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第一章 西村蓮美
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私の頭のなかには、蟻がいる。
一匹ではない。
無数の蟻が棲んでいる。
いつからかわからない。いつの間にか居て、いつまでも居る。どこから入ってきたのかわからないから、追い出すこともできない。
頭蓋骨の内側で、細かく無数にぐるぐると、延々にくるくると、それはそろってざわざわ騒ぐし、ぞわぞわ這いまわる。こっちの状況なんてお構いなしに、日夜時間場所を選ばずざわざわぞわぞわと。時々なにかを呟いているような気もするけれど、私に蟻の言葉はわからない。
そんなことが続くときには耳かきを突っ込んで、めちゃくちゃに掻きまわさないと気がすまなくなるので困る。
きっと私の脳みそは喰い荒らされ、チーズみたいにスカスカなのだ。
アル中で死んでしまった祖父の脳は、スポンジみたいな写真だった。私もそのうちに誰のこともわからなくなり、自分の顔さえ思い出せなくなる日が来るんだろうか。
窓を見る。
汚れたガラス。そこに映る顔が見れない。
もう何年も、自分の顔をちゃんと見ていない気がする。それならばもうとっくに、思い出せなくなっているのかもしれない。
私は醜い。
けれども、そのことだけはしっかりと思い出せるのだから、私はまだ自分を憶えているのだろう。
この世界から、くまなく私の存在だけを消してしまえたらいいのに。
どれだけアルバムの写真を塗りつぶしたところで、そこに写っている顔たちは、きっと私を覚えているだろう。いっそのこと、そいつらの脳みそ全部喰い尽くして、すっぽり消してくれたらいいのに。
蟻を思う。
貪欲な。
私の中の。
*
(ねえ、夢で殺されるってどんな感じ?)
それは白昼夢。
近くて遠い、セミの音に紛れて耳許でささやくのは、嬌声にも似た吐息。
真夏の陽気にも関わらず、一瞬で背筋が凍りつくような悪寒に襲われた。
たまらず耳をふさぎたくなる衝動を堪え、私は必死に前を見続けた。ふり向いてはいけない。
二次関数の定理が展開されていく黒板の、やや変質的な白文字を追うのがもどかしかった。
(聞こえてるんでしょう?)
試すような嘲りを含んで、声はどこか楽しそうだった。
けれども、私は耳を貸さない。目を向けてはいけない。聞こえていること、見えていることを知られてはならないのだ。
視界の隅で、うすっらとぼやけた女の子が、両肘をついてこちらを眺めているのがわかる。幼く小さな気配から、まだ片手の指ほどの年頃だろう。
三次限目の授業の最中、三階の教室の私のすぐ脇の窓から、無邪気なしぐさでこちらを覗き込むモノが、この世のモノのわけがないのだ。
(ねえ、教えてよ。ハ、ス、ミ)
ふり向いてしまいそうになる。あぶないあぶない。厄介なことに、こいつは私の名前まで知っている。絶対に答えてはいけない。
おばあちゃんに言われたのだ。
こういう存在は、見てはいけない。耳を貸してはいけない。答えてはいけない。ましてや名前など、決して教えてはいけない。
名前には魂が込もる。名前を教えるということは、魂を取られることと同じ。
だから、私は答えない。見ないし、聞かない。
こうして聞こえないふり、見えないふりをしていれば良い。いつも、そうやってやりすごしてきた。
そのうちに向こうがあきらめていなくなるまで、根気強く、辛抱強く。もちろんその間にも、相手はしきりに呼びかけてくるのである。だからそれまで、私はただじっと耐えるのだ。気が狂いそうになる。
それが自分にしか聞こえない声なのだと知ったのは、いつだったろう。
小さいときは、それが当たり前だった。
目に見えるもの、耳に聞こえるものすべて、他の人と同じだと思っていた。
いつも電柱の前にたたずんでいる首のない男の人、お向かいの屋根の上を徘徊しているお婆さん、寝る時になると必ず天井に張り付いている髪の長い女性も……すべてが当たり前のように、誰にでも見えているのだと思っていた。
どこか奇妙であるとは感じていたけれど、あえて誰も口にしないから、そもそもそういうものなのだろうと納得させていた。道端にある小石だとか、空に浮かんでいる雲であるとか、そういった有象無象の存在なのだろうと。
けれどもある日、そのことを母親に話したとき、彼女のなんとも言えない――疑惑、不安、恐怖、警戒……、そういったものすべてを潜めた眼差しを目の当たりにして、ようやく私がおかしいのだということに気づいたのだった。
それでも信じたくはなかった。自分が見ている世界が、他の人たちと違うなんて。
友だちに言ってみたこともある。最初はみんな驚いた顔で、羨望の目を向けてくれたけど、日をおかずそれが白い目に変わり、私はただ気まずい思いをするだけだった。
実際、それがいけないものであることを教えてくれたのは、祖母だった。
(ええかい、蓮美。この世にはねぇ、生物と、ヒトでないモノのふた通りがいるんだよ。蓮美にはその両方を見ることのできる、すばらしい能力があるんだねえ。おまえのおじいちゃんもそうだった。――でも、関わっちゃいけないよ。ヒトでないモノは、人を陥れたくていつも狙っているんだ。言葉に耳を貸してはいけないよ。そう、おじいちゃんのようになったらいけないよ)
おじいちゃんは、私が生まれてすぐに亡くなってしまったので、どんな人なのかわからない。おじいちゃんのことは、家族や親戚の間でも暗黙の話になっている。だから私は、くわしくは知らない。誰に聞いても教えてもらえない。
けれども断片を集めて、その最期だけは知ることができた。
眠りから覚めない病気に罹っていたおじいちゃんは、ある日病院で突然目を覚ましたかと思ったら、そのまま――狂死、したらしい。
(蓮美。おじいちゃんのようになったらいけないよ)
おばあちゃんの口癖だった。
(夢で殺されたらいけないよ)
私は顔をあげる。
視界の隅では、まだおぼろげな幼女の姿をしたモノがいて、無感情にこちらを眺めていた。それはまるで、私が答えるのを従順に待ち構えているかのようでもあった。
真っ青な肌に、ぽっかりと眼窩が空いていて、真っ赤な血に濡れた眼球がのぞいていたのである。
嫌なものを見たな、と思った。それでもいつもどおり、何事もなかったように黒板に目を戻した。
もうどこまで進んだのか、わからなくなりかけていた。私は周囲に聞こえないよう、小さくため息をついた。
こんな能力あったところで、なんの役にも立たない。まったく、迷惑なだけだ。
街中にあふれている、私にしか見えない姿、私にしか聞こえない声――私の苦しみなんて、誰もわかってはくれない。
今日もひとり、長い一日をすごす。まぶたを閉じ、耳をふさぎ、心を閉ざす。
時々見る夢がある。
私は、わりと夢を見るほうだと思う。めずらしくはないと思う。他人と比べたことはないけれど。
それでも夢の続きを見る機会は、人よりも多いような気がする。比べたことはないのだけれど。
いつもの夢だと思った。
真っ暗な道。走っている私。足音が反響する。重圧感と陰鬱な湿気。きっとここはトンネルだ。はるか後ろには、微かな光が見えている。けれども私が向かうのは、背を向けた闇の先。追ってくる足音。私は逃げている。
なぜ逃げているのかはわからない。なぜ追われているのかわからない。本当に逃げているのか、本当に追われているのか。
夢というのは、得てして不条理なものだ。
私が覚えているかぎり、それは小学生のころから見はじめた夢だった。それから高校二年の現在まで。なんの脈絡もなく、まるで忘れたころを見計らうかのように、忘れさせまいとするかのように、その夢は現れる。
ああ、いつもの夢だ、と思う。
しかしそれは、正確には続きではない。
暗く長いトンネルの中、カーブになった道を駆けてくるところから始まる。どこか覚えのある景色だと思うのは、何度も夢に見たせいだろうか。
ここはよく知っている。
覚えている。
何度も後ろをふり返り、誰も追ってきていないことを確認するのに、それでもついてくる足音に悩まされ、もがいて走っている。汗だくで息もあがって、悲鳴のように喉が鳴る。擦れたようにかすれて。引き裂くようにくり返して。たしかめるようにふり返る。
そこで、――夢から覚める。
枕元の時計は、朝の七時に近づいていた。
カーテン越しに感じる光は、まぎれもなく現実のそれだというのに、私は素直によろこべない。
いつもこの夢は、同じところからはじまり、同じ展開をたどって、朝の日差しに終りを迎える。
それは一年に一度ほどの頻度で現れるのだった。ループのように、次見る時にはまた最初から巻き戻し。
だから、同じ夢だと思っている。
もちろん他にも、楽しい夢だったり怖い夢だったり、馬鹿馬鹿しい不思議な夢もたくさん見る。けれどもこの夢にかぎっては、なぜか何度も見てしまうのだ。
しかもそれは、毎回少しずつ進んでいるのだった。
私は目覚めるたび、今回はトンネルのどこまで来たのかわかる。正確には、入口からどこまで入り込んでしまったのか、であるが。
夢というのは、浅い眠りにいるときに見やすいのだと聞く。いつも途中で覚めてしまうのは、日頃の習慣と、レム睡眠のサイクルの問題だろう。
普段なら、指の間からこぼれ落ちる細やかな砂のように、急速に忘れてしまいがちな夢の内容も、私は意識して記憶にとどめておくようにしている。
何度も見る夢に、はたしてなにか意味があるのか、その不思議に少しだけ興味があるのだ。
けれどもそれは天災のようなもので、いつ現れるのか予測もできないし、それこそ本当に、忘れたころにやってくるものだったから、夢の世界に入って、ようやくそのことを思い出すぐらいだった。
そこにきて皮肉なことに、夢の中で夢であることに気づいても、私はその夢を支配することができないのだ。
いつもの先を知りたい気持ちがあるのに、そこから先を見ることができない。
それでも、着実に進んでいることがわかる。
ならばいつか、どこかに行き着くのだろうか。
怖い夢だと思っているのに、心のどこかではその続きを楽しみにしている。来週のTVドラマを待ち望んでいるかのような感覚だった。
たぶん、それは視聴者だから。
どんなに恐ろしい目に遭っても、自分は絶対な安全圏にいることが保証されているから。
だって、それが夢というものだろう。
(夢で死ぬと、本当に死んじゃうんだよ)
不意に声を掛けられたような気がして、私は驚いて顔を上げる。
学校帰りの住宅地。じりじりと、ブラウスにまとわりつく不快な熱気は、いまだ引く様子を見せない。
「なんだよそれー」
通りがかった公園に、数人の小学生の姿が目に止まった。夕暮れの逆光のせいか、まるで影絵のようになっている。
「だからぁ、夢の世界で殺されちゃったりすると、帰ってこれないんだってば」
「なんで、夢でしょ?」
「夢を見てるときって、夢の世界に行っちゃってるんだって。だから戻ってこれなくなっちゃうんだよ」
「うっそだー」
「ホントだってば! ママが言ってたもん!」
「えー」
「でもね、××が助けてくれるらしいよ」
「わ。うそくせー」
「あっちで遊ぼうぜ」
「あ、待ってよー」
歓声をあげて駆けていく子どもたち。私は呆然と立ちすくんでいた。あの年頃が好む、不吉な噂話。
(夢で死ぬと、本当に死んじゃうんだよ)
私だって聞いたことがある。けれどもこの十七年間のうちに、高いところから落ちたり、刃物で刺されたり、何度か自分が死ぬ夢を見た。
たとえ夢で死んでも現実では死なないのは、きっと誰もが身をもって知っていることだ。
(夢で殺されたらいけないよ)
おばあちゃんの言葉がわからない。
(おじいちゃんのようになったらいけないよ)
わからない。
おじいちゃんは、夢で殺されてしまったのだろうか。それと私がこの世ならざるモノを視ること、なにか関係があるというのだろうか。
しかし、あの子ども……なんて言ってたっけ。
(××が助けてくれるらしいよ)
なに――が……?
(夢喰が、)
ゆめ、ぐい?
