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一枚板の看板とおかしな隣人-7

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 美葉は体育館の入り口をそっと開けた。卒業してから初めてのことだ。クリーム色のペンキが塗られた引き戸は、驚くほどすんなりと開いた。ちょっとした靴脱ぎスペースに空の靴箱が並んでいる。ずいぶん小さく感じる。記憶の中の靴箱は、とても背が高く、最上段は背伸びをしても手が届かなかったはず。でも今は、ちょっとかかとをあげれば、手が届く。
 その奥に、もう一つ扉がある。透明なガラスがはめられたアルミの開き戸だった。美葉は一瞬迷ったが、意を決して扉を開けた。こちらの扉は堅く、ガタガタと音を立てながら開いた。
 真正面に、葡萄色ぶどういろ緞帳どんちょうが見える。左右に並んだガラス窓から斜陽が差し込んでいる。茜色の光を背に、本来そこにあるはずのないものを見つけ、美葉は驚きの声を上げた。
 キッチンだ。
 夕焼け空が覗く窓を背に、木製のキッチンがあった。
 体育館の床と同じ柔らかな色調のフロントパネル。吸い込まれるように近づくと、縦に入る美しい木目が目に入った。
 ワークトップも、同じ木材が使われている。横に流れる柔らかな木目。つややかな表面は優しく光を反射している。思わず手を触れる。その滑らかな感触に息をのむ。美しい天板に、古びたホーローのシンクがはめ込まれている。すっとまっすぐ伸びた蛇口は、コの字型に二つに分かれている。
 「理科の実験室のだ。」
 あまりにも不釣り合いで笑ってしまう。所々はげたホーローに触れる。シンク横のワークスペースを挟み、二口のガスコンロが目に入る。かなり年季が入っているもので、ガスホースにはつながれていない。家庭科室のコンロだと、一目で分かった。
 「美葉さん。」
 不意に名を呼ばれ、はっと顔を上げると、正人がはにかんだ表情を浮かべて立っていた。
 美葉は正人の顔をまじまじと見た。
 「これ、正人さんが作ったの?」
 正人は恥ずかしそうに頷く。もう一度、天板に触れる。こんなに滑らかな木を触ったことが無いと思った。素人目にも素晴しい加工だと分かる。これは家具だ。キッチンは、家具だったのか。
 そこで、ふと疑問が浮んだ。
 「木って、水に濡れると腐ってしまうんじゃないの?」
 美葉が幼い頃、和夫は庭に紫陽花畑あじさいばたけを眺められるようベンチを作ったが、雪解け水がしみることもあり、数年で壊れてしまったのを思い出した。
 正人は、静かに首を横に振った。
 「木が、水に弱いというのは、誤解なんですよ。」
 「誤解?」
 そう、と正人は頷く。
 「サンドペーパーで削ると、木の表面が傷だらけになってそこから水がしみこんで痛みの原因になります。だから、僕はかんなを使います。鉋で削った木の表面には傷がないので、水がしみこんでいきません。」
 「鉋って、大工さんがよく使う奴?」
 美葉の問いに、正人はふふ、と微笑んだ。
 「最近は、大工さんもあまり鉋は使わないのではないですかね。鉋仕上げはものすごくデリケートで難しい仕事です。時間も手間もかかります。今は、木の加工技術が発達しているので、機械を通せば五分でこの天板が出来てしまいます。でも、それでは表面が傷だらけです。水がしみこまないようにしようとしたら、表面をニスで覆わなければならなくなります。」
 美葉は天板をなでた。すべすべとした肌触りが心地よい。その美しい光沢を見つめながら問う。
 「ニスを塗っていないの?」
 「オイルフィニッシュです。」
 誇らしげに、正人が胸を張る。
 「食品を扱う場所ですから、安全なもので塗装するのが当たり前だと思います。口に入れても害のない亜麻のオイルを塗り込んで仕上げています。」
 へぇ、と美葉は声を上げた。この地域は、日本一の亜麻の生産地なのだ。初夏になると、健太の家の畑にも青い亜麻の小花が咲き乱れる。
 「僕のおじいさんは旭川で家具工場を営んでいます。おじいさんがこの町の亜麻のオイルで家具の塗料を作り、使用しています。だから、町長さんと仲良くて、今回僕が工房を開くにあたり廃校になった小学校を使わせていただけることになったんです。」
 なるほど、と美葉は息をついた。このおかしな隣人について、やっとまともな背景が見え、少し安心したのだ。でも、と美葉は思った。
 「でも、何もわざわざ、木でキッチンを作る必要ってある?水に強くなるように、時間をかけて木を加工するんでしょう?」
 美葉の問いに、ふーん、と正人は考え込んだ。意地悪なことを言ったな、と美葉は後悔する。時間や手間がかかったとしても、これほど美しいキッチンを作ることが出来るなら、それでいいと思うのに。
 意地悪になった、と思う。自分は意地悪で心の冷たい人間になったと思う。友達と話し、笑うことも出来なくなってしまった。今は、それを無駄な時間だと思ってしまう。
