夢憑き喰らう

香津宮裕介

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第四章 市橋美映

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 首にかけたストラップから、まるっこいカギを取り出して、ドアの穴に差し込む。かちゃりと鈍い振動が残った。
 あたしはこの瞬間が一番嫌いだった。
 世の中にはたくさんカギがあるけれど、あたしのカギは、このドアを開けることしかできない。
 そうしてこのドアは、あの女の家に通じているのだ。
 あの女というのは戸籍上の母親で、生物学的にも母親だった。
 マンガやテレビのドラマみたいな、複雑な家庭環境なんてこれっぽっちもない。どこにでもいるごくごく一般的な「ママ」で、それがあたしは嫌だった。
 あたしにはパパがいる。ママがいる。
 パパは忙しくて、ほとんど家にいない。いまだってアメリカで働いている。さみしいけど、それがあたしのちょっとした自慢だった。
 だからあたしは、いつもママと一緒だ。
 けれどもママは専業主婦っていうやつじゃないから、近所のスーパーでレジを打っている。お店が忙しいのは夕方なので、いつもあたしが帰ってきても家にいない。
 だからあたしは、首にカギをぶらさげている。
 このカギは、この家のドアしか開けない。
 遅れちゃってごめんね、いつも同じことを言ってママが帰ってくる。お腹空いたでしょう、と割引シールの貼られたお惣菜を持って。
 あたしのママは、昔の写真アルバムを見せてもらったことがあるけど、すんごいキラキラしていた。髪なんてマンガみたいに黄色で、お化粧もすごくて、あといっぱいアクセサリーもつけていた。
 でもいまは、肌だってぼろぼろだし、髪の毛だってぼさぼさだ。一応ちゃんとお化粧はするし、髪だってまとめて行くんだけど、なんともぱっとしなくて、どこにでもいるおばさんという感じがする。
 引き算をしたら、あたしはママが十九歳の時の子どもだった。パパはそれよりも十五歳も年をとっている。
 あたしはママのセンスが嫌いだ。あたしの名前を、「ミハエル」なんてつけたのもママだ。ちなみにママの実家は浄土真宗である。
 市橋美映ミハエル、それがあたしの名前。
 ママはキラキラしたものが好きだ。スマホもキラキラしてるし、カバンもクツもキラキラしたのをほしがる。だからあたしの名前もキラキラしているんだろう。
 でもそれはママが好きなものであって、あたしはじつはそれほどでもない。というか、ママだけしかそう思っていないみたいだ。
 パパとかお祖父ちゃんお祖母ちゃんは、あたしのことを動物みたいに「みーちゃん」と呼ぶ。絶対「ミハエル」とは呼ばない。その名前で呼ばれると、あたしの方がはずかしいから、哺乳類なだけいいかなと思っている。
 でもクラスには、もっとおかしな名前をつけられてる子もいるので、さすがにそれには同情する。
 世の中おかしいと思う。
 この家には、あたしは産まれたときから住んでいる。ママが結婚するとき、お祖父ちゃんたちと一緒に住むのがイヤだと言って、パパに買わせた家だ。
 あたしは思うんだけど、パパはじつはあんまりママのことが好きじゃないだろう。アメリカに転勤が決まった時だって、ママはすっごくよろこんで、なにがなんでも絶対についていくと言っていた。
 ママはパパが大好きなのだ。
 でも、なんだかんだあって(なにがどうあったのかは子どものあたしにはわからないんだけど)、結局パパひとりで行ってしまった。
 たまに手紙もくれるし、おみやげだっていっぱい送ってくれるし、ママはずっと不満そうだったけど、あたしはそれでもいいような気がした。
 たしかにパパに会えないのはさみしいけれど、お仕事がいそがしいんだから仕方ない。パパが帰ってくるまで、あたしは良い子で待っている。
 クリスマスにはパパとママと、お祖父ちゃんお祖母ちゃん、そしてサンタさんから合計四個もプレゼントがもらえるあたしは、世界で一番しあわせな女の子だと思ってた。
 ママは、パパのパパ――つまり、お祖父じいちゃんのことが嫌いだった。お祖母ばあちゃんのことも嫌っていた。というか、お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも、あたしのことはかわいがってくれるけど、ママのことは影で悪く言うのだ。
 それはきっと、ママがむかし“ミズショーバイ”というやつをしていたからなのだろう。
 それでもパパと結婚して、あたしを産んで、この家に引っ越してきて、しばらくは家族三人で、世界で一番しあわせだったのだ。だってその時のママは、やっぱり最高にキラキラしていたんだから。
 あたしが学校にあがって、パパがアメリカに行ってしまって、ママは時間をもてあますようになって、お友だちと長電話したり、一日中DVDを見たりしてすごしていたけれど、それにもやがて飽きてしまったのか、近所のスーパーで働くようになったのだ。最近引っ越してきたお隣の西村さんも同じところで働いていて、歳も近かったから、ママも行きやすかったんだろう。
 西村さんところのおねえさんは優しくて、あたしもよく遊んでもらっていた。ウチのママも帰りが遅かったから、学校から帰ってきてひとりのあたしを気にしてくれたんだと思う。
