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第三章 伊藤早希
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あたしはブスだ。
だと思う、なんて生やさしいことは言わない。
世の中「美人」か「ブス」かの二択しかなかったとしたら、十人が十人こぞって「ブス」の札をあげるに違いない。もっとも札を挙げられたところで、どちら様かが引き取ってくれるわけでもない。
たいていの女の子は、多少不細工であっても、「こうやって見ると、あたしも案外かわいいじゃないねー」なんて鏡の中でひとりでこっそり悦に入ってみたり、「あの子のあんなところに比べれば、あたしのほうがずっとマシだわー」なんて見えない場所で優越にひたったりということも、わりと頻繁にあるらしい。
あたしは早々に、そんな見苦しいわずかばかりの及第点をさがして、せせこましく自尊心をはやしたてたりするよりも、いっそ自分は醜い者と決めてかかったほうが気が楽だということに気づいていたから、そんな女は生暖かく見守ってやろうと思う。
だってそのほうが、矮小にならずにすむ。
比較しなければ差はわからない。
人は人と比較して、自分の立ち位置を確認する。そうしないと不安なのだ。
でも比較してしまったらそれが、月とスッポンか、ドングリの背比べかを思い知るだけだ。まったく別の種族か、それとも自分とよく似たレベルの相手とでしか比べることができないというのも、ずいぶんと心狭い話ではないか。
だいいちスッポンというやつは、同種のミドリガメやゾウガメやギリシャリクガメなんかを、うらやましいと思うだろうか。
別に亀が醜いと言ってるわけじゃない。そうやって、亀という生物と月という天体、まったく異なる対象を比較して差異を求める、人間の狭さが嘆かわしい気持ちになる。
ウチにはゼニガメが五匹いる。
弟が飼っているのだ。高校二年生にもなってこの水棲爬虫類を愛でる神経には、いささか疑問を抱かずにはいられない。
なにせ弟はサッカー部なのだ。「爬虫類好きイコール暗いやつ」というのは、私の糾弾されても仕方のない先入観であるが、それを見事にくつがえした弟も亀も嫌いだ。
この弟はとにかく口と手クセが悪い。なまじ派手なスポーツなんてやってるから、毎日女の子にキャーキャー言われて調子に乗ってるところがある。
朝食の席であたしの顔を見るなり、「うげ」とか言うのだ。
「朝から気持ち悪いもん見せんなよな、ブス! 死ね!」
おまえの方が死ねと思う。
そういう時はだいたい母が、その調子に乗って前髪をしぼった雑巾みたいに垂らした頭をひっぱ叩いてたしなめるのだが、その母も父もこの弟も、とにかく十人並みのご面相である。
そう、我が家でなぜか、あたしだけ並以下(なにを基準に並とするかはわからないが)なのである。
それは例えるなら、
「カバとトドとロバを足して、コモドドラゴンで割った感じ」
というのが憎らしい弟の評だ。想像に苦しむが、とてもキメラである。
あたしが生まれる前の母に、一時の過ち……もとい不徳の致すところがあったのではないかとひそかに疑っているのだが、やはり家庭崩壊の危機だけは免れたいので、口が裂けても言わないように心掛けている。
ところで、あたしが少女マンガと宝塚が好きだと言うと、「ああ、やっぱりね」みたいな目をされることがある。それは、三度の食事よりも甘いスナック菓子と砂糖たっぷりのミルクティーが好きだと言ったら、きっと同じような表情をするんだろうなという感じの「やっぱりね」だった。
あたしの好きなマンガの中には、すんごい美少年もすんごい美少女もいっぱいいる。みんなきれいだ。だから幸せだ。
ところが、この現実ときたらどうだ。テレビに出てるアイドルだって、目を見張って、思わず言葉を失ってしまうくらいの美少年や美少女とか、そういうのはなかなか拝めない。
やはりそういった存在は、マンガや小説、ゲームやアニメとか、二次元世界だけの生き物なのだろう。
だから、ドラマや映画は見ない。マンガのなかのほうが、もっとずっと人物は美しいし、よほどドラマと呼ぶに足る。
あたしは少女マンガも好きだが、男女以外の恋愛物も好きだ。でもそれは、どちらかと言えば世間では日陰者扱いされているジャンルなので、他人に教えたことはない。
いわゆるBLである。男同士の恋愛物。その世界では、男がきれいだ。
現実的には美少女以上に美少年の方が、圧倒的に少ない世の中である。そういうジャンルもあるわけだから、需要がないわけではないのだろう。
ところが「美しさ」=「女性らしさ」的な考え方もあるので、逆に言えば男性側としてみればなかなかむずかしいのかもしれない。
このジャンルの市場は、女性がほぼ独占しているといっても過言ではない。男性同士の恋愛話(肉体関係含め)を、同性が見ても楽しいものではないのだろう。
もっともそれは、やっぱり二次元に限る。二次元は良い。身近なのに別世界だ。現実に――たとえば、ウチの上司(部長♂)と新入社員(熱血系♂)がそういう関係だった、なんて想像してみるのは、たまらなくうげーである。うげー。
ところがシチュエーション的に、そういうのは充分アリだ。いや、ありだろう。
反対に女同士の恋愛は、男にも女にも一定の需要があるようだ。それに比べたらまったく不遇である。
少なくとも家族には言えない。ちょっとエッチな展開がある少女マンガぐらいならはずかしくないのに、ちょっとエッチな展開のあるBLはもはや太刀打ちできない。押入れの奥のダンボールに、「季節もの」と書いて封印しなくてはならないのだ。
なにもあたしは、ホモが好きなわけではない。美しい男女の恋愛も好きだし、美しい男同士の恋愛も好きだ。
それはきっと、あたしにないものだからだろう。
腐女子力とはおもに、女の役割からの逃げである、と読んだことがある。
あたしは女を捨てている。
ぼさぼさの髪とすっぴんの肌。オシャレなんかとはほど遠い。ファッションなんて興味もないし、知識もない。なにが正しくておかしいのかもわからない。
学生は楽だ。制服はうまい具合に、女子を三割増しに見せてくれる。
たとえば、あの女子高生なんて、一見はぱっとしない感じだが、よく見ればなかなか美人だ。スカートもいじってない、ブラウスの標準通りで髪も染めていないのに、元がそこそこに可愛いから、制服補正で美人に見える。
ちなみにブスは、制服のおかげで普通には見えるだろう。あたしの場合は、それでも少しは見られる程度のブスになれるだろうか。
あたしは生物学的には女であろうが、周囲はそう思っていない。それこそ弟の飼ってる亀のこいつとこいつはメスなんだと教えられても、見分けのつかないあたしにはさっぱりである。それでも亀は、あたりまえのように亀として扱われているが、あたしの方は「カバとトドとロバを足して、コモドドラゴンで割った感じ」であるからして、悲しいかな人の域にさえ遠い。
いや、そもそも女とはなんだろう。男とはなんだろう。生物学的な分類以前に、なにが男女を分け隔てているのか。
生物は進化の過程で、雄雌ふたつの性別に分かれた。とめどなく細胞を分裂し続けたり、ひとりで二つの役割を担うより、そちらの方が都合良かったのだろう。
高校時代、保健体育で男女の記号を凸凹で表していたのを思い出す。二つ交わればきれいな四角になるそれは、まるで生物としての完成体であるかに思われた。
あたしは恋愛をしたことがない。誰かを好きになったこともないし、好きと言われたこともない。
世のなか不自由だ。あたしのような人間には、じつに生きにくい。
まったく、どこで踏み外してしまったんだろう。
何事もバランスだ。世の中バランスをうまくとってれば、それなりになんとかなるものだ。
たとえば欄干の上を落ちないように、両手を伸ばして歩く。片側は歩道で、反対はドブ川だ。
風かなんかが吹いて、ちょっとバランスをくずす。反射的に人の体は、無条件で安全な方に落ちようとする。すなわち歩道の方だ。
でもあたしは、ドブ川の方に落ちてしまった。落ちたところで、もともときれいではないあたしの体は、ちっとも見分けがつかないかもしれないけれど。
ちょっとだけ笑った。あたしが笑うと、がはがはと醜く下品だから、むやみやたらと笑うなと弟に言われたことがある。
空気のもれるむなしい音だけが、乾いた午前の駅に響いた。
あたしは今日、高校卒業から十年間勤めた会社を辞めてきた。
そうして二十八歳のあたし伊藤早希は、今日を最後に人間をやめるつもりだった。
*
いつの間にか眠っていたようだった。
電車の中はほどよく暖かく、あたしはぼんやりした頭で窓の外をながめた。せまいボックスシートも、大柄なあたしひとりが独占しても心が痛まないぐらい車内は空いていた。
電車の揺れが睡眠を誘発するのは、その揺れが母の胎内を思い出させるからだという話を聞いたことがある。それに、適度な車内温度も合わさって、この時期の陽気な天気との相乗効果で、どうにも落ち着いてしまう。
古いシートから臭う、年月の湿っぽさも衛生的とは言いがたいはずなのに、なぜか安心してしまうのだった。
いつもと違う電車に乗って、自分の知らない土地へ向かう。
あたしはこの無那市しか知らない。山と海に囲まれたこの地方都市は、市町村合併も助けて無駄に大きく、そこだけで生活がまかなえるようになっていた。
そういえば、学校の修学旅行でも他の場所に行ったことがない。「おまえなんか来んなよブスっ」と班分けのときに言われたので、当日になって急に熱が出たことになった。
だからこれは、あたしにとって初めて。最初で最後の遠出。
行くあても帰るあてもない。線路には果てがある。そこがあたしの終着だった。あたしは今日、死ぬつもりだったのだ。
どのへんまで来たんだろう。いつの間にか眠ってしまったようだった。そんなに寝た気はしないし、まださほど遠くまでは行っていないだろう。
窓の外に目をやると、途端にゴーっと暗くなり、トンネルに入ったことを知らせる。
なんだ、まだ無那市だったのか。あたしは軽い落胆を覚えながら息をついた。
でも、この山を抜ければ隣町だ。誰もあたしを知らない。あたしもなにも知らない土地。胸がはずんだ。
そうしてガラス窓に映るあたしの、救いようがないほど不細工な顔を見て、なんともやりきれない気持ちになった。
ぎょっとした。
窓に映る自分の顔。そこにもうひとり、人の顔が映っていたのである。
驚いてふり返ると、向かいのシートに少女がひとり腰を掛けていた。さっきまでは誰もいなかったのだ。
黒いジャケットにシルバーアクセサリー、黒と赤のボーダーのタイツといったゴスパン系の格好で、華奢な体にラバーソールが不釣り合いなくらい重く見えた。
少女はあたしの顔をじっと見て、くりくりっと目を動かしてから、鈴を鳴らすような可愛らしい声でこう言った。
「こんにちは!」
あたしはびっくりして、すぐに返事をすることができなかった。
「……こ、こんにちは」
あたしは自分の声が嫌いだ。さすがに容姿はあれでも、声ぐらいはハスキーでわりとセクシーだと思い込んでいた幻想を、中学時代に録音した声に、ことごとく打ちのめされた苦い思い出がある。それからは、極力他人と話すことを避けてきた。
いまでも会社で「おはようございます」と言っただけなのに、「ぐふぐふぐふぐふ」と陰で揶揄されるのだ。死ね。
だから、緊張してちょっと上ずってしまった声が、相手に変に聞こえたんじゃないかと少し不安だったのだ。
なにしろ、少女はずっと屈託のない顔で笑っている。笑われてるわけじゃないんだろうけど、どうしてもそう思えてくるあたりが、情けなくもあたしのみじめな性分だった。
「良いお天気ですねー。おひとりですか? 私もひとりなんですよー。ご一緒してもよろしいですか」
「え、え……あの――」
トンネルの中で天気の話題をするのも、おかしな話だが、あたしもテンパってるので、返事をするのに必死だった。
「そそそ、そうですね。おひとりですね。良い天気ですね。ごいっしょ、ごいっしょ……ひぃ!」
ひぃ、というのは悲鳴ではなく、急激に息を吸い込んだゆえの呼吸音なのであるが、はたから見れば完全に不審者である。
だが、弁明させてほしい。
二十八年間生きてきた。コンプレックスしかなかった。いつまでも他人の目を見てしゃべれない女だ。あたしに話しかけることを、罰ゲームの一環だとしか思われてなかったことさえあった。
そんなあたしに、よりによって若くて可愛い女の子(そう、少女は驚くほどに可愛かったのである!)が話しかけてきたのだ。
こちらに向かって話しかけているというだけで、必ずしも自分ではない、じつはあたしの後ろの誰かに声をかけているだけという可能性があることも、学生時代に学習した。
そのせいでとても慎重になっていたのだが、だいたいこの状態であたしの後ろに誰かいるとしたら、まあそれは幽霊かなにか、あるいは彼女にしか見えないような、おそらく妖精さんの類であろう。
だからこの場合、あたしに向けられたものだと考えた方がごくごく自然に思われた。
あたしはうつむいたまま、ちょっとだけ目を上げた。ああ、これではさぞかし卑屈に見えるんじゃないかと、すぐに猛省するのだったが。
年の頃は高校生ぐらいであろうか。最近の子はませてるから、中学生でも充分考えられる。
髪は肩よりも少し長いくらい。きれいに明るい色に染めていて、黒いリボンで横にまとめている。その色合いは、肌の白さによく映えた。肌は車内の弱い光の中でさえも、まっさらで細やかで、そうしてはかなげであった。また、その白さは驚くほど純度の高い絹のようで、皮膚の裏側を駆け抜けている血流の鮮やかさまで見てとれるようだった。血流はたしかに少女の頬を桜色に染めていたし、バラ色のぷっくりとしたくちびるはつぼみのような可憐さがあった。そうしてその瞳――そり返った長いまつげに隠されたそれは、なんときらびやかな鉱石であろうか!
