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第二章 成り代わり

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 煤汚れた黄土色のコンクリートの壁。所々、干上がった畑みたくひびが入っている。築四十年は経過しているだろうその建物を、雄吾は見上げた。
 大学の敷地の端一角を占有する部室棟は、団地にある古びたマンションのようだった。
 七階建てのその建物には、数十もの部屋が存在する。成都大学運営側に承認された部活やサークル団体に対し、その団体の規模に見合う数分の部屋が割り当てられるのである。
 覚束ない足取りで建物に入った雄吾は、入り口横にある二畳程度の広さのエレベーターに乗り、「3」を押した。
 がたついた扉が閉まる。無機質なそれは、ぐらぐらと揺れながら、無気力な男の体を、指定したフロアへと運ぶ。
 フロアインジケーターのオレンジの光が「3」になった。扉が開き、エレベーターを降りた雄吾はすたすたと、歩を進めた。そうして薄水色の扉の上、滲んだゴシック体で「YHクラブ」と書かれている表札を見つめた。
 YHとはユースホステルの略称らしい。ユースホステルとは、ドイツ人教師のリヒャルト・シルマンが提唱した、低価格で青少年向けの宿泊施設を普及させる「ユースホステル運動」のことを指すという。
 名付けの由来はご立派なものだが、ぶっちゃけてしまえば、ただの旅行サークルだった。
 雄吾は、入学したての春先のことを思い浮かべた。

 成都大学には、部活やサークル団体が多数存在する。というのも、基本大学側は「来るもの拒まず」の精神らしく、よほどの問題があったり、部屋数が枯渇したり等無い限り、設立希望にはイエスマンの立場らしい。特にサークル団体は設立人数、活動内容、活動場所、顧問さえ決まっていれば大抵は受理され、会費という名目で、大学から幾らかの経費まで貰える。自分達の好きなことができ、設立の実績は、就職活動でもネタになる。一石二鳥であるが故に、サークルの数は増える一方だった。
 入学したての一回生の大きなミッションは、沢山ある団体の中で、自分に合った場所を如何にして見つけることができるかというものだった。
 ただ、それは二回生以上の生徒達も同様だった。成都大では、入学式からゴールデンウィークの前までの間で、新入部員を募集する流れがある。ここで部員を獲得しなければ、団体の存続問題につながる。在校生の誰しもが、目の色を変えて「狙い目」の一回生を勧誘するのである。
 つまり、その時期の一回生は皆、先輩達の勧誘攻撃を受け続けながらも、自分達のミッション達成に向けて動くことになるため、ストレスも疲労も多分にあった。
 雄吾も例外では無かった。三つ、四つ見て回り、疲れ果てた雄吾は、食堂で一人休憩をとっていた、その時だった。
 彼女と再会をしたのは。

 初日以降、詩音とは連絡先を交換して別れていた。
 成都大男子学生に聞けば、大半以上が可愛いと評するであろう女子。それが、詩音だった。一緒にいたいと思ったが、二日目からは学部も必修講義も異なったため、自然と別れることになった。
 内心心惜しくも心を切り替え、その後は己が所属したい部活やサークルを探すために、一人で大学内を見て回っていた。回るうちに友人も増え、数日も経てば、彼女のことは記憶から少しだけ薄まっていた。
「いや。でも私達、ちょっと」
 後方から、聞き覚えのある声が聞こえた。耳の奥にすうっと入り込む声。柔らかく、聞こえの良い声だった。
 雄吾は若干緊張しつつ、振り返る。
 詩音。彼女だった。
 食堂の端の席、壁際に座っていた。隣には彼女の友人とみられる、ポニーテールの女子学生。その二人と一緒に、三名の男子学生も座っていた。彼女達の目の前に二人、隣に一人。まるで彼女達を逃がさないかのような布陣。
 雄吾は聞き耳を立てる。周りに人が少ないこともあり、彼らの会話は、雄吾にも漏れ聞こえていた。
「いいじゃん。まだ決まってないんでしょ?」
「私達、まだ色々見ているんです」詩音の隣、ポニーテールの女子学生が怪訝そうな表情でそう告げる。「だからそんな、今、先輩達のサークルに決めるなんて」
「良いじゃん。俺達と一緒に、楽しい大学生活過ごそうよ」
「セイムズってメンバーも多いしさ。履修も余裕余裕。バスケやったことない奴も沢山いるし、素人でも楽しいぜ。文武両道、最高のサークルだって」
 セイムズ。少し前、新入生歓迎会で知り合った先輩が、その名前を出していた気がする。バスケサークルとはいうが、四六時中酒を飲んでばかりらしい。それに「ヤバい薬」を女子学生に飲ませ、乱暴するなんて噂もある、いわゆる「外れサークル」の筆頭格だった。
「もう期限間近じゃん。四月も下旬なんだから」
 詩音の前に座っている金髪の雰囲気イケメンがまずいよーと両手で顔を覆う。
「そうですけど。結衣ちゃんと二人できちんと決めたいですから。即答はちょっと」詩音はちらりと、隣の女子学生を見るも、彼女は他二人の男子学生の応対をしていて、詩音の視線に気付いていない様子だった。
「お試しってことでも良いよ。俺らの活動、今日見学してみて決める。ほら、良いんじゃない?」
「え、いや、それは」
「はい決まり、決まりぃ」
 とんとんと話を進める雰囲気イケメンは、詩音の肩を掴み、立ち上がらせた。彼女は「放してください」と小さな声で訴えるも、雰囲気イケメンはお構いなしである。焦ったくなったのだろう。
「お前ら。詩音ちゃんオーケーだって」
「お、オーケーなんて言ってないです」
「じゃあ結衣ゆいちゃんもオーケーだ」
「オーケーオーケー」
 涙目になりつつ「そんな」と慌てふためく彼女。詩音同様押しに負けそうな様子だった。

 これは。
 これは、まずいんじゃないのか?