 でも、その西村さんのおねえさんは、――殺されてしまったのだ。
 怖い事件があるわね、とママが言っていた。
 その頃、西村さんのお母さんは病院に入院してて、そのまま急に死んでしまったらしい。医療ミスだとか、そういう話も聞いたけど、あたしにはなんのことなのかさっぱりわからなかった。
 お葬式にも行った。おねえさんは「ごめんね。ありがとうね」と言ってくれた。なんで謝ったりお礼を言われたりするのかわからなかった。そもそも、「死んだ」ってことが「もう会えない」ってことで、それで人が泣いたりする気持ちがわからない。
 それから何日かしてすぐに、西村さんのお父さんが、娘のおねえさんを殺して自分も死んでしまったのだ。世間では「心中」、正しくは「無理心中」と言うんだそうだ。あたしはひとつ賢くなった。
 なんか、お父さんは仕事がなかったらしい。でも借金はいっぱいあって、どうにもならなかったらしい。お母さんはひとりで働いてたんだって。
 おねえさんも死んでしまって、もう会えなくなったけど、それでもあたしの生活がなにか変わったりしたわけじゃなかったから、そんなにたいした問題でもなかった。
 だいたい西村さんとこに比べたら、やっぱりウチは幸せなのだ。
 このあいだママが、「縁切ってきた」って怒りながら帰ってきたけれど、それはどうも「いい? もうお祖父ちゃんとお祖母ちゃんに会ったらダメなんだよ。プレゼントあげるって言われてももらったらダメだからね」ということらしくて、あたし的にはちょっぴりさみしかったぐらいが不幸なのだ。
 それでも来月のお誕生日にはパパとママからプレゼントがもらえるし(パパからは忘れずに送るって手紙が来た!)、たしかにクリスマスは一個もらえるあてがなくなったのは残念だけど、あたしはとりあえずママの子どもなんだから、お祖父ちゃんたちよりもママの言うことを聞いてないといけないのだ。
 死んじゃった西村さんとこのおねえさんは、学校ではあまりうまくいってなかったようだ。
 学校からの帰り道、高校の前を通るんだけど、グラウンドとかでおねえさんを見かけても、いつもひとりだった。帰りもひとりだった。他の人と一緒にいるのを見たことがない。
 だからあたしは、そういうおねえさんの姿は見なかったことにする。おねえさんと遊んでもらう時は子どもだけど、こういう時は大人だと自分でも思う。
 最近、ママの帰りが遅い。
 あたしはお腹がすくと、電気ポットのお湯でカップラーメンを作って食べる。シーフードのやつが一番好きだ。ママにはあんまり食べすぎると体に悪いよ、と言われてるんだけど、ママが遅かったら食べてていいよ、とも言われているので、最近はよく食べている。
 この頃ママは、お酒を飲んで帰ってくることがある。お酒のことはよくわからないけど、ママが楽しそうなのでいいとは思う。
 でもあたしは、ママのことが嫌いだ。

 ドアの鍵を開ける。
 家には誰もいない。
 ドアに鍵をかける。
 家の中はとても静かだ。
 今日はなるべく早く帰ってくるね、と言っていたけど、たぶん帰りは遅いのだろう。
 だって冷蔵庫には、あたしの大好きなハンバーグがお皿に盛られて入っている。電子レンジでチンすることだって、三年生になったあたしには簡単にできるのだ。
 あたしはこの家で一人の時間をすごす時には、いつもパパの書斎にいるようにしている。本当はママには、あんまり入っちゃダメだって言われている。パパに怒られちゃうよ、と言われた。でもパパはママより優しいから、そんなことで怒ったりはしない。
 パパの部屋はお仕事で使うご本がいっぱいある。あたしにも読めるかと思ったけど、むずかしすぎてダメだった。
 ここにはパパの思い出がある。ママとのアルバムを見つけたのもこの部屋だ。あたしが生まれる前の思い出も、ここにはある。
「ねえ、……いる?」
 あたしは声をかける。部屋のすみっこ、窓の光が届かない場所。
「いたら出てきてよ、――ちゃん」
 そう言うと、本棚の横の壁からにゅっと青白い小さな影が伸びてきた。
 はじめは丸いピンポン玉のような大きさだったのが、だんだん人間の形になっていく。
 くるくるの巻き毛、目も口も開いている、ハニワみたいなおかしな顔。全体的に青白くて、でも目だけは真っ赤な、幼稚園生ぐらいの女の子。
「やあ、お帰り。ミハ」
 めめちゃんは、へら~、とだらしない口許で言った。
「うん。ただいま、めめちゃん。今日はなにして遊ぼっか?」
 あたしはめめちゃんの前に座り込み、持ってきたリュックの中身をぶちまけた。あたしはおもちゃには困ってない。
「わ! いいねえ。この間はこのぐらぐらゲームやったから、今度はこっちのがやりたいな」
「オッケー。えぇっと、これはねえ……」
 あたしは説明書を読んで、友だちにルールを教える。読めない漢字はイラストでうまいこと適当にでっちあげる。
「ミハはすごいな! めめちゃん、漢字読めないよー」
「まっかしてよ。あたしの方がおねえさんなんだからさ!」
「さっすがー」
「えへへ。お友だちだもね!」
 そう、めめちゃんは友だちだ。西村さんのお母さんのお葬式のとき、あたしたちは出会ったのだ。玄関のところにぼーっと浮かんでいたので、思いきって声をかけたのだ。
(あなた、だぁれ?)
