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第二章 成り代わり

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 部室での自分は、上手く笑えていただろうか。
 緊張で固くなった己の両頬を、下方から手で揉みほぐしつつ、雄吾は早足で駐輪場へと向かっていた。
 今日、雄吾が大学にやってきた一番の目的、それは。
「永塚さん、か」
 駐輪場につき、自分の自転車の鍵を外しながら、彼は一人呟いた。
 永塚辰馬ながつかたつまは、観月と同じ四回生のサークル部員である。
 色素を抜いた明るい金髪をした、小柄な男だ。不細工ではないが、ハンサムとも言えない顔貌。下品なところがあり、女子部員からは嫌われていたが、楽観的な彼は、サークル内のムードメーカーと言えなくも無かった。

 昨夜の『成り代わり』。
 直樹の目で見た男の死体は、彼だった。

 間違いであって欲しい。そう思い、震える脚に鞭を打ち、ここまでやってきた。彼は四回生だが、単位はまだそこそこ残っていたはず。大学に行けば…部室棟に行けば、会えると思った。
 しかし雄吾の希望はかなわず、彼とは会えなかった。
「どうしようかな」
 これから。ひとまず、帰るしかない。ここにいても、何もすることは無いし、何もできない。
 永塚が健在である可能性…いっそのこと、詩音と直樹に直接聞くというのも手だ。彼らとは親友なのだから。いや、しかしどう切り出せば良い。「永塚さんを殺したのか?」と単刀直入に聞くか。しかしそれをすれば、何故知っているのかという当然の疑問に答える必要が出る。『成り代わり』をしたから…駄目だ。こんな力を持っていること、気安く他人に話せやしない。それに自分だって、まだ半信半疑だというのに。
 いずれにせよ、容易に確かめることはできない。それこそ、昨日『成り代わり』で見たように、永塚の死体が直樹の家にあるか、直接確認することしか…

 直接、確認?

 そうだ。一時の閃きだが、やってみる価値はある。雄吾は自転車にまたがり、ペダルを強く漕ぎ始めた。そのまま加速して、大学を出る。
 直樹はバイトに出ていると、部室で櫻子が言っていた。
 今、彼の家はもぬけの殻だということ。つまりは、永塚の死体があった直樹の家のバスルームを、ちょっと確認して帰る。現状、それができるのではないか。
 『成り代わり』で昨夜見た光景を、自分の…立花雄吾の目で見る。事実と決めつけるには、それをしてからでも遅くは無い。
 立ち漕ぎで、更にペダルに力を込めて、直樹が住むアパートへと向かう。直樹の家は、大学から自転車で五分程度。彼の家に着くころには、西日がまぶしい時間帯となっていた。時刻は午後四時過ぎ。夏の太陽は長生きだ。今はそれが有り難かった。明るければ、電気を点けずに済む。

