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第一章 鷺沼崇の場合
十三 ◯鷺沼 崇【 1月10日 午後10時15分 】
しおりを挟むホテルから出た柳瀬川を追い、繁華街を抜け、西街西側の出口を出た。現在、柳瀬川の数十メートル後ろには、今か今かと殺す機会を伺う俺の姿がある。
出口すぐの交番の前を通り、薄暗く細い夜道を歩く。自分たちを照らすのは街灯の光のみ。弱々しいその光では、互いに相手の顔も正確に認知できない。しかし仄かな光は、気配を悟られたくない俺にとって、大変都合の良いものであった。
柳瀬川の自宅は、俺の家と同じ方向のようであった。ちょうど良い。知っている道と知らない道とでは、尾行する上で相手の行く先が分かる分、天と地ほど異なる。俺は奴を尾行しながらも、どの時点が人を殺す上で最適な場所か、必死に探っていた。
そして、その「時」はとうとう訪れた。
(…そろそろか)
それまで時たま人とすれ違っていたが、とうとう人気が全く無くなった。鞄から、黒々とした拳銃を取り出した。これ以上機会を伺っていても埒があかない。奴の自宅はもう目と鼻の先の可能性もある。家に入られてしまったら殺すことは更に難しい。それは何としても避けたかった。
奴が突き当たりの丁字路を右に曲がった。俺は距離を置くためにすぐには曲がらず、数秒置いてから曲がろうとした。…その時だった。
「な、なあ。誰かいるのか」
角を曲がった先から声が聞こえた。俺は足を止め、すかさず角に身を隠す。姿を見られたのだろうか。いや大丈夫、この薄暗さであれば、何か見えたとしてもそれが誰だったか…ましてや俺であることは把握できなかったはず。
当然だが、声の主は柳瀬川だった。スカイタワーシティホテルの二十六階で聞いた声色と同じものである。
「い、いるんだろ。出て来いよ。早く」
再度柳瀬川の声がする。言わずもがな、呼びかけている相手は俺に違いない。気配か何か、誰かに尾行されていることに気がついたのだろうか。
しかしこの暗さで本当に人が後ろにいるのか、判別はできなかった。故に、今こうやって呼びかけることで確認しているのだろう。
くそ…奴に気付かれないよう、特に音には気を使っていたのだが。気配について、完全に消すことができていなかったのか。
「おい、早く出て来いよ。な、なんか用かよ」
そう問いかける柳瀬川の声は、微かに震えている。このような夜道で何者かに付きまとわれていると分かったら、それは男女問わず恐怖を感じるだろう。
「も、もしかしてコモレビの人? 金を払えなかったことは謝るけど、さっき檜山さんと話したよ。それ以外まだ何かあるのかよ」
何故だか、俺のことをコモレビの社員だと勘違いしているようだ。それだけこの男は、あの会社に文字どおり借りがある、ということなのか。
さて、どうするべきか。このまま奴の前に姿を見せても良いのだろうか。しかし姿を見せて逃げられたりなどしたら。
待てよ?もしかすると、これが好機なのかもしれない。振り向いて後方を見回す。背後には誰もいない。どうやら、今この場所には俺と柳瀬川の二人しか存在していないようだった。…殺すなら、今。誰も見ていない状況というものは、早々簡単に訪れるものではない。自分の痕跡を消すことは、とりあえず奴を殺してから考えれば良い。
それにここでやらなければ、いつやるというのだ。臆してばかりでは達成できずに終わってしまう。こういう時、勢いというものは肝心だ。心拍数の上がる心臓を片手で押さえつけ、自分自身を落ち着かせるように一人頷き、とうとう俺は奴の前に姿を現した。
「…!お、お前。誰だよ」
俺を見た柳瀬川は驚きを隠せないようであった。それもそのはず、薄汚れた青色のジーンズに毛玉が沢山付いたコート、黒いリュックサックを背負った、不審な男のことなど記憶にはないだろう。
しかし、柳瀬川は俺を片手で指差し、全身を震わせながら言った。
「ささ、鷺沼。鷺沼なのか」
そうか。ホテルでの檜山と柳瀬川の会話を思い出してみると、この男は檜山から俺の写真を受け取っているはず。ともすれば、俺が写真の男ということに会ったことがなくとも分かるだろう。