 一緒にいたママはびっくりしていたけど、めめちゃんも目を丸くしていた。
(あたちが見えるの……?)
 でも、そんなことしなくてもめめちゃんの目はいつもまんまるだった。「あたし」という呼び方も、幼稚で「あたち」に聞こえるので、そのへんもかわいくて気に入った。
 でもその時は、ママに手を引かれて家に帰っちゃったから、それでもう終わりだった。
 なんだけど次の日、あたしがパパの部屋にいると、すーっと、壁をすり抜けて現れたのだ。
(あなた、お化けなの……?)
(やっぱり見えるの!?)
 青白い姿でその子は飛び上がった。といっても、いつもふわふわ浮かんでいたんだけど。
(あたし、市橋美映。あなたは?)
(あたち、めめちゃん!)
 その子は元気よく言った。
 元気のいい幽霊なんておかしかったけど、あたしはなんだかその子が気に入った。昔、パパからお誕生日にもらったお人形とおんなじ、くりくりの巻き髪なのが好きだったのだ。
 お化けは怖いものだって、みんな言ってる。うらめしやー、って言うらしいんだけど、なにがどういう意味なのかわからない。うらめしやー、と言えば、とりあえず怖がるとでも思ってるんだろうか。
 あたしが怖いのは、飛んでる虫と斉藤さんのオータムちゃんぐらいだ。オータムちゃんはあたしを見るとすぐ吠えるのだ。なんなんだあれ。
 お化けは見たことがないから怖くなかった。でも、見ても意外と怖くなかった。
(めめちゃんはお化けじゃありません!)
 ぷんぷんとめめちゃんが怒った。
(めめちゃんは、れっきとした精霊なのです!)
(せいれい……?)
 聞いたことがない。あとでママに聞いてみたら、「妖精みたいなもんじゃない?」と教えてくれた。
 あたしの知ってる妖精さんはもっと小さくて、もっとキレイでかわいいので、たぶんめめちゃんは妖精じゃないと思う。
 でも、めめちゃんはあたしにしか見えなくて、妖精は心のキレイな人にしか見えないらしいから、やっぱり妖精なのかもしれない。
 ところが、見える人と見えない人がいるとめめちゃんが言っていたので、それならやっぱりお化けなのかな、とも思う。西村さんのおねえさんも見えたんだと、めめちゃんは教えてくれた。
 めめちゃんは不思議なのだ。壁も通り抜けるし、あたしの体もすり抜けることができるのに、ガラスは無理だったり、トランプを持つことなんかもできるのだ。とにかくめめちゃんはすごい。
 あたしがママが嫌いだと言うと、「ばかだなぁ、ミハは」といまにも泣きそうな顔で笑うのだ。でもあたしは、ばかと言われるとむかっとするので、めめちゃんの方こそばかなんじゃないかと思う。
(ママが嫌いなのに、なんでママと一緒に暮らしてんのさ)
 そう言われるとじつは本当に困るのだったが、それはあたしが子供だからで、保護者がいないとなにかと面倒な世の中のせいだ。
 あたしは、自分を守るためにママと暮らしているのだ。
 だって、パパが帰ってくるのは、ママと暮らしているあたしのところだ。だからこの家にいるためには、ママと一緒にいなくちゃいけない。
 あたしがママを嫌いになったのは、もうだいぶ前のことだ。昔はママが好きだった。パパとママが大好きだった。パパもママもあたしのことが、世界で一番好きだと言ってくれた。
 だけど本当は、パパはママのことが一番好きなのだ。この世で一番好きだから、パパはママと結婚したんだ。だって結婚は、本当に好きな人同士でしかしちゃいけないものなんだから。
 もしママと結婚してなかったらあたしは生まれてないから、パパはママのことが一番好きでよかったと思う。
 でも、あたしはママのことが嫌いだ。
 あたしは知っているのだ。

 ――ママが本当は、パパを殺してしまったんだってこと。

 きっとパパの死体は、このパパの書斎の壁の中にある。
 パパの転勤が決まって、パパが行ってしまってすぐ、ママはひとりでこの部屋の模様替えをした。
 しかもそれは、あたしが学校に行っているときで、しっかり六時間目まで授業のある木曜日のことだった。
 あの大きな本棚の裏――いつもめめちゃんが出てくる壁の奥。パパはアメリカになんか行ってない。
 あたしは知っているのだ。
 燃えるゴミの日に出されていた、コンクリートとペンキのついたいっぱいの新聞紙と、汚れた手袋にエプロン、タオル。全部あたしがこっそり拾って、秘密の場所に隠してある。
 あたしはママと戦わなければいけない。その日のために、着々と準備をしている。
 あたしはパパのかたきを討つのだ。
