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Scene 1
悪い女
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6月某日、時刻は午後の6時を少し回ったところ・・・
雲行きが気になり私は扉を開け顔だけ突き出し空を仰ぎ見る。
そこには分厚く垂れ込めた鈍色の雲が狭い空を覆い尽くし、直ぐにも雨が落ちて来そうだった。
「客足に響くなぁ・・・」
と、誰に言うでも無く独りごちる。
眉根に作った皺を無意識に指で撫でながら店内にとって返す。
カウンターには読みかけで開いたままの夕刊紙と、濃いめに淹れたインスタントのブラックコーヒーがマグカップの中で既にぬるく冷め始めていた。
そのコーヒーを一気に飲み干し、空になったマグカップをシンクに置いて水道水を満たす。
グラスターを手に振り返ってバックカウンターのグラスを手に取り明かりにかざす。
埃と指紋の有無を確認する為、手首を捻り目を凝らす。
胸元で構え直して適度に力を込めながらグラスターの中でグラスを滑らせながらリズミカルに回してゆく。
作業をしながら、開いたままの夕刊紙の記事を目で追う。
イジメにより自殺した中学生の女子の記事だった。
原因究明の為に第三者委員会が設置される云々が書かれていた。
私がその年頃だった時にももちろんイジメは存在した・・・。
テレビでは著名なコメンテーターが
「最近のイジメはSNSの普及により周りを巻き込んでの陰湿なものに変わりましたねぇ」
と、まことしやかに言い放つ。
私はそんなコメントを耳にする度に、陰湿じゃ無いイジメなんてあるのか?
と、心の中で問うてみる。
短い溜め息を吐き、グラスを元の位置に慎重に戻し振り返ると真鍮製の扉がゆっくりと開き女性が上半身をのぞかせ尋ねた。
「もう開いていますか?」
「ええ、営業していますよ」と私。
更に扉を開いてその女性は軽やかな足取りで入って来る。
私はカウンターを回って女性の先に歩を進める。
カウンターほぼ中央の椅子を傾け
「お席はこちらでよろしいですか?」と尋ねる。
「ええ、お願いします」
「かしこまりました」
私が椅子を引くと彼女は椅子とカウンターの間に滑らかに身を運び首だけ後ろへ回して僅かに頷く。
「じゃあ、押しますね」
膝を使い椅子をゆっくりと前へ押し出す。
彼女は腰掛けると、下ろしたままの長い髪を両手の甲で後ろへ払った。
優雅な動きだった。
少し甘いサボンの香りがファッと広がり私の鼻腔をくすぐった。
カウンターへとって返しおしぼりを開いて手渡す。
「いらっしゃいませ」
「まだ早かったかしら?」
開いたままでカウンターの端にある夕刊紙に目をやり尋ねる。
澄んだ声だが、少しハスキーで妙に響く。
こういう声をセクシーと言うのだろうと勝手に納得する。
「いえ、大丈夫ですよ。6時オープンですから」
「お待ち合わせでしょうか?」
「いえ、ひとりよ」
歳の頃は35歳くらいだろうか・・・。
淡いピンクのワンピースに同じく淡い藤色のカーディガンを袖を通さず肩に掛けていた。
その柔らかな装いとは対照的に紅いマニキュアに濃いめのルージュが店内に落ちる明かりでやけになまめかしく映る。
彼女はバックカウンターのボトルと店内をゆっくりと見渡す。
私はその間を利用して開いたままの夕刊紙を閉じ、カウンターの下へしまう。
彼女の視線がぐるっと周って戻って来たのを見計らい、私は尋ねる
「何をお作りいたしましょう?」
「そうね~」
少し身を乗り出しカウンターに肩肘を突き人差し指を頬に当て小首を傾げる。
・・・愛らしい仕草だった。
「無理をお願いしてもいいかしら?」
「はい、ご遠慮なくどうぞ」
「お望みに添えるよう努めさせていただきます」
と、返し軽く頭を垂れる。
「じゃあ、強めのショートカクテルを」
「かしこまりました」
「苦手なものや、そのほかに何かご所望はございますでしょうか?」
「苦手なものは無いわ」
「後は全てお任せします」
と、言ってこちらをじっと見つめた。
切れ長の瞼に大きな眼、見つめ続けると吸い込まれそうだと感じた。
「かしこまりました」
再び言って、ボストンタイプのシェーカーを手に取る。
その瞬間に作るものは決まった。
台下の冷蔵庫の扉を開け、かがんでレモンを取り出す。
半分にカットしスクイザーで果汁を絞る。
次にバックカウンターからボルスのバイオレットリキュール《パルフェ・タムール》を掴みカウンターへそっと置く。
そしてフリーザーからタンカレーのドライジンと氷を取り出しドライジンはリキュールの横に置く。
シェーカーをバラしドライジン、リキュール、レモンジュースの順にそれぞれ計量しながら注ぐ。
目の前に座る彼女にチラと目をやると、彼女はこちらを一切見てはいなかった。
カウンターの上で揃えて重ねた左手を見つめていた。
いや、正しくはそのしなやかで長い左手の薬指に嵌められている指輪を見つめていた。
ホワイトゴールドとピンクゴールドのコンビネーションリング。
確か何かのファッション誌で見た記憶があった。
なんだったか・・・?