 「あ!」
 突然正人は名案を思いついたという顔でぽんと手を打ち鳴らした。
 「美葉さん、この引き出し、開けてみてください。」
 調味料入れらしい引き出しを指さす。
 「ここ?」
 「はい。」
 正人はうれしそうに満面の笑みを浮かべている。怪しい。何か企んでいると大きく顔に書いてある。
 美葉は少しためらい、でも、どうせたいしたものではないだろうと冷たく思い、引き出しを開けた。
 引き出しから、勢いよく何かが飛び出した。
 美葉は大きな悲鳴を上げた。
 出てきたのは、拳ほどの大きさの円盤だった。赤く塗られ、舌を出したおどけた顔が描かれている。その顔はバネで引き出しの底とつながっている。
   びっくり箱だ。
 「な!?」
 美葉は言葉を失い、口をパクパクさせた。正人は、声を上げて笑っている。
 「驚かせてすいません。これはね、フルオーダーキッチンにはこれだけ自由度があると伝えるために作った引き出しです。普通のオーダーキッチンは、決まったパーツの中から、お客さんの気に入ったパーツを組み合わせて作ります。でも、僕が作るキッチンは、大きさも、形も、どこにどんな機能を持たせるのかも全て自由です。例えば、料理の最中に子供がぐずって困るというのであれば、この引き出しが役に立ちます。」
 それに、と正人はまだ驚いた顔のままの美葉を振り返り、微笑んだ。
 「キッチンは、幸せを作る場所じゃないですか。」
 「幸せを作る?」
 美葉は驚いた顔に疑問の表情を乗せて問う。
 「ご飯を食べているときは、みんな幸せです。キッチンはみんなの幸せな時間を作る場所だと思うんです。一番幸せに近い家具、そう、思うんです。」
 正人はふと、遠くを見るようなまなざしを窓の向こうに向ける。
 「人を幸せにする家具を作る。その課題を達成するのが、今の祖父との約束なんです。」
 「旭川の、家具工場のおじいさん?」
 「そう。おじいさんは僕が一人前の家具職人になるために、段階を追って課題を与えてくれました。その課題を必ず生きて達成するというのが、おじいさんと僕との約束です。」
 「生きて達成する?」
 えらく大げさだと、美葉は思った。正人はその疑問に困ったような笑顔を返し、少し黙った。そして、言葉を探すようにゆっくりと続けた。
 「人の幸せにする家具。とても、難しいです。すごく、悩みました。考えて、考えて。行き着いたのは、『フルオーダーでなければその課題は達成できない』という結論でした。人の幸せは、一人一人違うし、変わっていくものだから、既製品やセミオーダーでは、作ることはかなわないと思うんです。それで、家具工房を始めることになりました。」
 言葉は次第に熱を帯びていく。だが、熱を帯びるほど美葉の心はしらけていった。
 「手作り家具の工房を始めたのは、おじいさんとの約束を果たすため?」
 「ええ、その通りです。」
 美葉の冷たい視線に気づかないのか、正人は無邪気で頷く。その正人が、おもむろに走り出した。美葉があっけにとられていると、舞台の前で立ち止まる。舞台の前には卓球台が広げられている。正人はその上から大きな板を持ち上げ、重たそうに担ぎながら、美葉の前に戻ってきた。
 「そういえば今日、美葉さんにもらったアドバイスをもとに、看板を作ろうと思いました。」
 二メートルほどの一枚板を正人は地面に立てた。重たいのか、体で倒れないように支えている。
 「ところが、いざとなると、看板には何を書いたらいいのか見当もつかず、悩んでしまいました。そしたら、美葉さんのお友達が来て、沢山アドバイスをくれたんですよ。」
 満面の笑みを浮かべているが、この板を支えているのは大変そうである。
 「分かった。とにかく、どこかに置いてから説明して。」
 美葉は一枚板に手を置いた。厚み五五~六㎝ほどもあり、少し支えただけで重量を感じた。さすがに正人も重たいと感じていたようで、そうします、といって持ち上げ、元あった卓球台まで運んだ。美葉も板の後ろを持ち、運ぶのを手伝う。宙に浮いた板は想像以上に重たい。
 「美葉さん、気をつけてくださいね。」
 正人の声に目を上げると、正人の二の腕が目に入った。細くて頼りない体つきだと思っていたが、くっきりと筋肉の形が浮き上がっていることに驚き、なぜか頬が熱くなった。
 どっこいしょ、というかけ声とともにもとあった卓球台に板をのせた。板の上には、メモ帳と短い鉛筆が置いてある。メモ帳には、「木全正人」「木人」と走り書きがあった。
 「お友達は、優しい方ばかりですね。看板には、『家具工房』と前置きを書いた上で、工房の名前を書いたらいいと教えてくれました。名前も、一緒に考えてくれたんですよ。」
 正人はニコニコと笑顔で言う。美葉は一瞬堅く目を閉じた。もう、あまり何があっても驚かないと思っていたが。
 「この家具工房って、一応すでに営業しているんだよね。」