 パパの誕生日に描いた似顔絵を、ママが「送っておくわね」と言って、自分のタンスにしまっているのを知っている。返事は昼間、やっぱりあたしが学校に行ってるあいだで、電話ですますなんてパパらしくない。しかも、あたしがいるときに連絡できないのを、全部ママは時差のせいにしてしまう。
 去年のクリスマスに、あたしはプレゼントを四つもらった。パパとママとサンタさん。それにお祖父ちゃんお祖母ちゃんからだ。
 でも、パパから届いたプレゼントは、じつは近所のデパートで使ってる包装紙だってことは知っている。
 ママはせいぜい良いママでいようとして、パパとサンタさんの分のプレゼントも用意してくれているんだ。
 でも本当は、パパもサンタさんもいないことを、あたしは知っている。知ってるけど、知らないふりをしている。
 子供をなめるな。クラスの友だちに聞くと、サンタさんを信じている子のほうが少ない。大人はいつまでも子供をだませると思わないほうがいい。物で釣られるほど子供じゃない。
(ミハはばかだなぁ)
 と、めめちゃんは、にへらぁと口許をゆるめて笑うのだ。めめちゃんのほうこそばかだ。子供は大人の望む子供の姿であろうと、必死に演じているんだってこと、それに気づかないめめちゃんは本当の子供か、子供の姿をした大人のどっちかだ。
 でもあたし、めめちゃんは好きだ。
 めめちゃんはいつも本音だからだ。たとえ、ばかと言われようと。めめちゃんのほうがばかなんだ。
 だいたいあたしのことをミハと呼ぶのだって、「みはぃる」とか「みひあぇる」とか、ちゃんとしゃべれないからだ。日本語勉強して来い。……あ、日本語じゃなかった。
 なにしろめめちゃんは、たぶん日本人じゃない。妖精とか精霊というのは、日本らしくない。きっと日本なら、妖怪とか魂とか言うはずだ。あたしはするどい。
 あたしはめめちゃんが好きだけど、友だちだと思ってるけど、めめちゃんを信用していない。
 だって、めめちゃんは知っているはずなのだ。その壁に、あたしのパパが埋まってることを。
 でもあたしは聞かないし、めめちゃんも言わない。
 これで上手にごまかしたつもりなのかと言いたくなるくらい、雑なコンクリートの塗り方と、それを隠すように置かれた大きな本棚には、取り出せないくらい重い本がぎっしりつまっている。それも、辞書とか事典とか、あたしが絶対読まないだろうものばかりだ。
 ママはあたしからパパを隠したいのだ。
 まるで『赤ずきんちゃん』みたいだ。あたかもおばあさんがいるように、オオカミは赤ずきんちゃんをだまそうとするんだけど、本人が思ってるほどうまくいかない。
 あたしがママをやっつけるのだ。
 あたしがめめちゃんを好きなのには理由がある。ばかだけど、バカじゃないことだ。めめちゃんは、あたしの知らないことをいっぱい知っている。
 たとえば、どうやったら人が死ぬか、とか。
(ひとの体というのは、無数の細胞の集まりなんだ。細胞は絶えず分裂し、死滅と再生をくり返している。生物がとしをとって死ぬのは、細胞が再生をしなくなるからだ)
 いつもはゲームのルールをあたしに教えてもらっているせいか、あたしになにかを教えるときはやたら得意になる。かわいい。
(ひとの体を生かしている主要機能は、主に内臓だよ。特に心臓と肺。血が止まったらおしまい。息が止まってもおしまい。そして、それらに命令を出している脳。このへんを叩けば、あっさりひとは死ぬ。簡単だよ)
 ひと口で簡単とは言うけれど、子供の力でどうやってママを殺せるだろう。フォークやナイフで心臓や肺を刺せるだろうか。首を絞めたり頭を殴ったりして、その隙に反撃されたらあたしには絶対勝てない。結局世の中は「大人>子供」なんだから仕方ない。
(なんだ、ミハ。誰か殺したいひとでもいるのか?)
 くりくりと、目玉の見えない真っ赤な目をまわすようにしながら、めめちゃんがたずねてきた。
 あたしはそれを華麗に無視して続けた。
(それじゃあ、幽霊ってなに?)
 もしママを殺して、ママが幽霊になったら困る。「うらめしやー」とやられたら、さすがに怖い。なにしろ、幽霊にはさわれないわけだから、もはやなすすべもないのである。
 めめちゃんは急に押し黙ったようになって、じっとあたしを見つめていた。そしてゆっくり、しっかりと言葉を吐き出した。
(幽霊は記憶だよ)
 その途端、あたしはなんだかよくもわからない寒さに襲われて、この部屋が――そしてめめちゃんの存在が急に恐ろしくなった。いますぐここから逃げだしたいような不安にとらわれてしまった。
(――き、おく……?)
 記憶というのは、思い出ということだ。
 たとえばあたしがパパとの記憶を思い出したら、それは幽霊になるんだろうか?
 記憶がよみがえれば、人は死なない。幽霊になっても、生きているということなのか?