シェーカーに慎重に氷を詰めながら記憶の糸を手繰る。
思い出した!
バーニーズ・ニューヨーク!
もう一度チラりと目を向けやはりそうだと確信した。
彼女は顔も上げず、ただ黙ってダウンライトに照らされて輝く指輪を見つめていた。
彼女の周りだけ、まるで時間が止まっているようだった。
スピーカーからはコルトレーンの吹くサックスの音色に乗せハートマンの甘いテナーヴォイスが愛を唄っている。
「何か悲しい事がございましたか?」
「悲しい事・・・」
顔も上げず、指輪を見つめたまま彼女はつぶやいた。
そして沈黙・・・。
シェーカーのボディにストレーナーを被せホールドした左手の甲を右手の拳で叩いてしっかりと嵌め、最後に小さなトップを被せる。
最初は緩やかに、そしてシェーカーの中で踊る氷の動きを確かめながら徐々にスピードを上げリズムを刻む。
見ると彼女は顔を上げ私の動きを見ていた。
緩やかなリズムに戻し最後に手首のスナップを効かせキンッという甲高い音で終わりを告げる。
冷蔵庫からカクテルグラスを取り出しそこへシェーカーを捻って回しながら中の液体を一気に注ぎ込む。
霜を纏ったグラスが徐々に透明に澄んで光り輝く。
最後にまたスナップを効かせシェーカーを跳ね上げると、先ほどとは違う乾いた金属音が響く。
「お待たせいたしました」
コースターに乗せたカクテルを彼女の目の前に滑らせる。
「《ブルー・ムーン》というスタンダード・カクテルをお作りさせていただきました」
シェーカーの中で一緒に混ぜられた微細な空気の粒が消え、グラスの中の液体の透明度が増してくる。
「とても綺麗・・・」
呟いた彼女の目は僅かに潤んでいた。
「アルコール度数は結構高いので、どうぞゆっくりお召し上がりください」
と、添える。
「わかったわ、ありがとう」
少し微笑んでそう返した彼女の瞳はやはりかすかに潤んでいた。
「美味しい・・・」
一口飲んでそう言い、グラスを明かりにかざした。
「現在お召しになってらっしゃるカーディガンの色にインスピレーションをもらいました」
右手でグラスを持ち上げ一口飲んでからグラスを更に上げて明かりに翳した。
「すみれ色?それとも藤色?」
「こちらのすみれのリキュールを使いましたので、正しくはすみれ色かもしれませんが、私は藤色をイメージしてお作りさせていただきました」
彼女はグラスをコースターに戻し、
先ほどと同じく右手の甲に左手を揃えて重ねた。
「さっきの質問・・・」
指輪を見つめたまま彼女が言う。
「はい・・・」と、私。
「ここへ来る少し前、4年付き合った彼と別れたばかりなの」
「・・・」
半ば予期していた内容ではあったが、直ぐには掛ける言葉が見つからない。
「その指輪は彼からのプレゼントですか?」
なんとか言葉を絞り出した。
「そう、誕生日におねだりして買ってもらったの」
そう言って顔を上げ寂しさを纏った潤んだ目を私に向けた。
「バーニーズニューヨーク・・・、ですね?」
「よくご存知ね」
彼女は少し驚いた表情を浮かべて言った。
「以前、何かのファッション誌で紹介されていたのを覚えていました」
「でも、不倫じゃないわよ」
上目遣いでイタズラっぽい笑みを浮かべて彼女が言う。
どうやらこちらの考えを先読みされてしまった・・・。
そう、決して安い品ではないのだ。
何せバーニーズ・ニューヨークなのだから。
「さぞやお優しい方なのでは?」と、尋ねる。
「優しかったわ・・・、とても」
過去形だった。
自身の気持ちに踏ん切りを着ける言い回しに聞こえた。
グラスを掴んだしなやかな指が二口目を口に運ぶ。
戻したグラスに着いたルージュの跡にそっと指をふれながら言う。
「優し過ぎたの・・・」
「優し過ぎる男は罪だわ」
グラスを見つめたまま言った。
沈黙が流れ、軒先に当たる雨の音がかすかに聞こえる。
「優し過ぎる男と甘える事ができない女・・・」
沈黙を破って彼女が言った。
「私、悪い女なの」
顔を上げイタズラっぽさと悲しみが無い混ぜになった表情を私に向けた。
「つい、困らせたくなっちゃうの」