まあこの段階であれば、殺す対象に顔を知られていようがいまいが関係ない。俺は背中に回していた手を目の前に持ってきた。その手には拳銃。もちろん撃鉄は上げたまま、引き金を引けばすぐにでも鉛の弾が発射されるようになっている。
「ひっ…!」
柳瀬川はこれを見て、小さく悲鳴のような声を上げた。
「ごめんな。あんたに恨みはないが、死んでもらうよ」
一言謝りを入れ、照準を柳瀬川に合わせていく。恐怖からだろうか、奴は目の前で硬直しており、動かない。とうとう俺は、柳瀬川に向けて引き金を…引いた。
その音は灯りのない夜道に大きく、けたたましく鳴り響いた。
内臓にずしりと重くのしかかるかのような、また何か大きな物が破裂したような盛大な発砲音。聞くのは初めてだったが、鼓膜がぐわんぐわんと振動している。
思っていた以上に発砲した際の反動は大きかった。こんな小さな拳銃であってもこれ程とは。思わず反射的に目を瞑ってしまった。銃口からは薄く白い煙が立ち昇っており、強い火薬の匂いがする。
そして煙の向こう側…銃口の延長線上で、柳瀬川は腹部を手で抑えその場に立っていた。腹部辺りの衣服には赤い染みが出来始めている。その赤は衣服を赤に着色するだけでは飽き足らず、抑えている手も赤に染め上げていた。
「えっ、な、なんで」
そんな状態にも関わらず、柳瀬川は俺に顔を向け、唖然とした表情をしている。撃たれた、ということが理解できていないのだろうか。
「かっ、は」
そうかと思うと小さな呻き声を上げ、次の瞬間背中からその場に倒れた。同時に俺自身も、尻餅をついた。手が震えている。いや、手だけではない。腕も腿も、身体中が小刻みに振動している。
俺は…人を殺した。小林の時のような、突発的な殺人とは違う。完全に自分の意思で、相手を亡き者にするという意思を持って、人を殺したのだ。そう頭で理解すると同時に、それまでなかった罪悪感というものが、心の中に湧き出てくる。脅迫されていたこととはいえ、やはり無心で行うことはできなかった。
しかし、なんとも呆気ないものだ。俺がしたことといえば、この手に持っている小さな鉄の塊の引き金を引いただけ。それだけで、先程まで生きていた人間が、今はもう動かない。
…なんとも、呆気ないものだ。
荒い呼吸を落ち着かせてゆっくりと立ち上がり、柳瀬川の元へと近寄る。柳瀬川は既に物言わぬ屍と化していた。弾丸が命中したと思われる腹部の衣服は焼け焦げ、夥しい量の血が流れ出ている。その血は、柳瀬川が着ている衣服の胸の辺りまで真っ赤に染めていた。流れ出た血は柳瀬川の体を中心として、血溜まりを作っている。
ふうと大きく息を吐いた。とにかく、これで脅迫状の条件はほぼ達成したと言っても良い。残るはあと一つのみ。この場所に、自分がいた痕跡を残さないこと。それはこの場から立ち去れば良いだけの話である。条件の中に、柳瀬川の死体の処理については何も書いて無かった。故にこの死体はこのまま放っておいて構わないだろう。
のんびりと過ごしている時間はない。早くこの場から立ち去らなければ。そう考え、元来た道の方へ体を反転させた。しかしその拍子に、柳瀬川の体周辺にできた血溜まりに足を入れてしまった。
「あっ」動揺からか、思わず声が出る。慌てて足を上げるが時既に遅し。履いている靴の裏面には、べったりと血が付いてしまっていた。
まずい。このままこの靴を履いたままでは、俺の靴の足跡がこの場に残ってしまう。それでは自分のいた痕跡を残してしまうことになる。
仕方がない。俺は素足でこの場を去ることにした。今は日も完全にくれた真夜中だ。誰も気付かないだろう。片足で立ち、その場で血の付いた靴を脱ぐ。よし、脱げた。少し時間がかかってしまったが、これで安心してこの場を去ることができる。
一人安堵した…その時であった。
「お、おやおや、鷺沼さん。あんたとんでもないことしちまったね」
突如前方から聞こえた声に、鳥肌が立つ。ゆっくりと、声がした方向に顔を向ける。
そこには今日何度も目にした、そして今日俺にとって一番会いたくない人物。檜山が立っていた。
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