 「ええ、もちろん。いつでもお客さんが来ればオーダーメイドの家具をお作りできますよ。」
 胸を張って正人が答える。
 「でも、工房の名前は決まってないんだね。」
 「名前つけるの、忘れてました。」
 正人はポリポリと頭を掻くが、相変わらず邪気のない笑みを浮かべている。美葉は大きなため息をついた。欠落している。と美葉は思う。この男は何か大切なものが欠落している。
 「名前、決まったの?」
 だんだんと頭が痛くなり、あまり深く考えないでおこうと美葉は思った。
 「それが、まだなんですよ。あの、体の大きな男の子。彼が、木全正人の頭とお尻をくっつけて『きっと』という名前がいいのではと言ってくれたんですけど…。」
 困ったように、首をかしげ、眉尻を下げる。
 「なんだか、既製品のキットを連想するので、フルオーダーの家具工房にはそぐわないのではないかと思いまして。」
 そう言ってから、ふと真面目な顔を美葉に向けた。
 「きっと、という言葉の次に、美葉さんは何を思い浮かべますか?」
 「きっと?」
 美葉は正人の言葉の意味を飲み込めずにいた。
 「はい、きっと、なになにだろう、のきっとです。」
 きっと。
 美葉は考えた。きっと。未来を想定した言葉をつなぐことは分かる。でも、不思議なくらい何も思い浮かばない。先のこと、これから起こること。
 あ、と美葉は声を上げた。
 「きっと、こうしている間にお味噌汁冷めちゃってる。温め直す時間がもったいない。」
 正人は美葉の言葉を聞き、顔から笑みを消した。自分に向けられた正人の視線が、内面を探ろうとしていると察し、美葉は一歩後ずさった。
 「お父さんが、晩ご飯に正人さんを呼んだらって言うから、呼びに来たんだった。」
 正人から顔を背け、義務的な口調で正人に伝える。
 「親父さんが?」
 正人は明らかにうれしそうな笑顔を浮かべる。
 「親父さん?」
 聞き慣れない呼び方に美葉は寒気を覚え、顔をしかめる。
 「はい。朝『お父さん』と呼ぶのはいけないと言われました。それで、どう読んだらいいのかと悩みまして。おじいさんが、『髭親父』と呼ばれていたのを思い出し、では、お父さんには髭がないので『親父』と呼んでみたんです。そしたら、ものすごく怒られてしまいました。呼び捨てにしたのが、良くなかったみたいで、『親父さん』と呼んでみたら、まぁ、それならいいとお許しをいただきました。」
 正人の口調から、男二人の滑稽なやりとりを想像し、美葉の口元がほんの少し綻んだ。その微かな綻びを受け止めるように、正人も微笑みを返す。美葉ははっと我に返り、正人に背を向けた。
 「そういうことだから、晩ご飯、食べちゃって。食べちゃわないと、片付けが出来ないんだから。」
 早口にいい、一歩歩いたところで、ふとメモの「木人」という字が頭に浮んだ。
 「こびと…。」
 名案だと思う。振り返り、熱を含んだ声で正人に伝えた。
 「木に人と書いて『きっと』じゃなく『こびと』って読んだらいいと思う。『こびと』を別の国の言葉で言い換えてもいいかもね。」
 「なるほど!」
 正人が答える間もなく、美葉はスマートフォンを取り出し、こびとという言葉のバリエーションを検索した。すぐに、様々な言語での「こびと」という表現が見つかる。正人もスマホの画面をのぞき込む。
 「フランス語では男と女で違うんだね。イタリア語もだ。男が『nano』・・・、小さいものを連想しちゃうね。」
 「そうですね。スコットランド語の『ドロイヒ』・・・。響は格好いいですけど、堅い感じがする。」
 画面をスクロールしていく。二人で画面をのぞき込み、しばらくして二人同時にあ、と声を上げた。
 「ジュジュ。」
 声が合わさる。
 「アルバニア語だって。アルバニア。どこの国だろう。」
 「東ヨーロッパの国ですよ。バルカン半島南西部に位置する、アルバニア共和国です。ジュジュ、いいですね。樹を連想するので、家具屋にぴったりです。」
 「そうだね。決まり?」
 美葉は正人を振り返る。あまりに近いところに、正人のすっと通った鼻があった。至近距離で視線が合い、二人同時に後方へ飛び退く。美葉の頬は熱くほてっていたが、正人の白い肌も首まで赤く染まっていた。
 
 その夜、美葉の部屋の窓から体育館の明かりが見えていた。美葉はいつもよりも遅くまで机に向かっていたが、眠りにつくために明かりを消す時間になってもオレンジ色の光は消えなかった。
 翌朝、美葉が店の掃き掃除のために外に出ると、体育館の入り口に大きな一枚板が立てかけてあるのが見えた。ほうきを持ったまま、美葉はその板の前に歩いて行く。
 「家具工房 樹々」
 丁寧に彫られた文字に添えられるように、とんがり帽子を被った小人が彫られている。小人は四つ葉のクローバーを手渡そうとするように捧げ持っていた。
   看板に朝露が降り、朝の光にキラキラと光っていた。
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