「だから、彼を私という〈悪い女〉から解放してあげたの」
「そう・・・、私は男をダメにする悪い女・・・」
再び訪れた沈黙に雨音が忍び込んでくる。
スピーカーからは『マル・ウォルドロン』の《レフト・アローン》、ジャッキー・マクリーンの泣きのサックスの音色が哀愁を漂わせ店内に沁みる。
「まだ愛してらっしゃるのですね?」
と、尋ねるが彼女は応えない。
扉の方に目をやり
「雨ね」
と、一言。
そして、グラスに残ったカクテルを一息に飲み干すと
「もう行くわ、ありがとう」
勘定を済ませると席を立った。
私は先回りして扉横のクローゼットからビニール傘を取り出した。
「どうぞ、こちらをお使いください」
「ありがとう、でもいいの。濡れながら帰るわ」
それでも私が傘を引っ込めないでいると
「涙を誤魔化せるからいいの」
もう引っ込めるしかなかった。
先に立って扉を開く
「ありがとうございました」
言って、腰を折って頭を下げる。
「美味しかったわ、ありがとう」
「またお越しになってください」
彼女を見つめて言った。
「気が向いたらね」
軽く微笑んでウインクを返した。
その瞬間、一筋の煌めきがつむった目から頬を伝って流れたのを私は見逃さなかった。
踵を返し店に入って来た時と同様、軽やかに彼女は歩き去って行く。
開かれる事のなかった傘を持ったまま私はその後ろ姿を見送る。
そして、通りへ出るため角を曲がって行く時にもう一度深々と頭を下げた。
そう、彼女は泣く為の一杯の酒を求めてここへ来たのだ。
涙の堰を切るのに必要な、一杯を求めて・・・。
「いやぁ、判る!判るよ~」
いつの間にか常連客の「仁」さんが横に並んで立っていた。
「ありゃあ、見とれっちまうなぁ」
「遠目からだって一目でいい女だって判っちまったよ~」
と、彼女が消え去った路地の角を見つめながら言う。
「いつから見てたんだい?」
私も路地の角をまだ見つめたまま尋ねる。
「店の戸が開いたところからずっと」
ようやく私の方へ顔を向けて言った。
「で、やっぱりいい女だったのかい?」
「いや、〈悪い女〉だって言ってたよ」
私も仁さんに顔を向けて答えた。
仁さんの表情に一瞬の戸惑いと疑問が浮かんだあと、
「違ぇねえ、いい女はみ~んな悪い女だ」
と、笑った。
仁さんの過去にどんな経緯がありそういう理論に辿り着いたのかは知らないが、どうやら仁さんの辞書にはそうあるらしい。
「でも待てよ、自分を悪い女だって理解してるという事は一周回っていい女なんじゃねぇのかい?」
と、尋ねるでもなく仁さんが呟く。
それを言うなら裏返ってだろうと思ったが、あえて指摘はせず妙に納得してしまった。
「それよりよ~、喉が渇いちまったよ~、早くいつもの作ってくれよ~」
喘ぐふりをしながら懇願してくる。
「はいはい、いつものね」
扉を開け店内に入って行く仁さんの後を追って入る前にもう一度彼女が消えた通りに目をやる。
そして、
「きっと〈いい女〉になれますよ」
と、呟く。
既に定位置の入り口に近い椅子に腰掛けた仁さんが声を掛けてくる。
「マスター! 早く作ってくれよ~」
半べその様な顔をこしらえて懇願が哀願に変わった。
「はいはい、判りましたよ」
扉を閉め、今回はその役目を果たせなかったビニール傘をしまいながら気持ちを切り替える。
そしてまた、この店のありふれたいつもの夜が始まってゆく・・・。
雲行きが気になり私は扉を開け顔だけ突き出し空を仰ぎ見る。
そこには分厚く垂れ込めた鈍色の雲が狭い空を覆い尽くし、直ぐにも雨が落ちて来そうだった。
「客足に響くなぁ・・・」
と、誰に言うでも無く独りごちる。
眉根に作った皺を無意識に指で撫でながら店内にとって返す。
カウンターには読みかけで開いたままの夕刊紙と、濃いめに淹れたインスタントのブラックコーヒーがマグカップの中で既にぬるく冷め始めていた。
そのコーヒーを一気に飲み干し、空になったマグカップをシンクに置いて水道水を満たす。
グラスターを手に振り返ってバックカウンターのグラスを手に取り明かりにかざす。
埃と指紋の有無を確認する為、手首を捻り目を凝らす。