あたしは言葉を失い、ただ唖然となって少女の美しさに見惚れた。その時間は長いようでいて、じつはとても短かったのかもしれない。けれどもそれは、生涯においてここまで他人の顔を見つめたことはないほど、あまりにも衝撃的で鮮烈であった。
「……?」
彼女は不思議そうに、でも笑顔はくずさないで、わずかに首をかしげてみせた。あたしはとっさに目をそらし、自分がいかに失礼だったのかを反省して悔いた。
「どちらまで行かれるんです?」
びっくりするくらいにきれいな声だった。鈴を鳴らすようなというけれど、可憐で澄んでいて、うらやましかった。
「あ、えっと……終点まで」
あたしは下を向いた。少女の履いたラバーソール、互い違いの編み目が可愛いと思った。すると途端に、自分の千円ワゴンで買ったスニーカーが、もう何年も履いてたから汚くて、顔が熱くなった。
「へェ、そうなんですか! じゃあ私と一緒ですね」
うれしそうに両手を合わせてよろこんだ。細い指には、無骨な髑髏のリングが光っていて、それだけはどうも好きになれなかった。
とっさに終点と答えてしまったが、あたしはそもそも終着駅の名前を知らない。迂闊なことは言えない。
「あ。私、ソーミっていいます。よろしくー。日本全国ひとり旅して回ってる、旅ガールですー」
通路にはアーガイル柄の大きなスーツケースが置いてあって、少女は笑いながら手許に引き寄せた。
あたしの荷物はハンドバッグひとつだ。変に思われたりはしないだろうか。
……ところで、旅ガールってなんだ?
「あ、はい。えっと、あたしの名前は、伊藤早希……です」
ぎこちなく返す。自己紹介は苦手だ。紹介できるものがない。年下にだってつい敬語になってしまう。別にフルネームじゃなくてもいいのに。
「早希さんね。おっけー、おっけー。あはは、なんだかおねえさんって感じだね、兄弟いるの? あ、私結構くだけた性格だから、失礼があったらごめんなさい」
「気にしない、よ? はい、歳の離れた弟がひとり……います。たぶんソーミさんと同じぐらいの。ええっと、ソーミさんは学生さん、ですよね?」
「いーえ、ガッコは行ってません。行ってたらたぶん高一かな。ワケありな感じに聞こえるかもしれないけど、まあ触れない方向でお願いしますー」
あっはっはーと、あっけらかんに彼女は笑った。
さすがにぎょっとしてしまったが、世の中には様々な事情をもった人がいるのだから、とやかく言うこともない。というか、あたしなんかが言えたことでもないのだ。
「私もお姉ちゃんいるんですよ。もう何年も会ってないけど。早希さんのこと、おねえちゃんって呼んでもいいですか?」
「――え?」
「じょうだんですー」
あたしは少しあきれていた。無邪気で屈託なくて、物怖じしない。初対面の相手に対してなのに、まったく堂々としたものだ。
あきれながらも、彼女と自分の違いを考える。若さと可愛らしさは武器だ。それは自信につながる。彼女がうらやましかった。
「え、えっと――旅行、よくされるんですか?」
「旅行っていうか、旅。ホント、ぶらり旅って感じの」
いわゆる思春期に見られる、自分探しとかそういう類で、これはもう一種のどうしようもないはずかしい病気のようなものだと、あたしは勝手に解釈した。
「ソーミさんは、どのへん行ったの? あたし、この街から出たことがなくて……」
「そうなんですか? えー、もったいない。あ、でも私べつにほら、有名観光地とかそういうとこ行かないんですよ。どっちかって言うと、あんまり人のいない方が好きなんです。だからガイドマップとか持ってないし、どのへんって言われても……あ、でももう七県ぐらいはまわりましたねー」
旅行を旅と呼んで、それをしてる自分カッコイイみたいなにおいがぷんぷんして、なるほどたしかにそういうのが「旅ガール」なんだろうと思った。
「あ。抜けますよ」
言い終わるや否や、電車はトンネルを出た。
ようやく街の外に出られたのだ、という思いの前に、途端にまぶしい陽射しが差し込んで、あたしは思わずまぶたを閉じた。
そして目を開けると、……またトンネルの中だった。
「……あれ?」
「どうしました?」
きょとんとしているソーミちゃん。
「ああ、いえ。……ひょっとして、またトンネル入りました?」
「入りましたよ。山ですからねー。トンネル多いんでしょ」
外の景色が見たいと思っていたあたしは、ちょっとがっかりした。
それでももう、無那市は抜けれただろうか。生まれ育った街に思い出はあっても、未練を残してはならない。
あたしはちらりと向かいの少女を盗み見る。この子はどこから乗ってきたんだろう。無那市のどのへんにいたんだろうか。
こんなシチュエーションでもなければ話すこともなかっただろうと、あたしはひそかにこの出会いに感謝した。
本当にきれいな顔だ。あばたのあたしにはうらやましくて、逆に神聖さすらおぼえる。
白目だって豆腐のように真っ白だ。あたしのように醜く血走っていない。
十六歳らしいこの子も、あともう何年もすれば、立派な大人の女性になるだろう。子どものような清らかな幼さと、無邪気な愛らしさもその時には、すっかり薄れてしまうだろう。
もったいないなぁ、とあたしは思う。
こんなきれいな子、あたしは知らない。美少女なんて、マンガだけの存在だと思っていた。それがいつか年月によって失われてしまうだろうことが、なんだかさみしかった。
そういえばいま、無那市では奇妙な現象が発生しているらしい。眠ったまま起きない『眠りの森の美女症候群』という奇病だ。
突発性睡眠障害も近頃では、よく耳にする病名だ。しかし、『眠りの森の美女症候群』はそれに近いが、どうもそうではないというのが、研究者の発表であった。
また、『クライン・レヴィン症候群』と呼ばれる、同種の奇病もすでにあったが、ただ眠り続けるそれとは違い、この無那市で確認された睡眠病は――どうも夢を見るらしい。
もちろん、患者が夢を見ているのかどうか確認することはできないので、これはあくまで推測であるのだが。ただ、レム睡眠の状態にあるのは間違いないらしい。ならば、夢を見ていてもおかしくない、という理屈だ。
眠りの森の美女は眠っている間、歳はとらなかった。眠ると新陳代謝が低下するからだろう。
もしこの子が『眠りの森の美女症候群』になったら、この可憐な美しさのまま、時を止めて生きていくことができるだろう。
うらやましかった。それはまさに芸術のようだった。
あたしには得ることのできない幸せな夢だった。伊藤早希はお姫様にはなれない。王子様のキスをもらうこともない。
だからもし、そしたらあたしはこの可憐なお姫様を守る、醜い小人の役を買ってでようと思った。
日長毎日ずっと、美しい姫の寝顔を独占していられることがどんなに幸福か。ただ眺めているだけで良いのだ。それだけが己に許された特権だとわきまえているのだ。だとしたら小人たちは本当は、王子の登場を憎んでいたのではあるまいか。
ゴー、とトンネルの中の音と震動が伝わってくる。
「でも私、トンネル好きよ」
ソーミちゃんはうっとりと目を細めた。そうして謳うように語りだす。
「どこに行き着くのかわからない、暗い暗い穴の中を進んでく心細さが好き。いえ、じつは出口なんてなくて、でも行き止まりもなくて、どこまでもどこまでも進んで行くんだけど、本当は闇の中に閉じ込められてしまったんじゃないかって、そんな不安もじつはずっとあるの。けれどもそれを言葉にできなくて……もしそうしたら、認めてしまうことになるから、自分の孤独と恐怖を認めなくちゃいけなくなるから、ただじっと震えを堪えて歩き続けるの」
「なんだか、……人生みたいだね」
あたしはぽつりとつぶやく。それがあたしの生きてきた道のようだった。光も差さず、けれどもそれが当たり前だと思い込んで。
「冗談じゃない」
ソーミちゃんは憤慨したように、足を投げ出した。
「敷かれてるレールの上を歩くのが? ずいぶん楽な一生だね。それが人生なら、トンネルに入った時点で負けだよ。私はそんな穴倉の人生なんて、まっぴらごめんだね」
きっと気に障ったことを言ってしまったんだろう。あたしは目を白黒させながら謝った。本当にダメな女だ。もっと相手の気持ちを考えてしゃべらないと。
「あ。別に早希さんが謝ることないよー。私もなんか誤解あったみたいだし。ごめんなさい」
ぺこんと頭を下げる。結んだ髪がちょこんと跳ねた。
素直に謝られると、戸惑ってしまう。こっちの悪さが際立つような気さえした。
あたしはあわてて手を振って、なにかを必死に弁解しようとしたけれど、もごもごと声は言葉にならなかった。
そんなあたしを見て、ソーミちゃんはにこにこ笑っていた。
「ねえ、早希さん?」
子どものような顔で、子どものような声。そして子どものように純粋な言葉――
「どうして死ぬの?」
あたしはぎょっとしてしまい、まじまじと少女を見つめ返した。
セリフとは裏腹の屈託のない顔で、少女は無邪気に微笑んでいた。
「どうして?」
「え……」
「どうして死にたいの?」
「あ、あなた一体――」
恐る恐るたずねるあたしに、少女はくすくすと笑うのである。笑って答えないつもりらしい。
あたしは亀みたいに首をすくめて、周囲を確認する。
誰かに聞かれてなかったかとひやひやした。
ところがこの車両には、いつの間にかあたしと彼女以外の乗客の姿はなくて、なんだかおかしな雰囲気だった。
「当ててあげようか?」
少女は楽しそうに笑った。
「失恋でしょう」
息が止まりそうだった。
「な、なんで――」
知ってるのよ、と言いかけて言葉を飲み込む。
してやったりといったふうに、少女がうれしそうに手を叩いたからだ。
「あれ。もしかして当たっちゃった? 適当に言ってみただけなのに。しかも無難な。くだらない」
「あ、あなたには関係ないでしょう」
あたしはたぶん真っ赤な顔で、不機嫌全開に窓の外を見た。なんだか急にこの子が嫌いになった。
長いトンネルは、いつまでたっても抜ける気配がない。
あたしは恋なんてしたことがない。
他人を好きになったことなんてないし、他人から好かれたこともない。なにしろあたしは人間扱いされていない。
それでも世の中には奇特な人がいて、絶対的希少数ではあるが、こんなあたしでも好きになってくれる人だっているかもしれない。それがきれいな男の子だったりしたら、もう文句ない。
世界に誇る国民的アニメ監督だって、そのヒロインは可愛いのに蟲が好きという奇妙な性癖をもっている。
あたしは蟲よりマシだと思う。だから、もうちょっとハードルは低いはずだ。
今日辞めてきた会社には、もう十年勤めていて、その間にも先輩や同期の子、後輩の女の子たちがどんどん寿退社していくのを見送った。
女は三十までがひとつのピーク、というのがいまだウチの会社で、営業の最前線で活躍している四十六歳のベテラン、お局先輩の言葉だった。
彼女は笑って言ってたけど、たぶん心はずっと痛かったんだと思う。
あたしが入社した年に、彼女は結婚した。いまでこそ「授かり婚」だなんて取り繕ったような名前で呼ばれているが、それは「出来ちゃった婚」であって、その「出来ちゃった」感じが「あちゃー、やっちゃった。テヘ」みたいなところがあって、結構にくめない。三十六歳の彼女の初婚にして初産であったが、同時に初めての流産と離婚も経験した。
「伊藤ちゃん、早くイイ人見つけなよー」
よくそうからかわれた。あたしはお局先輩が大好きだ。大好きだけど、ああはなりたくないと思った。
だから自分が二十八にもなって、まだ誰とも付き合ったことがなくて、誰も異性を好きになったことさえなくて、はたして自分は本当に女なのか、それともやっぱり人間とは違う生物なのかと苦悩するようになったのだ。
それで、やっぱり早く結婚して子どもがほしいとか、なにかにまくしたてられるように焦っていた。相手もいないのに。あたしには友だちもいなかったから、誰かを介して他人と知り合う機会もなかった。
同じ事務の新卒の女の子は、若くて可愛くてはきはきしてるから、みんなに必要以上にかわいがられている。しかも彼氏がいるのにだ。可愛ければ、彼氏の有無は関係ないのだろうか。
それが面白くなかった。あたしだって女なのに――たしかにそろそろ若くなくなってきて、見た目だって醜かったが――そうやって隣の机にいるだけで、余計に月とスッポンというか、引き立て役をやっているようなみじめな気になるのだった。