私はぼんやりと、子どもたちのいなくなった夕暮れの公園をながめている。誘われるようにふらふらと、誰もいない公園に入っていく。
「……ねえ」
突然の呼びかけに、私はふり返る。
気づかなかった。はじめ子どもたちの影になってて見えなかった公園の奥――小さなブランコに誰かが座っているのだ。
その姿、その声、とっさに現実のものか、そうでないのか判断できない。だからこそ、この世ならざるモノに付け入られてはならないと防衛する。
そのせいで、私はいつもすぐには返事をしないようにしている。おかげで世間では、西村蓮美はトロい女という扱いになっているのだが仕方がない。自戒は自衛だ。
私が言うこの世ならざるモノが、一般的に幽霊と呼ばれるものだとしたら、私の能力が霊感と呼ばれるものなのだろうと想像がつく。
もっとも私のそれは、視たり聴いたりすることができるだけで、それ以上のことにはまったく役に立たない、ありがた迷惑なものである。
――美しい少女だった。
年は私と同じくらいであろう、セーラー服に長くてきれいな黒髪と、対照的な真っ白な肌のコントラスト。じっとこちらを見つめる大きな瞳に、小さく赤いくちびる。ブランコの鎖が擦れて子猫のように鳴いた。
ただ。
わけもわからず、ぞッ――とした。
反射的に目をそらしていた。見てはならないものだと本能が訴える。
その瞳は金色に染まり、さながら獣のような冷酷な獰猛さを隠しもっていた。その輝きはヒトにあらず、まさしく魔性のそれだった。
「気をつけなさい」
小さなくちびるが言葉をつむいだ。この世ならざる音色がした気がした。
「あなた、死相が出てるわよ」
真夏の陽炎のように揺らめいて、私はようやく気づく。
そのささやくような音は、こんな距離からでは聞こえるはずないのに。そもそももうずいぶんまえに、危険だからという理由で、この公園のブランコは鎖が外されていたのだ。
骨組みだけのブランコの影が、無人の公園に黄昏のなかにひっそりと浮びあがっている。ひぐらしの鳴き声が響いていた。
家に帰ると、まだお母さんは戻って来ていないようだった。
カバンを部屋に投げ込むと、サンダルをつっかけて庭に出る。
この家はいつも暗い。日当たりが悪いのだ。おかげで、廊下は年中ひんやりしてるし、じめじめしている。昼間でも電気がないと困る部屋もある。
中古物件とはいえ、立派な一軒家だ。お父さんも誇らしげに自慢するぐらいだから、私が文句を言うことはない。でも外から見たら陰鬱だし、さびれている。ここで暮らしていると、ますます陰気になりそうだ。
縁側から取り込んだ洗濯物を投げ入れると、中に戻って台所に向かった。手を洗い、冷蔵庫を開ける。
すかすかの冷蔵庫から、賞味期限の切れた牛乳パックが見つかった。未使用だったが、この季節に三日もすぎていたので、いさぎよく流しに開ける。
「なんだ、蓮美。帰ってたのか」
居間からお父さんが姿を見せる。
「うん」
私は返事をして、でも顔を向けない。
「どうだった、その、学校」
「いつも通りだよ」
蛇口をひねって、紙パックをすすぐ。乾いたら開いて、スーパーの入口にあるリサイクルの箱に出すのだ。
「すまないなぁ」
弱々しく、吐息のようにお父さんが洩らした。
「え、なにが?」
ホワイトソースにでもすればよかったかな、とも思ったけど、グラタンにしてもシチューにしても、いま時期に食べたい物でもなかったからと、すっぱり見かぎった。
「いや、夕飯ぐらい俺が作れれば……」
お父さんの自虐に、私はちょっと笑った。
「いいよ別に。お父さんより私のほうが上手いから」
「そうだな、すまない」
お父さんはまた自嘲的に笑った。
「なにか手伝えることがあったら言ってくれ。タマネギの皮むきとか……」
「うん。大丈夫だよ」
そうか、すまないな。と言ってお父さんは部屋に戻っていった。先月、会社がつぶれてしまって、それからはあまり元気がない。娘の私にまで申し訳なさそうにしている。
時計を見ると、もうすぐ六時だった。ひょっとしたらお母さん、今日も残業かもしれない。
普段は時間があると、隣の小学生の美映ちゃんと遊んだりする。鍵っ子だから、ひとりでお留守番しているのがかわいそうで、面倒を見てもらえると助かると、市橋さんからお願いされていたのだ。でも本当に悪いんだけど、今日は謝っておこう。
私は冷蔵庫に残された食材と、自分の料理のレパートリーを思い浮かべて、ちょっとだけくじけそうだった。
でも、大丈夫。落ち込んでいるお父さんに、おいしいご飯を作ろう。疲れて帰ってくるお母さんに、おいしいものを食べさせてあげよう。そして元気を出してもらうんだ。
家族は助け合って生きているのだ。三人きりの家族。大切にしていこう。
「ほんと、蓮美は料理うまくなったわねえ」
お母さんがうれしそうに、私の作ったじゃがいもとほうれん草の和風炒めを食べてくれた。少しやつれた顔をしていたけど、それはきっと心労から来るものだったから、私はあえて気づかないふりをしていた。
「うん。おいしいよ、蓮美」
隣でお父さんも、弱く幸せそうな顔をしていた。
私はちょっとだけ照れくさくなって、あたふたとごまかした。
「戸棚に粉末の昆布茶があったでしょう。あれ入れると、手軽な和風ダシになるの。前におばあちゃんから教えてもらったから」
「そうか。おばあちゃんは物知りだからなぁ」
感慨深そうに、お父さんが遠くに目をやった。おばあちゃんは去年、私が高校に入学するとすぐに亡くなってしまったのだ。
しいたけ茶は煮物に入れると良いことも教えてくれた。
「今度お母さんもやってみるわ」
お母さんはやつれた顔で笑顔を見せた。それを見て、ようやく私も笑った。
――今日の夢は、いつもの夢だった。
走っている。
私は走っている。
逃げているのだ。
背後には闇。目の前にも闇。
私はなにかに追われるように逃げている。
なにから逃げているのかはわからない。
足音がついていくる。
足音が不気味に反響する闇の中、私はわけもわからず逃げている。
いつまでもいつまでも。カツカツカツ、カツカツカツ頭がおかしくなる。
激しい動悸に、胸が押しつぶされそうだった。
長い長いトンネルの中。
本当に進んでいるんだろうか。不安になる。
夢の中では自由に動けない。力が入らない。一生懸命走っているつもりなのに、本当は全然進んでいない気もする。
なのに、走り続けた疲労も、伝う汗の冷たい熱も感じることができた。
もう、すぐそこまで迫ってきているのがわかる。
ああ、見つかってしまう。
捕まってしまう!
私はあえぎ、乳酸が溜まって上がらない足を必死に動かして。奥へ、奥へ。
どこまで行ったら逃げきれるのかわからないのに、このまま行くしかないジレンマ。
突如――
目の前に扉が現れた。
息を吹き返すように、肺の中の一切を吐き出す。
見なれた天井。嗅ぎなれた空気。
目を覚ましたのは、私の部屋だった。なにもかも昨夜眠ったときのまま。
時計を見る。七時五分前。
台所からは朝食の支度をしている母の気配。
私はため息をついて身を起こした。肌着が汗でべたついていた。
急速に失われようとする記憶を、必死に繋ぎ止めようとする。
現実と夢との境界を意識した瞬間に、それらは交じり合い、より明確な方に淘汰される。
だから私は、少しでも消えてしまいそうな世界に長く留まっていたくて、また目を閉じる。
あの夢だった。
何度目だろう。もう何年目になるのだろうか。
いつも変わらない、いつもと同じ夢だと思っていた。
なのに――
暗いトンネルを走っていた私の目の前に、錆びた鉄の扉が現れた。
いつも見る夢の続きだった。続きがあったのだ。
思いがけない展開に、きっと恐ろしい夢のはずだろうと想像しながらも、どうしてもその先が知りたかった。
続きがあったのだ。
なぜ、私は同じ夢を見続けるのか。その理由がわかればと、いつも思っていた。
夢というのは荒唐無稽なものだと思う。破天荒で支離滅裂。現実では考えられないこと、ありえないことが起こる。それが一層、夢を夢たらしめているものだと思う。
けれども、私の夢は少しも不思議ではないのだ。
いや、おかしいと言えばもちろんおかしいのだが、夢特有の浮遊感こそあれ、ひどく現実的。
夢が夢である必然性を求めるのはおかしな話だけれど、あれが夢である必要性もやはりないような気がした。
半信半疑で一度図書館から、フロイトだのユングだのの本を借りてきたことがあるけれど、なんでも抑圧された性欲で解釈したがるのには辟易してしまった。
夢占いによれば、先の見えないトンネルは、未来への不安の暗示らしい。こっちの方がしっくりくる気がする。
私は自分がない。
主体性がない。意志が弱い。存在感がない。
いつからだろう。私が私を見失ってしまったのは。
私はもっと明るい子ではなかったか。明るく笑え、楽しくおしゃべりできる女の子ではなかっただろうか。
友だちもたくさんいた。
もともと私は、この町の人間ではない。
お父さんの仕事の都合で引っ越すことが決まっていて、それに私の高校入学のタイミングが重なったのだ。
それでお父さんはもうこの町で骨をうずめるつもりで、あの家を買ったのだ。わりと閉鎖的な田舎意識が強いのか、よそ者である私たちに、この無那市は冷たかった。
この高校だって、地元の中学がそのままくり上がったようなものらしかったから、そこに私が入り込む余地がなかった。
いや、私が勝手にそう思っているだけなのだろう。
引っ込み思案の性格がわざわいしているのだ。きっと私の努力が足りない。
はじめのうちはそう考えていた。
でもそれがこの町の気質なんだとわかってしまうと、なんだか途端にさみしく、くやしい気持ちになるのだった。
そのせいか、私は自分の家さえもなんだか落ち着かない。お父さんとお母さんが喜んでいるからいいんだけど、まだ自分の家という感じがいまいちしないのだった。
中古だということもあるのだろうし、まだ全然ローンが終わってないということもきっと関係あるのかもしれない。でもそんなこと、両親に言えるわけない。
「……おはよう」
きっと私は見えないのだ。おそらく私は、幽霊のようなものなのだろう。そう思ってあきらめることにしている。
朝の楽しげなにぎわい。返事のない教室。
ドアを開けて入ってくる私に、誰もふり向かない。
みんなそれぞれのグループにかたまって、おしゃべりに興じている。
こっちから話しかけても無視されるのだ。だから、もうずいぶん学校では口をきいていない。
机の脇に鞄を下げ、いつものように窓の外を見る。私のいない私の知らない話題たちから目をそむけるように。
ため息が出る。慣れればたいしたことじゃない。別になんの問題もない。
空は青く、雲は白い。風にうつろいゆく様子をずっとながめていると、息が止まりそうだった。無性に叫び出したいような気持ちになった。
そんな時、おずおずと青白いモノが姿を現した。窓に張り付いて登ってくるのは、くるくるの巻き毛の子どもだ。昨日見た霊と同じモノだろう。
その肌は青白く半透明に透き通って、眼窩は赤い。その顔はまるで埴輪のようだった。眼球はないのに、じっとこちらを見つめているのがわかる。
私はとっさに目をそらす。
きっと教室の誰にも見えてはいないのだろう。
まったく迷惑な能力だ。私しか見えないのだったら、それを信じることができない。これが幻覚か、夢だと片付けてしまった方がいくらか楽だ。
そうだ。この世界は夢だったらいいのに。
私が無視を決め込んでいるのが気にさわったのか、青白い埴輪顔の少女が、バンバンとガラス窓をたたく。
けれどもその音さえも、悲しいかな、私にしか聞こえないのだろう。クラスの人間は、まるで無反応であった。
それでも無視を貫き通した私に業を煮やしたのか、だらしのなさそうな口もとを意味ありげにつりあげた。
(――もうすぐだよ)
私は聞かない。
(気をつけなよ。夢に殺されちゃうからね)
驚いてふり返ると、そこにはもう幼女の姿はなく、早朝のグラウンドがまぶしいばかりに広がっていた。
なんだか気分が悪かった。胃のあたりが不快だった。
始業の時間まではまだ余裕があったので、トイレに行こうと立ち上がる。それでも誰の目にも止まらない。
教室のドアを閉めると同時に、言い知れない安堵が襲ってきて、思わずその場に座り込みたいほどだった。
「――おはよう」
不意の声が、自分に向けられたものだと気づくには少し時間が掛かった。
「おはよう。……西村蓮美さん」
そう言われて、ようやく顔を上げる。
始業前の廊下は、いろんなクラスの生徒がまじっていて、教室よりは少し居心地がよかった。
けれども誰に呼ばれたのか一瞬わからなくて、私はついきょろきょろと見渡してしまう。
でもよく考えれば、それがこの世ならざるモノの可能性だって充分あったわけで、さすがに油断したというか、迂闊だったことも否めない。
けれども目の前にいたのは、私と同じセーラー服を着た少女であったから、その警戒はすぐに薄れたのだったが。
可愛いというよりは、きれいな少女だった。けれどもそれは、彼女から発する、凛とした静けさにも似た気配から感じさせるものだった。
あれ、誰だったっけな、と思った。
クラスの子じゃないのは間違いなかったけど、他のクラスにはそれ以上に心当たりがない。
相手が私の名前を知っていて、話しかけられるような理由が思いつかなかった。
ぽかんとしていると、その子は私の目をのぞき込むようにして、もう一度言った。
「おはよう、西村蓮美さん」
「あ、おはよう……ございます」
とっさに答えたものの、やっぱり思い当たらない。
「顔色が悪いわ。よく眠れなかった?」
「え。い、いいえ、別に……」
朝の挨拶だけなら社交辞令的なこともありうるだろうが、それで終わらなかったことに私はますます混乱した。
必死に相手の名前を思い出そうとして、でもそれが出てこないことにあせった。
「三國よ。隣のクラスの」
彼女はうすく笑った。よほど私が困っていたのが顔に出てしまったのだろう。
「あ、ああ。えっと、三國……さん?」
言葉にしてみたが、ちっとも記憶に引っ掛からない。私がこの高校に入ってからの一年数か月をおさらいしながら、おおあわてで彼女との接点を探す。よくある苗字でもないのだが。
すると、やはりまるでそれを察したかのように、彼女は冷たく楽しそうに微笑んだ。
「やだな。昨日、会ったじゃない」
ぞっ――と。
途端に全身の毛穴が背中に向かって開いていく寒気に襲われた。
私はすぐに目の前の少女の顔が、昨日公園で見かけた――あの、すでにないはずのブランコに乗っていたセーラー服の少女と重なったのである。
ああ!
口を塞ぐ。
声を交わしてしまった。おばあちゃんにはくれぐれもだめだと、気をつけろと言われていたのに!
でも――
私は彼女に対して、不審な違和感がない。
いわゆる生者でないモノが持つ不吉な不気味さ――たとえばあの窓に張り付いていた幼女のような、ひと目で死者とわかる姿や、異常が感じられないのである。
じつは、この世ならざるモノを簡単に見分ける方法がある。私も一瞬で判断がつかないときには、まず影を見る。
光に照射された物体の影は、実体があるものしかできない。
肉体の存在しないものに影はない。
恐る恐る足許に目を落とす。
校舎の中だから、そもそも影が映るような場所ではなかった。それでもぴかぴかに磨かれた床には、おぼろげではあったが、たしかに少女の足が反射していたのだった。
それでも私は、まだ安心できない。
昨日見た彼女は――私が恐れた姿は、金色の瞳をしていた。
ところがいま目の前にいる三國と名乗った彼女は、まわりにいる年頃の少女同様、翳りのない澄んだ鳶色の瞳をしていたのである。
「大丈夫よ」
するとやはり、まるでなにもかも見透かしたかのように、三國はゆっくりとささやいたのだ。
「私は生きているわ」
思わず悲鳴を上げた。
足下からガラガラと現実が崩壊していく恐怖だった。きっと傍から見たら、きっと私は狂っていたに違いない。
すべてが夢であったら、どんなにかいいだろう。
この世は夢だ。
私は夢を見ているのだ。
――そうして私は、夢の中にいた。
目の前に扉がある。
暗いトンネルの中。ぬるい空気は動かない。
心臓の高鳴りも、肺の熱さも、足の痛みもどこか現実ではない。
あの夢の続きだった。
錆びた鉄の扉。立ち止まっているのに響いてくる足音。
ああ、追われている!
逃げなきゃ、逃げなきゃ――
殺されてしまう!