胸元で構え直して適度に力を込めながらグラスターの中でグラスを滑らせながらリズミカルに回してゆく。
作業をしながら、開いたままの夕刊紙の記事を目で追う。
イジメにより自殺した中学生の女子の記事だった。
原因究明の為に第三者委員会が設置される云々が書かれていた。
私がその年頃だった時にももちろんイジメは存在した・・・。
テレビでは著名なコメンテーターが
「最近のイジメはSNSの普及により周りを巻き込んでの陰湿なものに変わりましたねぇ」
と、まことしやかに言い放つ。
私はそんなコメントを耳にする度に、陰湿じゃ無いイジメなんてあるのか?
と、心の中で問うてみる。
短い溜め息を吐き、グラスを元の位置に慎重に戻し振り返ると真鍮製の扉がゆっくりと開き女性が上半身をのぞかせ尋ねた。
「もう開いていますか?」
「ええ、営業していますよ」と私。
更に扉を開いてその女性は軽やかな足取りで入って来る。
私はカウンターを回って女性の先に歩を進める。
カウンターほぼ中央の椅子を傾け
「お席はこちらでよろしいですか?」と尋ねる。
「ええ、お願いします」
「かしこまりました」
私が椅子を引くと彼女は椅子とカウンターの間に滑らかに身を運び首だけ後ろへ回して僅かに頷く。
「じゃあ、押しますね」
膝を使い椅子をゆっくりと前へ押し出す。
彼女は腰掛けると、下ろしたままの長い髪を両手の甲で後ろへ払った。
優雅な動きだった。
少し甘いサボンの香りがファッと広がり私の鼻腔をくすぐった。
カウンターへとって返しおしぼりを開いて手渡す。
「いらっしゃいませ」
「まだ早かったかしら?」
開いたままでカウンターの端にある夕刊紙に目をやり尋ねる。
澄んだ声だが、少しハスキーで妙に響く。
こういう声をセクシーと言うのだろうと勝手に納得する。
「いえ、大丈夫ですよ。6時オープンですから」
「お待ち合わせでしょうか?」
「いえ、ひとりよ」
歳の頃は35歳くらいだろうか・・・。
淡いピンクのワンピースに同じく淡い藤色のカーディガンを袖を通さず肩に掛けていた。
その柔らかな装いとは対照的に紅いマニキュアに濃いめのルージュが店内に落ちる明かりでやけになまめかしく映る。
彼女はバックカウンターのボトルと店内をゆっくりと見渡す。
私はその間を利用して開いたままの夕刊紙を閉じ、カウンターの下へしまう。
彼女の視線がぐるっと周って戻って来たのを見計らい、私は尋ねる
「何をお作りいたしましょう?」
「そうね~」
少し身を乗り出しカウンターに肩肘を突き人差し指を頬に当て小首を傾げる。
・・・愛らしい仕草だった。
「無理をお願いしてもいいかしら?」
「はい、ご遠慮なくどうぞ」
「お望みに添えるよう努めさせていただきます」
と、返し軽く頭を垂れる。
「じゃあ、強めのショートカクテルを」
「かしこまりました」
「苦手なものや、そのほかに何かご所望はございますでしょうか?」
「苦手なものは無いわ」
「後は全てお任せします」
と、言ってこちらをじっと見つめた。
切れ長の瞼に大きな眼、見つめ続けると吸い込まれそうだと感じた。
「かしこまりました」
再び言って、ボストンタイプのシェーカーを手に取る。
その瞬間に作るものは決まった。
台下の冷蔵庫の扉を開け、かがんでレモンを取り出す。
半分にカットしスクイザーで果汁を絞る。
次にバックカウンターからボルスのバイオレットリキュール《パルフェ・タムール》を掴みカウンターへそっと置く。
そしてフリーザーからタンカレーのドライジンと氷を取り出しドライジンはリキュールの横に置く。
シェーカーをバラしドライジン、リキュール、レモンジュースの順にそれぞれ計量しながら注ぐ。
目の前に座る彼女にチラと目をやると、彼女はこちらを一切見てはいなかった。
カウンターの上で揃えて重ねた左手を見つめていた。
いや、正しくはそのしなやかで長い左手の薬指に嵌められている指輪を見つめていた。
ホワイトゴールドとピンクゴールドのコンビネーションリング。
確か何かのファッション誌で見た記憶があった。
なんだったか・・・?