入社三年目の藤田くんも、よく仕事の合間に彼女を盗み見ていることを、あたしは知っていた。
藤田くんはいつもオシャレな眼鏡をしていて、結構ツボだった。『愛してよ! ハニー・スペシャル』の主人公が掛けているメガネに似ていて、どこで買ったのか聞いてみたかった。
そうやって見ると、なんだか普段はあまり冴えない藤田くんが、東暁寺有久のように見えてくるから不思議なものだ。東暁寺が三次元になって、現実補正も入れて三つぐらいバージョンを落としたら藤田くんみたいになるんだろうか、とか考えてすごすのは楽しかった。
だからあたしは、藤田くんに恋したわけじゃない。藤田くんは、あたしの隣のぶりっ子事務ばかり見ていたけど、あたしの中の三次元東暁寺はあたしだけを見ていた。
来月には二十九歳になってしまうあたしにはもう後がなく、『愛してよ! ハニー・スペシャル』みたいな恋愛ができるんじゃないかって、そんなひそかなあこがれを抱いて、無駄にテンション上げまくって、一世一代の大決心、ノミの心臓生涯最大の勇気でもって――告白してしまったのだ。
思い返すだけでも顔から火が出る。はずかしくてはずかしくてはずかしくて、死んでしまいたかった。
「だから死ぬの?」
向かいの座席で、ゴスパンの少女がなんとも言えないような、憂鬱な顔をしていた。
「誰も知らないところへ行って、誰にも知られないように?」
鼻で少女は笑う。安い命ね、と。
そうだ、安いのだ。あたしの命に価値なんかない。
「だからねえ、ソーミちゃん。あなた――」
あたしは言う。この「あたし」という人称だって、ただ若ぶりたいだけで、本当は無理して使っているんだ。
「本当は死神なんじゃない?」
それを聞いて、少女は肩をすくめる。
「ただの旅行者だよ」
だっておかしいだろう。死ぬことを考えているあたしの前に現れ、その自殺願望を当てた素性不明の少女。そうしてこの、いつまでも抜けないトンネル――
いや、そうじゃない。いつまでも抜けないトンネルなどあるはずがない。そこで出会った少女の、平然とした様子にあたしは違和感があるのだ。
「――でもね」
ソーミちゃんがちょっとだけ、冷たい笑いをうかべる。
「そうなる可能性もあるかもよ? 私なら誰にも知られず早希さんを、この世から消し去ることができる。とっても簡単なことだよ。ふふふ……」
それだけ言ってしまうと、彼女はなにか満足したように目を閉じた。それから可愛らしいあくびをひとつすると、あっという間に寝息をたてはじめた。
なんだかあたしは拍子抜けしてしまって、自分のひどく子供じみた余興が、思いのほか少女を刺激してしまったらしいことに気づいた。
(……冗談なのに)
寝顔もまたうっとりするほど可愛くて、無防備で無邪気なそれは、ついつい写真でも撮っておきたい気持ちになる。
あたしはもう一度体を起こして、車内を見まわした。
やっぱりこの車両には、あたしたちの他、誰もいないようである。とはいえ、さすがに誰も乗っていないなんてことはないだろう。
それにしても、こんな長いトンネルはやっぱりおかしい。もう二、三駅は軽く通りすぎてないとおかしいくらい走っている。
ひょっとして走っていると思うのはあたしの錯覚で、じつはなにかの原因で停まっているんじゃないかとも考えたが、足裏から伝わる線路の震動も、窓を流れる壁の動きも、たしかに確認できた。
ガラスにはあたしの不細工な顔と、眠るソーミちゃんの可愛い寝顔が映っていた。保護欲に駆られて、自分の毛玉だらけのストールを掛けてやりたい気持ちになる。
照れくささとみじめさに苦笑した。
――と。
顔が凍りつく。どきッ、と心臓が一瞬止まった気がした。
驚いてふり返る。
飛びついて通路をのぞく。
……いない。
立ち上がって、先の方まで身を伸ばす。
やっぱりいない。
なんだろう。けれども、おかしなことだ。
「……んー。どうしたの?」
しかも、ソーミちゃんを起こしてしまった。
「あ、ごめん。なんでもない。ちょっとおトイレ行ってくる」
断って席を離れる。
「ん。ちょっと待って」
ソーミちゃんが立ち上がり、「えい」と天井の中吊りポスターを無断で引き抜いた。
「帰り迷うと悪いから目印」
にこっと彼女が笑った。なるほど、片方のポスターがない席に戻ってくればいいのか。わざわざそんなことしなくても、ソーミちゃんめがけて帰ってくればいいわけだが。
いてらしゃーい、とまだ眠そうな声に押されながら、あたしは歩きだす。
あたしが見たもの――
信じられなかった。だからこそ確認したかった。
窓ガラスに映ったあたしとソーミちゃんの奥――この通路を横切った人影があった。やっぱり他にも誰か乗ってたんだ、という安心感は、その姿を認めた途端に戦慄に変わる。
あれは……
あの人影は――、たしかにあたしだった。あの横顔、やぼったい髪型、服装から猫背気味のせせこましい歩き方まで。
でも、あたしはここにいる。だからあれは見間違いだ。
なのに納得できなくて、あたしはそれをたしかめようとしている。
あれはあたしの――ドッペルゲンガーなんじゃないだろうか。
自分とまったく同じ姿をした、もうひとりのあたし。それに出会うと、その人は近いうちに死んでしまうという。
それでも、たしかめたかった。
実際この目で見て、どうしようという考えもわかない。普段見ている鏡に映る自分ではなく、そこに存在して動いているのだ。触れることだってできるだろう。話だってできるはずだ。
そしたら聞いてみたい。
――貴女はしあわせですか。
隣の車両も人影がない。
運動不足の脂肪の塊だから、ちょっと走っただけでもじっとり汗がにじんでいる。熱い息がもれて、ほっぺが湿った。
手前の座席に人影が見えた。
でもそれは、あたしの捜しているものではなくて、普通の――セーラー服の女の子だった。
どこかで見たような気がして思い出してみると、そういえば電車に乗る際、ホームで並んでいた制服補正の美少女だった。
(いまこの前を、あたしが通りませんでした?)
なんてたずねるのは、頭がおかしいと思われるだろうか。
(ああ、それならあそこに――)
そう言って少女が指す先には、まぎれもなくあたし自身の姿が……、などというのはただの妄想だが。
あたしの存在など興味もなさげな少女の前を通り抜け、ひとつひとつボックスシートをのぞき込む。
本当はそんなことしなくても、あたしの身長では席から頭が出るので、すぐにわかるのだが。
そうしてやっぱりこの車両にも、他の人影を見つけることもできず、あたしは次の車両に続くドアに手を掛けた。
「ね、見た見たイチカ。なんかあのひと、カバとトドとロバを足して、コモドドラゴンで割った感じぢゃない?」
突然背中に向かって、無遠慮な子どもの声がぶつかってきた。
あたしはこっそりふり返る。この車両に、そんな幼児いただろうか。
「やめなさい、めめ。カバとトドとロバと、コモドドラゴンとあのひとに失礼だわ」
小声だったが、あのセーラー服の高校生の方から聞こえた。しかし、彼女はひとりだったはずだが。
「わふ! ねえ、にらまれてるよイチカ。超こわいよ。まるで、ヘビににらまれたギリシャリクガメのようだ」
「やめなさいって。ヘビとギリシャリクガメとあのひとに失礼よ」
「なんでなんで? お世辞も言えるめめちゃんすごくない? ――わ、こっち来た!」
戻って見ると、そこには少女ひとりの姿しかない。腹話術?
しかも少女は、あらぬ方を向いている。
「なにか、言いました?」
あたしはできるだけ丁重に、穏便にたずねた。それでも声はドスがきいて太くて低いし、顔だってアレだから、そうとうの威圧感をあたえるだろうことは想像にやさしかった。
「…………」
高校生は聞こえないふりをしているようだった。
まったく最近の子は――、などと言うと、いかにも自分が年寄りになったと認めることになるのだが、見ず知らずの他人に悪口を言われてだまっていられるほど、あたしは人間ができてるわけじゃない。
まあこれで相手が強面の男の人だったり、複数人の集団(男女問わず)だったら、もうすでにその時点で泣き寝入りは確定していたのであるが。
「…………」
恐れをなしたか、高校生は目を合わさなかった。聞こえないふりを徹底するつもりらしい。
あたしも別に、いまさらどうする気もなかったので、あきらめて次の車両に向かった。
「――あ~ぁ、行かないほうがいいのにね」
と、幼児のつぶやきを聞いた気がしたが、その時にはすでにあたしの背中でドアが閉まっていた。
(……あれ?)
新しい車両に入ったところで、あたしは足を止める。
不意になんだかおかしな、既視感めいたものにとらわれた。
真っ直ぐに伸びた通路。天井には、旅行会社や週刊誌の中吊りのポスター。途中、その一枚だけついていない。
「えー、そうなんですかぁ」
驚いたようなソーミちゃんの声が聞こえる。
きれいな声だ。本当に。あたしとは全然違う。おんなじ女の子なのに。うらやましい。
「ははぁ、それすごくないですか?」
おかしい。
あたしは列車の進行方向に向かって歩いていた。ソーミちゃんのいた車両の、二両前にいるはずなのだ。
なのに、最初の車両の後ろのドアから出てきた?
……おかしくないか?
それよりも――
ソーミちゃんは、一体誰としゃべっているんだろう。
いや。それは本物のソーミちゃんなんだろうか。
あたしは知らずに、足音を忍ばせていた。なぜだろう。見つからないようにだ。気づかれないようにだ。
「あははは、本当におもしろいですねー。こんなこと言うひとでしたっけ、――早希さん」
奇妙な寒気にとり憑かれた。それは、恐怖という名の悪寒だった。
「ソーミちゃん……?」
そうして飛び込んで見たものは、世にも恐ろしい光景――、あたしとまったく同じ姿をした女が、楽しげにソーミちゃんと会話している様子であった。
それはどこからどう見てもあたし――伊藤早希である。気持ち悪い女が気持ち悪いほど瓜二つ、ここにいる。
「ど、どういうこと……?」
自分の体が震えていた。
「そ、ソーミちゃん……?」
「へえ、ホントにー? でもそしたらおかしくないですか? ……ああ、そっか。ふーん。でも早希さん、そしたらもっと、あ、そうですそうです! あははは」
「ソーミちゃん!」
声をあげる。恐ろしい。恐ろしい。
手を振り回したり、大声を出してみたり、なのに彼女は気づかない。まるで見えないかのよう。そこにあたしがいないかのよう。
彼女の向かいで、あたしの姿をしたあたしの偽者は、にこにこと不気味な笑顔でなにかをしゃべっている。でもその声はあたしには聞こえない。ソーミちゃんの反応を見ていると、聞こえないのはあたしだけのようだった。
「どうして――!?」
ここにいるのに、見えないあたし。
そこにいるのに、ここにもいるあたし。
――ドッペルゲンガーというやつは、本体とすり替わるんだろうか。そんな恐ろしい考えさえわく。
そうしてまるであたしの不安を嘲笑うかのように、あたしの顔をしたあたしでないモノは、こちらを見て、たしかに見て、――わらった。
とてもいやらしそうに、とても憎らしそうに。そしてなにより、悦しそうに。
あたしは悲鳴をあげて、そいつに飛びかかっていった。
そこはあたしの場所だった。
旅ガールのソーミちゃんと、ひと時の親交を許された狭い聖域だった。
この列車が終点に着いても、きっとあたしは死なないだろう。ただその場かぎりで逃げたかっただけなのだ。だからあたしは、できることならそのままソーミちゃんと、どこか知らないところに行きたいと思うだろう。思い出せば思い返すほどに、東暁寺には似ても似つかない会社の後輩に告白してしまったのなんて、そんなのは本当は全然たいしたことじゃないんだ。
傷つけられることには慣れていた。でも、自分から傷つくのが怖かった。ただ自分が可愛いだけなんじゃないか。
あたしの体は、ドッペルゲンガーの体をすり抜けて、座席の上に倒れ込んでしまった。
なんだ、やっぱりドッペルゲンガーというやつは触れられないのか。
驚きより、怒りの方が大きかった。
本物のあたしが偽者をどうにかできないなんて、どうかしてる。本物がいるから偽者がいられるんだってこと勘違いするな。おまえなんてあたしじゃないくせに!