 このままでは、彼女達は彼らの毒牙にかかるだろう。雄吾は自分の心臓の鼓動が、ばくばくと大きな音を立てていることを感じた。
 だが、どうする。自分がいきなり彼らの中に割り込んで、助けることができるのか。いや、そもそも本当に嫌がっているのだろうか。はっきりと断らないことも、実は心の底では、ドラッグストアの名前みたいなバスケサークルに入ってもいいのでは、とも思っていたり…
 さあさあ行こうと、彼女達は男達に連れられ、食堂の出口へと向かい始めた。どうするどうする。雄吾は彼女達を目で追いながら、一人悶々としていた。
 すると、途中詩音が振り返った。それは偶然に違いないが、彼女の視線は、彼女達を見ていた雄吾の視線と一致した。

 助けて。

 彼女の視線は、はっきりとそう告げていた。
「待ってください!」
 食堂中に響き渡る声。声の主が自分だと理解したのは、その場の全員が彼を見つめた、それからだった。
「待って、ください」もう一度、今度はボリュームをかなり落として言う。緊張で、顔が熱くなる。
 詩音達五人全員、足を止める。男達は各々顔を見合わせた後、代表して雰囲気イケメンが「俺達に言ったの?」と雄吾に言う。
 後戻りはできない。雄吾はぎこちなくも、強く肯いた。
 雰囲気イケメンは、他の二人に肯くと、雄吾のもとにやってきた。「何か用?」
 対面してみると、自分より少し背が低いし、体躯が良い訳では無い。が、金髪、先輩という付加価値から、雄吾の心臓はきゅうっと締め付けられたように思えた。
 自分はこういったことをする性格ではない。心の中で雀の涙ばかりの後悔の念。しかし、後ろで不安げな表情をする詩音達を見て、その後悔の感情を丸めて飲み込む。
「俺、その二人と約束してたんです」
「約束だ?」
「だからサークル見学は、キャンセルでお願いします」
「お前、俺達の会話を盗み聞きしてたの?きしょいな」
 どんっ。胸の辺りに柔い衝撃を受けた。それが雰囲気イケメンにどつかれたものと分かるのに、数秒を要した。
「悪いがあの子達は俺達と用があるんだわ」
「先に、約束したのは、俺ですっ」がらにもなく、雄吾は大声を出した。もう、がむしゃらだった。「セイムズの先輩方は、後輩への優しさが無いんですかっ」
 入口にギャラリーができていた。なんだか面白いことになっていると、暇した学生達が集まってきたようだ。
 故に、わざと、サークル名を強調して言った。
 雰囲気イケメンは周囲に目を蝿のように素早くぎょろぎょろ動かし、顔を真っ赤にさせて、「てめえ」と雄吾の胸倉を掴む。胸倉をつかまれるなんて、ドラマや漫画の中だけのことだと思っていたのに、現実でやられる日が来るとは。半ば呆けたことを考えていた、その時だ。
「雄吾!」
 明後日の方向から、自分の名前を呼ぶ声。雰囲気イケメンと雄吾は、声がした方を向く。
 背の高い男が、食堂の入口からこちらに向かってきていた。褐色な肌をした体は、痩せ型だが肩幅が広く、顔は彫りが深い。髪は短髪、見た目は完全にスポーツマンだった。
「またなんか出てきたな。お前、こいつの友達?」
 顔をひくつかせる雰囲気イケメンを無視して、「お前、探したぞ。これからYHクラブ、行くって約束だったろ」褐色男は雄吾に話しかけてきた。「こんなとこで道草食ってんなよ」
「おいてめえもか」雰囲気イケメンは雄吾を離し、今度は褐色男の目の前に立つ。「なんなんだ。お前ら、一年だよな。後輩の分際で…」
「先輩。俺ら、忙しいんですわ」褐色男は紺のハーフパンツのポケットに両手を入れたままだ。雰囲気イケメンの頭一個分、彼の背は高かった。「邪魔しないでくれます?」
 威圧感。近くにいた雄吾でさえ、それを感じた。
「桐谷さん、柳沢やなぎさわさん」
 声の出せない雰囲気イケメンを尻目に、褐色男は先程の雄吾を呼ぶ声以上の声量で、出口付近にいる詩音達を呼ぶ。目を丸くする彼女達。褐色男は唇を尖らせた。「二人もそうだろ。皆して、油売って。俺だけのけ者?やめてよ」
「お前、いい加減に…」
「じゃあそういうことなんで」
「お、お前」
「なんすか」
夕希斗ゆきと。もう行こうぜ」
 雰囲気イケメンの肩を、もう一人の先輩が叩く。ギャラリーは更に多くなってきており、どうやら恥ずかしさも限界だったようだ。「もういいよ、他の女探そう」
「てめえら、覚えてろよ」
 憎々しげに雄吾達を睨みつつ、捨て台詞を放った雰囲気イケメンは、他の二人と共に食堂から出て行った。
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