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第四章 見つかった死体

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 絵美は彼女と、何か約束をしていたのだろうか。
 いや、それであれば、直前に自分と約束なんてしないはずである。ましてや相手は詩音だ。用は永塚と山本の殺害に関係しているものと、容易に読み取れる。
 もう一度、インターホンが鳴る。
 早く出ろ。催促さいそくされているかのよう。どうすれば良い。雄吾は覗き穴のレンズに目をつけたまま、思慮をめぐらす。
 と、そこでレンズの向こう、詩音がポケットから何かを取り出した。スマートフォン。ピンときた時には遅く、キッチンでけたたましく、韓国で最近流行りのアイドルユニットの歌が流れ出した。
 血の気が引いた。直後、ピタリと鳴り止む音楽。いよいよ居留守は使えない、彼女と対面するしかないと、雄吾は急いで、廊下に転がっている自分の体を、奥の部屋へと引き摺り込んだ。それから駆け足で玄関扉まで向かう。
 玄関扉のドアノブに手をかけた。どくどく、脈打つ血液。張り詰めた空気の中で、大きく息を吸い込み、雄吾は勢いよく扉を開けた。

 詩音は少し驚いた表情を浮かべるも、雄吾…いや、絵美の姿を見て顔つきを和らげた。
「絵美さんこんにちは」詩音は頭を下げる。「今、大丈夫ですか?」
「え?」
 詩音が不安そうに上目遣いをする。それから、雄吾の体の隙間から、家の中を覗こうとした。
「な、何か?」緊張で声が上擦るところ、必死で抑える。詩音は、特に気にする素振りはない。
「いや。がたがたって音が聞こえてたので。なんか、忙しいのかなって、思って」
 雄吾は脳細胞をフル活用させた。時間としては一秒も経過していない。刹那とも思えるその瞬間で、雄吾は言い訳を考えついた。
 雄吾は、首の部分の衣服をパタパタと、引っ張って扇いだ。エアコンの効いた室内の冷たい空気と、生温い外気が混じった、どっちつかずの風が、体の前半身を撫でる。「片付けをね。してたの」
「片付け?」
 ぐるぐる回る頭の中。口に出す時は、落ち着いて…
「さっき電話でね。お父さんが韓国から日本に帰ってきてるっていうから。ちょっと会おうかなって。ここにも来るだろうから、身辺整理」
「韓国から、ですか?」
 鳩が豆鉄砲を食ったような表情の詩音。雄吾は畳み掛けるように、続ける。
「折角来てもらったけど、ごめんね。今は時間を取れそうにないの」
「そうですか。じゃあ、用件だけにしときます」と、詩音は女神のような微笑を携えた。

「予定どおり、死体を埋めに行きましょう」

 あっさりとした口ぶり。相手を買い物に誘うかのような。
「死体って」
「昼過ぎに絵美さんの所に預けた、店員さんの死体ですよ。今夜、十時出発でお願いします」
 雄吾はクローゼットにある山本の首を思い出して、思わず全身を固くする。
「行くって、どこに?」
「私の故郷です。群馬の」
「まさか、妙義山?」
 詩音はこくりと頷く。
「一昨日は断念しましたけど。また、直樹君と二人で行ってきて、道は覚えました。強めの懐中電灯も買ったし、暗くても大丈夫だと思います」
「そうなの…」
「永塚さんの死体は、仕方ありませんでした」残念そうに、詩音は下を向く。「あんな、色が変わってくるなんて。臭い、もうしないですか」
「え、わ、私の部屋?」
「他に、どこがありますか」と言いつつ、詩音はくんくんと犬のように鼻をひくつかせて、ほんの少し顔を歪ませた。「香水のにおい、強すぎやしないですか。でも、死体のにおいはしませんね。これくらいやれば、においはかき消せる。勉強になります」
 詩音は肩をすくめる。
「永塚さ、彼の死体、やっぱり私達が…」
「何か言いました?」
「いや、なんでも、ない」
 雄吾は咄嗟に口をつぐんだ。
 つまりはこういうことだろう。今朝見つかった永塚の死体は、当初直樹の家にあった。これは雄吾が直樹に『成り代わり』で知った事実であって、間違いない。
 その後、持ち出された死体は、雄吾の推測のとおり、ここ絵美の家に移された。そうして今朝、これまたなんらかの理由から、この家から小川に捨てられた。
 詩音の口ぶりからも、群馬に行って死体をそこに埋めたり、捨てたりしなかった理由は、やはりあの暗闇の中、それをやるには困難だったからなのだろう。
 そうか、と。そこで雄吾は納得がいった。
 彼女達が買った、大量の氷。それは、死体を冷やすためのものだったのだ。真夏の夜である。エアコンがきいた車内でも、腐ってきていた可能性はある。
 おそらくは、こうだ。
 関越自動車道に乗って、時間が経過してきたところで、彼女らは死体の腐臭に気付いた。松井田妙義インターでおり、腐食を抑えるために、コンビニで大量の氷を買い、凍らせたのだろう。
「とにかく。そんな感じなので」詩音は腕時計を見るかのように、左腕を見た。実際には腕時計はついていない。「十時までに、今度は氷や、ドライアイスを沢山買っていきます。それまでに絵美さんは、箱を用意してください」
「は、箱…」
「この前の、臭くて捨てちゃったでしょ。発泡スチロールので良いですから。あれ、鮮度を保てそうですよね。魚屋さんとかよく使ってるし」
 詩音はやたらと楽しそうに話す。幼児が、玩具で遊ぶ時のよう。何故、どうして、そんな様子でいられる。
 そんな彼女に、雄吾は「ちょっと待ってよ」と苦言を呈した。「さっき言ったでしょ、お父さんが来るかもって」
「ああ、そういえば」
「だから十時なんて無理よ」
「そんなに遅くまで、一緒にいるんですか?」
 口調と口ぶりが棘のように鋭くなるのを、雄吾は感じた。
「…仕方ないじゃない。お父さん、日本に戻ることなんて滅多にないんだから」
「ふぅん?まあ、良いですけど。じゃあ、いつなら良いと?」
「ええと。そう、ね。0時を過ぎたくらいじゃないと」
 詩音は露骨に不機嫌な表情を見せた。
「そんなに遅いと、次の日の講義に響くじゃないですか。今回は本当に埋めますよ。力作業だし、疲れちゃうじゃないですか」
 詩音は両手を体の前に交差させ、渋い顔をする。講義よりも、死体遺棄の作業の方が大事ではないのか。