シェーカーに慎重に氷を詰めながら記憶の糸を手繰る。
思い出した!
バーニーズ・ニューヨーク!
もう一度チラりと目を向けやはりそうだと確信した。
彼女は顔も上げず、ただ黙ってダウンライトに照らされて輝く指輪を見つめていた。
彼女の周りだけ、まるで時間が止まっているようだった。
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「何か悲しい事がございましたか?」
「悲しい事・・・」
顔も上げず、指輪を見つめたまま彼女はつぶやいた。
そして沈黙・・・。
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最初は緩やかに、そしてシェーカーの中で踊る氷の動きを確かめながら徐々にスピードを上げリズムを刻む。
見ると彼女は顔を上げ私の動きを見ていた。
緩やかなリズムに戻し最後に手首のスナップを効かせキンッという甲高い音で終わりを告げる。
冷蔵庫からカクテルグラスを取り出しそこへシェーカーを捻って回しながら中の液体を一気に注ぎ込む。
霜を纏ったグラスが徐々に透明に澄んで光り輝く。
最後にまたスナップを効かせシェーカーを跳ね上げると、先ほどとは違う乾いた金属音が響く。
「お待たせいたしました」
コースターに乗せたカクテルを彼女の目の前に滑らせる。
「《ブルー・ムーン》というスタンダード・カクテルをお作りさせていただきました」
シェーカーの中で一緒に混ぜられた微細な空気の粒が消え、グラスの中の液体の透明度が増してくる。
「とても綺麗・・・」
呟いた彼女の目は僅かに潤んでいた。
「アルコール度数は結構高いので、どうぞゆっくりお召し上がりください」
と、添える。
「わかったわ、ありがとう」
少し微笑んでそう返した彼女の瞳はやはりかすかに潤んでいた。
「美味しい・・・」
一口飲んでそう言い、グラスを明かりにかざした。
「現在お召しになってらっしゃるカーディガンの色にインスピレーションをもらいました」
右手でグラスを持ち上げ一口飲んでからグラスを更に上げて明かりに翳した。
「すみれ色?それとも藤色?」
「こちらのすみれのリキュールを使いましたので、正しくはすみれ色かもしれませんが、私は藤色をイメージしてお作りさせていただきました」
彼女はグラスをコースターに戻し、
先ほどと同じく右手の甲に左手を揃えて重ねた。
「さっきの質問・・・」
指輪を見つめたまま彼女が言う。
「はい・・・」と、私。
「ここへ来る少し前、4年付き合った彼と別れたばかりなの」
「・・・」
半ば予期していた内容ではあったが、直ぐには掛ける言葉が見つからない。
「その指輪は彼からのプレゼントですか?」
なんとか言葉を絞り出した。
「そう、誕生日におねだりして買ってもらったの」
そう言って顔を上げ寂しさを纏った潤んだ目を私に向けた。
「バーニーズニューヨーク・・・、ですね?」
「よくご存知ね」
彼女は少し驚いた表情を浮かべて言った。
「以前、何かのファッション誌で紹介されていたのを覚えていました」
「でも、不倫じゃないわよ」
上目遣いでイタズラっぽい笑みを浮かべて彼女が言う。
どうやらこちらの考えを先読みされてしまった・・・。
そう、決して安い品ではないのだ。
何せバーニーズ・ニューヨークなのだから。
「さぞやお優しい方なのでは?」と、尋ねる。
「優しかったわ・・・、とても」
過去形だった。
自身の気持ちに踏ん切りを着ける言い回しに聞こえた。
グラスを掴んだしなやかな指が二口目を口に運ぶ。
戻したグラスに着いたルージュの跡にそっと指をふれながら言う。
「優し過ぎたの・・・」
「優し過ぎる男は罪だわ」
グラスを見つめたまま言った。
