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第二章 成り代わり

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 YHクラブの部室扉を開けようとしたところで、雄吾がノブをひねることなく扉が開いた。反射的に、後ろに飛び退く。
 部室から出てきたのは結衣だった。初めて会った時から変わらず、ポニーテールの彼女は、鋭く釣り上がった二重の目で、雄吾を見上げた。
「あ、雄吾」彼女は彼の名前を呼ぶ。
「よう。もう帰るのか?」
 彼女は肯く。「うん、ちょっとね」
 彼女は両手をぐっと握りつつ、顔を下に向ける。彼女の視線が自分の後方にあることに、雄吾はようやく気づいた。
「邪魔だよな」
 雄吾は扉の横に体を寄せる。結衣は「ありがと」と言った後で、またねと小さく手を振りながら、雄吾が乗ってきたエレベーターに乗る。彼女を乗せたエレベーターは、そのまま一階へと下がっていった。

「おい雄吾、いつまで女子の尻を見つめてんだよ」
 その様子をぼうっと眺めていた雄吾だったが、部室の中から、野太い声に彼は呼ばれた。
 そのまま部室の中へと、雄吾は足を踏み入れた。
 YHクラブの部室の広さは十畳程度。床にはグレーのカーペットが一面敷かれており、上には青色のソファと黒い真四角のテーブル、量販店で購入したビッグサイズのビーズクッションや、丸い座布団などが置かれていた。
 正面右手側の壁には高さ二メートル、横幅一メートルはある、焦茶の本棚が一つに、同サイズの書棚が並んでおり、本棚には旅行雑誌が所狭しと仕舞われている。
 会計担当の先輩から聞いた話によれば、部員から集められた月会費は、旅費の補助と決められた貯蓄額を除くと、消耗品やそれら雑誌の購入に充てているとのことだった。ここに来れば、いつでも最新の旅行に関する情報を得ることができる訳である。
「誤解を生む言い方はやめてください」
「でも、事実そうだろお前。思春期の後輩は、やらしいやらしい」
 部室真ん中のソファには、大柄な男がどっかりと腰を降ろしていた。四回生の小林観月こばやしみづきである。金の短髪に、片耳には銀色のステンレス製のシンプルなリングピアス。いかつい体の割に女子のような名前の彼は、いやらしい笑みを浮かべた。
「結衣、どうしたんです?」
 観月を無視しつつ雄吾は部室内に入り、彼の隣に座る、彼の同期生で恋人の須川櫻子すがわさくらこに訊く。彼女は肩をすくめた。肩の長さで切り揃えた、ウェーブがかった茶髪が揺れる。
「さっきまで雑談してたんだけど、用事があったとかなんとかって、急いで帰ったわ」
「バイトって言ってましたよぉ。出る時に」
 おっとりとした声。ビーズクッションにすっぽりと埋まった状態で、三回生の星野絵美ほしのえみが片手を高く上げる。もう片方の手にはスマートフォン。最近話題の、ロキノン系バンドの映像が流れている。サブカルが趣味な彼女らしかった。
「最近お父さんの仕送りが止まって、大変なんですって」
「仕送り?」
「ゆいぴょん、実家が東北の美容院らしいからぁ。二月の土砂災害で、お父さん怪我したとかで、働けないんだって」
 黒に濃い青のメッシュを入れたショートカットの彼女は、眉根を寄せた。
 東北の土砂災害。そういえば、昨日帰宅して見ていたニュースで、取り上げられていただろうか。
「お父さんが治るまでは、逆にゆいぴょんから支援しなくちゃならないくらいだって。バイト増やさなきゃって、少し前に言ってたから。大変よねー」
「そうなんですね」
 絵美の口の軽さはともかく、彼女も中々難儀だなと思いつつも、雄吾は部室の入口にきょろきょろと部室内に視線を巡らす。それから、「あの」と先輩達に訊く。「今日、永塚ながつかさんってここに来ました?」
 雄吾の質問に対し、皆ぽかんとして顔を見合わせる。代表して櫻子が答えた。「見てないわ。考えたら単位残ってるっていう講義にも出ていなかった気がする」
 やはり。
 やはり、本当にそうなのか。
「良いんじゃないですか?」はぁと、絵美はわざとらしく大きな溜息をした。「あの人いると、ここに来れないんでぇ」
「あいつは星野のことが好きだからな」
 やれやれと肩をすくめる観月に、「そんなもんじゃないんですってぇ」と、絵美は露骨に不快感を見せた。
「最近特に、いやらしい目で見てくるんですよぉ」