 だったら、この世界は死んだひとだらけだ。
 だから、めめちゃんが言ってることはちょっと違うと思う。
 だって、そしたらパパは生きてなければならない。あたしが思い出すたび、パパは生き返っているはずなのだ。
 だったらこの世界は、パパであふれてなければならない。
 そしたらあたしがどれだけパパが好きだったか、その数でわかってもらえるはずだ。それならきっと、ママには負けない。
 けれども世の中、そうではないのだから、きっと違う。めめちゃんが間違っている。めめちゃんはばかだ。
 あたしはこの部屋の壁に、パパが埋め込まれていることを知っている。
 ママもそのことを知っている。めめちゃんも知っている。だけど、誰もそれを言わないのだ。
 だから、あたしは考える。
 パパの体がここにあるから生き返らないのだろうか、と。
 すっかり窓の外は暗くなり、いつのまにかめめちゃんも帰ってしまっていた。
 玄関の方で物音がした。ママが帰ってきたのだろう。今日は少し早いかもしれない。
 あたしはまた怒られてしまうまえに、こっそり書斎を抜け出すと、自分の部屋に戻った。
 ママはまっすぐあたしの部屋にやってきて、「ただいま」と言った。なので、あたしもいつも通り「おかえりなさい」と答える。あたしは聞きわけのいい子どもなのだ。
「お誕生日おめでとう」
 ママが言う。
「パパからもプレゼント届いてたわよ」
 と、リボンのついた箱をふたつ見せる。
 なんだ、忘れられてなかったのか。がっかりしたような、うれしいような気持ちでふり返る。
 でも、あたしは帰ってからずっと家にいたのだ。郵便屋さんが来なかったことぐらいわかる。
「冷蔵庫のハンバーグ、気づいた?」
「うん。ママと一緒に食べようと思って」
 ママは最近やつれてきたけど、まだまだ美人だと思う。あたしはきらいだけど。
「待っててくれたの、ありがとう。ケーキも買ってきたよ。あとで食べようね」
「プレゼント開けてもいい?」
 ママの腕からぴかぴかの箱をひったくると、あたしはきらきらの目でいた。
「どうぞ。パパにお礼のお手紙書くのよ。書いたらちょうだいね。いつものように出しておくから。――いま夕飯の用意するわね。お腹空いたでしょう。あとはサラダとスープでいい?」
 あたしは包装紙をわざと、これ見よがしにびりびりにやぶいてやった。パパからは新しい服で、ママのはキラキラしたクツだったけど、パパがあたしの服のサイズを知ってるはずがない。
 胸の奥で、痛みにも似た悲しい怒りがわきあがるのを感じた。
 許せなかった。
 どうしてそうまでして、パパがいることにしたいのか。いつまであたしをだまし続けるつもりなのか。ママは罪をつぐなうべきだ。
 だから今日、あたしは新しい服を着て、夕飯の時にわざとハンバーグのソースで汚してやると、ママが悲しそうに眉をひそめて叱るので、それをさもいい気味とばかりに笑い飛ばしながら、「ママはばかだなぁ」と言ってやったのだ。
「み、美映ミハエル――いま、なんて言ったの」
 それはまるで、信じられないものでも見るような顔だった。
 あたしはうれしくなって、「ママはばかだって言ったのよ」と返した。
「あたしがなんにも知らないと思って! なんにも知らない子供だと思って! ばかなママ……、でも本当は知ってるのよ! 全部知ってるのよ!」
「なに言ってるの……? どうしちゃったの、美映ミハエル?」
「知らない。あたしは知らない。でもママは知ってるんでしょう?」
「だからどうしちゃったの。早く着替えちゃいなさい、染みになったら大変。せっかく――」
「せっかく、パパから買ってもらったのに? ママはうそつきね。パパなんていないくせに。もうとっくにいないのにね! あたしはなんにも知らないけどね!」
 するとママは、びっくりするぐらいに目を見開いて、もうなにがなんだかわからない、とも、なんだかとても恐ろしいものでも見るような、意味深に悲しげな顔をするなり、パンっとあたしの頬をぶったのである。そうして、
美映ミハエル……、美映ミハエルっ!」
 と、声にならない金切り声をあげると、わっと叫んで、あたしの小さな体にしがみついてきたのである。
 ごめんね、ごめんねぇ、と耳もとで熱い息が謝罪の言葉になった。それはあたしのぶたれた頬を、にぶくやっとしびれさせた。
 なにを言ってるんだろう、この人は。
 なにを謝っているんだろう。なんであたしに謝るんだ。わけわかんない。許さない。認めない。
 返してよ。パパを返してよ! 返せよ、ママ! あたしのパパを返せよ!
「この人殺しめ……っ!」
 ママが息をつめた瞬間、あたしは子供なりの目一杯の力で、その腕を振り払った。
 あたしは走りだす。一目散に――パパの書斎に向かって。
 この日のために準備してたんだ。
美映ミハエル!」
 ママが追ってくる。
 がんばれ、あたしの脚。あたしの腕。頭。
 カーテンの引かれた暗い部屋。パパの書斎の本棚。重い本がいっぱいつまっているそれも、ほとんど空にしてある。ばれないようにケースだけ残して、中身は別のところに移しておいたのだ。だからこの本棚は、ほとんど棚の重みだけ。けれども子供のあたしには、それでも重い。
 あたしは声をあげて、体ごと棚を押し倒した。
 ママの悲鳴を聞きながら、あたしは叫ぶ。
「めめちゃん!」
 あたしとめめちゃんは友だちだ。前からこんな相談をしていたのだ。
(ウチの近所で、他にめめちゃんのこと見える人いないの?)
(うーんとね……あっちの、大きな犬のいるお家)
 すぐに、佐藤さんのオータムちゃんだと思った。
(髪の毛が茶色のおねえさんいるでしょう。前髪パッツンの)
 たしか莉里香おねえさん。道で会うと、いつも明るくあいさつしてくれる美人さんだ。看護婦さんだって聞いた。
(莉里香おねえさんも、めめちゃんのこと見えるの?)
(……たぶんね)
(じゃあもしさ。もしだよ。もし、あたしがめめちゃんに「助けて!」って言ったらさ、めめちゃんあたしのかわりに、莉里香おねえさんを呼んでもらってもいい?)