私はそこで、明確に自分の命が狙われているのを感じた。
そうか、私は殺されそうなんだ。だから逃げているんだ。
でもなんで。一体誰に。
足音の反響はどんどん近づいてくる。どくどくどくと心臓が鳴った。
ドアノブのざらついた冷たさが、手のひらを通して伝わってきた。
足音が大きくなる。
「ハスミ……!」
声がした。
私の心臓はさらに跳ねる。
恐ろしい声だった。
その殺人者は――ああ、私は今ようやく気づいた。
追ってくるそいつはすでに人を殺していて、そうして私も殺そうとしていることに!
「ハスミ――っ!」
なぜ私の名前を知っているんだ。私は知らない。こいつを知らない。
勢いよく扉を引いた。
逃げなきゃ、逃げなきゃ。殺される。殺される――
私も○○のように殺されてしま
目を覚ます。
明るい日差しと楽しげなにぎわい。
私はしばらく、状況が理解できなかった。
教室だ。自分の席。いつの間に戻ったんだろう。いつから眠っていたんだろう。
さっきまで朝じゃなかったか? もうすぐHRがはじまるから、急いでトイレに行こうと思って、そして――
あたりを見まわす。時計を見ると、昼休みのようだった。
ひょっとして、午前の授業はずっと寝てたんだろうか。誰も起こしてくれなかったんだろうか。目覚めても誰にも気づかれないのだから仕方ない。自分の机は居心地が良いのだ。
……あれ? 思い出せない。
私、どうしたんだっけ。
たしか朝、誰かに会った気がする。話しかけられた。
でも、だれ? クラスの子? ううん、ここでの私はいないものだから、誰かに話しかけられることなんてありえない。
じゃあ、先生? ううん、ここ最近は先生も私を無視するようになった。いや、それは私の被害妄想なのかもしれないけど。
ああ、でも思い出せ。
いま見た夢のこと。なにかとても大事なこと。なにか引っ掛かる。
私はなにを思った?
誰のように、自分も殺されてしまうと――思わなかったか?
なんだろう、このおかしな感覚。
今朝の夢。トンネルの途中に出てきた扉。
今の夢。トンネルのなかにあった扉。
私はそれを、今朝の夢の続きだと思った。こんなこと初めてだ。いつものリズムじゃない。こんなに早く夢が続くのはおかしい。
だから、きっと違う。
無意識が意識して、今朝見た夢の続きを作り出しているだけ。
これは本当に、私が見たかった夢じゃない。本能が好んで見ようとした夢だった。
だから作りものだ。紛い物の夢なのだ。
夢に本物と偽物があるというのはおかしな言い方ではあったけど。
私はいま見た夢を信じない。
だから、どうでもよかった。気にする必要はないのだ。なにも気にならない。
私が○○のように殺されてしまうなど……
――あれ?
誰のように……なんだっけ?
いけないいけない。もう忘れてしまってる。
でも、夢なんてそんなものだ。いちいち気にしようとしている私がどうにかしている。
夢は覚めるまでが夢。
私はおかしいのだ。
そうだ、やっとわかった。私は自分の見たがった夢を作り出して、続きを楽しみにしているだけなのだ。それこそ何年もかけて。
それに不吉な暗示や、特別な意味を与えたがっていたにすぎない。
昔見た夢がスリリングで、その高揚感が忘れられなくて、また見たいと心のどこかで思っていた。それがどこかで覚えていて、忘れたころに思い出させようとした。それが答え。
長く焦がれた夢の終着にしては、なんて残酷で明快な結末であろう。
私は笑いだしたい気持ちだった。つい声を出してしまいそうになったけど、こんなところで一人で笑っていたら、クラスメイトにどんな目で見られるか。
さて、次の授業はなんだったろう。そういえば、お弁当は食べてないはずなのにちっともお腹が空かない。
私は晴れやかな思いで顔を上げた。
ド……っと心臓が鳴った。
すぐ脇の窓にはべったりと、青白い幼女が張り付いていたのだ。
真っ赤な眼窩はまるで、血の涙を流しているようで、ぽっかり開いた無機質な口は、出来の悪い陶器の人形のようである。眼球がないのに、こちらを見ている。私は見られている。
どこで摘んだのか白い花を持ちながら、青い娘は赤い瞳で笑った。
「ねえ、ハスミ。夢で殺されるって、どういう気分?」
ああ、夢だ。
私は目を閉じる。
見たくないものをふさいで、現実に戻るため。
なのに、再び目を開けたのに、そいつは消えてくれなかった。
楽しそうに女の子が笑っていた。姿こそ子どもだが、得体の知れないこの世ならざるモノなのだ。
何者かは知らないが、どうも厄介なことに魅入られたらしい。いわゆる「とり憑かれた」とか、そういう状況だ。
私はたまに視えたり聞こえたりするていどの能力しかない。それも意識してできるものでもなく、自然に入ってくるものとして認識している。受動態なのだ。
だからこうした時、どうやって対処したらいいのかわからない。
(耳を貸したらダメ。答えたらダメ)
私には追い払うこともできないから、ただ逃げるしかなかった。
午後の授業が始まるチャイムを聞きながら、私は勢いよく立ちあがると、そのまま駆けだした。もちろんそんな奇行ですら、誰の関心も引かないだろうことはわかっていた。
私はどこにもいないのだ。
ああ、そうか。
私はさみしいのだ。
そう気づいた瞬間、涙があふれてきた。けれども、どうして悲しいのかわからなくて、胸が裂けそうなほど痛んだ。
――ごめんなさいね。
耳の奥で声がする。聞き覚えのある声と言葉。
誰に言われたんだっけ。
いつ言われたんだっけ。
なんで言われたんだっけ。
私はぽつんと立っていることに気づく。
なんの前触れもなく、じつに唐突に。
知らない場所にやってくる。
やはりこの世界は夢なんだろうか。
真っ白な壁、光。薬品の匂いのする落ち着いた空気に、ここが病院のロビーだということに気づく。
それから自分が花を持っていることに気づき、なんでこんなところに来たんだろうと考えて、ああそうかと思い出す。
母のお見舞いに来ていたのだ。
私も昔は注射が怖かった。
正直大人になった今でも、「好きか」と問われれば、即座に首を横に振る。
だいたい注射なんて、肌を傷つける行為だ。もちろんその必要があるからなんだけど、できればもっと、見た目にも恐ろしくない手段はないものだろうか。
私が小学生の頃は、貧血検査は耳たぶを切りつけて採血するというものだった。
小さな刃物でプツっと皮膚を刺されるわけであるが、むしろ痛みより、耳の間近で聞くその音の方が恐ろしかったのだ。
最近はやり方も変わったらしいから、注射ももっと改善すべきだと思う。
この歳になっても、針を刺される時に固く眼を閉じてしまうなんてはずかしくて人には言えない。
でも、そんなことを言ったらお母さんに失礼だ。お母さんだって好きで毎日痛い思いをしてるわけじゃない。
「いつもごめんねえ」
やつれた顔で、申し訳なさそうに弱く微笑んでいた。
「いいよ、どうせ夏休みだし、今日はバイトも休みだしね」
細い腕から伸びたチューブが、痛々しさを物語っている。自分の苦手意識のせいか、なかなか直視できない。そのおかげで、そんなお母さんの姿にもまだ慣れなかった。
「ちゃんと食べてる?」
「お母さんよりおいしいもの食べてるつもりだけど」
「そう……」
笑ったようだった。
枕元に買ってきた花を飾る。最近は、わざわざ花瓶に活けなくても、普通に一週間以上はもつような物があって、結構便利だ。
「えっと――、なんか欲しいものある? ちょっと売店行ってくるけど」
十分も経たずにそんなことを言ってしまったのは、やはり親の点滴姿を見たくなかったからなのだろうか。
仕事中、お母さんが倒れた。過労とストレスによるものらしい。
他にも医者は難しいことを言っていたけど、わかったのは入院が必要だということと、無理をさせてはいけないこと、退院するころには元気になるということだった。
「ゆっくり休んだらいいよ。お母さん、働きすぎなのよ」
「大丈夫よ、蓮美は心配性ねえ。悪いけど、家のことお願いね」
お母さんは申し訳なさそうだった。
「ごめんなさいね」
「え、なにが? よしてよ、お母さん」
私は笑った。母親の姿が弱々しく見えて、すぐにそれを打ち消したかった。認めたくなかった。
「あんまり遅くなるとあれだから、早く帰りなさい」
優しく諭すようにお母さんは微笑んだ。私は少し迷ったが、それが正しいように思えて、素直に従った。
家に帰ると、焦げくさい嫌な臭いがした。
暗い廊下を歩いていると、お父さんが照れたような困ったような顔で出てきた。
「お帰り」
お父さんはもうずっと元気がないけれど、今日は普段より悲壮感があった。きっと今日の面接、うまくいかなかったんだろう。
「うん、ただいま。どうしたの?」
「いやなんでもないんだ。ちょっと鍋を焦がしてね」
伸び放題の頭をかく。
「慣れないことはするものじゃないな。みっともない」
「大丈夫?」
「ああ、ごめんな。いま水に浸けてるから」
「うん、わかった。あとは私がやっとくね。お父さんは休んでて」
そう言うとお父さんは、一層悲しそうに目を伏せた。
「……ごめんな、蓮美」
廊下に消えていく背中が小さかった。
私は制服のまま台所に入ると、まず流しを確認する。
私やお母さんに気をつかって夕飯の支度をしようとしてくれたのであろうが、真っ黒になった鍋底にこびり付いた物からは、なんの料理であったのか想像することはむずかしかった。
壁のカレンダーを見る。
十月。
変なところが几帳面な私の習慣で、一ヵ月分のカレンダーにも毎日斜線を引いているから、今日は二十四日だというのがわかった。
春先にお父さんの会社がつぶれたわけだから、もう半年になるのか。なるべく本人には言わないように気をつけているけれど、早く良い仕事が見つかればいいなと思う。
そうしたらお母さんだって、無理して働いて、倒れるまでがんばらなくてもよかったのではないか。
いや、でもそれは誰のせいでもない。
誰かのせいにしてしまうのは簡単だけど、私たちは家族だから。助け合って生きているのだ。だから私も、自分のできることをしよう。
本当は春からアルバイトをしたかったんだけど、私立のウチの高校の校則では、学生のバイトは禁止されている。
隠れてやっている人もいたけれど、私はそういうことができない。これは性分。決まり事を破ることができないのだ。それは悪いことだから。
たぶんそれは、両親のおかげだ。二人とも真面目すぎるぐらい真面目だから、曲がったことが大嫌い。私がまっすぐいられるのも、この両親のおかげなのだ。
でも本当はこっそり夏休み、ちょっとだけやったことがある。もらったお給料は、全部家に入れた。内緒だ。
お父さんだって苦労しているんだ。きっと私が思ってる以上に悩んでるし、困ってるし、つらいはずだ。
私にできることはなんだろう。そんなことを考えながら、金タワシを取った。
鍋の焦げはなかなか落ちなかった。
――お母さんが死んでしまった。
順調に見えたのに、急に容体が悪化して、本当にあっという間だったという。
私がお見舞いに行って、わずか二日後のことだった。
――ごめんなさいね。
私は夢の中でお母さんの声を聞いた気がした。
電話の音で目覚めた午前一時すぎ。お父さんが受け答えをしていたけど、そのただごとではない気配に、私は布団の中で、考えたくもない嫌な予感と戦っていたのだった。
私は負けてしまった。
お父さんが真っ青な顔で部屋に入ってきて、「蓮美。お母さんな……死んじゃったって」と泣きくずれたのだった。
それからはすべてが他人事のようにすぎていった。
お葬式をやって、いろんな人が来て、私とお父さんはみんなに頭を下げた。お隣の美映ちゃんもお母さんと一緒に来てくれた。なんだか申し訳なかった。
病院のえらい人が、深々と腰を折っていったけど、私もお父さんもどうする気力もなくて、ずっとだまっていた。
お父さんがいま仕事がないことも、来た人にわかってしまって、そのせいでお母さんが働きすぎて死んだんだって、そんな言葉を私はあちこちで聞かされた。
お父さんは式の間中、ずっと下を向いていた。その隣で私も、下を向いていた。
参列者の帳簿に、黒々とした名前が並んでいくのを、ただながめていた。
『三國 』
書きかけの文字を追っていた私は、驚いて顔を上げた。
目の前に、私と同じセーラー服姿の少女が立っていた。冷たい秋風のなかでも、真っ白な肌は少しも染まっていなかった。
私はどうしたらいいのかわからず、とっさにお辞儀をした。
彼女がなんであれ、お母さんの葬儀に来てくれたのだ。学校の人はだれも来るはずがないと思っていた。
三國さんは冷たい目をしていた。真っ直ぐな目だった。
ここ何日か――お母さんの死を聞かされた夜だから、今日で三日めか――まともに眠っていない。きっとひどい顔をしてるんだろうな、と思って私は笑った。
「ありがとう」
私の声もぼろぼろだった。
三國さんは答えなかった。ただ、全然表情は変わらないのに、とても悲しそうだった。
その悲しみは、私のそれに似ている気がした。
「……夢は記憶の再現よ」
白い小さな顔の中にあって、まるで牡丹の花びらのようなくちびるが、そっと開いた。
「わたしを思い出しなさい」
心なしか、少しだけ強めに三國さんが言った。どういう意味なのかわからなかった。
問い質そうとしたが、そこにはすでに少女の姿はなくなっていて、私はあわててあたりを見まわした。
結局、暗い家に集まった黒い人たちのなかから、彼女の姿を再び見つけることはできなかったのである。
けれどもたしかに、そこにいた証拠として、しっかりと私の手許には、その存在が記されていた。
『三國伊知花』――と。
私は走っている。
真っ黒な闇の中。走り続けている。どこにも行き着けない不安を抱いて。
追ってくるなにか。見えるはずなのに、決して見てはならないなにか。
もしもそれを見てしまったら、その時こそこの夢の終焉。
それがわかっているからこそ、見てはいけないのだと知っている。
そして扉。
ためらうことなく開ける。
足音はすぐそこまで来ている。
逃げなきゃ――殺されてしまう!
お母さんのように――!