そんなことをわめきながら、あたしはもう一度そいつにつかみかかっていった。
でも、だめなのだ。
あたしの体はそいつをすり抜けて、そのまま手すりにあごをぶつけてしまった。痛かった。痛かったんだ。あたしはぼろぼろ涙が出るままに、その場にうずくまった。
絶望だった。
このままあたしという存在は、わけもわからないドッペル野郎に取って代わられて、そうしてどうすることもできないまま、それこそ生きているのか死んでいるのかわからない、漠然とした未来が待っているのだという恐怖――
そいつはたしかにあたしを見て、またしっかりと笑ったのだ。
くやしかった。どうすることもできない自分が呪わしかった。かなしかった。
「ダメじゃない、早希さん。――未練なんて残したら。タチの悪い霊になっちゃうよ?」
無邪気な声が頭上でした。
「こっちの早希さんはおもしろいわよー。ユーモアあるし、本人みたいに露骨に自意識過剰じゃないし」
「ソーミちゃん……?」
あたしは顔をあげる。涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。
目は細く湾曲して、口は薄く大きく開いた――残忍な表情をした、小さな悪魔がそこにいた。
手には小振りな……鶴嘴の形状をした凶器を持っていて、それが見様によっては鎌(大きさとしては手鎌であったが)のように見えてくるのだから、やはり彼女は死神ではないのかと疑うのであった。
「じゃ、そういうわけだから」
天真爛漫の笑顔で、ソーミちゃんが凶器を振り上げる。鋭くとがった先端が、なんだか獣の牙のように見えた。
あたしは喰われるのだな、と思った。目を閉じた。ドッペル野郎の笑顔が気持ち悪くて吐きそうだった。
ガシ、という金属音とも違う愚鈍な衝撃音が鳴り響いた。
恐る恐るまぶたを開けると、あたしの目の前すれすれのところで、二本の牙が拮抗していた。
「ひぃ!」
情けない悲鳴をあげて、あたふたと逃げだす。
安全圏でそろそろと状況を窺うと、ソーミちゃんとセーラー服の女の子がその場で対峙していた。
「――ふぅん……」
ソーミちゃんが一瞬、驚いたように眉をひそめた。
「なんだ……ひさしぶりね」
「こんなところでなにをしている、……蒼海」
「それはこっちのセリフ。伊知花姉さんこそなにしてるの。――ここは、私の夢のはず」
姉さん、と言ったのだろうか。たしかソーミちゃんは姉がいると言っていたが。しかしそのセーラー服の少女は、隣の車両であたしの悪口を言った高校生なのである。革の黒手袋をつけていて、なんだかヨーヨーでも出しそうな雰囲気である。
たしかに二人並んで見ていると、顔の造作などがどこか似ているようだと気づく。背格好も年頃も近い。
そしてなにより、お互いが手にしたその凶器――鶴嘴を押さえ込んでいるのは、装飾の美しい短剣である。しかしその刃の材質は、同じ物のように見えた。
「…………」
セーラー服の少女――伊知花は険しく蒼海ちゃんをにらんでいる。その瞳は、金色の光を帯びていた。
「……答えないのね。まあ、いいわ。どうせいっつも伊知花姉さんはだんまりだものね」
そう言ってにらみ返す蒼海ちゃんの双眸は、銀色に輝いていたのである。
それは獣の眼だった。
「――この街で夢を狩っているのは、あなたの仕業……?」
お互い力勝負は一歩も引かない。
「なんの話? 『夢喰』は姉さんの方でしょう。正義の味方気取ってんの? 反吐が出るわ」
蒼海ちゃんが鼻で笑い飛ばす。
「こうやって罪のない人を夢の中に閉じ込めて、……あなたは一体なにを考えているの」
「そんなの姉さんに言う必要ない。ここは私の狩場。『夢狩』の世界を侵すっていうなら、ただじゃおかないわよ!」
蒼海ちゃんの重そうな厚靴が、伊知花の腹部を蹴り飛ばした。だが少女は後方に飛び退いて、その一撃を避けた。
「やるじゃない。――ちょっと標的変更ね。邪魔するってんなら遊んであげるわよ、伊知花姉さん」
蒼海ちゃんは飛び上がり、落下の勢いに合わせて鶴嘴を振り下ろした。
直撃の瞬間、激しい衝撃が巻き起こり、座席がいとも簡単に吹っ飛ぶ。
すでにその場を離脱していた伊知花は、牙を振るい、真空の刃を放つ。ふり返った蒼海ちゃんが、鶴嘴でそれを叩き落した。
「たいしたことないわねえ」
蒼海ちゃんはニヤリと笑った。
「もっと私を悦楽しませてよ。ひさしぶりの遊戯じゃない。……あの時の傷は、もうとっくに治ったんでしょう?」
「手加減してやってるんだ。そんなこともわからないのか。……おまえが弱すぎるから」
伊知花は制服についた埃を払いながら、すずしい顔で答えた。
「言うじゃないか。――後悔させてあげるよ!」
蒼海ちゃんが凶器を振りまわして飛びかっていく。それを寸前で受け流した伊知花は、その背中に向けて短剣を振り下ろす。
腕を後ろにまわした蒼海ちゃんは、鶴嘴でそれを防ぐと、横薙ぎに刃を払った。
ど、と強い風が巻き起こり、伊知花の身を襲う。だん、と赤い旋風が舞った。
「切り裂け!」
笑いながら蒼海ちゃんが、目にも止まらぬ速さで刃を振る。それは鋭い風になって、次々と伊知花の体に喰らいつき、激しい埃が立ちのぼった。
「ど、どうなってるの……」
あたしはもう完全に傍観者だった。
どちらを応援する立場でもなく、目の前でくり広げられる非現実の異能バトルに、すっかり腰が抜けてしまった。だってこんな異常な力、普通の人間じゃない。それこそアニメみたいだ。
「だってこれは、アンタの夢だもん」
どこかで幼い声がした。あわてて周囲を見まわすが、声の主は見あたらない。
「ふたりはアンタの夢を形にして、力にしてるのよ。――ま、それでも基本は本人たちの力なんだけどね」
姿は見えないが、この声には聞きおぼえがあった。セーラー服少女伊知花の腹話術だ。しかし彼女の姿は、ずっと先にあるし、それにこの状況で腹話術なんてやってられるんだろうか。
「なんだ、うるさい叫女。姿を見せないと思ったら、そんなとこにいたか。やはり媒体が見えないと、私にも見えないのか」
蒼海ちゃんはにやりと残酷に笑った。
「そこを動くな。姉さんのあとで、おまえも泣かせてやるよ」
「あはは。ばっかだなー、ソウミ。イチカがあんなのでやられるわけないじゃん」
埃の中から、さっと一陣の金色の光が飛び出してきて、蒼海ちゃんに迫った。
「……知ってるよ」
うれしそうに蒼海ちゃんがそれを迎え撃つ。
「そんな簡単にやられるようじゃ、世話がない。それに、私の生きる意味がなくなる」
それでも最初の一撃は、確実に伊知花にダメージをあたえていたと見えて、左腕が赤くにじんでいた。
一打、二打、三打と振り下ろされる短剣の攻撃を、蒼海ちゃんは軽々と受け流していく。
「たいしたことないじゃない、姉さん!」
笑いだす蒼海ちゃんの顔面に、不意に伊知花の靴底がぶち込まれた。
蒼海ちゃんは派手に転がって、あわてて飛び起きた。
「……くっそ!」
そんな彼女を見て、伊知花は無言で、ポケットから取り出したティッシュを投げた。蒼海ちゃんの小さな鼻から、一筋の真っ赤な血がたれていた。
「い、伊知花あぁぁぁ……ッ!」
顔を真っ赤にして蒼海ちゃんは、鶴嘴を振るった。
「この勝負、イチカの勝ちだなァ」
姿の見えない幼女の声がそう言った。
それは、いまだ状況の飲み込めないでいる、あたしの目にも明らかだった。
そんなあたしの目の前に、突然にゅっと何者かの手が伸びてきた。
あっ、と声をあげる間もなくそいつは、あたしの首に強い力をかけてきたのである。それは他ならぬ、あたし自身だったのだ。
普段の自分からはとうてい想像もつかないほどの馬鹿力で、見る見るうちに呼吸も血流もふさがれる。必死にもがくが離れない。
「わ。イチカ大変だよ!」
声がばたばたと叫んでいる。
ぼやける視界のなかで、あたしのドッペルの肩越しに、青白い巻き毛の女の子が飛びまわっているのが見えた。
自分に殺されるというのも変な気分だった。
それでももともと、自分を殺そうとしたんだ。
だから、これは罰だと思った。
遠くで蒼海ちゃんの、勝ち誇ったような笑い声が聞こえた。
「さようなら、早希さん。目覚めることのない長い旅を。どうかご安全に……」
*
少し、眠っていたようだった。
電車の震動は、疲れた体に心地良い。
あたしは座り直すと、ぼんやり窓の外に目をやる。
海が広がっていた。水面は日差しを浴びてきらきら光っている。
なんだかまるで、夢のようだった。
目を戻すと、向かいのシートにはセーラー服の少女が座っていた。
「ごめんなさい」
と彼女はつぶやいた。
「なにが、ですか?」
とあたしが返す。
伊知花は真っ直ぐ前を向いていたが、その鳶色の瞳に、はたしてあたしが映っていたかどうか。
「これは夢喰の牙。悪夢を喰らうことのできる唯一の武器」
膝の上には、奇妙な形状の短剣が置かれている。三角錐の刀身は、やや反り返り、動物の牙のように見えなくもない。
「夢喰いの……バク?」
中国の想像上の生物の名を口にするあたしに、彼女はたしかにうなずいた。
「夢喰の牙は、あなたの悪夢を残らず消し去る。けれども、それによってあなたは一生夢を見ることができなくなってしまう。楽しい夢も、悲しい夢も、なにもかも」
「夢が……見れなくなる?」
あたしに楽しい夢なんて、あっただろうか。そんなもの、見ないでずっと生きてきただろう。
そもそもそれまでが夢だったのか、これが夢なのか、あたしにはわからない。
「ごめんなさい」
と、もう一度彼女が言った。
「あなたを守るため、蒼海よりも先にこの牙が、【悪夢】を喰らってしまった。あなたの許可を求めているひまがなかった」
胸にぽっかりと穴が空いているような寂しさがあった。それは虚ろで、悲しみすらなかった。
これが夢を亡くすということなんだろうか。
「ねえ、蒼海ちゃんは……? あなたたち一体――どういう……」
伊知花はそっと膝の上の牙に手を添えた。
「これと、蒼海の持つ牙は、もともと同じ聖獣のもの。夢喰と、夢狩――」
「それはどういう……」
「知らないほうがいい」
ぴしゃりと伊知花は言い放ち、口を閉ざす。そうしてもう一切語る気がないとでも言いたげに、長く濃いまつ毛も伏せたのである。
こうして見ると彼女は驚くほど、やはり当然というべきなのだが、蒼海ちゃんに似ていた。
「ただ……」
最後に彼女は、もう一度あたしに謝罪した。
「弟が迷惑をかけてしまって、本当にごめんなさい」
え? と聞き返そうとした途端、あたしの意識は突然わけのわからない深い闇に落ちていった。
*
三度目の目覚めは白い天井だった。
「早希……っ!」
枕元で両親と弟が、口々にあたしの名前を呼んでいた。
全身包帯で巻かれ、なにがなんだかわからなかったけど、なにも考える気力もわかず、あたしはただぼんやりと天井を見あげていた。
あとで知ったことなのだが、あたしが乗っていた電車が途中、横転事故を起こしたらしい。大事故だったわりには、さいわいなことに死者はでなかったそうだ。
ただ医者の話では、あたしはなんか、そうとうやばいところにいたらしい。もう少しで唯一の死者になった可能性があったとか。
眠っているあいだ、なにか夢を見たような気がしたけど、まったく思い出すことができなかった。
誰か――
ひょっとしたら好きになりたかった人を忘れたような気になって、胸のあたりが泣いたように痛んだ。
だと思う、なんて生やさしいことは言わない。
世の中「美人」か「ブス」かの二択しかなかったとしたら、十人が十人こぞって「ブス」の札をあげるに違いない。もっとも札を挙げられたところで、どちら様かが引き取ってくれるわけでもない。
たいていの女の子は、多少不細工であっても、「こうやって見ると、あたしも案外かわいいじゃないねー」なんて鏡の中でひとりでこっそり悦に入ってみたり、「あの子のあんなところに比べれば、あたしのほうがずっとマシだわー」なんて見えない場所で優越にひたったりということも、わりと頻繁にあるらしい。
あたしは早々に、そんな見苦しいわずかばかりの及第点をさがして、せせこましく自尊心をはやしたてたりするよりも、いっそ自分は醜い者と決めてかかったほうが気が楽だということに気づいていたから、そんな女は生暖かく見守ってやろうと思う。
だってそのほうが、矮小にならずにすむ。
比較しなければ差はわからない。
人は人と比較して、自分の立ち位置を確認する。そうしないと不安なのだ。
でも比較してしまったらそれが、月とスッポンか、ドングリの背比べかを思い知るだけだ。まったく別の種族か、それとも自分とよく似たレベルの相手とでしか比べることができないというのも、ずいぶんと心狭い話ではないか。