 めめちゃんは首をくるんとまわして、袖から手の出ない腕を組んだ。
(……? なんで?)
(そ、そうじゃないと、あたし殺されちゃうかもしれないの)
(へえ!)
 その「へえ!」は驚きより、なんだか納得の方が強い響きだった。
(ミハ殺されちゃうの? 誰に? どうして?)
(そ、そんなのわかんないよ。もしも、の話だよ。あたしたち友だちでしょう。お願いね、めめちゃん)
 それからめめちゃんは、急にだまりこんでしまって、なにやら考えるようなしぐさの後、小さく――たしかにはっきりとこう呟いたのだった。
(ああ、そうか――そうだよね。だって、殺さないと殺されちゃうもんね)
 あたしはぎくりとして、ああ、なにかもう堪らなく恐ろしいなにかに捕らわれて、もうすっかり心の隅々までをのぞかれたような不安に、頭がぼーっとなってしまった。
「めめちゃん!」
 そんなあたしは叫ぶ。
 現実は暗い書斎に倒れ込む本棚、舞いあがるほこり。
「お願い! おねえさんに教えてきて! あたし殺されちゃうから!」
美映ミハエル――なんてこと……、なに言ってるの」
「めめちゃん、早く! 早く!」
 あたしはばかだ。
 めめちゃんがいつもあたしの呼びかけに答えるわけじゃないこと。そりゃめめちゃんだって自分の用事もあるし、いつもあたしひとりに付き合ってくれるほど孤独じゃないだろう。それに、さっきまで一緒にいたからと言っても、いまも声の届く近くにいるとはかぎらない。
 返事のない空間に向かって、あたしは呼びかけ続けた。
 それでもあたしたち友だちだから。
 あたしはめめちゃんを信じている。
「ミぃハエルぅー」
 ママは必死の形相で、気持ちの悪い名前を呼んでいる。くっそ、なんであたしの名前をもっとかわいくしてくれなかったんだろう。あたしはママとは価値観が違う。
 めめちゃんからは返事がない。
 もうだめだ。あたしは覚悟を決めて外に飛び出した。
 急にドアを開けたので、ママはびっくりして尻もちをついてしまった。あたしはお構いなしに玄関に出る。
「ど、どこ行くの美映ミハエル! もう外は真っ暗よ」
 ばたん、とドアを閉めて、あたしは走り出した。あわててママが飛び出してきて、門のあたりできょろきょろしている。すかさずその隙に家に戻ると、玄関のカギを閉めた。
 かちゃん――。妙に軽い音でカギが下りる。
 毎日カギを開けるのが嫌だった。この家はあたしとママの家だ。パパのいない家だ。パパがいないとあたしはいない。あたしがいなくてもママはいられる。
 あたしは居場所がない。
 だからこの家を――、パパの存在を守らなきゃいけないんだ。
 あたしは首にさげたカギを投げ捨てる。
 ママがカギを持って出てないことは、しっかり確認済みだった。
「み、美映ミハエル……?」
 もうママはすっかりわけがわからなくなって、なかば狂乱ぎみにドアをどんどん叩くのだ。
「ちょっと開けなさい、美映ミハエル! ……いい加減にしないと、ママ怒るわよ! 美映ミハエルっ」
 でも、そんなことをしたってムダなのだ。ママはやたら世間の目を気にする。周囲には特に良い母親であろうとする。
 だから大声を出したり大きな物音をたてたりしたら、よその家の人が来ちゃうことも、ママはわかっているんだ。
「お願いだから開けてちょうだい、美映ミハエル……!」
 その声はドア越しにも小さく、ドアを打つ音も控えめだ。
 だって、誰かに来られたら困るもの。パパの書斎にパパの死体が隠されてるなんて、知られたらいけないことだもの。
 あたしはここで、めめちゃんを待つ。信じて待つ。
 きっとめめちゃんは、莉里香おねえさんを連れて来てくれる。莉里香おねえさんならきっと大丈夫。あたしの言うことを信じてくれる。あたしのこと、頭のおかしな子だなんて目で見たりはしない。
 そしたらあたしは、おねえさんと一緒に、あの壁をぶち壊すんだ。そうしてパパを救い出す。
 そしたら、ママとはお別れだ。
 あたしはひとりで、パパを守って生きていく。
「めめちゃん、早く! 急いで!」
 また、まだほこりの舞い上がる書斎に閉じこもり、あたしはあたしを助けてくれる人を待つ。
 がん! と強い音がする。
 あたしは驚いてふり返った。
 がんがん、と背後のガラスが打ち鳴らされる。
「……美映ミハエル、開けてちょうだい。美映ミハエル
 ママだ。ママだ。
 すりガラスの人影――、そんなことをしたって見えやしないはずなのに、張り付いてのぞき込む影。でもそこには、鉄柵がしてあるから、本当はどうやったって入ってくることはできやしないんだ。
「ママ、なにか気にさわることした? だったらゴメンね。でもママ、いっつも美映ミハエルのこと一番に考えてるのよ。だから――」
 あたしは落ちている本を拾い上げると、窓に向かって思いっきり投げつけた。
 ママの悲鳴が聞こえた。思いがけず角が当たったのか、ガラスは割れて、本は柵の隙間を抜けてった。
 そして再び、にゅーっと影が起き上がり、割れ目からママの顔が見えた。ガラスの破片で切ったのか、額から一筋の血が流れた。
「ミ、ハエル――美映ミハエルぅ……」
 ママは泣いていた。
 化粧もはがれて、いい大人がぐちゃぐちゃの顔して。
 あたしは胸のすく思いがした。だから、また笑ってやったのだ。無様な女を。
 そうすると、ぴたりとママは泣きやんだのだった。
「……ひどい、のね」
 ママはうつむく。明かりが少ないので、どんな顔をしているのか、もう見ることができない。
「もうママひとりじゃ、どうしようもないから……美映ミハエルのこと、守ってあげることできないから――代わりに助けてもらうわね……?」
 なに言ってるんだ。ママ、なにを言ってるんだ?
