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第二章 成り代わり

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「どうしたの?」
 下着姿の詩音が、雄吾のことを手招いている。
 全身の筋肉がピシリと固まる感覚。歯を食いしばり、雄吾もまたバスルームへと入室した。
 途端、鼻につんとした嫌な臭いが入り込んできた。雄吾は悟られぬように顔を歪ませつつ、男の死体を見る。暖色の蛍光灯に照らされた、牛乳よりも真っ白な顔には、水ぶくれのような出来物がいくつもできている。生気を感じなかった。おかしな話だが、作り物のようにも思えた。
 男の瞳は、雄吾を見ていた。

 いや。雄吾が成り代わった、西城直樹のことを。

「あのさ」
「ん?」詩音は背を向けたままだ。バスルームの洗い場に置いてあったボストンバッグを開け、何やら探している。
「こいつを…」
 殺したのか?
 詩音、直樹の二人で?
「なぁに?」
「いやなんでも…」
 聞きたいことはたくさんあった。しかし、雄吾は聞かなかった。聞けなかった。聞けば、今の疑問はあらかた解決するに違いない。だからこそ、それを聞くのが怖かった。自分の友人の二人…入学してからずっと、サークルだって同じだっていうのに、彼らが人殺しだったなんて。
「ふふ、変な直樹君」
 詩音は気にもとめていないようで、平然と鞄を弄っている。雄吾は、彼女と白い背中を見つめる。こんな状況じゃなければ抱きしめたい程に華奢な、小さな背中。彼女とセックスができるだなんて、少し前の自分がいかに馬鹿な考えを持っていたことを恥じる。
「直樹君」
「えっ?」
 ぼうっとしていた雄吾に、詩音が差し出したもの。それを見て彼は目が丸くなった。手袋と、ロープ。チャック付きのビニール袋に入っている。
「これ。ほら」
 詩音の微笑みに、彼は戦慄した。
 彼女はもう一度、死体を指差す。
「ちゃちゃっと、やっちゃおうよ」
 詩音の声は、やたらと快活だった。吐き気を催した雄吾は、無意識のうちにまたも、指パッチンをしていた。
 熱湯の中で氷が融けるように、目の前の景色が、目を見開く詩音の姿が、ゆがんで消えた。かと思えば、すぐに元の、雄吾の自宅の見慣れた景色が視界全域に広がっていた。
 雄吾はベッドの上、仰向けで大の字になっていた。むくりと、ゆっくり起き上がる。
 部屋の中には誰もいない。天使の姿も無い。既に帰ってしまったのかもしれない。だが「私達はいつでもお前の動向を見ている」。彼はそう、言っていた。姿が見えないだけで、見られている。なんたって、貴重なサンプルだから。そう考えていた方が良い気もした。
 少しの間、雄吾は座ったまま、動かなかった。いや、動けなかった。室内にいるのに体が震え、寒気まで感じる。反面、全身には冷や汗なのか、びっしょりと濡れている感覚があった。
 やっと動けた頃には、夜が明けてしまっていた。一睡も、できるわけがなかった。
「なんだったんだ…」
 一人、雄吾は掠れた声で呟く。
 今夜の出来事は、夢じゃなく、現実なのだろうか。
 雄吾は自分の両手を見る。指を鳴らす、それだけで。
 それだけで俺は、他人になることができる。
 …ただし。
「ええと、なんだっけ」
 それをするには、条件があった。
 雄吾は、天使との会話を思い出した。
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