だいいちスッポンというやつは、同種のミドリガメやゾウガメやギリシャリクガメなんかを、うらやましいと思うだろうか。
別に亀が醜いと言ってるわけじゃない。そうやって、亀という生物と月という天体、まったく異なる対象を比較して差異を求める、人間の狭さが嘆かわしい気持ちになる。
ウチにはゼニガメが五匹いる。
弟が飼っているのだ。高校二年生にもなってこの水棲爬虫類を愛でる神経には、いささか疑問を抱かずにはいられない。
なにせ弟はサッカー部なのだ。「爬虫類好きイコール暗いやつ」というのは、私の糾弾されても仕方のない先入観であるが、それを見事にくつがえした弟も亀も嫌いだ。
この弟はとにかく口と手クセが悪い。なまじ派手なスポーツなんてやってるから、毎日女の子にキャーキャー言われて調子に乗ってるところがある。
朝食の席であたしの顔を見るなり、「うげ」とか言うのだ。
「朝から気持ち悪いもん見せんなよな、ブス! 死ね!」
おまえの方が死ねと思う。
そういう時はだいたい母が、その調子に乗って前髪をしぼった雑巾みたいに垂らした頭をひっぱ叩いてたしなめるのだが、その母も父もこの弟も、とにかく十人並みのご面相である。
そう、我が家でなぜか、あたしだけ並以下(なにを基準に並とするかはわからないが)なのである。
それは例えるなら、
「カバとトドとロバを足して、コモドドラゴンで割った感じ」
というのが憎らしい弟の評だ。想像に苦しむが、とてもキメラである。
あたしが生まれる前の母に、一時の過ち……もとい不徳の致すところがあったのではないかとひそかに疑っているのだが、やはり家庭崩壊の危機だけは免れたいので、口が裂けても言わないように心掛けている。
ところで、あたしが少女マンガと宝塚が好きだと言うと、「ああ、やっぱりね」みたいな目をされることがある。それは、三度の食事よりも甘いスナック菓子と砂糖たっぷりのミルクティーが好きだと言ったら、きっと同じような表情をするんだろうなという感じの「やっぱりね」だった。
あたしの好きなマンガの中には、すんごい美少年もすんごい美少女もいっぱいいる。みんなきれいだ。だから幸せだ。
ところが、この現実ときたらどうだ。テレビに出てるアイドルだって、目を見張って、思わず言葉を失ってしまうくらいの美少年や美少女とか、そういうのはなかなか拝めない。
やはりそういった存在は、マンガや小説、ゲームやアニメとか、二次元世界だけの生き物なのだろう。
だから、ドラマや映画は見ない。マンガのなかのほうが、もっとずっと人物は美しいし、よほどドラマと呼ぶに足る。
あたしは少女マンガも好きだが、男女以外の恋愛物も好きだ。でもそれは、どちらかと言えば世間では日陰者扱いされているジャンルなので、他人に教えたことはない。
いわゆるBLである。男同士の恋愛物。その世界では、男がきれいだ。
現実的には美少女以上に美少年の方が、圧倒的に少ない世の中である。そういうジャンルもあるわけだから、需要がないわけではないのだろう。
ところが「美しさ」=「女性らしさ」的な考え方もあるので、逆に言えば男性側としてみればなかなかむずかしいのかもしれない。
このジャンルの市場は、女性がほぼ独占しているといっても過言ではない。男性同士の恋愛話(肉体関係含め)を、同性が見ても楽しいものではないのだろう。
もっともそれは、やっぱり二次元に限る。二次元は良い。身近なのに別世界だ。現実に――たとえば、ウチの上司(部長♂)と新入社員(熱血系♂)がそういう関係だった、なんて想像してみるのは、たまらなくうげーである。うげー。
ところがシチュエーション的に、そういうのは充分アリだ。いや、ありだろう。
反対に女同士の恋愛は、男にも女にも一定の需要があるようだ。それに比べたらまったく不遇である。
少なくとも家族には言えない。ちょっとエッチな展開がある少女マンガぐらいならはずかしくないのに、ちょっとエッチな展開のあるBLはもはや太刀打ちできない。押入れの奥のダンボールに、「季節もの」と書いて封印しなくてはならないのだ。
なにもあたしは、ホモが好きなわけではない。美しい男女の恋愛も好きだし、美しい男同士の恋愛も好きだ。
それはきっと、あたしにないものだからだろう。
腐女子力とはおもに、女の役割からの逃げである、と読んだことがある。
あたしは女を捨てている。
ぼさぼさの髪とすっぴんの肌。オシャレなんかとはほど遠い。ファッションなんて興味もないし、知識もない。なにが正しくておかしいのかもわからない。
学生は楽だ。制服はうまい具合に、女子を三割増しに見せてくれる。
たとえば、あの女子高生なんて、一見はぱっとしない感じだが、よく見ればなかなか美人だ。スカートもいじってない、ブラウスの標準通りで髪も染めていないのに、元がそこそこに可愛いから、制服補正で美人に見える。
ちなみにブスは、制服のおかげで普通には見えるだろう。あたしの場合は、それでも少しは見られる程度のブスになれるだろうか。
あたしは生物学的には女であろうが、周囲はそう思っていない。それこそ弟の飼ってる亀のこいつとこいつはメスなんだと教えられても、見分けのつかないあたしにはさっぱりである。それでも亀は、あたりまえのように亀として扱われているが、あたしの方は「カバとトドとロバを足して、コモドドラゴンで割った感じ」であるからして、悲しいかな人の域にさえ遠い。
いや、そもそも女とはなんだろう。男とはなんだろう。生物学的な分類以前に、なにが男女を分け隔てているのか。
生物は進化の過程で、雄雌ふたつの性別に分かれた。とめどなく細胞を分裂し続けたり、ひとりで二つの役割を担うより、そちらの方が都合良かったのだろう。
高校時代、保健体育で男女の記号を凸凹で表していたのを思い出す。二つ交わればきれいな四角になるそれは、まるで生物としての完成体であるかに思われた。
あたしは恋愛をしたことがない。誰かを好きになったこともないし、好きと言われたこともない。
世のなか不自由だ。あたしのような人間には、じつに生きにくい。
まったく、どこで踏み外してしまったんだろう。
何事もバランスだ。世の中バランスをうまくとってれば、それなりになんとかなるものだ。
たとえば欄干の上を落ちないように、両手を伸ばして歩く。片側は歩道で、反対はドブ川だ。
風かなんかが吹いて、ちょっとバランスをくずす。反射的に人の体は、無条件で安全な方に落ちようとする。すなわち歩道の方だ。
でもあたしは、ドブ川の方に落ちてしまった。落ちたところで、もともときれいではないあたしの体は、ちっとも見分けがつかないかもしれないけれど。
ちょっとだけ笑った。あたしが笑うと、がはがはと醜く下品だから、むやみやたらと笑うなと弟に言われたことがある。
空気のもれるむなしい音だけが、乾いた午前の駅に響いた。
あたしは今日、高校卒業から十年間勤めた会社を辞めてきた。
そうして二十八歳のあたし伊藤早希は、今日を最後に人間をやめるつもりだった。
*
いつの間にか眠っていたようだった。
電車の中はほどよく暖かく、あたしはぼんやりした頭で窓の外をながめた。せまいボックスシートも、大柄なあたしひとりが独占しても心が痛まないぐらい車内は空いていた。
電車の揺れが睡眠を誘発するのは、その揺れが母の胎内を思い出させるからだという話を聞いたことがある。それに、適度な車内温度も合わさって、この時期の陽気な天気との相乗効果で、どうにも落ち着いてしまう。
古いシートから臭う、年月の湿っぽさも衛生的とは言いがたいはずなのに、なぜか安心してしまうのだった。
いつもと違う電車に乗って、自分の知らない土地へ向かう。
あたしはこの無那市しか知らない。山と海に囲まれたこの地方都市は、市町村合併も助けて無駄に大きく、そこだけで生活がまかなえるようになっていた。
そういえば、学校の修学旅行でも他の場所に行ったことがない。「おまえなんか来んなよブスっ」と班分けのときに言われたので、当日になって急に熱が出たことになった。
だからこれは、あたしにとって初めて。最初で最後の遠出。
行くあても帰るあてもない。線路には果てがある。そこがあたしの終着だった。あたしは今日、死ぬつもりだったのだ。
どのへんまで来たんだろう。いつの間にか眠ってしまったようだった。そんなに寝た気はしないし、まださほど遠くまでは行っていないだろう。
窓の外に目をやると、途端にゴーっと暗くなり、トンネルに入ったことを知らせる。
なんだ、まだ無那市だったのか。あたしは軽い落胆を覚えながら息をついた。
でも、この山を抜ければ隣町だ。誰もあたしを知らない。あたしもなにも知らない土地。胸がはずんだ。
そうしてガラス窓に映るあたしの、救いようがないほど不細工な顔を見て、なんともやりきれない気持ちになった。
ぎょっとした。
窓に映る自分の顔。そこにもうひとり、人の顔が映っていたのである。
驚いてふり返ると、向かいのシートに少女がひとり腰を掛けていた。さっきまでは誰もいなかったのだ。
黒いジャケットにシルバーアクセサリー、黒と赤のボーダーのタイツといったゴスパン系の格好で、華奢な体にラバーソールが不釣り合いなくらい重く見えた。
少女はあたしの顔をじっと見て、くりくりっと目を動かしてから、鈴を鳴らすような可愛らしい声でこう言った。
「こんにちは!」
あたしはびっくりして、すぐに返事をすることができなかった。
「……こ、こんにちは」
あたしは自分の声が嫌いだ。さすがに容姿はあれでも、声ぐらいはハスキーでわりとセクシーだと思い込んでいた幻想を、中学時代に録音した声に、ことごとく打ちのめされた苦い思い出がある。それからは、極力他人と話すことを避けてきた。
いまでも会社で「おはようございます」と言っただけなのに、「ぐふぐふぐふぐふ」と陰で揶揄されるのだ。死ね。
だから、緊張してちょっと上ずってしまった声が、相手に変に聞こえたんじゃないかと少し不安だったのだ。
なにしろ、少女はずっと屈託のない顔で笑っている。笑われてるわけじゃないんだろうけど、どうしてもそう思えてくるあたりが、情けなくもあたしのみじめな性分だった。
「良いお天気ですねー。おひとりですか? 私もひとりなんですよー。ご一緒してもよろしいですか」
「え、え……あの――」
トンネルの中で天気の話題をするのも、おかしな話だが、あたしもテンパってるので、返事をするのに必死だった。
「そそそ、そうですね。おひとりですね。良い天気ですね。ごいっしょ、ごいっしょ……ひぃ!」
ひぃ、というのは悲鳴ではなく、急激に息を吸い込んだゆえの呼吸音なのであるが、はたから見れば完全に不審者である。
だが、弁明させてほしい。
二十八年間生きてきた。コンプレックスしかなかった。いつまでも他人の目を見てしゃべれない女だ。あたしに話しかけることを、罰ゲームの一環だとしか思われてなかったことさえあった。
そんなあたしに、よりによって若くて可愛い女の子(そう、少女は驚くほどに可愛かったのである!)が話しかけてきたのだ。
こちらに向かって話しかけているというだけで、必ずしも自分ではない、じつはあたしの後ろの誰かに声をかけているだけという可能性があることも、学生時代に学習した。
そのせいでとても慎重になっていたのだが、だいたいこの状態であたしの後ろに誰かいるとしたら、まあそれは幽霊かなにか、あるいは彼女にしか見えないような、おそらく妖精さんの類であろう。
だからこの場合、あたしに向けられたものだと考えた方がごくごく自然に思われた。
あたしはうつむいたまま、ちょっとだけ目を上げた。ああ、これではさぞかし卑屈に見えるんじゃないかと、すぐに猛省するのだったが。
年の頃は高校生ぐらいであろうか。最近の子はませてるから、中学生でも充分考えられる。
髪は肩よりも少し長いくらい。きれいに明るい色に染めていて、黒いリボンで横にまとめている。その色合いは、肌の白さによく映えた。肌は車内の弱い光の中でさえも、まっさらで細やかで、そうしてはかなげであった。また、その白さは驚くほど純度の高い絹のようで、皮膚の裏側を駆け抜けている血流の鮮やかさまで見てとれるようだった。血流はたしかに少女の頬を桜色に染めていたし、バラ色のぷっくりとしたくちびるはつぼみのような可憐さがあった。そうしてその瞳――そり返った長いまつげに隠されたそれは、なんときらびやかな鉱石であろうか!