 あたしが呆然としている間もなく、いきなりママの奥から黒い影が現れて、格子窓の鉄柵も厚いガラスも、まるでバターのようにすっぱりと切って登場したのは――セーラー服の、西村さんのおねえさんと同じ制服の人だった。
「こんばんは、お嬢ちゃん」
 おねえさんは笑わない目であたしを呼んだ。その目はママが好きそうな、ぴかぴかの金色に光っていた。
「親を大切にしないような子には、ちょっとだけお仕置きさせてもらうわね?」
 そうしておねえさんは、手にとがった棒を――白く鋭く、そして力強く、まるで斉藤さんのオータムちゃんの牙のような……ううん、それよりももっと大きく、恐ろしい牙を持っていた。
 それはぎらりと闇の中でも光って、確実にあたしを獲物として捕らえていた。
「これは夢喰の牙。悪夢を喰らうことのできる唯一の武器。夢喰の牙は、あなたの悪夢を残らず消し去る。けれども、それによってあなたは一生夢を見ることができなくなってしまう。楽しい夢も、悲しい夢も、なにもかも」
 あたしの悲鳴は、「ひっ」と呼吸いきのつまった音になって、喉から出ていかなかった。
「――ごめんなさい」
 低い声で、おねえさんが言った。
「わたし、手加減とか知らないから」
 一発目は右足だった。ぴかぴかの黒い靴が、倒れていた本棚を蹴飛ばした。それは、どう見ても非力なジョシコーセーなのに、まるでサッカーボールを蹴るように、簡単に吹っ飛ぶのだ。
 あたしはとっさに屈んだ。頭の上をすり抜け、本棚は壁にぶち当たって、豆腐みたいにくずれた。
 ばらばらと降りそそぐ木の破片から頭をかばいながら、あたしは必死に自分を落ち着かせる。
 なにこの怪力女――、こいつはあたしを殺そうとしてる? なんで。なんのために?
「ママ……、ママ! 助けてよママ!」
 あたしは声のかぎり叫んだ。あたしは子どもだ。大人に守られて育つ子どもだ。
「無駄」
 セーラー服のおねえさんは冷たく言い放った。
「あなたの母親だった存在は、もうこの世界にはいない。いえ……、そもそも初めから存在していなかった」
「な、なに? なに言ってんの。だ、だれか! 誰か助けてよ! めめちゃん! めめちゃーん」
「無駄」 
 またおねえさんが非情に言った。
「なんでよ!」
 くそ、なんでもかんでも否定してさ! まるで大人みたいじゃないか。
「ミハはばかだなぁ」
 からんとした声がした。
「あたちが伊知花主人を裏切れるわけないじゃないか」
 おねえさん――伊知花いちかの肩に、ちょこんとまとわりつくように、叫女バンシーのめめちゃんが浮かんでいた。
 その瞬間、あたしはすべてを悟った。
「くそー。おまえ、『夢喰』か? 『夢喰』なんだな!?」
「――やっと……、正体を現したわね」
 あたしの体はぶくぶくにふくれ上がり、顔も四肢も、胴体と見分けがつかないくらい、まん丸の醜悪な肉塊に変わっていく。
 せめて自分の姿を見ることができないことが、あたしにとって幸福だったのかもしれない。
 その醜さはたとえるモノを知らぬ。
 その不気味さは恐れぬ者を知らぬ。
 その発する声は、すでに生物にあらず。
 ……じゃあ、あたしはなんだというんだ。
「【悪夢】でしょう。未熟な【悪夢ナイト・メア】。自分のこともわからない?」
 『夢喰』が無表情のまま笑う。小さな赤い唇。
 なぜあたしが、『夢喰』の存在を知っているのか。あれは、誰が話してくれたんだっけ。
 なにも理解できない、思い出せないまま、あたしの体に喰らいつく牙!
 痛い。痛い!
 なんだこれ。なんだこれ?