転がるように扉の奥に逃げ込む。
部屋だった。
トンネルの途中にあった扉、その奥には部屋があった。
せまい部屋だ。荒れて汚い部屋。
そこにはなにもない。
これ以上逃げる先も、隠れるところも。
ああ、夢だ。
夢のなかで夢と気づけば、その夢は覚めるだろう。
だから私は、覚めろと念じた。早く覚めろ。
これ以上はダメだ。これ以上は危険なのだ。
見てはいけない。知ってはいけない。
部屋には壊れかけのタンスがあった。
そんなところに隠れたって無駄なのに。どうせすぐ見つかってしまう。まるで、子どものかくれんぼうではないか。
なのに夢のなかの私は、おおあわてでその中に忍び込むのだ。しっかりドアを閉めて。
だけどタンスは壊れているから、すき間から丸見えなのだ。私はバカだ。
足音がする。
息がつまる。
誰かが部屋の扉を開ける。入ってくる。
悲鳴をあげそうになった。そいつが私を捜しているのがわかる。
慎重に歩きまわる気配が、緊張感が、息づかいが伝わってくる。ゆっくり、ゆっくり。
本当はここに私が隠れていることなんかすっかりわかっていて、わざと焦らすように歩いているんじゃないか。この部屋にはこのタンス以外、隠れられる場所なんてどこにもありはしないのに。
なんで今日に限って、夢から覚めないんだ。
今日はいつもより長い。このままじゃ私、殺されてしまう。
それともこれは、夢じゃないんだろうか。
せまいタンスのなかが、私の息と体温で蒸し暑かった。
そいつは部屋のあちこちをくまなく調べつくしたあと、ようやく思い出したようにこちらに向かってきた。
タンスの戸一枚を隔てて、そいつは立ち止まり、静かに息を飲み、そうして言った。
「苦しまないようにしてあげるから」
恐慌に駆られ、私は目一杯の力を込めて、戸を押し開けた。
それは見事にそいつの顔面に直撃して、苦悶の悲鳴をあげさせることができた。
鼻を押さえてうずくまるそいつを避けて、私は部屋の外に逃れる。またトンネルに戻るのだ。
けれど、部屋を飛び出したところで私は異変に気づいた。
――ここはどこだろう。
私の知っている、夢のなかのトンネルではない。
線香のにおいがした気がする。夢に匂いはない。
違う!
私ははッと世界を取り戻す。
フローリングの床、カビの落ちない壁紙。恐る恐る手を這わせると、記憶通りの場所にスイッチ。
点灯。
ああ。
そこは、私たちの家だった。両親と暮らす古く暗い、湿った家。
「……ハスミ――」
くぐもった声にふり返れば、いま飛び出してきた部屋からは、鼻血で顔を真っ赤にしたお父さん。
私はなんてことをしてしまったんだ。お父さんにケガをさせてしまった。
駆け寄ろうとして、そこで足が止まる。
お父さんの手に、ぎらりと光る包丁が――
「ど、どうして……」
私の問いかけに、お父さんは泣いていた。
「ごめんな。ごめんな、蓮美……」
その涙を見て、ようやく私は理解した。
私はこれから、お父さんに殺されるんだ。
でもそれは、お父さんの弱さとそして優しさだった。
「ごめんな。本当にごめんな。お父さんもすぐにいくからな。……ごめんなさい。本当にごめんなさい」
私は目を閉じた。
ずっと長いこと夢だと思っていたのが、じつはただの夢ではなく、自分が死ぬ場面に通じていたのだと、最期に知ることができてよかった。
ようやく夢が現実に追いついた。
だから、私は今日この場で死ぬのだ。夢の終わりは現実の終わり。
けれども、それも仕方のないことだった。
お父さんがかわいそうだった。
お母さんがかわいそうだった。
私がかわいそうだったのだ。
「さあ、蓮美。苦しまないようにしてやるからな。すぐだから。すぐだからな」
目を開く。
痛いのは嫌だった。血だっていっぱい出るんだろう。怖かったけど、目をつぶっちゃだめだと思った。
最後の一瞬まで、私はこの世界を見ていないといけなかった。それが私なりの決別だった。
私の頭上には、不気味に光る刃物が、いまにも振り下ろされんとするところだった。そうしてそれを握るお父さんの形相は恐ろしくて、本当に私の知っているお父さんなのだろうかと疑ってしまうほどだった。
ああ、そうしてその一瞬――
ハスミ、と。どこかで誰かが私を呼んだ気がした。
誰だったろう。子どもみたいな声。どこで聞いたろう。
私はすぐにその声の主を思い出すが、それはあの青白い幽霊の幼女で、どうしてこんな時に聞こえるのか理解できなかった。そもそもあの霊は、一体なんだって私の前に姿を現したのだ。
けれども、もういまとなってはどちらが夢かわからない。すべて夢でもいいではないか。
断続的な日常。変わらない毎日。私に話しかけてくれたのは、この子と三國さんだけだったなぁと思うと、なぜだか不思議な親しみもわいてくる。
ああ、そうだ。三國さんだ。
隣のクラスの子。きれいだけどちょっと怖くて、少しさみしそうな子。あの子とは友だちになれたかもしれない。
そうして最期には、幸せな夢を見て笑おうと思った。
けれどもお父さんの包丁は、私に達することはなかった。
私たちの間を、金色の光がさえぎった。
「ひゅー、間一髪だね!」
あっけらかんとした幼女の声が、どこかからした。ふり向くと、埴輪のような顔をした青白い子どもの幽霊が空中に浮かんでいた。
目の前にはセーラー服のスカートをひるがえし、私に襲いかかってきた包丁を、ナイフで受け止める少女の姿があったのだ。華奢な手には黒い革の手袋がはめられている。
「めめちゃんが干渉しなかったら、この子、あんたのことなんてきっと思い出さなかったよイチカ」
その横顔は彫像のように美しく、そして冷たく、濃いまつげの奥の瞳は、さながら獣のように金色の輝きを放っていた。
「三國、さん……?」
彼女はふり返らない。
それはナイフというより、短剣と言えたかもしれない。刃は三角錐状になっていて、斬ることよりも突くことに特化しているのかもしれなかった。
――まるで、獣の牙のようでもあった。
ぎりぎりと、包丁は牙に押されていく。大人の男の力にも、三國さんは顔色ひとつ変えなかった。
不意に三國さんは力を抜き、相手はバランスをくずした。すかさずその腹部を、靴底で蹴り飛ばす。
それはものすごい力で、お父さんの体が部屋の奥まで飛ばされて見えなくなってしまったのだった。
唖然と見送る私に、三國さんは息をついた。
「西村蓮美さん。わたしを思い出してくれたから、あなたの夢に入り込むことができた。あと一歩遅かったら、あなたは夢に殺されていたかもしれない」
「そうそう。また、ね」
空中を浮いている青い幼女の幽霊が、にやにやからかうように笑っていた。それは三國さんの顔のそばにまとわりつき、彼女の肩に手を置いて落ち着いた。どうやら三國さんにとり憑いているものらしい。
「……また? え、夢――これは夢なの? 私はまだ夢を見ているの? え、え? いつから……?」
三國さんは無造作に、手にした無骨な短剣を振るった。
すると、驚いたことが起こった。我が家の廊下がその斬撃の形に、まるでバターでも切るかのようななめらかさで、すっぱりと裂けてしまったのである。
そうしてその切れ間から、もやもやした――星雲のようにきらめいていたが、禍々しくおぞましい影が揺らめいているのがのぞき見えたのである。
「これは夢喰の牙。悪夢を喰らうことのできる唯一の武器」
黒い手袋越しに、彼女は短剣を握り直した。よく見ればそれは、一本の三角錐状の棘に、握りの部分を削って作ったような物でしかなく、短剣と呼べるほど刃物の形状はしていなかった。
「悪夢……。三國さん、あなたは一体何者なの? もしこれが本当に私の夢なら、どうしてあなたはそこに出てこれるの? あなたは私の悪夢を消してくれるの? それにこの子はなに」
「あたちはめめ。バンシーのめめちゃんですよー」
青い幽霊がすばやく返事をする。うれしそうだった。「あたし」が「あたち」に聞こえるほど舌足らずである。
「……バンシー?」
「西洋の精霊だ。その姿は本来、死に近づいた者にしか見えない」
三國さんが答える。
「気をつけろ。――来るぞ、本体が」
その言葉が終わるより早く、雄叫びのようなものが響きわたった。
そうして部屋の奥から、両腕をだらりと垂らしたもやもやの霧状のヒト形が姿を現したのである。
「お父さん!」
「残念だがあれは西村さん、あなたの夢だ。本物の父親ではない」
お父さんの顔をしたその暗い靄は、見る見るうちに風船のように膨れ上がると、とうとう私たちを見下ろすまでになってしまったのである。
これでは本当に夢だ。なんだ、やっぱり夢だったか。夢でよかったんだ。
いろいろあって驚いてばかりだったけど、でも夢なら安心だ。だって、夢だろう。どんな目に遭ったって、現実の私は安全なはずだから。
「バカだなぁ、ハスミは」
バンシーが鼻で笑った。
「夢で死んじゃったら本当に死んじゃうんだよ。言ったじゃないか。それに、現にハスミは――」
「めめっ!」
三國さんのするどい叱責が飛ぶ。バンシーは身をすくませた。
「な、なにさ! イチカはお人好しのつもり? それが不幸かもしれないってのに」
「どういうことなの」
私の問いに、三國さんはやっぱりふり返らない。
「夢喰の牙は、あなたの悪夢を残らず消し去る。けれども、それによってあなたは一生夢を見ることができなくなってしまう。楽しい夢も、悲しい夢も、なにもかも」
「言ってる意味が、わからない……」
バンシーのめめは、ちらちらと三國さんを確認するようにしながら言った。さっき怒られたので、怖がっているらしかった。
「どうせ覚めない夢なんだ。ここで夢に殺されるか、残りの人生夢なしですごすかってことだよ」
巨大な黒い雲は、もうすでにお父さんの姿ではなく、ただただ真っ暗で底知れぬモノになっていた。そうしてでも目だけはぎらぎらと輝き、殺意とも違う、純粋な破壊本能を宿らせ、こちらを見つめていたのである。
これが現実のお父さんでないというのなら、これを消し去ることによって私が現実に帰ることができるのなら、――帰りたいと思った。
お母さんも死んでしまったのだ。ここで私が死んでしまったら、残されたお父さんは一人ぼっちだ。
「……後悔しないわね」
私はうなずく。
三國伊知花は悲しそうに目を伏せた。今頃になって気づく。なんだかこの人は、私によく似ている。
黒い影は腕を伸ばす。振りかぶり、振りかざし、そうしてすべてを押し潰してしまおうとするように。
それを待ち構える三國さんは、まるで人間の大人と仔猫ぐらいの体格差であった。
三國さんは牙を振るう。獣はその牙で影を喰らう。
影は苦痛の声をあげた。めちゃくちゃになって腕を振りまわす。三國さんはすべて紙一重でかわしていく。その合間に、一撃、また一撃と、彼女の牙が闇を抉り取っていく。
それはまるで、発泡スチロールかなにかでできた、簡素な作り物のような造作であった。三國さんの牙が黒い雲を突き、切り裂くたびに、徐々に欠けてくずれていくのだ。そうして相手の攻撃は、まったく彼女には届かない。
それは――、いまだまったく自分の置かれた状況の理解できない私でも、その先ははっきりとわかっていた。
彼女は強い。そうしてもうじきに、私の悪い夢のすべてを終わらせてくれるだろう。
だからせめて、この夢が覚めるまえに伝えておきたいことがあった。
「三國さん!」
牙を振りかざし、駆けだす獣に、私は声のかぎりに叫んだ。
「もしこの夢が覚めたら私たち……ねえ、お友だちになってもらえるかな?」
そうして金色の一閃が、私の世界を切り裂いた。
*
まぶしい日差しに目を覚ます。
静けさ。ひとの声。
教壇では数学の先生が、二次関数の定理を証明している。
あたりを見まわすと、クラスメイトたちが黙々と板書をノートに写し取っている。
ああ、良い天気だ。思わず昼寝してしまっていたらしい。
心地良い風が入り込んでくる。開いた窓の外を見る。
グラウンドでは、よそのクラスが体育の授業中のようだった。もう、バンシーの幼女を見ることはないのだと、私はうれしいようなさみしいような気持ちになった。
どこからどこまでが夢だったのかは結局わからない。全部夢だった可能性も、やっぱりあるのだろう。それにこの現実でも、たしかめたいこともたくさんある。
夢は終わったんだ。
現実に戻らなければ。
私は顔をあげて、黒板を見た。
…………あれ?
どうして、まだ数学なのだ。
どうして、また二次関数なのだ。
机に目を落とす。ノートも教科書も出していない。私はいつから眠っていたんだ。
「どうして!?」
どうしてその代わりに、私の机には花があがっているんだろう!
花びんに生けられた白い花が、窓から吹く風に、小さく揺れていた。
*
夕暮れの公園。
ブランコが軋んだ嫌な音を立てる。長く伸びた影は少女の姿をしていた。
彼女は冷たい面差しで、視線はどこか遠くを見つめている。そんな少女に、どこからともなく声が話しかける。
「今回のはまた変な夢だったね、イチカ」
底抜けに明るい、無邪気な子供のようだったが、その姿は薄暗がりの中でよく見えない。いや、そこにいるのかもわからなかった。
少女は無言でブランコを漕いだ。錆びた甲高い金属の音が、無人の黄昏に響いた。
「幽霊だって夢を見るんだね、知らなかったよ」
「……あなたは見ないの、めめ。あなたも似たようなものでしょう」
少女の小さなくちびるは、牡丹の花のように鮮やかな赤い色をしていた。
それを声は笑い飛ばした。
「ヤだなぁ。あたちが眠らないことぐらい、イチカだって知ってるじゃない。そんなもの、無意味だよ」
「……そうかしら」
ブランコは速度をあげる。
「自分が死んだことに気づかない死者が、延々と自分の死をくり返す夢を見るなんて――めずらしいことじゃないわ」
声はまるで人懐こい仔犬のように、あわててついてこようとする。
「一度夢に殺されている子が、死んでも夢に殺されようとする。まるで夢にとり憑かれてるみたいだ。――けど、イチカが幽霊助けなんてねえ。あ、でもあれは助けたとは言わないのかな。ひどいことをした。そうそう、最期になんか言ってたよね、ハスミ」
勢いをつけて、少女はブランコから飛び降りた。セーラー服のスカートがひるがえり、艶かしい肢体が伸びたのを、誰も見た者はなかった。そしてその内腿に巻きつけられた、まるで獣の牙のような短剣の存在も。
「聞こえなかったわ」
少女が着地すると同時に、その公園にはブランコの骨組みだけが残った。不思議なことに、そこにはないはずの鎖の軋むような音が、いつまでも黄昏のなかで鳴り止まなかった。
一匹ではない。
無数の蟻が棲んでいる。
いつからかわからない。いつの間にか居て、いつまでも居る。どこから入ってきたのかわからないから、追い出すこともできない。
頭蓋骨の内側で、細かく無数にぐるぐると、延々にくるくると、それはそろってざわざわ騒ぐし、ぞわぞわ這いまわる。こっちの状況なんてお構いなしに、日夜時間場所を選ばずざわざわぞわぞわと。時々なにかを呟いているような気もするけれど、私に蟻の言葉はわからない。
そんなことが続くときには耳かきを突っ込んで、めちゃくちゃに掻きまわさないと気がすまなくなるので困る。
きっと私の脳みそは喰い荒らされ、チーズみたいにスカスカなのだ。
アル中で死んでしまった祖父の脳は、スポンジみたいな写真だった。私もそのうちに誰のこともわからなくなり、自分の顔さえ思い出せなくなる日が来るんだろうか。
窓を見る。
汚れたガラス。そこに映る顔が見れない。
もう何年も、自分の顔をちゃんと見ていない気がする。それならばもうとっくに、思い出せなくなっているのかもしれない。
私は醜い。
けれども、そのことだけはしっかりと思い出せるのだから、私はまだ自分を憶えているのだろう。
この世界から、くまなく私の存在だけを消してしまえたらいいのに。
どれだけアルバムの写真を塗りつぶしたところで、そこに写っている顔たちは、きっと私を覚えているだろう。いっそのこと、そいつらの脳みそ全部喰い尽くして、すっぽり消してくれたらいいのに。
蟻を思う。
貪欲な。
私の中の。
*
(ねえ、夢で殺されるってどんな感じ?)
