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第四章 新出ちづると柳瀬川和彦の場合2
三 ◯柳瀬川 和彦【 1月10日 午後5時20分 】
しおりを挟む人生をかけた一世一代の今日、俺は夕方から仕事が入っていた。
ホテルの従業員用の更衣室に入り、真っ青な警備服を身にまとう。これからいつもと同じ単調な、つまらない業務が始まるというわけである。
今の俺は、二十一階から四十階、すなわち上層階部分を担当している。勤務では毎回、始めの一時間程度で担当フロアの巡回警備を行う。
この日もいつもどおり、出勤してそのまま自分の持ち場へと直接出向くところであった。しかし今日はどういうわけか、手始めに警備室に呼び出された。
「柳瀬川さん、あなたご自身がこのホテルでどう見られているのか。それを分かっておりますか?」
「はい…」
目の前でしかめ面をしているこの男は、このホテルの警備主任を務める新田弘明である。主任というだけあって、彼はここの警備体制の全指揮を執る立場にある。
今日の警備人員は少ない。彼と俺、たった二人だけだ。どうやら、俺は彼と折り合いが悪いようだった。前々から目をつけられていたようで、ここのところ出勤した際は、まるで重箱の隅をつつくように、毎回口うるさく小言を言ってくる。今、こうして俺が怒られている理由は、昨日客室側のフロアにある喫煙スペースで煙草を吸っていたためである。運の悪いことに、その瞬間を偶然、この男に目撃されてしまったのだ。
「あのですねえ。想像してみてくださいよ。警備員の服装をした人間が、廊下の喫煙スペースで煙草を吸っている姿を。宿泊しているお客さんが見たら、このホテルの警備は大丈夫なのかって不安になるじゃないですか。第一、従業員用の喫煙スペースは用意しているんですよ?そちらで吸えば良いだけだというのに…」
次々と、新田は俺に対し、小言を矢継ぎ早にまくし立てる。
確かに、彼の言うことは妥当な内容ではあった。従業員用の喫煙スペースはホテルのバックヤード側、機械室の奥にある裏口に用意され、そこを喫煙所として使うことを推奨されている。わざわざ客室フロアの喫煙スペースで吸う必要は無い。それでもなお、客室側の喫煙スペースを使う理由としては、従業員用のそれが、一階以外に存在しないからであった。
俺としては、吸いたくなれば吸いたくなったまさにその時、吸いたいのだ。いわば発作のようなものなのである。しかし、残念ながら今の俺の警備担当は二十一階よりも上のフロア。中でも特に上層階にいた時は悲惨であり、そこから一階まで…だなんて考えが、頭に浮かぶ訳が無いだろう。
「それに、あなた客室フロア側のエレベーターも目を盗んで使用していますよね。従業員の使用は控えるよう、つい先日伝えたばかりだったんですが」
何も言えない。従業員は客室フロアのメインエレベーターは使ってはいけない決まりである。二台しか無いため、従業員が移動で使用したことで客が待つことになっては迷惑だからだ。故に、従業員は裏の従業員用のエレベーターで移動することが義務付けられている。
しかし、この従業員用のエレベーターの運行速度が遅い。一台しか無いこともそうだが、どのフロアにいても、エレベーターが来るまでに最低でも数分かかる。その数分間、勤務時間をロスすることを考えると、客室フロアのメインエレベーターを利用することは理にかなっているのである。
加えて俺が使うのは誰もいない時だけであり、誰にも迷惑などかけていない。ついでに言えば吸い殻等もこぼさぬよう、気を遣っている。何が悪いというのだ。
「何も吸うな、とまで言っているわけじゃないんです。ただお客さんがいる場所で吸うなっていうだけの話です」
ああ、それはもうさっき、それに先日も聞いた内容だ。心の中で溜息をつく。とりあえずこの男の小言が終わるまで適当に聞き流すしかない。早く終わらないだろうか。
「本当に少しだけでも良いので、今よりやる気出してくださいよ。やる気も無いなら、辞めてくれた方が良いですからね」
それだけ言うと、俺に背を向け仕事に戻っていった。やっと終わったか。毎日のように小言を俺にぶつけて、彼もよく飽きないものだ。はぁと小さく息を吐く。
(俺だってこんなところ、辞めてやりたいよ)
そうはいっても齢三十にもなると、転職するためには若者の倍は努力が必要なのである。もちろん俺は倍どころか、それ以上の努力はしたつもりだ。しかし、転職のために受けたどの会社とも相性が合わなかったのか、結局ここから離れることができずにいた。
「はぁ」溜息が続く。
しかし、今日はそんなことを考える時間など無いのだ。なんたって、これから俺は大勝負に出る訳なのだから。新田に対する鬱憤など、今はどうでも良い。
…煙草が吸いたくなった。とりあえず今日は新田に言われたとおりにしよう。一日に二度も彼からの説教を食らうのは、勘弁願いたい。フロント右手側にある、「関係者以外立入禁止」と掲げられた扉を開けた。中は機械室である。四方全てがコンクリートの灰色で埋め尽くされており、ダクトやパイプ類が大量に張り巡らされている。