あたしは言葉を失い、ただ唖然となって少女の美しさに見惚れた。その時間は長いようでいて、じつはとても短かったのかもしれない。けれどもそれは、生涯においてここまで他人の顔を見つめたことはないほど、あまりにも衝撃的で鮮烈であった。
「……?」
彼女は不思議そうに、でも笑顔はくずさないで、わずかに首をかしげてみせた。あたしはとっさに目をそらし、自分がいかに失礼だったのかを反省して悔いた。
「どちらまで行かれるんです?」
びっくりするくらいにきれいな声だった。鈴を鳴らすようなというけれど、可憐で澄んでいて、うらやましかった。
「あ、えっと……終点まで」
あたしは下を向いた。少女の履いたラバーソール、互い違いの編み目が可愛いと思った。すると途端に、自分の千円ワゴンで買ったスニーカーが、もう何年も履いてたから汚くて、顔が熱くなった。
「へェ、そうなんですか! じゃあ私と一緒ですね」
うれしそうに両手を合わせてよろこんだ。細い指には、無骨な髑髏のリングが光っていて、それだけはどうも好きになれなかった。
とっさに終点と答えてしまったが、あたしはそもそも終着駅の名前を知らない。迂闊なことは言えない。
「あ。私、ソーミっていいます。よろしくー。日本全国ひとり旅して回ってる、旅ガールですー」
通路にはアーガイル柄の大きなスーツケースが置いてあって、少女は笑いながら手許に引き寄せた。
あたしの荷物はハンドバッグひとつだ。変に思われたりはしないだろうか。
……ところで、旅ガールってなんだ?
「あ、はい。えっと、あたしの名前は、伊藤早希……です」
ぎこちなく返す。自己紹介は苦手だ。紹介できるものがない。年下にだってつい敬語になってしまう。別にフルネームじゃなくてもいいのに。
「早希さんね。おっけー、おっけー。あはは、なんだかおねえさんって感じだね、兄弟いるの? あ、私結構くだけた性格だから、失礼があったらごめんなさい」
「気にしない、よ? はい、歳の離れた弟がひとり……います。たぶんソーミさんと同じぐらいの。ええっと、ソーミさんは学生さん、ですよね?」
「いーえ、ガッコは行ってません。行ってたらたぶん高一かな。ワケありな感じに聞こえるかもしれないけど、まあ触れない方向でお願いしますー」
あっはっはーと、あっけらかんに彼女は笑った。
さすがにぎょっとしてしまったが、世の中には様々な事情をもった人がいるのだから、とやかく言うこともない。というか、あたしなんかが言えたことでもないのだ。
「私もお姉ちゃんいるんですよ。もう何年も会ってないけど。早希さんのこと、おねえちゃんって呼んでもいいですか?」
「――え?」
「じょうだんですー」
あたしは少しあきれていた。無邪気で屈託なくて、物怖じしない。初対面の相手に対してなのに、まったく堂々としたものだ。
あきれながらも、彼女と自分の違いを考える。若さと可愛らしさは武器だ。それは自信につながる。彼女がうらやましかった。
「え、えっと――旅行、よくされるんですか?」
「旅行っていうか、旅。ホント、ぶらり旅って感じの」
いわゆる思春期に見られる、自分探しとかそういう類で、これはもう一種のどうしようもないはずかしい病気のようなものだと、あたしは勝手に解釈した。
「ソーミさんは、どのへん行ったの? あたし、この街から出たことがなくて……」
「そうなんですか? えー、もったいない。あ、でも私べつにほら、有名観光地とかそういうとこ行かないんですよ。どっちかって言うと、あんまり人のいない方が好きなんです。だからガイドマップとか持ってないし、どのへんって言われても……あ、でももう七県ぐらいはまわりましたねー」
旅行を旅と呼んで、それをしてる自分カッコイイみたいなにおいがぷんぷんして、なるほどたしかにそういうのが「旅ガール」なんだろうと思った。
「あ。抜けますよ」
言い終わるや否や、電車はトンネルを出た。
ようやく街の外に出られたのだ、という思いの前に、途端にまぶしい陽射しが差し込んで、あたしは思わずまぶたを閉じた。
そして目を開けると、……またトンネルの中だった。
「……あれ?」
「どうしました?」
きょとんとしているソーミちゃん。
「ああ、いえ。……ひょっとして、またトンネル入りました?」
「入りましたよ。山ですからねー。トンネル多いんでしょ」
外の景色が見たいと思っていたあたしは、ちょっとがっかりした。
それでももう、無那市は抜けれただろうか。生まれ育った街に思い出はあっても、未練を残してはならない。
あたしはちらりと向かいの少女を盗み見る。この子はどこから乗ってきたんだろう。無那市のどのへんにいたんだろうか。
こんなシチュエーションでもなければ話すこともなかっただろうと、あたしはひそかにこの出会いに感謝した。
本当にきれいな顔だ。あばたのあたしにはうらやましくて、逆に神聖さすらおぼえる。
白目だって豆腐のように真っ白だ。あたしのように醜く血走っていない。
十六歳らしいこの子も、あともう何年もすれば、立派な大人の女性になるだろう。子どものような清らかな幼さと、無邪気な愛らしさもその時には、すっかり薄れてしまうだろう。
もったいないなぁ、とあたしは思う。
こんなきれいな子、あたしは知らない。美少女なんて、マンガだけの存在だと思っていた。それがいつか年月によって失われてしまうだろうことが、なんだかさみしかった。
そういえばいま、無那市では奇妙な現象が発生しているらしい。眠ったまま起きない『眠りの森の美女症候群』という奇病だ。
突発性睡眠障害も近頃では、よく耳にする病名だ。しかし、『眠りの森の美女症候群』はそれに近いが、どうもそうではないというのが、研究者の発表であった。
また、『クライン・レヴィン症候群』と呼ばれる、同種の奇病もすでにあったが、ただ眠り続けるそれとは違い、この無那市で確認された睡眠病は――どうも夢を見るらしい。
もちろん、患者が夢を見ているのかどうか確認することはできないので、これはあくまで推測であるのだが。ただ、レム睡眠の状態にあるのは間違いないらしい。ならば、夢を見ていてもおかしくない、という理屈だ。
眠りの森の美女は眠っている間、歳はとらなかった。眠ると新陳代謝が低下するからだろう。
もしこの子が『眠りの森の美女症候群』になったら、この可憐な美しさのまま、時を止めて生きていくことができるだろう。
うらやましかった。それはまさに芸術のようだった。
あたしには得ることのできない幸せな夢だった。伊藤早希はお姫様にはなれない。王子様のキスをもらうこともない。
だからもし、そしたらあたしはこの可憐なお姫様を守る、醜い小人の役を買ってでようと思った。
日長毎日ずっと、美しい姫の寝顔を独占していられることがどんなに幸福か。ただ眺めているだけで良いのだ。それだけが己に許された特権だとわきまえているのだ。だとしたら小人たちは本当は、王子の登場を憎んでいたのではあるまいか。
ゴー、とトンネルの中の音と震動が伝わってくる。
「でも私、トンネル好きよ」
ソーミちゃんはうっとりと目を細めた。そうして謳うように語りだす。
「どこに行き着くのかわからない、暗い暗い穴の中を進んでく心細さが好き。いえ、じつは出口なんてなくて、でも行き止まりもなくて、どこまでもどこまでも進んで行くんだけど、本当は闇の中に閉じ込められてしまったんじゃないかって、そんな不安もじつはずっとあるの。けれどもそれを言葉にできなくて……もしそうしたら、認めてしまうことになるから、自分の孤独と恐怖を認めなくちゃいけなくなるから、ただじっと震えを堪えて歩き続けるの」
「なんだか、……人生みたいだね」
あたしはぽつりとつぶやく。それがあたしの生きてきた道のようだった。光も差さず、けれどもそれが当たり前だと思い込んで。
「冗談じゃない」
ソーミちゃんは憤慨したように、足を投げ出した。
「敷かれてるレールの上を歩くのが? ずいぶん楽な一生だね。それが人生なら、トンネルに入った時点で負けだよ。私はそんな穴倉の人生なんて、まっぴらごめんだね」
きっと気に障ったことを言ってしまったんだろう。あたしは目を白黒させながら謝った。本当にダメな女だ。もっと相手の気持ちを考えてしゃべらないと。
「あ。別に早希さんが謝ることないよー。私もなんか誤解あったみたいだし。ごめんなさい」
ぺこんと頭を下げる。結んだ髪がちょこんと跳ねた。
素直に謝られると、戸惑ってしまう。こっちの悪さが際立つような気さえした。
あたしはあわてて手を振って、なにかを必死に弁解しようとしたけれど、もごもごと声は言葉にならなかった。
そんなあたしを見て、ソーミちゃんはにこにこ笑っていた。
「ねえ、早希さん?」
子どものような顔で、子どものような声。そして子どものように純粋な言葉――
「どうして死ぬの?」
あたしはぎょっとしてしまい、まじまじと少女を見つめ返した。
セリフとは裏腹の屈託のない顔で、少女は無邪気に微笑んでいた。
「どうして?」
「え……」
「どうして死にたいの?」
「あ、あなた一体――」
恐る恐るたずねるあたしに、少女はくすくすと笑うのである。笑って答えないつもりらしい。
あたしは亀みたいに首をすくめて、周囲を確認する。
誰かに聞かれてなかったかとひやひやした。
ところがこの車両には、いつの間にかあたしと彼女以外の乗客の姿はなくて、なんだかおかしな雰囲気だった。
「当ててあげようか?」
少女は楽しそうに笑った。
「失恋でしょう」
息が止まりそうだった。
「な、なんで――」
知ってるのよ、と言いかけて言葉を飲み込む。
してやったりといったふうに、少女がうれしそうに手を叩いたからだ。
「あれ。もしかして当たっちゃった? 適当に言ってみただけなのに。しかも無難な。くだらない」
「あ、あなたには関係ないでしょう」
あたしはたぶん真っ赤な顔で、不機嫌全開に窓の外を見た。なんだか急にこの子が嫌いになった。
長いトンネルは、いつまでたっても抜ける気配がない。
あたしは恋なんてしたことがない。
他人を好きになったことなんてないし、他人から好かれたこともない。なにしろあたしは人間扱いされていない。
それでも世の中には奇特な人がいて、絶対的希少数ではあるが、こんなあたしでも好きになってくれる人だっているかもしれない。それがきれいな男の子だったりしたら、もう文句ない。
世界に誇る国民的アニメ監督だって、そのヒロインは可愛いのに蟲が好きという奇妙な性癖をもっている。
あたしは蟲よりマシだと思う。だから、もうちょっとハードルは低いはずだ。
今日辞めてきた会社には、もう十年勤めていて、その間にも先輩や同期の子、後輩の女の子たちがどんどん寿退社していくのを見送った。
女は三十までがひとつのピーク、というのがいまだウチの会社で、営業の最前線で活躍している四十六歳のベテラン、お局先輩の言葉だった。
彼女は笑って言ってたけど、たぶん心はずっと痛かったんだと思う。
あたしが入社した年に、彼女は結婚した。いまでこそ「授かり婚」だなんて取り繕ったような名前で呼ばれているが、それは「出来ちゃった婚」であって、その「出来ちゃった」感じが「あちゃー、やっちゃった。テヘ」みたいなところがあって、結構にくめない。三十六歳の彼女の初婚にして初産であったが、同時に初めての流産と離婚も経験した。
「伊藤ちゃん、早くイイ人見つけなよー」
よくそうからかわれた。あたしはお局先輩が大好きだ。大好きだけど、ああはなりたくないと思った。
だから自分が二十八にもなって、まだ誰とも付き合ったことがなくて、誰も異性を好きになったことさえなくて、はたして自分は本当に女なのか、それともやっぱり人間とは違う生物なのかと苦悩するようになったのだ。
それで、やっぱり早く結婚して子どもがほしいとか、なにかにまくしたてられるように焦っていた。相手もいないのに。あたしには友だちもいなかったから、誰かを介して他人と知り合う機会もなかった。
同じ事務の新卒の女の子は、若くて可愛くてはきはきしてるから、みんなに必要以上にかわいがられている。しかも彼氏がいるのにだ。可愛ければ、彼氏の有無は関係ないのだろうか。
それが面白くなかった。あたしだって女なのに――たしかにそろそろ若くなくなってきて、見た目だって醜かったが――そうやって隣の机にいるだけで、余計に月とスッポンというか、引き立て役をやっているようなみじめな気になるのだった。