 彼女は既に、おかしくなっているのだ。

 しかし雄吾は、己の主張を曲げる訳にはいかなかった。本日の『成り代わり』使用回数は0だ。また使えるようになるには、日を跨がなくてはならない。
 両手を目の前で重ね、「お願い」と頭を下げる先輩に気が緩んだのか、詩音はわかりましたよと渋々了承した。
「あ、ありが…」
「でもわかってます?これ、絵美さんのためにやってるんですからね。他人事じゃ困りますから、私」
「え?」
 雄吾は目を見開いた。絵美のため?
「それって、どういうことなんだっけ」
「とぼけても無駄ですから。まあ、良いです。じゃあ、今晩0時出発で。絵美さんは行き、直樹は帰りのドライバーですからね。免許証を忘れずに。私は持ってないので」
「ちょっ、ちょっと待って」
「また来ます。それまでに箱、きちんと準備しておいてください。…あ、それと」詩音は顔だけ振り返り、「ケータイ、メッセージ見といてください。少し前に、今からおうちに行くって、言ってましたからね」
 半ば言い捨てるかのように彼女が言ったところで、玄関扉がその姿をかき消した。瞬時、放心から蘇るも、しっかりと扉が閉まったところで、雄吾はすぐさま鍵を閉める。
 そのまま、玄関口で倒れ込んだ。『成り代わり』をして、別の人間になれたとしても。不自然なく振る舞うことに、これだけの神経を使うなんて。
 しかし、この頑張りに見合うだけの情報は入手できた。
 詩音。顔をぼんやりと宙に浮かべては、目を強く、永《なが》く瞑《つむ》る。やはりそうだった。永塚も、山本の殺害にも、詩音は関わっている。間違いなかった。
 ただ。
 一つ気になるのは、彼女の最後の台詞。
 彼女は、絵美のためと言った。
 山本は口封じの栓が濃厚だから良い。となると、永塚の殺害がそうなのだろう。
 絵美のため。
 永塚を殺害することが、絵美のためになる。
 雄吾は当然に思い当たった。
 先日の男子会。永塚の思惑。
 それから雄吾は、何気なく絵美の机の上に目が向いた。
 そこには緑色の小袋があった。
 ついさっき、永塚の死体の痕跡を探す時に、目にしたもの。中には何やら、小さな錠剤らしき物がいくつか。生理痛や頭痛を和らげる薬か何かだろうか。
 薬、か。雄吾は、親指と人差し指で、それを摘んで掲げる。
 成都大の一部のサークルでは、女子への乱暴を行うという噂があるものがあった。それが、あの「セイムズ」だった。
 春馬夕希斗に、話を聞くべきだと思った。
 雄吾は時計を改めて見る。もう、四時を迎える頃。サークル棟に行けば、まだ彼に会えるかもしれない。
 雄吾はその、薬入りの緑色の小袋を握りしめる。それから絵美の顔のまま、彼は唇をキュッと結んだ。
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