 くそ、許さない。どいつもこいつも許さない。
 あたしはめめちゃんを見つける。
 どうして、莉里香おねえさんを呼んできてくれなかったんだ。そうすれば、もっと違う展開になっていたはずだ。まだこの夢は、こんなところで、こんな結末で終わったりはしなかった。
 あたしは裏切られた怒りと悲しみにまかせ、小さな体に襲いかかった。押し潰されてしまえばいい。そうしてその魂は、あたしの中でパパと一緒に生きればいいと思った。
「ミハはほんっとにばかだなぁ」
 くるん、と長衣トーガをひるがえす巻き毛の自称精霊は、こちらに向き直り、意味深に微笑んでみせた。
 そうしてやにわに、まるであごの関節が外れたように、がくんと口を開くと、はたして聞いたこともない声で、大きく泣きだしたのである。
 それを言葉で表す音はなく、泣き声とも叫び声とも獣の咆哮ほうこうともとれ、しかし空間を異常に震わせるきしみは、体の内側からねじれ上がってくる不快な痛みだった。まるで自分が雑巾にでもなってしまって、体を絞られているようである。
 堪らず吐き出す息も、押し潰された唸り声にしかならない。
 激しいめまいに悩まされ、身動きもできない。目の前、というかあたし自身がぐるぐるぐらぐら回っているようだった。
 憎しみを込めてにらみつけると、めめちゃんは素知らぬ顔で視線をそらした。
「……楽しかったよ、ミハ」
 でも、たしかにそう聞こえた。
 その途端、あたしはなんだかもうなにもかもどうでもいいような気になって、たぶんきっと笑ったんだと思う。
 それを見て、めめちゃんも笑ってくれたような気がした。
 それがあたしの見た、最後の光景だった。
 次の瞬間には、眉間に深々と牙が――あたしたちの存在を喰い荒らす忌々しき幻獣の牙が、めきめきと体内で根を伸ばすがごとく侵蝕してくるのを感じるとともに、あたしの意識もまたたくまに崩壊していった。

       *

「あたしね……片親だったの――」
 市橋美映子みえこは語り出した。
 病室のベッドの上。窓からは季節の風が、真っ白なカーテンを揺らしている。
「貧しい家でね。母親が一生懸命働いてた。でも学校で馬鹿にされるのがいやでね、パパはアメリカ行ってるだけなんだ、海外でお仕事してるんだって、そう言ってまわってたわ。……きっとみんな、本当のこと知ってたんでしょうね。ママはなにも言わなかったけど」
 彼女はそっと、疲れたように息をついた。まだ三十を少しすぎたほどの歳であったが、それまでの長い苦労が、彼女をもっとずっと老いて見せていた。
 病後の目覚めもあったが、目許の暗いくまは美映子の歩んできた人生の深さであるように思えた。
「――失踪、したんだって」
 自嘲気味に、彼女はそっと笑って見せた。
そとにママ以外のひとを作ってたってこと、きっとわかってたんだと思うの。でも、あたしは認めたくなかった。きっとママも……」
 はためいていたカーテンは、風がやむと病室におだやかさを返した。
 それまでカーテンの影に隠れて見えなかったが、部屋の隅に置かれた備え付けのイスには、セーラー服の少女が無表情に座っていた。
 彼女は美映子の言葉に、無言で耳をかたむけている。
「あたしは――なんにもわからない子どもだった。いえ、知っていたけど、知ろうとしなかった。もう何年も前に母は死に、あの家にはあたしひとりしかいなくなって、そうしてそれまでずっと、定期的に送られてきていた父からの手紙もなくなって、やっと……やっとあたしは認めることができた気がする。――なんでかしらね。もう母親の顔も、思い出せないの。憎んでたはずなのに、恐れていたはずなのに。でも、あたしを愛してくれていたんだって、本当は知っていたはずなのに」
 この街のみにて確認された新種の奇病、『眠りの森の美女症候群スリーピング・ビューティ・シンドローム』の患者であった彼女が、覚めない眠りに落ちたのは数ヵ月前である。医学的にも解明されていないその目覚めに関わったのが、この無表情なセーラー服の少女であることを知る者はいない。
 セーラー服の少女は、わずかに視線をあげた。
「……夢は記憶の再現。意識は忘れても、無意識は覚えている」
 美映子は少女と視線を交わすと、弱く息をつくように微笑んだ。
「でも、本当に変ね。長年一緒に生活してきた母のことも、それからの出来事も。さっきまでずっと憶えていたはずなのに。もうなにも思い出せないの。――なんだかまるで、夢から醒めたよう。あなたはたしか、西村さんのお葬式の時に……」
 それからなにかを急に思いついたように、少女の右肩のあたりを注視していたが、それでもそこに美映子の望んだなにかを見つけることはできなかったらしく、彼女はまた静かにまぶたを閉じた。
「たのしかったわ。……そう伝えてもらえる?」
 それを見届けると、少女は席を立った。
「たぶん、届いているはずよ。あれは、泣女バンシーだから」
 そう言い残し、セーラー服の少女は病室を後にした。
 美映子はその言葉をどう捉えたのかわからないが、どこか満足したような顔で少しだけ眠った。
 どうも長い間眠っていた気がするが、まだ体力は戻ってきていないようだ。
 夢ひとつ見ない眠りだった。けれども今度の目覚めは、あと数時間もすれば訪れるだろうことは彼女にはわかっていた。

       *

「……え」
 病室の外で、伊知花はひとりの女性看護士に見とがめられていた。
 なにしろ、現在いまこの街をひそかな混乱に陥れている、『眠りの森の美女症候群スリーピング・ビューティ・シンドローム』の患者が眠る病室だったからだ。
  市橋美映子には身寄りがない。訪ねてくる友人もずっとなかったはずだ。
 それに伊知花の姿では、友人とも親子とも違う。
「あなた……」
 看護士は驚いた顔で伊知花を見ていた。
  首から提げられた名札には、『斎藤莉里香』と書いてある。
  伊知花はそっと目線を横に向けた。
  看護士の驚愕の視線が自分ではなく、左肩の、普段は見えない存在を捉えていることに気がついたからである。
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