上 下
20 / 61
第三章 彼女の嘘

しおりを挟む
 まるで、度数の高い酒を一気に飲んだかのようだった。

 酩酊めいていの感覚に苛まれながらも、西城直樹は瞼を何度も開閉させて、必死に目の前の光景に、ピントを合わせる。
 暖色系の照明に照らされた、バスルーム。視線を下へと移す。バスタブには男がいた。足を折り曲げて、端に寄って座っている。
 直樹はその男を知っていた。永塚辰馬。YHクラブの先輩。楽観的でお調子者だった。
 そんな男も、今は魂が抜け落ちた抜け殻となって、ここにある。茶に染めた髪は血の赤一色となり、顔へと、着ている白いシャツへと流れ落ちていた。
「直樹君?」
「えっ」
 背中からの声に振り向くと、詩音が首を傾げていた。纏うものは、水色のブラジャーにパンツだけ。ほのかに首を傾げる彼女からは、女の色気を感じた。おそらく無意識なのだろう。
 細く、無駄な肉のない体。柔らかいであろう体。成都大には、彼女と仲良くしたいと思っている男はたくさんいる。お前はいつも一緒にいて羨ましいなと、学部の友人達から僻まれたこともある。整った顔貌かおかたちに、抜群のプロポーション、そりゃそうだろうと、直樹もまた思うところだった。
 手を伸ばせば触れることができる。そんな距離に、下着姿の彼女がいる。しかし、今の直樹は何も感じなかった。この状況で、いったいどうして性欲など湧くというのだろうか。
「どうしたの、いったい」
「どうしたのって…」
「なんか、ぼーとしてるから。さっきから」
 直後、またも気持ちが悪くなる。頭も痛い。思わず手で、こめかみ付近を強く抑える。
「大丈夫?」
「え、あ。だい、大丈夫」
 声を出すも、正直大丈夫ではない。今すぐ横になって、眠りたい。それ程の気持ち悪さ。
「俺、なんで」
「え?」
「なんでここに…」
 そう言ってふらついたところで、目の前にペットボトルが差し出されていることに気づいた。蓋は、既に外されている。
「あ、え」
「飲みなよ」
 日本中、どこでも見かける有名ブランドの天然水のラベル。直樹は詩音を見た。彼女はペットボトルをくいっと上にあげ、「早く。さっぱりするよ」と、自分を睨め付ける。
 合図するように、突き刺さるような頭痛がまたも自分を襲う。我慢できず、彼女から半ばぶんどる形でそれを受け取った。礼を言うまでもなく、直樹は勢いよく中の液体を口内に流し込んだ。

 しっかり処理しないと。

 不意に、頭の中に声が聞こえてきた。

 直樹は、人を殺したんだから。

 自分は、人を殺した。
 殺してしまった。
 己がしたことを頭の中で反芻させる。すると嘘のように、頭痛が、気分の悪さが霧消した。
「どう?」
 上目遣いで直樹の様子を伺う詩音。直樹は、最後の一口を飲み込むと、詩音を見た。
「殺した」
「え?」
「俺は、永塚さんを殺した」
「私達が、でしょ」
 放心気味の直樹の手を、詩音が両手で握る。直樹が力を少しこめれば折れそうなほどで、小さな手。しかし、温かい。不思議と、気持ちが落ち着いてきた。
「私達、彼を殺したわ」詩音は直樹の手を見つめつつ、「だから、しっかり処理しないと。ね?」
 今程、直樹の頭に響いた声と同じ台詞を、詩音は吐く。満面の笑みで、虹彩こうさいを塗り潰すまでに拡がった瞳孔。それからの直樹は機械のようにこくりと肯くと、詩音にペットボトルを渡した。彼女から代わりに持たされたのは、ロープと手袋の入ったビニール袋。
 てきぱきと、直樹は袋から手袋を出し、両手にはめる。ロープもまた取り出すと、バスタブに近づく。永塚の死体、両肩を掴む。振動でぐりゃりと首が曲がり、まるで直樹を見るかのように、顔が上を向いた。
 永塚の瞳は、白く濁った死の色をしていた。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

どうも、当て馬に男主人公の座を奪われた男の婚約者です

恋愛 / 完結 24h.ポイント:340pt お気に入り:391

あの……殿下。私って、確か女避けのための婚約者でしたよね?

恋愛 / 完結 24h.ポイント:397pt お気に入り:667

逃亡姫と敵国王子は国を奪う為に何を求むのか【完結】

恋愛 / 完結 24h.ポイント:49pt お気に入り:71

押しかけ皇女に絆されて

恋愛 / 完結 24h.ポイント:42pt お気に入り:8

たぶん戦利品な元王女だけど、ネコババされた気がする

恋愛 / 完結 24h.ポイント:28pt お気に入り:27

彼は溺愛という鎖に繋いだ彼女を公私共に囲い込む

恋愛 / 完結 24h.ポイント:142pt お気に入り:113

王女、騎士と結婚させられイかされまくる

恋愛 / 完結 24h.ポイント:99pt お気に入り:49

処理中です...