それは白昼夢。
近くて遠い、セミの音に紛れて耳許でささやくのは、嬌声にも似た吐息。
真夏の陽気にも関わらず、一瞬で背筋が凍りつくような悪寒に襲われた。
たまらず耳をふさぎたくなる衝動を堪え、私は必死に前を見続けた。ふり向いてはいけない。
二次関数の定理が展開されていく黒板の、やや変質的な白文字を追うのがもどかしかった。
(聞こえてるんでしょう?)
試すような嘲りを含んで、声はどこか楽しそうだった。
けれども、私は耳を貸さない。目を向けてはいけない。聞こえていること、見えていることを知られてはならないのだ。
視界の隅で、うすっらとぼやけた女の子が、両肘をついてこちらを眺めているのがわかる。幼く小さな気配から、まだ片手の指ほどの年頃だろう。
三次限目の授業の最中、三階の教室の私のすぐ脇の窓から、無邪気なしぐさでこちらを覗き込むモノが、この世のモノのわけがないのだ。
(ねえ、教えてよ。ハ、ス、ミ)
ふり向いてしまいそうになる。あぶないあぶない。厄介なことに、こいつは私の名前まで知っている。絶対に答えてはいけない。
おばあちゃんに言われたのだ。
こういう存在は、見てはいけない。耳を貸してはいけない。答えてはいけない。ましてや名前など、決して教えてはいけない。
名前には魂が込もる。名前を教えるということは、魂を取られることと同じ。
だから、私は答えない。見ないし、聞かない。
こうして聞こえないふり、見えないふりをしていれば良い。いつも、そうやってやりすごしてきた。
そのうちに向こうがあきらめていなくなるまで、根気強く、辛抱強く。もちろんその間にも、相手はしきりに呼びかけてくるのである。だからそれまで、私はただじっと耐えるのだ。気が狂いそうになる。
それが自分にしか聞こえない声なのだと知ったのは、いつだったろう。
小さいときは、それが当たり前だった。
目に見えるもの、耳に聞こえるものすべて、他の人と同じだと思っていた。
いつも電柱の前にたたずんでいる首のない男の人、お向かいの屋根の上を徘徊しているお婆さん、寝る時になると必ず天井に張り付いている髪の長い女性も……すべてが当たり前のように、誰にでも見えているのだと思っていた。
どこか奇妙であるとは感じていたけれど、あえて誰も口にしないから、そもそもそういうものなのだろうと納得させていた。道端にある小石だとか、空に浮かんでいる雲であるとか、そういった有象無象の存在なのだろうと。
けれどもある日、そのことを母親に話したとき、彼女のなんとも言えない――疑惑、不安、恐怖、警戒……、そういったものすべてを潜めた眼差しを目の当たりにして、ようやく私がおかしいのだということに気づいたのだった。
それでも信じたくはなかった。自分が見ている世界が、他の人たちと違うなんて。
友だちに言ってみたこともある。最初はみんな驚いた顔で、羨望の目を向けてくれたけど、日をおかずそれが白い目に変わり、私はただ気まずい思いをするだけだった。
実際、それがいけないものであることを教えてくれたのは、祖母だった。
(ええかい、蓮美。この世にはねぇ、生物と、ヒトでないモノのふた通りがいるんだよ。蓮美にはその両方を見ることのできる、すばらしい能力があるんだねえ。おまえのおじいちゃんもそうだった。――でも、関わっちゃいけないよ。ヒトでないモノは、人を陥れたくていつも狙っているんだ。言葉に耳を貸してはいけないよ。そう、おじいちゃんのようになったらいけないよ)
おじいちゃんは、私が生まれてすぐに亡くなってしまったので、どんな人なのかわからない。おじいちゃんのことは、家族や親戚の間でも暗黙の話になっている。だから私は、くわしくは知らない。誰に聞いても教えてもらえない。
けれども断片を集めて、その最期だけは知ることができた。
眠りから覚めない病気に罹っていたおじいちゃんは、ある日病院で突然目を覚ましたかと思ったら、そのまま――狂死、したらしい。
(蓮美。おじいちゃんのようになったらいけないよ)
おばあちゃんの口癖だった。
(夢で殺されたらいけないよ)
私は顔をあげる。
視界の隅では、まだおぼろげな幼女の姿をしたモノがいて、無感情にこちらを眺めていた。それはまるで、私が答えるのを従順に待ち構えているかのようでもあった。
真っ青な肌に、ぽっかりと眼窩が空いていて、真っ赤な血に濡れた眼球がのぞいていたのである。
嫌なものを見たな、と思った。それでもいつもどおり、何事もなかったように黒板に目を戻した。
もうどこまで進んだのか、わからなくなりかけていた。私は周囲に聞こえないよう、小さくため息をついた。
こんな能力あったところで、なんの役にも立たない。まったく、迷惑なだけだ。
街中にあふれている、私にしか見えない姿、私にしか聞こえない声――私の苦しみなんて、誰もわかってはくれない。
今日もひとり、長い一日をすごす。まぶたを閉じ、耳をふさぎ、心を閉ざす。
時々見る夢がある。
私は、わりと夢を見るほうだと思う。めずらしくはないと思う。他人と比べたことはないけれど。
それでも夢の続きを見る機会は、人よりも多いような気がする。比べたことはないのだけれど。
いつもの夢だと思った。
真っ暗な道。走っている私。足音が反響する。重圧感と陰鬱な湿気。きっとここはトンネルだ。はるか後ろには、微かな光が見えている。けれども私が向かうのは、背を向けた闇の先。追ってくる足音。私は逃げている。
なぜ逃げているのかはわからない。なぜ追われているのかわからない。本当に逃げているのか、本当に追われているのか。
夢というのは、得てして不条理なものだ。
私が覚えているかぎり、それは小学生のころから見はじめた夢だった。それから高校二年の現在まで。なんの脈絡もなく、まるで忘れたころを見計らうかのように、忘れさせまいとするかのように、その夢は現れる。
ああ、いつもの夢だ、と思う。
しかしそれは、正確には続きではない。
暗く長いトンネルの中、カーブになった道を駆けてくるところから始まる。どこか覚えのある景色だと思うのは、何度も夢に見たせいだろうか。
ここはよく知っている。
覚えている。
何度も後ろをふり返り、誰も追ってきていないことを確認するのに、それでもついてくる足音に悩まされ、もがいて走っている。汗だくで息もあがって、悲鳴のように喉が鳴る。擦れたようにかすれて。引き裂くようにくり返して。たしかめるようにふり返る。
そこで、――夢から覚める。
枕元の時計は、朝の七時に近づいていた。
カーテン越しに感じる光は、まぎれもなく現実のそれだというのに、私は素直によろこべない。
いつもこの夢は、同じところからはじまり、同じ展開をたどって、朝の日差しに終りを迎える。
それは一年に一度ほどの頻度で現れるのだった。ループのように、次見る時にはまた最初から巻き戻し。
だから、同じ夢だと思っている。
もちろん他にも、楽しい夢だったり怖い夢だったり、馬鹿馬鹿しい不思議な夢もたくさん見る。けれどもこの夢にかぎっては、なぜか何度も見てしまうのだ。
しかもそれは、毎回少しずつ進んでいるのだった。
私は目覚めるたび、今回はトンネルのどこまで来たのかわかる。正確には、入口からどこまで入り込んでしまったのか、であるが。
夢というのは、浅い眠りにいるときに見やすいのだと聞く。いつも途中で覚めてしまうのは、日頃の習慣と、レム睡眠のサイクルの問題だろう。
普段なら、指の間からこぼれ落ちる細やかな砂のように、急速に忘れてしまいがちな夢の内容も、私は意識して記憶にとどめておくようにしている。
何度も見る夢に、はたしてなにか意味があるのか、その不思議に少しだけ興味があるのだ。
けれどもそれは天災のようなもので、いつ現れるのか予測もできないし、それこそ本当に、忘れたころにやってくるものだったから、夢の世界に入って、ようやくそのことを思い出すぐらいだった。
そこにきて皮肉なことに、夢の中で夢であることに気づいても、私はその夢を支配することができないのだ。
いつもの先を知りたい気持ちがあるのに、そこから先を見ることができない。
それでも、着実に進んでいることがわかる。
ならばいつか、どこかに行き着くのだろうか。
怖い夢だと思っているのに、心のどこかではその続きを楽しみにしている。来週のTVドラマを待ち望んでいるかのような感覚だった。
たぶん、それは視聴者だから。
どんなに恐ろしい目に遭っても、自分は絶対な安全圏にいることが保証されているから。
だって、それが夢というものだろう。
(夢で死ぬと、本当に死んじゃうんだよ)
不意に声を掛けられたような気がして、私は驚いて顔を上げる。
学校帰りの住宅地。じりじりと、ブラウスにまとわりつく不快な熱気は、いまだ引く様子を見せない。
「なんだよそれー」
通りがかった公園に、数人の小学生の姿が目に止まった。夕暮れの逆光のせいか、まるで影絵のようになっている。
「だからぁ、夢の世界で殺されちゃったりすると、帰ってこれないんだってば」
「なんで、夢でしょ?」
「夢を見てるときって、夢の世界に行っちゃってるんだって。だから戻ってこれなくなっちゃうんだよ」
「うっそだー」
「ホントだってば! ママが言ってたもん!」
「えー」
「でもね、××が助けてくれるらしいよ」
「わ。うそくせー」
「あっちで遊ぼうぜ」
「あ、待ってよー」
歓声をあげて駆けていく子どもたち。私は呆然と立ちすくんでいた。あの年頃が好む、不吉な噂話。
(夢で死ぬと、本当に死んじゃうんだよ)
私だって聞いたことがある。けれどもこの十七年間のうちに、高いところから落ちたり、刃物で刺されたり、何度か自分が死ぬ夢を見た。
たとえ夢で死んでも現実では死なないのは、きっと誰もが身をもって知っていることだ。
(夢で殺されたらいけないよ)
おばあちゃんの言葉がわからない。
(おじいちゃんのようになったらいけないよ)
わからない。
おじいちゃんは、夢で殺されてしまったのだろうか。それと私がこの世ならざるモノを視ること、なにか関係があるというのだろうか。
しかし、あの子ども……なんて言ってたっけ。
(××が助けてくれるらしいよ)
なに――が……?
(夢喰が、)
ゆめ、ぐい?
