
柳瀬川の心配する言葉など、もはや聞こえなかった。無言で席を立ち、トイレへと向かう。俺の雰囲気の変わり様に違和感というか、恐怖を感じたのか、声をかけてくることは無かった。察しのとおり。俺は、激しく動揺していた。トイレに入り、洗面台の鏡を見る。
柳瀬川が不倫相手として挙げた名前の女である本多瑞季は、俺が交際している相手だったからだ。
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