入社三年目の藤田くんも、よく仕事の合間に彼女を盗み見ていることを、あたしは知っていた。
藤田くんはいつもオシャレな眼鏡をしていて、結構ツボだった。『愛してよ! ハニー・スペシャル』の主人公が掛けているメガネに似ていて、どこで買ったのか聞いてみたかった。
そうやって見ると、なんだか普段はあまり冴えない藤田くんが、東暁寺有久のように見えてくるから不思議なものだ。東暁寺が三次元になって、現実補正も入れて三つぐらいバージョンを落としたら藤田くんみたいになるんだろうか、とか考えてすごすのは楽しかった。
だからあたしは、藤田くんに恋したわけじゃない。藤田くんは、あたしの隣のぶりっ子事務ばかり見ていたけど、あたしの中の三次元東暁寺はあたしだけを見ていた。
来月には二十九歳になってしまうあたしにはもう後がなく、『愛してよ! ハニー・スペシャル』みたいな恋愛ができるんじゃないかって、そんなひそかなあこがれを抱いて、無駄にテンション上げまくって、一世一代の大決心、ノミの心臓生涯最大の勇気でもって――告白してしまったのだ。
思い返すだけでも顔から火が出る。はずかしくてはずかしくてはずかしくて、死んでしまいたかった。
「だから死ぬの?」
向かいの座席で、ゴスパンの少女がなんとも言えないような、憂鬱な顔をしていた。
「誰も知らないところへ行って、誰にも知られないように?」
鼻で少女は笑う。安い命ね、と。
そうだ、安いのだ。あたしの命に価値なんかない。
「だからねえ、ソーミちゃん。あなた――」
あたしは言う。この「あたし」という人称だって、ただ若ぶりたいだけで、本当は無理して使っているんだ。
「本当は死神なんじゃない?」
それを聞いて、少女は肩をすくめる。
「ただの旅行者だよ」
だっておかしいだろう。死ぬことを考えているあたしの前に現れ、その自殺願望を当てた素性不明の少女。そうしてこの、いつまでも抜けないトンネル――
いや、そうじゃない。いつまでも抜けないトンネルなどあるはずがない。そこで出会った少女の、平然とした様子にあたしは違和感があるのだ。
「――でもね」
ソーミちゃんがちょっとだけ、冷たい笑いをうかべる。
「そうなる可能性もあるかもよ? 私なら誰にも知られず早希さんを、この世から消し去ることができる。とっても簡単なことだよ。ふふふ……」
それだけ言ってしまうと、彼女はなにか満足したように目を閉じた。それから可愛らしいあくびをひとつすると、あっという間に寝息をたてはじめた。
なんだかあたしは拍子抜けしてしまって、自分のひどく子供じみた余興が、思いのほか少女を刺激してしまったらしいことに気づいた。
(……冗談なのに)
寝顔もまたうっとりするほど可愛くて、無防備で無邪気なそれは、ついつい写真でも撮っておきたい気持ちになる。
あたしはもう一度体を起こして、車内を見まわした。
やっぱりこの車両には、あたしたちの他、誰もいないようである。とはいえ、さすがに誰も乗っていないなんてことはないだろう。
それにしても、こんな長いトンネルはやっぱりおかしい。もう二、三駅は軽く通りすぎてないとおかしいくらい走っている。
ひょっとして走っていると思うのはあたしの錯覚で、じつはなにかの原因で停まっているんじゃないかとも考えたが、足裏から伝わる線路の震動も、窓を流れる壁の動きも、たしかに確認できた。
ガラスにはあたしの不細工な顔と、眠るソーミちゃんの可愛い寝顔が映っていた。保護欲に駆られて、自分の毛玉だらけのストールを掛けてやりたい気持ちになる。
照れくささとみじめさに苦笑した。
――と。
顔が凍りつく。どきッ、と心臓が一瞬止まった気がした。
驚いてふり返る。
飛びついて通路をのぞく。
……いない。
立ち上がって、先の方まで身を伸ばす。
やっぱりいない。
なんだろう。けれども、おかしなことだ。
「……んー。どうしたの?」
しかも、ソーミちゃんを起こしてしまった。
「あ、ごめん。なんでもない。ちょっとおトイレ行ってくる」
断って席を離れる。
「ん。ちょっと待って」
ソーミちゃんが立ち上がり、「えい」と天井の中吊りポスターを無断で引き抜いた。
「帰り迷うと悪いから目印」
にこっと彼女が笑った。なるほど、片方のポスターがない席に戻ってくればいいのか。わざわざそんなことしなくても、ソーミちゃんめがけて帰ってくればいいわけだが。
いてらしゃーい、とまだ眠そうな声に押されながら、あたしは歩きだす。
あたしが見たもの――
信じられなかった。だからこそ確認したかった。
窓ガラスに映ったあたしとソーミちゃんの奥――この通路を横切った人影があった。やっぱり他にも誰か乗ってたんだ、という安心感は、その姿を認めた途端に戦慄に変わる。
あれは……
あの人影は――、たしかにあたしだった。あの横顔、やぼったい髪型、服装から猫背気味のせせこましい歩き方まで。
でも、あたしはここにいる。だからあれは見間違いだ。
なのに納得できなくて、あたしはそれをたしかめようとしている。
あれはあたしの――ドッペルゲンガーなんじゃないだろうか。
自分とまったく同じ姿をした、もうひとりのあたし。それに出会うと、その人は近いうちに死んでしまうという。
それでも、たしかめたかった。
実際この目で見て、どうしようという考えもわかない。普段見ている鏡に映る自分ではなく、そこに存在して動いているのだ。触れることだってできるだろう。話だってできるはずだ。
そしたら聞いてみたい。
――貴女はしあわせですか。
隣の車両も人影がない。
運動不足の脂肪の塊だから、ちょっと走っただけでもじっとり汗がにじんでいる。熱い息がもれて、ほっぺが湿った。
手前の座席に人影が見えた。
でもそれは、あたしの捜しているものではなくて、普通の――セーラー服の女の子だった。
どこかで見たような気がして思い出してみると、そういえば電車に乗る際、ホームで並んでいた制服補正の美少女だった。
(いまこの前を、あたしが通りませんでした?)
なんてたずねるのは、頭がおかしいと思われるだろうか。
(ああ、それならあそこに――)
そう言って少女が指す先には、まぎれもなくあたし自身の姿が……、などというのはただの妄想だが。
あたしの存在など興味もなさげな少女の前を通り抜け、ひとつひとつボックスシートをのぞき込む。
本当はそんなことしなくても、あたしの身長では席から頭が出るので、すぐにわかるのだが。
そうしてやっぱりこの車両にも、他の人影を見つけることもできず、あたしは次の車両に続くドアに手を掛けた。
「ね、見た見たイチカ。なんかあのひと、カバとトドとロバを足して、コモドドラゴンで割った感じぢゃない?」
突然背中に向かって、無遠慮な子どもの声がぶつかってきた。
あたしはこっそりふり返る。この車両に、そんな幼児いただろうか。
「やめなさい、めめ。カバとトドとロバと、コモドドラゴンとあのひとに失礼だわ」
小声だったが、あのセーラー服の高校生の方から聞こえた。しかし、彼女はひとりだったはずだが。
「わふ! ねえ、にらまれてるよイチカ。超こわいよ。まるで、ヘビににらまれたギリシャリクガメのようだ」
「やめなさいって。ヘビとギリシャリクガメとあのひとに失礼よ」
「なんでなんで? お世辞も言えるめめちゃんすごくない? ――わ、こっち来た!」
戻って見ると、そこには少女ひとりの姿しかない。腹話術?
しかも少女は、あらぬ方を向いている。
「なにか、言いました?」
あたしはできるだけ丁重に、穏便にたずねた。それでも声はドスがきいて太くて低いし、顔だってアレだから、そうとうの威圧感をあたえるだろうことは想像にやさしかった。
「…………」
高校生は聞こえないふりをしているようだった。
まったく最近の子は――、などと言うと、いかにも自分が年寄りになったと認めることになるのだが、見ず知らずの他人に悪口を言われてだまっていられるほど、あたしは人間ができてるわけじゃない。
まあこれで相手が強面の男の人だったり、複数人の集団(男女問わず)だったら、もうすでにその時点で泣き寝入りは確定していたのであるが。
「…………」
恐れをなしたか、高校生は目を合わさなかった。聞こえないふりを徹底するつもりらしい。
あたしも別に、いまさらどうする気もなかったので、あきらめて次の車両に向かった。
「――あ~ぁ、行かないほうがいいのにね」
と、幼児のつぶやきを聞いた気がしたが、その時にはすでにあたしの背中でドアが閉まっていた。
(……あれ?)
新しい車両に入ったところで、あたしは足を止める。
不意になんだかおかしな、既視感めいたものにとらわれた。
真っ直ぐに伸びた通路。天井には、旅行会社や週刊誌の中吊りのポスター。途中、その一枚だけついていない。
「えー、そうなんですかぁ」
驚いたようなソーミちゃんの声が聞こえる。
きれいな声だ。本当に。あたしとは全然違う。おんなじ女の子なのに。うらやましい。
「ははぁ、それすごくないですか?」
おかしい。
あたしは列車の進行方向に向かって歩いていた。ソーミちゃんのいた車両の、二両前にいるはずなのだ。
なのに、最初の車両の後ろのドアから出てきた?
……おかしくないか?
それよりも――
ソーミちゃんは、一体誰としゃべっているんだろう。
いや。それは本物のソーミちゃんなんだろうか。
あたしは知らずに、足音を忍ばせていた。なぜだろう。見つからないようにだ。気づかれないようにだ。
「あははは、本当におもしろいですねー。こんなこと言うひとでしたっけ、――早希さん」
奇妙な寒気にとり憑かれた。それは、恐怖という名の悪寒だった。
「ソーミちゃん……?」
そうして飛び込んで見たものは、世にも恐ろしい光景――、あたしとまったく同じ姿をした女が、楽しげにソーミちゃんと会話している様子であった。
それはどこからどう見てもあたし――伊藤早希である。気持ち悪い女が気持ち悪いほど瓜二つ、ここにいる。
「ど、どういうこと……?」
自分の体が震えていた。
「そ、ソーミちゃん……?」
「へえ、ホントにー? でもそしたらおかしくないですか? ……ああ、そっか。ふーん。でも早希さん、そしたらもっと、あ、そうですそうです! あははは」
「ソーミちゃん!」
声をあげる。恐ろしい。恐ろしい。
手を振り回したり、大声を出してみたり、なのに彼女は気づかない。まるで見えないかのよう。そこにあたしがいないかのよう。
彼女の向かいで、あたしの姿をしたあたしの偽者は、にこにこと不気味な笑顔でなにかをしゃべっている。でもその声はあたしには聞こえない。ソーミちゃんの反応を見ていると、聞こえないのはあたしだけのようだった。
「どうして――!?」
ここにいるのに、見えないあたし。
そこにいるのに、ここにもいるあたし。
――ドッペルゲンガーというやつは、本体とすり替わるんだろうか。そんな恐ろしい考えさえわく。
そうしてまるであたしの不安を嘲笑うかのように、あたしの顔をしたあたしでないモノは、こちらを見て、たしかに見て、――わらった。
とてもいやらしそうに、とても憎らしそうに。そしてなにより、悦しそうに。
あたしは悲鳴をあげて、そいつに飛びかかっていった。
そこはあたしの場所だった。
旅ガールのソーミちゃんと、ひと時の親交を許された狭い聖域だった。
この列車が終点に着いても、きっとあたしは死なないだろう。ただその場かぎりで逃げたかっただけなのだ。だからあたしは、できることならそのままソーミちゃんと、どこか知らないところに行きたいと思うだろう。思い出せば思い返すほどに、東暁寺には似ても似つかない会社の後輩に告白してしまったのなんて、そんなのは本当は全然たいしたことじゃないんだ。
傷つけられることには慣れていた。でも、自分から傷つくのが怖かった。ただ自分が可愛いだけなんじゃないか。
あたしの体は、ドッペルゲンガーの体をすり抜けて、座席の上に倒れ込んでしまった。
なんだ、やっぱりドッペルゲンガーというやつは触れられないのか。
驚きより、怒りの方が大きかった。
本物のあたしが偽者をどうにかできないなんて、どうかしてる。本物がいるから偽者がいられるんだってこと勘違いするな。おまえなんてあたしじゃないくせに!
