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しおりを挟む日菜は、週4日父親の病院で心療内科医として働いている。
日、火、木曜日の休みには私の部屋へ来る事が多いのだが、明日の日曜日は翼と共に実家へ行くと言うので久しぶりに柚くんと丸一日二人きりだ。
「柚くん、明日は二人だな。」
「そうだねー。お互い急ぎの仕事もないし、どうしようか?」
柚くんが悪戯っぽい笑みを浮かべる。
これは…こちらに聞いておきながら何か考えがある顔だな。
そう思ったが、あえて聞き返さないで当てて見るのも面白い。
「古本屋巡りはどうだ?最近していなかっただろう。」
「んー、それもいいけど…」
どうやら違ったようだ。
「柚くんは何かしたい事があるのか?」
「寵翠庵行きたい!」
「ちょう…?あぁ、翡翠庵の。」
「そう。はすみんに住所教えて貰ったんだー。」
寵翠庵は古くからある喫茶店で、ある小説で主人公の行きつけ『翡翠庵』のモデルになっている。
先日、柚くんが蓮見くんとそんな事を話していた。
「たしか、横浜だったか。」
「うん。町外れの路地裏の隠れ家…ロマンだよねぇ…!」
「ははっじゃあ明日は柚くんのロマンを探しに行くか。」
「やったー!」
ー翌日ー
朝9時に家を出て、1時間程で横浜に着いた。さらに乗り継ぎ、最寄りのバス停で降りたはいいが、住宅街のど真ん中。
蓮見くんが送ってくれた位置情報を頼りに柚くんが先を歩く。
「ふふふっ」
「どうした?」
「主人公が作中で、地味に不便って言ってたのがわかるなぁと思って。」
「そうだな。交通の便も悪くはないが…人によっては不便だろうな。買い物も大きなスーパーまでは少し歩くな。」
「こういう、主人公の住んでる街に実際に足を運べるっていいよね。物語も違った見方が出来るし。」
私は物語は読んでいるだけで十分だった。出てくる土地や物は全部想像の物。
文豪ゆかりの地やら、聖地巡礼、なんて流行ったりもしたが好奇心に行動力が伴わなかった。
出会って間もない頃、柚くんが翻訳している本の舞台となっている街へ行くと言った。
翻訳家はそこまでするのか、と驚いたが取材という名目で趣味を楽しんでいるだけらしい。
実際に翻訳とは関係ない本の街までこうして来ているのだから。
何となく付き合うようになった旅行は、いつしか私の楽しみにもなっていた。
「あ、あった!」
ふとすれば見落としてしまうような場所。たしかに、隠れ家と言う言葉がぴったりだ。
OPENの文字を確認して、そっと店に入る。
小さな店内は古びているが清潔感がある。
カウンター7席とボックス席が2つ。
カウンターの1番奥の席には、新聞を読んでいる高齢の男性。真ん中の中年の男性は女店主と話している。
私と柚くんは手前のボックス席に座った。
「いらっしゃいませ。」
50代中頃と思われる女店主が水を運んできてくれる。
「ブレンドで。」
「俺も。」
柚くんは興味深そうにキョロキョロと店内を見渡す。
私は食事のメニューを吟味する。
「柚くん、このデミオムライス、小説に出てきたな。」
「本当だ。値段も一緒。」
「小説?」
急にカウンターで女店主と話していた中年男性が反応した。
「兄ちゃん達、もしかしてあの小説読んで来たの?」
「はい。俺、この小説好きで、編集者やってる知人が特別に教えてくれたんです。」
「おぉ、兄ちゃん日本語ペラペラだな。」
「少しですよ。お父さんも読んだんですか?」
「いやぁ…ヒロが書いたってんで読みたかったんだけど、どうにも本は苦手でな。」
「作者さんとお知り合いですか?」
男性がチラリと女店主を見ると、女店主が恥ずかしそうに口を開いた。
「息子なんです。」
「へぇ!」
「どうりで…。彼と話していたんです。物語の翡翠庵はとても大事に描かれているから、実物はどんな場所だろうと。」
「あら…古いだけのお店なのよ。」
「翠ちゃん」
急に、奥に座っていた高齢男性が声をあげた。
「お兄さん達にあれ食わせてやんな。」
「あら、そうね。せっかく来て下さったんだもの。」
「あれ?」
「兄ちゃん達飯も食ってくか?俺のオススメはナポリタンだ。」
「え、あぁ…じゃあデミオムライスとナポリタン下さい。」
急に慌ただしく動き出した女店主に代わるように、常連の男性二人が店の事を色々と教えてくれた。
寵翠庵は先代が娘の翠さんにちなんでつけた店名である事。
翠さんの息子のヒロさんは子供の頃から自作の物語を作っては、店の常連客に披露していた事。
ヒロさんの反抗期をみんなでハラハラと見守った事。
裏口に集まる野良猫の事。
「ちょっと、二人共余計な事言ってないでしょうね。」
「余計な事と言うのは、翠ちゃんの初恋話かな?」
「カツさん、あっちじゃねぇか?翠ちゃんが初めて彼氏連れて来た時に親父さんと大喧嘩した…」
「二人共、追い出しますよ!」
降参と言うように両手をあげる二人。
思わず柚くんと笑ってしまう。
「もー、すみませんね。おじさん達若い子が珍しいのよ。」
「いえいえ、とても楽しいです。」
「私達こそ色々聞いてしまってすみません。」
「お二人が聞き上手だから、二人共調子乗っちゃって。はい、ナポリタンとデミオムライスお待たせしました。」
「わぁ!美味しそう!」
「あと、これ良かったら。」
そう言って、翠さんは漬物の小皿を置いた。
「もしかして、これって裏メニューの?」
「裏メニューって程じゃないのよ。私が好きで作ってるんだけど、洋食のメニューにぬか漬けなんて合わないでしょう?」
「俺達はこれ食わなきゃ1日が始まらないけどなぁ。」
私はかぶ、柚くんがきゅうりの漬物をかじる。
「うまい…」
「ん、浅漬けだね。」
「ふふっ常連のおじさん達にはあんまり塩辛いの出せないからね。」
「このあっさり感が後を引きますね。」
「んーついつい箸が伸びる。」
「なんか、美男美女がこんな所でぬか漬け食ってるって変だな。」
「ちょっと、カツさんが言い出しっぺでしょ?」
それから、食事とお喋りを楽しみ店を出る頃には正午を回っていた。
「あー楽しかった!」
「あぁ、色んな話を聞けたな。」
「1番の驚きはケンちゃんが還暦って所かなー。」
「はははっ。私も50代前半くらいに思っていた。」
「俺48歳。」
「ピンポイントだな。」
このまま帰るのも勿体なく、日が傾くまで当てもなく散策をした。
「今度みんなで中華街行こうよ。」
「いいな。」
「前に食べた餃子が忘れられない。」
「私もだ。」
「つーくんは小籠包の方が良いって言いそう。」
「日菜はごま団子だな。」
「「よし!来週行こう!」」
声がハモって柚くんが驚いた顔でこっちを見た。
「ははっ、言うと思ったんだ。」
「読まれたー。」
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