 そうこうしている間に、直樹の家まであと一つ角を曲がるところまで到着した。雄吾は彼の家を角からちらりと覗き見て、体を反射的に死角へと戻した。
 直樹と詩音の二人がいた。アパート前の駐輪スペースで、何やら話をしている。聞き耳を立てるも、流石に遠くて聞こえない。
 このまま彼らに見つかってはいけない。直樹の家は、三方向に道路が伸びる丁字路の真ん中に位置している。彼のバイト先は、雄吾がいる道とは反対に進んだところ、また最寄駅の方面も同様だ。直樹がバイトに向かえば、詩音は帰るために駅に向かう。つまり、直樹の行く方向と同じ。鉢合わせることは無い。
 もう少しの辛抱だ。肌に突き刺さるような日差し、滲み出る汗。辛抱しつつ、雄吾はその場にうずくまった。
 数分経ってからもう一度見ると、アパートの前から彼らはいなくなっていた。恐る恐る駐輪スペースへ。きょろきょろと視線を巡らすと、遠くに彼らの姿を視認できた。やはり、直樹のバイト先がある方向。彼のママチャリの後部には、詩音が乗っている。
 雄吾はほっと胸をなでおろした。
 良かった、一緒にいってくれた。
 …良かった、だって?
 雄吾は自分の感情の変化に驚きを隠せなかった。昨日、直樹の告白を受けた後は、彼らの関係に嫉妬し、我慢ならなかったというのに。それどころじゃなくなった、というのが理由なのだろうか。それは今の雄吾自身、わからない感情だった。
 とりあえずは、と。雄吾は近くの公園に、自分の自転車を置く。それから直樹の家へと徒歩で向かった。
 平屋づくりのそのアパートは、全部で五部屋。八畳のワンルーム、昨年できたばかりの準新築物件だと、直樹は言っていたか。雄吾の住む六畳一間のおんぼろアパートとは違う。
 彼の家は一〇五号室。一番奥の部屋だった。
 抜き足差し足、そうしてたどり着いたところで、雄吾は目の前の白い玄関扉のノブに手をかけた。
 試しに回すが、しっかりと施錠されている。しかし曲がりなりにも、彼とは仲が良かったのだ。雄吾は続いて、玄関扉のドアポストに目を向ける。財布を取り出し、先程観月から受け取った五百円玉を取り出す。
 この五百円玉。咄嗟に嘘をついてしまったのだが、彼からこれを受け取っていて助かった。この玄関扉を鍵以外で開けるには、大きな硬貨が不可欠なのである。
 五百円玉を持った手を、ドアポストの中に入れる。ステンレス製の口は狭く、手首ぐらいまでしか入らないが、問題ない。雄吾は手首をひねり、掌を上に向けた。手首を引き、玄関扉の裏側を五百円玉でコンコンと叩くと、一か所くぼんだ場所があるのが分かった。
 そこに五百円玉の側面を押し当てる。かっちりとはまる感覚。手ごたえを感じた雄吾は、そのまま五百円玉を横に捻った。すると、ガポッと音が鳴った後、ドアポストの口が外れた。
 これで、肘程度まで腕を入れることができる。雄吾はそのようにして、ドアポストの底に予め置かれていた、一〇五号室の合鍵を手に取った。直樹から教えてもらっていたのだ。鍵を無くした時など、いざという時を想定して、そこに鍵を置いていると。ドアポストには内側上部に大きなビスがあり、硬貨があれば口を外すことができるのだと。賃貸物件の欠陥ではあるが、彼はそれを都合よく考えていた。
 高鳴る心臓の鼓動を感じつつも、雄吾は合鍵をノブに入れ、横に回した。ガチャリ、と金属的な音。恐る恐るノブを捻ると、今度は手ごたえもなく開けることができた。
 不法侵入。その四つの漢字が頭に浮かぶも、急いで中に入り、勢いよく扉を閉める。ばたん。扉が閉まる音。続く静寂。室内に人気は無かった。当然である。家主はいないのだから。
 外したドアポストの口を取り付けた後、雄吾は靴を脱ぎ、室内に入った。どきどきするが、自分はただスリルを味わいたいがために、危ない橋を渡っているのではない。
 部屋に入ってすぐ右手側に、バスルームに繋がる扉が現れた。ここだ。昨日、この中に永塚の死体があった。『成り代わり』で見た光景どおりなら、未だ死体があるか、それがあった痕跡があるに違いない。ごくりと唾を飲み込み、彼は扉の前に立ちすくんだ。

 さ、こっちよ。

 昨夜見た詩音の艶めかしい肢体が脳裏に浮かぶ。首をぶんぶんと振り、下賎げせんな妄想を無理やり掻き消した。ふうと大きく息を吐いた後で、彼は扉に手をかける。この扉はスライド式だ。横に力をかけるだけで、簡単に開くだろう。
 雄吾は息を呑み止めると、勢いよく扉を開けた。それから、思わず唖然とした。
 バスルームの中は、空だった。
 そこに、永塚の死体は無かったのだ。
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