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第一章 告白

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 頭が太い針で突き刺されたように、痛い。
 雄吾は目を開けると、白い天井が目の前に広がった。
 豆電球の光。薄暗い。瞬きを何度かしてから、雄吾は黒目のみ左右に動かした。
 壁にかかっている、四角い安物の時計の短針は、「12」を少し進んだ数字の無い場所を指している。時刻は確かに、成り代わる前の自宅の時計と相違ない。指を鳴らした直後、変わらず時間は進んでいる。
 しかし雄吾がいる場所は、自宅では無かった。
 高い天井。白地の壁。視界の端に、一人暮らしには似付かわない、50インチのテレビ。見覚えのある景色だった。雄吾はこの場所に、来たことがあった。それも、何度も。朦朧としていても、それは覚えていた。
 よろよろと、上半身だけ起き上がる。どうやらソファで横になっていたようだった。それに、彼は衣服を身に纏っていなかった。下着のみで、しかも赤色のボクサーパンツ。好んで選ぶタイプでは無いもの。次に、両手でこめかみのあたりを触る。短いブラシみたく、ちくちくとする。ツーブロック。これもまた、自分が絶対にしない髪型の一つである。
 雄吾は脱帽した。認めざるを得なかった。
 望みは、叶ったのだ。
 俺は本当に「あいつ」に……。
「気分はどう?」
 りぃん。そこで、鈴の音のような声が室内に響いた。振り返ると、そこには女がいた。柔く細い、色白の体。薄水色、無地のワンピースを着て、長い黒髪をポニーテールにした彼女は、玄関の隣の扉から出てきたところだった。
 桐谷詩音。
 雄吾が好意を抱いている女だった。
「詩音…」
「なに?」彼女は近づいてくる。「大丈夫?落ち着いた?」
「えっ。あ、ああ。うん」
 詩音の言っている意味が分からないが、ひとまず肯いた。彼女は「思ったより元気そうだね」と言いながら、雄吾の目の前で軽く伸びをした。それから彼女は、ゆっくりと雄吾に近付き、彼の手を握った。
「な、なっ」
 心臓が飛び出しそうな雄吾をそのままに、詩音は心配そうな表情で彼を見る。
「まだ顔色悪いね。本当にやれるの?」
「何を…」
 やるというのか。どぎまぎしつつ、雄吾は瞼をぱちぱちと数回開閉させた。
 詩音は申し訳なさそうな表情をして、「ごめんね」と彼に頭を下げた。
「私もう、我慢できなかったから」
「そ、そうだよね」
「だよね?」
「あ、いや。そうだよな」
 危ない。口調も違うんだった。適当に話を合わせているが、詩音は変に思っていないだろうか。そればかり気になって、会話の内容が全然頭に入ってこない。
 詩音は「ありがとう」と述べたところで、着ているワンピースの前、ボタンをゆっくりと、一つ一つ外していく。雄吾の全身が硬直した。視線は、彼女の動作にくぎ付けだった。
 数秒後、彼女は雄吾と同様下着姿になった。ワンピースをソファにかける。
 水色のブラジャーとパンツ。細かなフリルのついた、シンプルな花柄。雄吾は言葉が出なかった。彼女の白い肌。思考が停止する。体の硬直は、解けそうになかった。
「ん?どうしたの?」
 彼女は首を傾げる。「早く、やろ?」
 それから詩音は、雄吾の腕を掴んで立たせた。そのまま、先程彼女が出てきた扉の方へ一緒に歩く。雄吾は黒のモダンなカーペットの上、彼女の後ろをペンギンみたく、よたよたとついていく。
 その間、雄吾は脳内で彼女との会話を繰り返していた。
 この状況を望んだのは、自分だった。
 まさか、本当に。
 本当に彼女と。
「え?」
 詩音は足を止め、雄吾を見る。雄吾は慌てて、首を横に振った。
「いや、なんでもない」
「そう?」
 詩音は何も不審に思っていないようで、前を向き、雄吾の手を掴んだまま歩を進める。まるで、心の声が読まれたようだった。しかし、彼女と初めて会話したあの、入学式の日の夜。あの日から何度も何度も彼女を想像して自慰行為に励んでいたのだ。
 こんなふうに、現実になる日が来るなんて。上手くできるだろうか。雄吾は未だ童貞で、今に至るまで、性欲は自慰行為で発散させるしか術がなかった男である。望んでいたのはいえ、少し不安でもあった。
 そんな、内心緊張が高まる中にあって、彼女は雄吾の腕を離して、扉を開けた。
「さ、こっちよ」それだけ言って、詩音は中に入る。
 位置的に、扉の向こうはバスルームだろう。先程、詩音が出てきた場所。何故ここに…と思ったが、事をする前に汗を洗い流してほしいのかもしれない。よくよく見たら、全身汗でびっしょりだった。緊張からか、喉も渇いていた。うがいでもしないと、口も臭いかもしれない。
 とにもかくにもと、彼は目を閉じてガッツポーズをする。
 同時にあの、天使の顔を思い浮かべた。天使様…そう、天使様だ。ありがとうございます。これからは神社…神社で良いのだろうか。にお参りするときは毎回万札を入れますなどと心の中で適当な礼を述べたのち、彼は詩音が入っていった扉を開け、勢いよく中に入った。
 そこで彼は、自分の考えが全て誤りだったことを知る。
 扉の向こうは、やはりバスルームだった。
 バスタブの中に、男がいた。
 紺のハーフパンツに白の半袖シャツ。歳は雄吾達と同じくらいだろうか。体育座りの姿勢で、バスルームの壁に頬をくっつけて、項垂れている様子だった。

 男は、死んでいた。

 死体を見たことが無い、雄吾でもそれは分かった。
 不自然にへこんだ男の頭からは、黒ずんだイチゴソースのような血が流れているようで、それが白いシャツの上半分まで染みて、赤黒く変わっていた。
 バスルームの蛍光灯、白色光に照らされた男の死体からは、生気を一切感じなかった。
「こ、これ」
 声が詰まる。なんだ、これは。この状況は。
 放心する雄吾に、「さあ」と詩音は男の死体を指さし、平然と次のように述べた。
「早くやらないと、夜が明けちゃうよ」
 がらがらと、雄吾の中で何かが崩れ始めた音が聞こえた。
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