そんなことをわめきながら、あたしはもう一度そいつにつかみかかっていった。
でも、だめなのだ。
あたしの体はそいつをすり抜けて、そのまま手すりにあごをぶつけてしまった。痛かった。痛かったんだ。あたしはぼろぼろ涙が出るままに、その場にうずくまった。
絶望だった。
このままあたしという存在は、わけもわからないドッペル野郎に取って代わられて、そうしてどうすることもできないまま、それこそ生きているのか死んでいるのかわからない、漠然とした未来が待っているのだという恐怖――
そいつはたしかにあたしを見て、またしっかりと笑ったのだ。
くやしかった。どうすることもできない自分が呪わしかった。かなしかった。
「ダメじゃない、早希さん。――未練なんて残したら。タチの悪い霊になっちゃうよ?」
無邪気な声が頭上でした。
「こっちの早希さんはおもしろいわよー。ユーモアあるし、本人みたいに露骨に自意識過剰じゃないし」
「ソーミちゃん……?」
あたしは顔をあげる。涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。
目は細く湾曲して、口は薄く大きく開いた――残忍な表情をした、小さな悪魔がそこにいた。
手には小振りな……鶴嘴の形状をした凶器を持っていて、それが見様によっては鎌(大きさとしては手鎌であったが)のように見えてくるのだから、やはり彼女は死神ではないのかと疑うのであった。
「じゃ、そういうわけだから」
天真爛漫の笑顔で、ソーミちゃんが凶器を振り上げる。鋭くとがった先端が、なんだか獣の牙のように見えた。
あたしは喰われるのだな、と思った。目を閉じた。ドッペル野郎の笑顔が気持ち悪くて吐きそうだった。
ガシ、という金属音とも違う愚鈍な衝撃音が鳴り響いた。
恐る恐るまぶたを開けると、あたしの目の前すれすれのところで、二本の牙が拮抗していた。
「ひぃ!」
情けない悲鳴をあげて、あたふたと逃げだす。
安全圏でそろそろと状況を窺うと、ソーミちゃんとセーラー服の女の子がその場で対峙していた。
「――ふぅん……」
ソーミちゃんが一瞬、驚いたように眉をひそめた。
「なんだ……ひさしぶりね」
「こんなところでなにをしている、……蒼海」
「それはこっちのセリフ。伊知花姉さんこそなにしてるの。――ここは、私の夢のはず」
姉さん、と言ったのだろうか。たしかソーミちゃんは姉がいると言っていたが。しかしそのセーラー服の少女は、隣の車両であたしの悪口を言った高校生なのである。革の黒手袋をつけていて、なんだかヨーヨーでも出しそうな雰囲気である。
たしかに二人並んで見ていると、顔の造作などがどこか似ているようだと気づく。背格好も年頃も近い。
そしてなにより、お互いが手にしたその凶器――鶴嘴を押さえ込んでいるのは、装飾の美しい短剣である。しかしその刃の材質は、同じ物のように見えた。
「…………」
セーラー服の少女――伊知花は険しく蒼海ちゃんをにらんでいる。その瞳は、金色の光を帯びていた。
「……答えないのね。まあ、いいわ。どうせいっつも伊知花姉さんはだんまりだものね」
そう言ってにらみ返す蒼海ちゃんの双眸は、銀色に輝いていたのである。
それは獣の眼だった。
「――この街で夢を狩っているのは、あなたの仕業……?」
お互い力勝負は一歩も引かない。
「なんの話? 『夢喰』は姉さんの方でしょう。正義の味方気取ってんの? 反吐が出るわ」
蒼海ちゃんが鼻で笑い飛ばす。
「こうやって罪のない人を夢の中に閉じ込めて、……あなたは一体なにを考えているの」
「そんなの姉さんに言う必要ない。ここは私の狩場。『夢狩』の世界を侵すっていうなら、ただじゃおかないわよ!」
蒼海ちゃんの重そうな厚靴が、伊知花の腹部を蹴り飛ばした。だが少女は後方に飛び退いて、その一撃を避けた。
「やるじゃない。――ちょっと標的変更ね。邪魔するってんなら遊んであげるわよ、伊知花姉さん」
蒼海ちゃんは飛び上がり、落下の勢いに合わせて鶴嘴を振り下ろした。
直撃の瞬間、激しい衝撃が巻き起こり、座席がいとも簡単に吹っ飛ぶ。
すでにその場を離脱していた伊知花は、牙を振るい、真空の刃を放つ。ふり返った蒼海ちゃんが、鶴嘴でそれを叩き落した。
「たいしたことないわねえ」
蒼海ちゃんはニヤリと笑った。
「もっと私を悦楽しませてよ。ひさしぶりの遊戯じゃない。……あの時の傷は、もうとっくに治ったんでしょう?」
「手加減してやってるんだ。そんなこともわからないのか。……おまえが弱すぎるから」
伊知花は制服についた埃を払いながら、すずしい顔で答えた。
「言うじゃないか。――後悔させてあげるよ!」
蒼海ちゃんが凶器を振りまわして飛びかっていく。それを寸前で受け流した伊知花は、その背中に向けて短剣を振り下ろす。
腕を後ろにまわした蒼海ちゃんは、鶴嘴でそれを防ぐと、横薙ぎに刃を払った。
ど、と強い風が巻き起こり、伊知花の身を襲う。だん、と赤い旋風が舞った。
「切り裂け!」
笑いながら蒼海ちゃんが、目にも止まらぬ速さで刃を振る。それは鋭い風になって、次々と伊知花の体に喰らいつき、激しい埃が立ちのぼった。
「ど、どうなってるの……」
あたしはもう完全に傍観者だった。
どちらを応援する立場でもなく、目の前でくり広げられる非現実の異能バトルに、すっかり腰が抜けてしまった。だってこんな異常な力、普通の人間じゃない。それこそアニメみたいだ。
「だってこれは、アンタの夢だもん」
どこかで幼い声がした。あわてて周囲を見まわすが、声の主は見あたらない。
「ふたりはアンタの夢を形にして、力にしてるのよ。――ま、それでも基本は本人たちの力なんだけどね」
姿は見えないが、この声には聞きおぼえがあった。セーラー服少女伊知花の腹話術だ。しかし彼女の姿は、ずっと先にあるし、それにこの状況で腹話術なんてやってられるんだろうか。
「なんだ、うるさい叫女。姿を見せないと思ったら、そんなとこにいたか。やはり媒体が見えないと、私にも見えないのか」
蒼海ちゃんはにやりと残酷に笑った。
「そこを動くな。姉さんのあとで、おまえも泣かせてやるよ」
「あはは。ばっかだなー、ソウミ。イチカがあんなのでやられるわけないじゃん」
埃の中から、さっと一陣の金色の光が飛び出してきて、蒼海ちゃんに迫った。
「……知ってるよ」
うれしそうに蒼海ちゃんがそれを迎え撃つ。
「そんな簡単にやられるようじゃ、世話がない。それに、私の生きる意味がなくなる」
それでも最初の一撃は、確実に伊知花にダメージをあたえていたと見えて、左腕が赤くにじんでいた。
一打、二打、三打と振り下ろされる短剣の攻撃を、蒼海ちゃんは軽々と受け流していく。
「たいしたことないじゃない、姉さん!」
笑いだす蒼海ちゃんの顔面に、不意に伊知花の靴底がぶち込まれた。
蒼海ちゃんは派手に転がって、あわてて飛び起きた。
「……くっそ!」
そんな彼女を見て、伊知花は無言で、ポケットから取り出したティッシュを投げた。蒼海ちゃんの小さな鼻から、一筋の真っ赤な血がたれていた。
「い、伊知花あぁぁぁ……ッ!」
顔を真っ赤にして蒼海ちゃんは、鶴嘴を振るった。
「この勝負、イチカの勝ちだなァ」
姿の見えない幼女の声がそう言った。
それは、いまだ状況の飲み込めないでいる、あたしの目にも明らかだった。
そんなあたしの目の前に、突然にゅっと何者かの手が伸びてきた。
あっ、と声をあげる間もなくそいつは、あたしの首に強い力をかけてきたのである。それは他ならぬ、あたし自身だったのだ。
普段の自分からはとうてい想像もつかないほどの馬鹿力で、見る見るうちに呼吸も血流もふさがれる。必死にもがくが離れない。
「わ。イチカ大変だよ!」
声がばたばたと叫んでいる。
ぼやける視界のなかで、あたしのドッペルの肩越しに、青白い巻き毛の女の子が飛びまわっているのが見えた。
自分に殺されるというのも変な気分だった。
それでももともと、自分を殺そうとしたんだ。
だから、これは罰だと思った。
遠くで蒼海ちゃんの、勝ち誇ったような笑い声が聞こえた。
「さようなら、早希さん。目覚めることのない長い旅を。どうかご安全に……」
*
少し、眠っていたようだった。
電車の震動は、疲れた体に心地良い。
あたしは座り直すと、ぼんやり窓の外に目をやる。
海が広がっていた。水面は日差しを浴びてきらきら光っている。
なんだかまるで、夢のようだった。
目を戻すと、向かいのシートにはセーラー服の少女が座っていた。
「ごめんなさい」
と彼女はつぶやいた。
「なにが、ですか?」
とあたしが返す。
伊知花は真っ直ぐ前を向いていたが、その鳶色の瞳に、はたしてあたしが映っていたかどうか。
「これは夢喰の牙。悪夢を喰らうことのできる唯一の武器」
膝の上には、奇妙な形状の短剣が置かれている。三角錐の刀身は、やや反り返り、動物の牙のように見えなくもない。
「夢喰いの……バク?」
中国の想像上の生物の名を口にするあたしに、彼女はたしかにうなずいた。
「夢喰の牙は、あなたの悪夢を残らず消し去る。けれども、それによってあなたは一生夢を見ることができなくなってしまう。楽しい夢も、悲しい夢も、なにもかも」
「夢が……見れなくなる?」
あたしに楽しい夢なんて、あっただろうか。そんなもの、見ないでずっと生きてきただろう。
そもそもそれまでが夢だったのか、これが夢なのか、あたしにはわからない。
「ごめんなさい」
と、もう一度彼女が言った。
「あなたを守るため、蒼海よりも先にこの牙が、【悪夢】を喰らってしまった。あなたの許可を求めているひまがなかった」
胸にぽっかりと穴が空いているような寂しさがあった。それは虚ろで、悲しみすらなかった。
これが夢を亡くすということなんだろうか。
「ねえ、蒼海ちゃんは……? あなたたち一体――どういう……」
伊知花はそっと膝の上の牙に手を添えた。
「これと、蒼海の持つ牙は、もともと同じ聖獣のもの。夢喰と、夢狩――」
「それはどういう……」
「知らないほうがいい」
ぴしゃりと伊知花は言い放ち、口を閉ざす。そうしてもう一切語る気がないとでも言いたげに、長く濃いまつ毛も伏せたのである。
こうして見ると彼女は驚くほど、やはり当然というべきなのだが、蒼海ちゃんに似ていた。
「ただ……」
最後に彼女は、もう一度あたしに謝罪した。
「弟が迷惑をかけてしまって、本当にごめんなさい」
え? と聞き返そうとした途端、あたしの意識は突然わけのわからない深い闇に落ちていった。
*
三度目の目覚めは白い天井だった。
「早希……っ!」
枕元で両親と弟が、口々にあたしの名前を呼んでいた。
全身包帯で巻かれ、なにがなんだかわからなかったけど、なにも考える気力もわかず、あたしはただぼんやりと天井を見あげていた。
あとで知ったことなのだが、あたしが乗っていた電車が途中、横転事故を起こしたらしい。大事故だったわりには、さいわいなことに死者はでなかったそうだ。
ただ医者の話では、あたしはなんか、そうとうやばいところにいたらしい。もう少しで唯一の死者になった可能性があったとか。
眠っているあいだ、なにか夢を見たような気がしたけど、まったく思い出すことができなかった。
誰か――
ひょっとしたら好きになりたかった人を忘れたような気になって、胸のあたりが泣いたように痛んだ。
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