まだ建てられてから一年程だというのに、部屋の中は埃が舞い、機器は薄汚れ始めている。まあ、ここには機械の整備業者が一ヶ月に一回定期点検に来る程度。従業員のほとんどが入ることのないスペースである。ここまで退廃的な状態になるのは仕方ないのかもしれない。俺は周囲の機器には見向きもせず、そのまま前方へと進んでいく。
やがて、扉が見えてきた。このホテルの裏口だ。この扉を開いた先は、直接外に繋がっている。俺はドアノブの先にある、指で回すタイプの鍵を開けようと、つまみを捻る。
「あ、あれ?」
どんなに力を入れようにも、つまみは回らない。おかしいな…不審に思いながらも、今度はノブを軽く捻って前方に力を入れてみた。すると、ギギギと嫌な擦り音を響かせ、扉はゆっくりと開いた。
(なんだ、元から開いていたのか)
というより、そもそも鍵が壊れ、施錠ができない状態のようだ。不用心にも程がある。
扉を開くと目の前に、ホテルの駐車場が広がる。そして、扉のすぐ横に寂れたスタンド型の灰皿が置いてあった。そこに着いた瞬間、早速一本吸う。煙が舞う。落ち着く。これで、先程の新田の小言に対するストレスも、少しは軽減するというものだ。
煙草は俺の精神安定剤だ。定期的に吸わないと落ち着かないし、業務に支障が出る。そう、業務を正しく遂行するために、煙草を吸うのだ。そのために、吸いたい時はすぐに吸う。それは仕方のないことなのだ。
従業員用のエレベーターに乗った。そのままのろのろと高所へ運ばれていく。
扉の開いたフロアは四十階。そこはこのホテルの客室の中でも高級な、俗に言うスイートルームが並ぶ場所であった。しかし、ホテルが完成してから一年経ち、部屋が埋まるのは下層階の通常の客室ばかりで、今日も違わずこのフロアは閑古鳥が鳴いている。
そもそもスイートなんて、要らないのである。完成したばかりのこのホテルの客室は、通常の客室でも清潔感があり、綺麗なものだ。そんな客室に苦もなく宿泊できるというのに、わざわざスイートルームに泊まろうという人間なんて、滅多にいない。
だからこそ俺はここに来た。この場所なら、何かやっても早々に見つかることはない。前もって調べていた監視カメラの死角まで行き、携帯電話を取り出した。素早く番号を押し、それを耳に押し当てる。二、三回程のコール音の後、目的の人物が出た。
『…柳瀬川か。どうした。何かあったのか』
「あ、ああ」つばを飲み込み、深呼吸して落ち着く。
「いや、特に何も…何だか不安になってきちゃってさ」
俺の自信なさげな声色に、電話先の相手は鼻で笑った。
『今、仕事中じゃないの。そんな時にそんな理由で電話して良いのかよ』
「だ、大丈夫だよ。俺の仕事、この時間は一人だし。それに、基本暇、だし…」
そういうと、耳元で溜息の音が聞こえてきた。
『…まあそれなら良いけど。でも、不安だから電話するとか、お前の恋人じゃないっての』
そんな若干皮肉った返しに、不安が和らぐ。
「そ、それでさ。来てくれるかな」
『ん?』
「脅迫状の内容に従って、ちゃんと来てくれるかなあ」
『なんだ、そんなことの心配か。問題ないって。必ず奴はお前の元に行くよ』
「そ、そっか。それなら良いんだ。それで」
ほっとしたのも一瞬のみ。俺は気が抜けた次の瞬間、更に緊張が押し寄せてくる。何度も確認してしまう。
「なあ、なあ。本当に大丈夫かな」
『どうした?』
「本当に、上手くいくかな、って…」
俺のその言葉を聞いて、電話口から溜息をつく音が聞こえた。
『あのなあ。不安なのは分かるけどさ。もう始まっているんだ』
「ああ…うん」
『そして始めたのは、お前だよ。自分で始めたことなんだ、今更戻ることなんかできやしないぞ』
「そ、そんな。お前も一緒に始めたじゃないか」
『そんな方法もある、とお前に知恵を授けただけだ。それを実行に移すと決めたのは、お前だ』
「ま、まあ…そうだけど」
『でも、そう考え過ぎることは無いさ』
俺を安心させるためか、格別柔らかい口調である。
『絶対大丈夫。柳瀬川、お前は計画どおり動けば良い。あとは、成るように成るさ』
「わ、分かった」そこで一度切り、先を続けた。
「お、お前を信じるよ。じゃあ、また後で連絡するからな」
そう言って俺は電話を切った。仕方ない。とりあえず今は言うとおり、心配しすぎるのも毒だ。考え過ぎは失敗を呼び込む可能性もある。
「…しまった」
その時だ。俺は一つ、自分の犯してしまったミスに気付いた。
「裏口の鍵、閉め忘れた」
やってしまった。あれがもしも新田なんぞに見つかったら、またくどくどと小言を言われる。
しかし、今いる場所は四十階。一階まで戻るのは正直言って面倒であった。
「まあ、良いか」
思い返してみれば、あの扉の鍵は元々壊れていたのだ。俺が今日煙草を吸わずとも、扉は開いた状態だったことになる。それなら、俺が閉め忘れたとしても、開いたままになっているのは俺のせいではない。それに先述のとおり、新田含め従業員があの扉を開くことは滅多にない。ホテルの関係者以外の何者かが外から侵入することも無い。大丈夫だ。
俺は溜息をついた。
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