沈黙が流れ、軒先に当たる雨の音がかすかに聞こえる。
「優し過ぎる男と甘える事ができない女・・・」
沈黙を破って彼女が言った。
「私、悪い女なの」
顔を上げイタズラっぽさと悲しみが無い混ぜになった表情を私に向けた。
「つい、困らせたくなっちゃうの」
「だから、彼を私という〈悪い女〉から解放してあげたの」
「そう・・・、私は男をダメにする悪い女・・・」
再び訪れた沈黙に雨音が忍び込んでくる。
スピーカーからは『マル・ウォルドロン』の《レフト・アローン》、ジャッキー・マクリーンの泣きのサックスの音色が哀愁を漂わせ店内に沁みる。
「まだ愛してらっしゃるのですね?」
と、尋ねるが彼女は応えない。
扉の方に目をやり
「雨ね」
と、一言。
そして、グラスに残ったカクテルを一息に飲み干すと
「もう行くわ、ありがとう」
勘定を済ませると席を立った。
私は先回りして扉横のクローゼットからビニール傘を取り出した。
「どうぞ、こちらをお使いください」
「ありがとう、でもいいの。濡れながら帰るわ」
それでも私が傘を引っ込めないでいると
「涙を誤魔化せるからいいの」
もう引っ込めるしかなかった。
先に立って扉を開く
「ありがとうございました」
言って、腰を折って頭を下げる。
「美味しかったわ、ありがとう」
「またお越しになってください」
彼女を見つめて言った。
「気が向いたらね」
軽く微笑んでウインクを返した。
その瞬間、一筋の煌めきがつむった目から頬を伝って流れたのを私は見逃さなかった。
踵を返し店に入って来た時と同様、軽やかに彼女は歩き去って行く。
開かれる事のなかった傘を持ったまま私はその後ろ姿を見送る。
そして、通りへ出るため角を曲がって行く時にもう一度深々と頭を下げた。
そう、彼女は泣く為の一杯の酒を求めてここへ来たのだ。
涙の堰を切るのに必要な、一杯を求めて・・・。
「いやぁ、判る!判るよ~」
いつの間にか常連客の「仁」さんが横に並んで立っていた。
「ありゃあ、見とれっちまうなぁ」
「遠目からだって一目でいい女だって判っちまったよ~」
と、彼女が消え去った路地の角を見つめながら言う。
「いつから見てたんだい?」
私も路地の角をまだ見つめたまま尋ねる。
「店の戸が開いたところからずっと」
ようやく私の方へ顔を向けて言った。
「で、やっぱりいい女だったのかい?」
「いや、〈悪い女〉だって言ってたよ」
私も仁さんに顔を向けて答えた。
仁さんの表情に一瞬の戸惑いと疑問が浮かんだあと、
「違ぇねえ、いい女はみ~んな悪い女だ」
と、笑った。
仁さんの過去にどんな経緯がありそういう理論に辿り着いたのかは知らないが、どうやら仁さんの辞書にはそうあるらしい。
「でも待てよ、自分を悪い女だって理解してるという事は一周回っていい女なんじゃねぇのかい?」
と、尋ねるでもなく仁さんが呟く。
それを言うなら裏返ってだろうと思ったが、あえて指摘はせず妙に納得してしまった。
「それよりよ~、喉が渇いちまったよ~、早くいつもの作ってくれよ~」
喘ぐふりをしながら懇願してくる。
「はいはい、いつものね」
扉を開け店内に入って行く仁さんの後を追って入る前にもう一度彼女が消えた通りに目をやる。
そして、
「きっと〈いい女〉になれますよ」
と、呟く。
既に定位置の入り口に近い椅子に腰掛けた仁さんが声を掛けてくる。
「マスター! 早く作ってくれよ~」
半べその様な顔をこしらえて懇願が哀願に変わった。
「はいはい、判りましたよ」
扉を閉め、今回はその役目を果たせなかったビニール傘をしまいながら気持ちを切り替える。
そしてまた、この店のありふれたいつもの夜が始まってゆく・・・。
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