 絵美は座ったまま、足を組む。デニムパンツの際、彼女の白い太腿の付け根へと目が移りそうになる。まるで自分のことを言われているかのようで、意識的に視線を外した。
「あの人の知り合いっていう人達も、謎に声かけてくるし。そいつら、あとで知ったんですけど皆ヤリサーの奴らっぽくて、気持ち悪くないですかぁ?しかもあたし、先輩のことは無理だって何度も言ってるんですけど。勘弁して欲しいんですけど」
「あと少しの辛抱よ」櫻子が申し訳なさそうに眉を寄せる。「彼も私達も、半年後には卒業だから」
「えー、先輩達はまだいてくださいよぉ。一緒に卒業しましょうよぉ」
「OBで良ければ呼んでちょうだい」
 そんな彼女達の会話を耳にしながら、観月は雄吾を見る。「それで、永塚がどうしたんだ」
「あ、いや、その。お金を貸してたんで、返してもらうかと」
「あの馬鹿、一年にまで借りてんのかよ」観月はあからさまに不機嫌な表情をする。「いいよ、俺が立て替えておく。いくらだ?」
「え」
「ほら」観月は財布を尻ポケットから取り出す。ブルガリの黒財布。数日前、就職先が決まったとかで、自らへのお祝いとして、貯金をつぎ込んで購入したらしい。櫻子にどやされたとへらへら笑っていた彼の、憎めない笑顔が思い出される。「いくらだよ」
「あの、えーと。五百円」
「五百円!?そんなぽっちかよ」おいおいと苦笑いを浮かべる観月に、雄吾は申し訳なさそうに俯く。
「今金欠で…」
「すまんすまん。悪いのは金を返さねぇ永塚だ。ほらっ」
 観月は五百円玉を、親指で強く弾いた。硬貨は勢いのまま宙を回転して舞い、見事雄吾の掌の中に着地する。
「ありがとうございます」
「良いってことよ。永塚からは俺が取り立てるから」
 掌をひらひらとさせる彼に雄吾は頭を下げる。
「じゃあ、俺はこれで」
「えぇ、もうかえんの?今日タッチー早くない?」スマートフォンの映像を消し、絵美はぶすっとした顔で雄吾を見る。
 結衣のことはゆいぴょん、自分はタッチー。彼女は後輩を、独特の呼び方で呼ぶ癖があった。最初は気になれど、長く一緒にいると気にもならない。
「今日はこの後用事があって。すみません」
「ふぅん。そういやタッチー、来週末の夏旅行でお願いしていたやつ、終わってる?」
「ええ、一昨日終わったところです」
 雄吾は肯く。再来週、YHクラブは二泊三日の旅行に出かけるのである。行先は沖縄本島。割高だが、夏休みに南国。はじめて聞いた時は部員全員喜んだものである。
 ちなみにこの夏の旅行は、四回生の卒業旅行を兼ねていた。故に例年、一個下の三回生が中心として企画し、雄吾ら二回生、一回生はそのサポートをする。二回生の雄吾は、三回生の絵美の指示のもと、部員全員のスケジュール作成を任されていた。
 絵美は満足そうに鼻を鳴らす。「さぁすが。Wordワード?」
「ええ、そうです」
「じゃあ後であたしに送っといてもらえる?」
「生データで良いですか」
「うん。確認して、修正あったら変更履歴つけとくよん」
「よろしくお願いします」
 彼らのやりとりを前に、観月はにやにやと笑う。「我がサークルの未来は安泰だな」
「そうね。皆ありがとう」
 櫻子もまた、微笑む。彼女達に追随する形で、そうなんですよぉと絵美も肯いた。
「特に後輩くん達、有能すぎます。特にこのタッチーはもう。私の下につけてくれて、良かったですもん」
「いやいや、そんな…」
「謙遜するなよ。直樹の奴も、いつもお前のことを頭良いって言ってるよ」
「やめてくださいよ、急に褒めるの」
 突然の賞賛に、雄吾は当初の目的を一度忘れて頭を掻く。そこで櫻子が、「そういえば」と声を上げた。
「雄吾君、直樹君となんかあった?」
「えっ」思わず声が上擦る。「別に何も?」
「そう?それならいいんだけど」
「あいつ、なんか俺のこと言ってたんですか」
「さっきまで直樹君としおりん、ここにいたんだよ」
 絵美が櫻子に追随する。
「そうなんですか?」
 あの二人が、ここに?
 雄吾は動悸が激しくなるのをしっかりと感じた。
「結衣ちゃんがここを出ていく前ね。それで直樹君、しきりに雄吾君を探していたの。結局詩音ちゃんにバイトなんだからって無理やり連れてかれたんだけど。なんか雄吾君に用事でもあったのかなって」
「…いや、思いつかないです」
 そっかと櫻子は息をついた。「もし気になるんだったら、彼のバイト終わりとかに、電話してみたらどうかしら」
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