私はぼんやりと、子どもたちのいなくなった夕暮れの公園をながめている。誘われるようにふらふらと、誰もいない公園に入っていく。
「……ねえ」
突然の呼びかけに、私はふり返る。
気づかなかった。はじめ子どもたちの影になってて見えなかった公園の奥――小さなブランコに誰かが座っているのだ。
その姿、その声、とっさに現実のものか、そうでないのか判断できない。だからこそ、この世ならざるモノに付け入られてはならないと防衛する。
そのせいで、私はいつもすぐには返事をしないようにしている。おかげで世間では、西村蓮美はトロい女という扱いになっているのだが仕方がない。自戒は自衛だ。
私が言うこの世ならざるモノが、一般的に幽霊と呼ばれるものだとしたら、私の能力が霊感と呼ばれるものなのだろうと想像がつく。
もっとも私のそれは、視たり聴いたりすることができるだけで、それ以上のことにはまったく役に立たない、ありがた迷惑なものである。
――美しい少女だった。
年は私と同じくらいであろう、セーラー服に長くてきれいな黒髪と、対照的な真っ白な肌のコントラスト。じっとこちらを見つめる大きな瞳に、小さく赤いくちびる。ブランコの鎖が擦れて子猫のように鳴いた。
ただ。
わけもわからず、ぞッ――とした。
反射的に目をそらしていた。見てはならないものだと本能が訴える。
その瞳は金色に染まり、さながら獣のような冷酷な獰猛さを隠しもっていた。その輝きはヒトにあらず、まさしく魔性のそれだった。
「気をつけなさい」
小さなくちびるが言葉をつむいだ。この世ならざる音色がした気がした。
「あなた、死相が出てるわよ」
真夏の陽炎のように揺らめいて、私はようやく気づく。
そのささやくような音は、こんな距離からでは聞こえるはずないのに。そもそももうずいぶんまえに、危険だからという理由で、この公園のブランコは鎖が外されていたのだ。
骨組みだけのブランコの影が、無人の公園に黄昏のなかにひっそりと浮びあがっている。ひぐらしの鳴き声が響いていた。
家に帰ると、まだお母さんは戻って来ていないようだった。
カバンを部屋に投げ込むと、サンダルをつっかけて庭に出る。
この家はいつも暗い。日当たりが悪いのだ。おかげで、廊下は年中ひんやりしてるし、じめじめしている。昼間でも電気がないと困る部屋もある。
中古物件とはいえ、立派な一軒家だ。お父さんも誇らしげに自慢するぐらいだから、私が文句を言うことはない。でも外から見たら陰鬱だし、さびれている。ここで暮らしていると、ますます陰気になりそうだ。
縁側から取り込んだ洗濯物を投げ入れると、中に戻って台所に向かった。手を洗い、冷蔵庫を開ける。
すかすかの冷蔵庫から、賞味期限の切れた牛乳パックが見つかった。未使用だったが、この季節に三日もすぎていたので、いさぎよく流しに開ける。
「なんだ、蓮美。帰ってたのか」
居間からお父さんが姿を見せる。
「うん」
私は返事をして、でも顔を向けない。
「どうだった、その、学校」
「いつも通りだよ」
蛇口をひねって、紙パックをすすぐ。乾いたら開いて、スーパーの入口にあるリサイクルの箱に出すのだ。
「すまないなぁ」
弱々しく、吐息のようにお父さんが洩らした。
「え、なにが?」
ホワイトソースにでもすればよかったかな、とも思ったけど、グラタンにしてもシチューにしても、いま時期に食べたい物でもなかったからと、すっぱり見かぎった。
「いや、夕飯ぐらい俺が作れれば……」
お父さんの自虐に、私はちょっと笑った。
「いいよ別に。お父さんより私のほうが上手いから」
「そうだな、すまない」
お父さんはまた自嘲的に笑った。
「なにか手伝えることがあったら言ってくれ。タマネギの皮むきとか……」
「うん。大丈夫だよ」
そうか、すまないな。と言ってお父さんは部屋に戻っていった。先月、会社がつぶれてしまって、それからはあまり元気がない。娘の私にまで申し訳なさそうにしている。
時計を見ると、もうすぐ六時だった。ひょっとしたらお母さん、今日も残業かもしれない。
普段は時間があると、隣の小学生の美映ちゃんと遊んだりする。鍵っ子だから、ひとりでお留守番しているのがかわいそうで、面倒を見てもらえると助かると、市橋さんからお願いされていたのだ。でも本当に悪いんだけど、今日は謝っておこう。
私は冷蔵庫に残された食材と、自分の料理のレパートリーを思い浮かべて、ちょっとだけくじけそうだった。
でも、大丈夫。落ち込んでいるお父さんに、おいしいご飯を作ろう。疲れて帰ってくるお母さんに、おいしいものを食べさせてあげよう。そして元気を出してもらうんだ。
家族は助け合って生きているのだ。三人きりの家族。大切にしていこう。
「ほんと、蓮美は料理うまくなったわねえ」
お母さんがうれしそうに、私の作ったじゃがいもとほうれん草の和風炒めを食べてくれた。少しやつれた顔をしていたけど、それはきっと心労から来るものだったから、私はあえて気づかないふりをしていた。
「うん。おいしいよ、蓮美」
隣でお父さんも、弱く幸せそうな顔をしていた。
私はちょっとだけ照れくさくなって、あたふたとごまかした。
「戸棚に粉末の昆布茶があったでしょう。あれ入れると、手軽な和風ダシになるの。前におばあちゃんから教えてもらったから」
「そうか。おばあちゃんは物知りだからなぁ」
感慨深そうに、お父さんが遠くに目をやった。おばあちゃんは去年、私が高校に入学するとすぐに亡くなってしまったのだ。
しいたけ茶は煮物に入れると良いことも教えてくれた。
「今度お母さんもやってみるわ」
お母さんはやつれた顔で笑顔を見せた。それを見て、ようやく私も笑った。
――今日の夢は、いつもの夢だった。
走っている。
私は走っている。
逃げているのだ。
背後には闇。目の前にも闇。
私はなにかに追われるように逃げている。
なにから逃げているのかはわからない。
足音がついていくる。
足音が不気味に反響する闇の中、私はわけもわからず逃げている。
いつまでもいつまでも。カツカツカツ、カツカツカツ頭がおかしくなる。
激しい動悸に、胸が押しつぶされそうだった。
長い長いトンネルの中。
本当に進んでいるんだろうか。不安になる。
夢の中では自由に動けない。力が入らない。一生懸命走っているつもりなのに、本当は全然進んでいない気もする。
なのに、走り続けた疲労も、伝う汗の冷たい熱も感じることができた。
もう、すぐそこまで迫ってきているのがわかる。
ああ、見つかってしまう。
捕まってしまう!
私はあえぎ、乳酸が溜まって上がらない足を必死に動かして。奥へ、奥へ。
どこまで行ったら逃げきれるのかわからないのに、このまま行くしかないジレンマ。
突如――
目の前に扉が現れた。
息を吹き返すように、肺の中の一切を吐き出す。
見なれた天井。嗅ぎなれた空気。
目を覚ましたのは、私の部屋だった。なにもかも昨夜眠ったときのまま。
時計を見る。七時五分前。
台所からは朝食の支度をしている母の気配。
私はため息をついて身を起こした。肌着が汗でべたついていた。
急速に失われようとする記憶を、必死に繋ぎ止めようとする。
現実と夢との境界を意識した瞬間に、それらは交じり合い、より明確な方に淘汰される。
だから私は、少しでも消えてしまいそうな世界に長く留まっていたくて、また目を閉じる。
あの夢だった。
何度目だろう。もう何年目になるのだろうか。
いつも変わらない、いつもと同じ夢だと思っていた。
なのに――
暗いトンネルを走っていた私の目の前に、錆びた鉄の扉が現れた。
いつも見る夢の続きだった。続きがあったのだ。
思いがけない展開に、きっと恐ろしい夢のはずだろうと想像しながらも、どうしてもその先が知りたかった。
続きがあったのだ。
なぜ、私は同じ夢を見続けるのか。その理由がわかればと、いつも思っていた。
夢というのは荒唐無稽なものだと思う。破天荒で支離滅裂。現実では考えられないこと、ありえないことが起こる。それが一層、夢を夢たらしめているものだと思う。
けれども、私の夢は少しも不思議ではないのだ。
いや、おかしいと言えばもちろんおかしいのだが、夢特有の浮遊感こそあれ、ひどく現実的。
夢が夢である必然性を求めるのはおかしな話だけれど、あれが夢である必要性もやはりないような気がした。
半信半疑で一度図書館から、フロイトだのユングだのの本を借りてきたことがあるけれど、なんでも抑圧された性欲で解釈したがるのには辟易してしまった。
夢占いによれば、先の見えないトンネルは、未来への不安の暗示らしい。こっちの方がしっくりくる気がする。
私は自分がない。
主体性がない。意志が弱い。存在感がない。
いつからだろう。私が私を見失ってしまったのは。
私はもっと明るい子ではなかったか。明るく笑え、楽しくおしゃべりできる女の子ではなかっただろうか。
友だちもたくさんいた。
もともと私は、この町の人間ではない。
お父さんの仕事の都合で引っ越すことが決まっていて、それに私の高校入学のタイミングが重なったのだ。
それでお父さんはもうこの町で骨をうずめるつもりで、あの家を買ったのだ。わりと閉鎖的な田舎意識が強いのか、よそ者である私たちに、この無那市は冷たかった。
この高校だって、地元の中学がそのままくり上がったようなものらしかったから、そこに私が入り込む余地がなかった。
いや、私が勝手にそう思っているだけなのだろう。
引っ込み思案の性格がわざわいしているのだ。きっと私の努力が足りない。
はじめのうちはそう考えていた。
でもそれがこの町の気質なんだとわかってしまうと、なんだか途端にさみしく、くやしい気持ちになるのだった。
そのせいか、私は自分の家さえもなんだか落ち着かない。お父さんとお母さんが喜んでいるからいいんだけど、まだ自分の家という感じがいまいちしないのだった。
中古だということもあるのだろうし、まだ全然ローンが終わってないということもきっと関係あるのかもしれない。でもそんなこと、両親に言えるわけない。
「……おはよう」
きっと私は見えないのだ。おそらく私は、幽霊のようなものなのだろう。そう思ってあきらめることにしている。
朝の楽しげなにぎわい。返事のない教室。
ドアを開けて入ってくる私に、誰もふり向かない。
みんなそれぞれのグループにかたまって、おしゃべりに興じている。
こっちから話しかけても無視されるのだ。だから、もうずいぶん学校では口をきいていない。
机の脇に鞄を下げ、いつものように窓の外を見る。私のいない私の知らない話題たちから目をそむけるように。
ため息が出る。慣れればたいしたことじゃない。別になんの問題もない。
空は青く、雲は白い。風にうつろいゆく様子をずっとながめていると、息が止まりそうだった。無性に叫び出したいような気持ちになった。
そんな時、おずおずと青白いモノが姿を現した。窓に張り付いて登ってくるのは、くるくるの巻き毛の子どもだ。昨日見た霊と同じモノだろう。
その肌は青白く半透明に透き通って、眼窩は赤い。その顔はまるで埴輪のようだった。眼球はないのに、じっとこちらを見つめているのがわかる。
私はとっさに目をそらす。
きっと教室の誰にも見えてはいないのだろう。
まったく迷惑な能力だ。私しか見えないのだったら、それを信じることができない。これが幻覚か、夢だと片付けてしまった方がいくらか楽だ。
そうだ。この世界は夢だったらいいのに。
私が無視を決め込んでいるのが気にさわったのか、青白い埴輪顔の少女が、バンバンとガラス窓をたたく。
けれどもその音さえも、悲しいかな、私にしか聞こえないのだろう。クラスの人間は、まるで無反応であった。
それでも無視を貫き通した私に業を煮やしたのか、だらしのなさそうな口もとを意味ありげにつりあげた。
(――もうすぐだよ)
私は聞かない。
(気をつけなよ。夢に殺されちゃうからね)
驚いてふり返ると、そこにはもう幼女の姿はなく、早朝のグラウンドがまぶしいばかりに広がっていた。
なんだか気分が悪かった。胃のあたりが不快だった。
始業の時間まではまだ余裕があったので、トイレに行こうと立ち上がる。それでも誰の目にも止まらない。
教室のドアを閉めると同時に、言い知れない安堵が襲ってきて、思わずその場に座り込みたいほどだった。
「――おはよう」
不意の声が、自分に向けられたものだと気づくには少し時間が掛かった。
「おはよう。……西村蓮美さん」
そう言われて、ようやく顔を上げる。
始業前の廊下は、いろんなクラスの生徒がまじっていて、教室よりは少し居心地がよかった。
けれども誰に呼ばれたのか一瞬わからなくて、私はついきょろきょろと見渡してしまう。
でもよく考えれば、それがこの世ならざるモノの可能性だって充分あったわけで、さすがに油断したというか、迂闊だったことも否めない。
けれども目の前にいたのは、私と同じセーラー服を着た少女であったから、その警戒はすぐに薄れたのだったが。
可愛いというよりは、きれいな少女だった。けれどもそれは、彼女から発する、凛とした静けさにも似た気配から感じさせるものだった。
あれ、誰だったっけな、と思った。
クラスの子じゃないのは間違いなかったけど、他のクラスにはそれ以上に心当たりがない。
相手が私の名前を知っていて、話しかけられるような理由が思いつかなかった。
ぽかんとしていると、その子は私の目をのぞき込むようにして、もう一度言った。
「おはよう、西村蓮美さん」
「あ、おはよう……ございます」
とっさに答えたものの、やっぱり思い当たらない。
「顔色が悪いわ。よく眠れなかった?」
「え。い、いいえ、別に……」
朝の挨拶だけなら社交辞令的なこともありうるだろうが、それで終わらなかったことに私はますます混乱した。
必死に相手の名前を思い出そうとして、でもそれが出てこないことにあせった。
「三國よ。隣のクラスの」
彼女はうすく笑った。よほど私が困っていたのが顔に出てしまったのだろう。
「あ、ああ。えっと、三國……さん?」
言葉にしてみたが、ちっとも記憶に引っ掛からない。私がこの高校に入ってからの一年数か月をおさらいしながら、おおあわてで彼女との接点を探す。よくある苗字でもないのだが。
すると、やはりまるでそれを察したかのように、彼女は冷たく楽しそうに微笑んだ。
「やだな。昨日、会ったじゃない」
ぞっ――と。
途端に全身の毛穴が背中に向かって開いていく寒気に襲われた。
私はすぐに目の前の少女の顔が、昨日公園で見かけた――あの、すでにないはずのブランコに乗っていたセーラー服の少女と重なったのである。
ああ!
口を塞ぐ。
声を交わしてしまった。おばあちゃんにはくれぐれもだめだと、気をつけろと言われていたのに!
でも――
私は彼女に対して、不審な違和感がない。
いわゆる生者でないモノが持つ不吉な不気味さ――たとえばあの窓に張り付いていた幼女のような、ひと目で死者とわかる姿や、異常が感じられないのである。
じつは、この世ならざるモノを簡単に見分ける方法がある。私も一瞬で判断がつかないときには、まず影を見る。
光に照射された物体の影は、実体があるものしかできない。
肉体の存在しないものに影はない。
恐る恐る足許に目を落とす。
校舎の中だから、そもそも影が映るような場所ではなかった。それでもぴかぴかに磨かれた床には、おぼろげではあったが、たしかに少女の足が反射していたのだった。
それでも私は、まだ安心できない。
昨日見た彼女は――私が恐れた姿は、金色の瞳をしていた。
ところがいま目の前にいる三國と名乗った彼女は、まわりにいる年頃の少女同様、翳りのない澄んだ鳶色の瞳をしていたのである。
「大丈夫よ」
するとやはり、まるでなにもかも見透かしたかのように、三國はゆっくりとささやいたのだ。
「私は生きているわ」
思わず悲鳴を上げた。
足下からガラガラと現実が崩壊していく恐怖だった。きっと傍から見たら、きっと私は狂っていたに違いない。
すべてが夢であったら、どんなにかいいだろう。
この世は夢だ。
私は夢を見ているのだ。
――そうして私は、夢の中にいた。
目の前に扉がある。
暗いトンネルの中。ぬるい空気は動かない。
心臓の高鳴りも、肺の熱さも、足の痛みもどこか現実ではない。
あの夢の続きだった。
錆びた鉄の扉。立ち止まっているのに響いてくる足音。
ああ、追われている!
逃げなきゃ、逃げなきゃ――
殺されてしまう!
私はそこで、明確に自分の命が狙われているのを感じた。
そうか、私は殺されそうなんだ。だから逃げているんだ。
でもなんで。一体誰に。
足音の反響はどんどん近づいてくる。どくどくどくと心臓が鳴った。
ドアノブのざらついた冷たさが、手のひらを通して伝わってきた。
足音が大きくなる。
「ハスミ……!」
声がした。
私の心臓はさらに跳ねる。
恐ろしい声だった。
その殺人者は――ああ、私は今ようやく気づいた。
追ってくるそいつはすでに人を殺していて、そうして私も殺そうとしていることに!
「ハスミ――っ!」
なぜ私の名前を知っているんだ。私は知らない。こいつを知らない。
勢いよく扉を引いた。
逃げなきゃ、逃げなきゃ。殺される。殺される――
私も○○のように殺されてしま
目を覚ます。
明るい日差しと楽しげなにぎわい。
私はしばらく、状況が理解できなかった。
教室だ。自分の席。いつの間に戻ったんだろう。いつから眠っていたんだろう。
さっきまで朝じゃなかったか? もうすぐHRがはじまるから、急いでトイレに行こうと思って、そして――
あたりを見まわす。時計を見ると、昼休みのようだった。
ひょっとして、午前の授業はずっと寝てたんだろうか。誰も起こしてくれなかったんだろうか。目覚めても誰にも気づかれないのだから仕方ない。自分の机は居心地が良いのだ。
……あれ? 思い出せない。
私、どうしたんだっけ。
たしか朝、誰かに会った気がする。話しかけられた。
でも、だれ? クラスの子? ううん、ここでの私はいないものだから、誰かに話しかけられることなんてありえない。
じゃあ、先生? ううん、ここ最近は先生も私を無視するようになった。いや、それは私の被害妄想なのかもしれないけど。
ああ、でも思い出せ。
いま見た夢のこと。なにかとても大事なこと。なにか引っ掛かる。
私はなにを思った?
誰のように、自分も殺されてしまうと――思わなかったか?
なんだろう、このおかしな感覚。
今朝の夢。トンネルの途中に出てきた扉。
今の夢。トンネルのなかにあった扉。
私はそれを、今朝の夢の続きだと思った。こんなこと初めてだ。いつものリズムじゃない。こんなに早く夢が続くのはおかしい。
だから、きっと違う。
無意識が意識して、今朝見た夢の続きを作り出しているだけ。
これは本当に、私が見たかった夢じゃない。本能が好んで見ようとした夢だった。
だから作りものだ。紛い物の夢なのだ。
夢に本物と偽物があるというのはおかしな言い方ではあったけど。
私はいま見た夢を信じない。
だから、どうでもよかった。気にする必要はないのだ。なにも気にならない。
私が○○のように殺されてしまうなど……
――あれ?
誰のように……なんだっけ?
いけないいけない。もう忘れてしまってる。
でも、夢なんてそんなものだ。いちいち気にしようとしている私がどうにかしている。
夢は覚めるまでが夢。
私はおかしいのだ。
そうだ、やっとわかった。私は自分の見たがった夢を作り出して、続きを楽しみにしているだけなのだ。それこそ何年もかけて。
それに不吉な暗示や、特別な意味を与えたがっていたにすぎない。
昔見た夢がスリリングで、その高揚感が忘れられなくて、また見たいと心のどこかで思っていた。それがどこかで覚えていて、忘れたころに思い出させようとした。それが答え。
長く焦がれた夢の終着にしては、なんて残酷で明快な結末であろう。
私は笑いだしたい気持ちだった。つい声を出してしまいそうになったけど、こんなところで一人で笑っていたら、クラスメイトにどんな目で見られるか。
さて、次の授業はなんだったろう。そういえば、お弁当は食べてないはずなのにちっともお腹が空かない。
私は晴れやかな思いで顔を上げた。
ド……っと心臓が鳴った。
すぐ脇の窓にはべったりと、青白い幼女が張り付いていたのだ。
真っ赤な眼窩はまるで、血の涙を流しているようで、ぽっかり開いた無機質な口は、出来の悪い陶器の人形のようである。眼球がないのに、こちらを見ている。私は見られている。
どこで摘んだのか白い花を持ちながら、青い娘は赤い瞳で笑った。
「ねえ、ハスミ。夢で殺されるって、どういう気分?」
ああ、夢だ。
私は目を閉じる。
見たくないものをふさいで、現実に戻るため。
なのに、再び目を開けたのに、そいつは消えてくれなかった。
楽しそうに女の子が笑っていた。姿こそ子どもだが、得体の知れないこの世ならざるモノなのだ。
何者かは知らないが、どうも厄介なことに魅入られたらしい。いわゆる「とり憑かれた」とか、そういう状況だ。
私はたまに視えたり聞こえたりするていどの能力しかない。それも意識してできるものでもなく、自然に入ってくるものとして認識している。受動態なのだ。
だからこうした時、どうやって対処したらいいのかわからない。
(耳を貸したらダメ。答えたらダメ)
私には追い払うこともできないから、ただ逃げるしかなかった。
午後の授業が始まるチャイムを聞きながら、私は勢いよく立ちあがると、そのまま駆けだした。もちろんそんな奇行ですら、誰の関心も引かないだろうことはわかっていた。
私はどこにもいないのだ。
ああ、そうか。
私はさみしいのだ。
そう気づいた瞬間、涙があふれてきた。けれども、どうして悲しいのかわからなくて、胸が裂けそうなほど痛んだ。
――ごめんなさいね。
耳の奥で声がする。聞き覚えのある声と言葉。
誰に言われたんだっけ。
いつ言われたんだっけ。
なんで言われたんだっけ。
私はぽつんと立っていることに気づく。
なんの前触れもなく、じつに唐突に。
知らない場所にやってくる。
やはりこの世界は夢なんだろうか。
真っ白な壁、光。薬品の匂いのする落ち着いた空気に、ここが病院のロビーだということに気づく。
それから自分が花を持っていることに気づき、なんでこんなところに来たんだろうと考えて、ああそうかと思い出す。
母のお見舞いに来ていたのだ。
私も昔は注射が怖かった。
正直大人になった今でも、「好きか」と問われれば、即座に首を横に振る。
だいたい注射なんて、肌を傷つける行為だ。もちろんその必要があるからなんだけど、できればもっと、見た目にも恐ろしくない手段はないものだろうか。
私が小学生の頃は、貧血検査は耳たぶを切りつけて採血するというものだった。
小さな刃物でプツっと皮膚を刺されるわけであるが、むしろ痛みより、耳の間近で聞くその音の方が恐ろしかったのだ。
最近はやり方も変わったらしいから、注射ももっと改善すべきだと思う。
この歳になっても、針を刺される時に固く眼を閉じてしまうなんてはずかしくて人には言えない。
でも、そんなことを言ったらお母さんに失礼だ。お母さんだって好きで毎日痛い思いをしてるわけじゃない。
「いつもごめんねえ」
やつれた顔で、申し訳なさそうに弱く微笑んでいた。
「いいよ、どうせ夏休みだし、今日はバイトも休みだしね」
細い腕から伸びたチューブが、痛々しさを物語っている。自分の苦手意識のせいか、なかなか直視できない。そのおかげで、そんなお母さんの姿にもまだ慣れなかった。
「ちゃんと食べてる?」
「お母さんよりおいしいもの食べてるつもりだけど」
「そう……」
笑ったようだった。
枕元に買ってきた花を飾る。最近は、わざわざ花瓶に活けなくても、普通に一週間以上はもつような物があって、結構便利だ。
「えっと――、なんか欲しいものある? ちょっと売店行ってくるけど」
十分も経たずにそんなことを言ってしまったのは、やはり親の点滴姿を見たくなかったからなのだろうか。
仕事中、お母さんが倒れた。過労とストレスによるものらしい。
他にも医者は難しいことを言っていたけど、わかったのは入院が必要だということと、無理をさせてはいけないこと、退院するころには元気になるということだった。
「ゆっくり休んだらいいよ。お母さん、働きすぎなのよ」
「大丈夫よ、蓮美は心配性ねえ。悪いけど、家のことお願いね」
お母さんは申し訳なさそうだった。
「ごめんなさいね」
「え、なにが? よしてよ、お母さん」
私は笑った。母親の姿が弱々しく見えて、すぐにそれを打ち消したかった。認めたくなかった。
「あんまり遅くなるとあれだから、早く帰りなさい」
優しく諭すようにお母さんは微笑んだ。私は少し迷ったが、それが正しいように思えて、素直に従った。
家に帰ると、焦げくさい嫌な臭いがした。
暗い廊下を歩いていると、お父さんが照れたような困ったような顔で出てきた。
「お帰り」
お父さんはもうずっと元気がないけれど、今日は普段より悲壮感があった。きっと今日の面接、うまくいかなかったんだろう。
「うん、ただいま。どうしたの?」
「いやなんでもないんだ。ちょっと鍋を焦がしてね」
伸び放題の頭をかく。
「慣れないことはするものじゃないな。みっともない」
「大丈夫?」
「ああ、ごめんな。いま水に浸けてるから」
「うん、わかった。あとは私がやっとくね。お父さんは休んでて」
そう言うとお父さんは、一層悲しそうに目を伏せた。
「……ごめんな、蓮美」
廊下に消えていく背中が小さかった。
私は制服のまま台所に入ると、まず流しを確認する。
私やお母さんに気をつかって夕飯の支度をしようとしてくれたのであろうが、真っ黒になった鍋底にこびり付いた物からは、なんの料理であったのか想像することはむずかしかった。
壁のカレンダーを見る。
十月。
変なところが几帳面な私の習慣で、一ヵ月分のカレンダーにも毎日斜線を引いているから、今日は二十四日だというのがわかった。
春先にお父さんの会社がつぶれたわけだから、もう半年になるのか。なるべく本人には言わないように気をつけているけれど、早く良い仕事が見つかればいいなと思う。
そうしたらお母さんだって、無理して働いて、倒れるまでがんばらなくてもよかったのではないか。
いや、でもそれは誰のせいでもない。
誰かのせいにしてしまうのは簡単だけど、私たちは家族だから。助け合って生きているのだ。だから私も、自分のできることをしよう。
本当は春からアルバイトをしたかったんだけど、私立のウチの高校の校則では、学生のバイトは禁止されている。
隠れてやっている人もいたけれど、私はそういうことができない。これは性分。決まり事を破ることができないのだ。それは悪いことだから。
たぶんそれは、両親のおかげだ。二人とも真面目すぎるぐらい真面目だから、曲がったことが大嫌い。私がまっすぐいられるのも、この両親のおかげなのだ。
でも本当はこっそり夏休み、ちょっとだけやったことがある。もらったお給料は、全部家に入れた。内緒だ。
お父さんだって苦労しているんだ。きっと私が思ってる以上に悩んでるし、困ってるし、つらいはずだ。
私にできることはなんだろう。そんなことを考えながら、金タワシを取った。
鍋の焦げはなかなか落ちなかった。
――お母さんが死んでしまった。
順調に見えたのに、急に容体が悪化して、本当にあっという間だったという。
私がお見舞いに行って、わずか二日後のことだった。
――ごめんなさいね。
私は夢の中でお母さんの声を聞いた気がした。
電話の音で目覚めた午前一時すぎ。お父さんが受け答えをしていたけど、そのただごとではない気配に、私は布団の中で、考えたくもない嫌な予感と戦っていたのだった。
私は負けてしまった。
お父さんが真っ青な顔で部屋に入ってきて、「蓮美。お母さんな……死んじゃったって」と泣きくずれたのだった。
それからはすべてが他人事のようにすぎていった。
お葬式をやって、いろんな人が来て、私とお父さんはみんなに頭を下げた。お隣の美映ちゃんもお母さんと一緒に来てくれた。なんだか申し訳なかった。
病院のえらい人が、深々と腰を折っていったけど、私もお父さんもどうする気力もなくて、ずっとだまっていた。
お父さんがいま仕事がないことも、来た人にわかってしまって、そのせいでお母さんが働きすぎて死んだんだって、そんな言葉を私はあちこちで聞かされた。
お父さんは式の間中、ずっと下を向いていた。その隣で私も、下を向いていた。
参列者の帳簿に、黒々とした名前が並んでいくのを、ただながめていた。
『三國 』
書きかけの文字を追っていた私は、驚いて顔を上げた。
目の前に、私と同じセーラー服姿の少女が立っていた。冷たい秋風のなかでも、真っ白な肌は少しも染まっていなかった。
私はどうしたらいいのかわからず、とっさにお辞儀をした。
彼女がなんであれ、お母さんの葬儀に来てくれたのだ。学校の人はだれも来るはずがないと思っていた。
三國さんは冷たい目をしていた。真っ直ぐな目だった。
ここ何日か――お母さんの死を聞かされた夜だから、今日で三日めか――まともに眠っていない。きっとひどい顔をしてるんだろうな、と思って私は笑った。
「ありがとう」
私の声もぼろぼろだった。
三國さんは答えなかった。ただ、全然表情は変わらないのに、とても悲しそうだった。
その悲しみは、私のそれに似ている気がした。
「……夢は記憶の再現よ」
白い小さな顔の中にあって、まるで牡丹の花びらのようなくちびるが、そっと開いた。
「わたしを思い出しなさい」
心なしか、少しだけ強めに三國さんが言った。どういう意味なのかわからなかった。
問い質そうとしたが、そこにはすでに少女の姿はなくなっていて、私はあわててあたりを見まわした。
結局、暗い家に集まった黒い人たちのなかから、彼女の姿を再び見つけることはできなかったのである。
けれどもたしかに、そこにいた証拠として、しっかりと私の手許には、その存在が記されていた。
『三國伊知花』――と。
私は走っている。
真っ黒な闇の中。走り続けている。どこにも行き着けない不安を抱いて。
追ってくるなにか。見えるはずなのに、決して見てはならないなにか。
もしもそれを見てしまったら、その時こそこの夢の終焉。
それがわかっているからこそ、見てはいけないのだと知っている。
そして扉。
ためらうことなく開ける。
足音はすぐそこまで来ている。
逃げなきゃ――殺されてしまう!
お母さんのように――!
転がるように扉の奥に逃げ込む。
部屋だった。
トンネルの途中にあった扉、その奥には部屋があった。
せまい部屋だ。荒れて汚い部屋。
そこにはなにもない。
これ以上逃げる先も、隠れるところも。
ああ、夢だ。
夢のなかで夢と気づけば、その夢は覚めるだろう。
だから私は、覚めろと念じた。早く覚めろ。
これ以上はダメだ。これ以上は危険なのだ。
見てはいけない。知ってはいけない。
部屋には壊れかけのタンスがあった。
そんなところに隠れたって無駄なのに。どうせすぐ見つかってしまう。まるで、子どものかくれんぼうではないか。
なのに夢のなかの私は、おおあわてでその中に忍び込むのだ。しっかりドアを閉めて。
だけどタンスは壊れているから、すき間から丸見えなのだ。私はバカだ。
足音がする。
息がつまる。
誰かが部屋の扉を開ける。入ってくる。
悲鳴をあげそうになった。そいつが私を捜しているのがわかる。
慎重に歩きまわる気配が、緊張感が、息づかいが伝わってくる。ゆっくり、ゆっくり。
本当はここに私が隠れていることなんかすっかりわかっていて、わざと焦らすように歩いているんじゃないか。この部屋にはこのタンス以外、隠れられる場所なんてどこにもありはしないのに。
なんで今日に限って、夢から覚めないんだ。
今日はいつもより長い。このままじゃ私、殺されてしまう。
それともこれは、夢じゃないんだろうか。
せまいタンスのなかが、私の息と体温で蒸し暑かった。
そいつは部屋のあちこちをくまなく調べつくしたあと、ようやく思い出したようにこちらに向かってきた。
タンスの戸一枚を隔てて、そいつは立ち止まり、静かに息を飲み、そうして言った。
「苦しまないようにしてあげるから」
恐慌に駆られ、私は目一杯の力を込めて、戸を押し開けた。
それは見事にそいつの顔面に直撃して、苦悶の悲鳴をあげさせることができた。
鼻を押さえてうずくまるそいつを避けて、私は部屋の外に逃れる。またトンネルに戻るのだ。
けれど、部屋を飛び出したところで私は異変に気づいた。
――ここはどこだろう。
私の知っている、夢のなかのトンネルではない。
線香のにおいがした気がする。夢に匂いはない。
違う!
私ははッと世界を取り戻す。
フローリングの床、カビの落ちない壁紙。恐る恐る手を這わせると、記憶通りの場所にスイッチ。
点灯。
ああ。
そこは、私たちの家だった。両親と暮らす古く暗い、湿った家。
「……ハスミ――」
くぐもった声にふり返れば、いま飛び出してきた部屋からは、鼻血で顔を真っ赤にしたお父さん。
私はなんてことをしてしまったんだ。お父さんにケガをさせてしまった。
駆け寄ろうとして、そこで足が止まる。
お父さんの手に、ぎらりと光る包丁が――
「ど、どうして……」
私の問いかけに、お父さんは泣いていた。
「ごめんな。ごめんな、蓮美……」
その涙を見て、ようやく私は理解した。
私はこれから、お父さんに殺されるんだ。
でもそれは、お父さんの弱さとそして優しさだった。
「ごめんな。本当にごめんな。お父さんもすぐにいくからな。……ごめんなさい。本当にごめんなさい」
私は目を閉じた。
ずっと長いこと夢だと思っていたのが、じつはただの夢ではなく、自分が死ぬ場面に通じていたのだと、最期に知ることができてよかった。
ようやく夢が現実に追いついた。
だから、私は今日この場で死ぬのだ。夢の終わりは現実の終わり。
けれども、それも仕方のないことだった。
お父さんがかわいそうだった。
お母さんがかわいそうだった。
私がかわいそうだったのだ。
「さあ、蓮美。苦しまないようにしてやるからな。すぐだから。すぐだからな」
目を開く。
痛いのは嫌だった。血だっていっぱい出るんだろう。怖かったけど、目をつぶっちゃだめだと思った。
最後の一瞬まで、私はこの世界を見ていないといけなかった。それが私なりの決別だった。
私の頭上には、不気味に光る刃物が、いまにも振り下ろされんとするところだった。そうしてそれを握るお父さんの形相は恐ろしくて、本当に私の知っているお父さんなのだろうかと疑ってしまうほどだった。
ああ、そうしてその一瞬――
ハスミ、と。どこかで誰かが私を呼んだ気がした。
誰だったろう。子どもみたいな声。どこで聞いたろう。
私はすぐにその声の主を思い出すが、それはあの青白い幽霊の幼女で、どうしてこんな時に聞こえるのか理解できなかった。そもそもあの霊は、一体なんだって私の前に姿を現したのだ。
けれども、もういまとなってはどちらが夢かわからない。すべて夢でもいいではないか。
断続的な日常。変わらない毎日。私に話しかけてくれたのは、この子と三國さんだけだったなぁと思うと、なぜだか不思議な親しみもわいてくる。
ああ、そうだ。三國さんだ。
隣のクラスの子。きれいだけどちょっと怖くて、少しさみしそうな子。あの子とは友だちになれたかもしれない。
そうして最期には、幸せな夢を見て笑おうと思った。
けれどもお父さんの包丁は、私に達することはなかった。
私たちの間を、金色の光がさえぎった。
「ひゅー、間一髪だね!」
あっけらかんとした幼女の声が、どこかからした。ふり向くと、埴輪のような顔をした青白い子どもの幽霊が空中に浮かんでいた。
目の前にはセーラー服のスカートをひるがえし、私に襲いかかってきた包丁を、ナイフで受け止める少女の姿があったのだ。華奢な手には黒い革の手袋がはめられている。
「めめちゃんが干渉しなかったら、この子、あんたのことなんてきっと思い出さなかったよイチカ」
その横顔は彫像のように美しく、そして冷たく、濃いまつげの奥の瞳は、さながら獣のように金色の輝きを放っていた。
「三國、さん……?」
彼女はふり返らない。
それはナイフというより、短剣と言えたかもしれない。刃は三角錐状になっていて、斬ることよりも突くことに特化しているのかもしれなかった。
――まるで、獣の牙のようでもあった。
ぎりぎりと、包丁は牙に押されていく。大人の男の力にも、三國さんは顔色ひとつ変えなかった。
不意に三國さんは力を抜き、相手はバランスをくずした。すかさずその腹部を、靴底で蹴り飛ばす。
それはものすごい力で、お父さんの体が部屋の奥まで飛ばされて見えなくなってしまったのだった。
唖然と見送る私に、三國さんは息をついた。
「西村蓮美さん。わたしを思い出してくれたから、あなたの夢に入り込むことができた。あと一歩遅かったら、あなたは夢に殺されていたかもしれない」
「そうそう。また、ね」
空中を浮いている青い幼女の幽霊が、にやにやからかうように笑っていた。それは三國さんの顔のそばにまとわりつき、彼女の肩に手を置いて落ち着いた。どうやら三國さんにとり憑いているものらしい。
「……また? え、夢――これは夢なの? 私はまだ夢を見ているの? え、え? いつから……?」
三國さんは無造作に、手にした無骨な短剣を振るった。
すると、驚いたことが起こった。我が家の廊下がその斬撃の形に、まるでバターでも切るかのようななめらかさで、すっぱりと裂けてしまったのである。
そうしてその切れ間から、もやもやした――星雲のようにきらめいていたが、禍々しくおぞましい影が揺らめいているのがのぞき見えたのである。
「これは夢喰の牙。悪夢を喰らうことのできる唯一の武器」
黒い手袋越しに、彼女は短剣を握り直した。よく見ればそれは、一本の三角錐状の棘に、握りの部分を削って作ったような物でしかなく、短剣と呼べるほど刃物の形状はしていなかった。
「悪夢……。三國さん、あなたは一体何者なの? もしこれが本当に私の夢なら、どうしてあなたはそこに出てこれるの? あなたは私の悪夢を消してくれるの? それにこの子はなに」
「あたちはめめ。バンシーのめめちゃんですよー」
青い幽霊がすばやく返事をする。うれしそうだった。「あたし」が「あたち」に聞こえるほど舌足らずである。
「……バンシー?」
「西洋の精霊だ。その姿は本来、死に近づいた者にしか見えない」
三國さんが答える。
「気をつけろ。――来るぞ、本体が」
その言葉が終わるより早く、雄叫びのようなものが響きわたった。
そうして部屋の奥から、両腕をだらりと垂らしたもやもやの霧状のヒト形が姿を現したのである。
「お父さん!」
「残念だがあれは西村さん、あなたの夢だ。本物の父親ではない」
お父さんの顔をしたその暗い靄は、見る見るうちに風船のように膨れ上がると、とうとう私たちを見下ろすまでになってしまったのである。
これでは本当に夢だ。なんだ、やっぱり夢だったか。夢でよかったんだ。
いろいろあって驚いてばかりだったけど、でも夢なら安心だ。だって、夢だろう。どんな目に遭ったって、現実の私は安全なはずだから。
「バカだなぁ、ハスミは」
バンシーが鼻で笑った。
「夢で死んじゃったら本当に死んじゃうんだよ。言ったじゃないか。それに、現にハスミは――」
「めめっ!」
三國さんのするどい叱責が飛ぶ。バンシーは身をすくませた。
「な、なにさ! イチカはお人好しのつもり? それが不幸かもしれないってのに」
「どういうことなの」
私の問いに、三國さんはやっぱりふり返らない。
「夢喰の牙は、あなたの悪夢を残らず消し去る。けれども、それによってあなたは一生夢を見ることができなくなってしまう。楽しい夢も、悲しい夢も、なにもかも」
「言ってる意味が、わからない……」
バンシーのめめは、ちらちらと三國さんを確認するようにしながら言った。さっき怒られたので、怖がっているらしかった。
「どうせ覚めない夢なんだ。ここで夢に殺されるか、残りの人生夢なしですごすかってことだよ」
巨大な黒い雲は、もうすでにお父さんの姿ではなく、ただただ真っ暗で底知れぬモノになっていた。そうしてでも目だけはぎらぎらと輝き、殺意とも違う、純粋な破壊本能を宿らせ、こちらを見つめていたのである。
これが現実のお父さんでないというのなら、これを消し去ることによって私が現実に帰ることができるのなら、――帰りたいと思った。
お母さんも死んでしまったのだ。ここで私が死んでしまったら、残されたお父さんは一人ぼっちだ。
「……後悔しないわね」
私はうなずく。
三國伊知花は悲しそうに目を伏せた。今頃になって気づく。なんだかこの人は、私によく似ている。
黒い影は腕を伸ばす。振りかぶり、振りかざし、そうしてすべてを押し潰してしまおうとするように。
それを待ち構える三國さんは、まるで人間の大人と仔猫ぐらいの体格差であった。
三國さんは牙を振るう。獣はその牙で影を喰らう。
影は苦痛の声をあげた。めちゃくちゃになって腕を振りまわす。三國さんはすべて紙一重でかわしていく。その合間に、一撃、また一撃と、彼女の牙が闇を抉り取っていく。
それはまるで、発泡スチロールかなにかでできた、簡素な作り物のような造作であった。三國さんの牙が黒い雲を突き、切り裂くたびに、徐々に欠けてくずれていくのだ。そうして相手の攻撃は、まったく彼女には届かない。
それは――、いまだまったく自分の置かれた状況の理解できない私でも、その先ははっきりとわかっていた。
彼女は強い。そうしてもうじきに、私の悪い夢のすべてを終わらせてくれるだろう。
だからせめて、この夢が覚めるまえに伝えておきたいことがあった。
「三國さん!」
牙を振りかざし、駆けだす獣に、私は声のかぎりに叫んだ。
「もしこの夢が覚めたら私たち……ねえ、お友だちになってもらえるかな?」
そうして金色の一閃が、私の世界を切り裂いた。
*
まぶしい日差しに目を覚ます。
静けさ。ひとの声。
教壇では数学の先生が、二次関数の定理を証明している。
あたりを見まわすと、クラスメイトたちが黙々と板書をノートに写し取っている。
ああ、良い天気だ。思わず昼寝してしまっていたらしい。
心地良い風が入り込んでくる。開いた窓の外を見る。
グラウンドでは、よそのクラスが体育の授業中のようだった。もう、バンシーの幼女を見ることはないのだと、私はうれしいようなさみしいような気持ちになった。
どこからどこまでが夢だったのかは結局わからない。全部夢だった可能性も、やっぱりあるのだろう。それにこの現実でも、たしかめたいこともたくさんある。
夢は終わったんだ。
現実に戻らなければ。
私は顔をあげて、黒板を見た。
…………あれ?
どうして、まだ数学なのだ。
どうして、また二次関数なのだ。
机に目を落とす。ノートも教科書も出していない。私はいつから眠っていたんだ。
「どうして!?」
どうしてその代わりに、私の机には花があがっているんだろう!
花びんに生けられた白い花が、窓から吹く風に、小さく揺れていた。
*
夕暮れの公園。
ブランコが軋んだ嫌な音を立てる。長く伸びた影は少女の姿をしていた。
彼女は冷たい面差しで、視線はどこか遠くを見つめている。そんな少女に、どこからともなく声が話しかける。
「今回のはまた変な夢だったね、イチカ」
底抜けに明るい、無邪気な子供のようだったが、その姿は薄暗がりの中でよく見えない。いや、そこにいるのかもわからなかった。
少女は無言でブランコを漕いだ。錆びた甲高い金属の音が、無人の黄昏に響いた。
「幽霊だって夢を見るんだね、知らなかったよ」
「……あなたは見ないの、めめ。あなたも似たようなものでしょう」
少女の小さなくちびるは、牡丹の花のように鮮やかな赤い色をしていた。
それを声は笑い飛ばした。
「ヤだなぁ。あたちが眠らないことぐらい、イチカだって知ってるじゃない。そんなもの、無意味だよ」
「……そうかしら」
ブランコは速度をあげる。
「自分が死んだことに気づかない死者が、延々と自分の死をくり返す夢を見るなんて――めずらしいことじゃないわ」
声はまるで人懐こい仔犬のように、あわててついてこようとする。
「一度夢に殺されている子が、死んでも夢に殺されようとする。まるで夢にとり憑かれてるみたいだ。――けど、イチカが幽霊助けなんてねえ。あ、でもあれは助けたとは言わないのかな。ひどいことをした。そうそう、最期になんか言ってたよね、ハスミ」
勢いをつけて、少女はブランコから飛び降りた。セーラー服のスカートがひるがえり、艶かしい肢体が伸びたのを、誰も見た者はなかった。そしてその内腿に巻きつけられた、まるで獣の牙のような短剣の存在も。
「聞こえなかったわ」
少女が着地すると同時に、その公園にはブランコの骨組みだけが残った。不思議なことに、そこにはないはずの鎖の軋むような音が、いつまでも黄昏のなかで鳴り止まなかった。
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