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3章 僕と紅林邸の怪談 ~雨谷かざりの繰り返される日々~

繰り返さない、君との別れ

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 昼休み、学校の屋上から眺める紅林邸の木々は青く艶めいていた。
 ツナパンをかじりながら放課後を待つ。
 珍しく隣にナナオさんが座っていた。今朝の様子を心配してくれたんだと思う。
「ナナオさん、死体のある秘密の部屋ってどこにあると思う?」
 屋上から見える紅林邸を指差して問いかける。手に乗るようにヒュウと涼しい風が吹く。ナナオさんは不思議なことが大好きだから、こういう話にはすぐ食いついてくれる。
「むむむ。ボッチーだから言っちゃうか。紅林邸って結構特殊な建物だから、隠し通路とかあるかもって一時期探検したことがあるんだ、小学生の時だけど」
 さすがナナオさん、予想以上の返答だ。
「そういやボッチーは紅林邸に入ったことあんの?」
「まだないよ」
 なにせ引っ越してきてからまだ2カ月もたってない。
 ナナオさんは地元民だから僕より圧倒的に詳しい。
「ちょっとわかんないかもしんないけどさ。こっから見て右側、西側なのかな? 今ぼわぼわっとした木で隠れてるところ、あそこスペースがおかしいんだわ」
「スペースがおかしい?」
「そう。畳半分くらいかな。中から見る広さと建物の広さが違ってる気がする。それにあの壁の辺りは窓が全然ない、だから怪しいと思って壁をガリガリやってたら怒られちった」
 なんだかナナオさんは怒られてばかりだな。なんだか少しおかしくなった。
「おっ、元気出たっぽいじゃない?」
 ナナオさんの笑顔はなんだか向日葵が咲くみたいに明るい。

 放課後、急ぎ足で紅林邸に向かう。
 まだ係員が残っているようで、誰もいなくなるのを待つ。そのうち邸内の明かりが消えてから更に十分ほど待って、いつもの垣根から公園内に忍び込む。初めて入る夕方の紅林公園。朝とは反対に西陽を背負った紅林邸は、僕を威圧するようにその影を大きくのばしていた。
 ナナオさんから聞いた西側の壁。広さがおかしいといっていたけど、ぱっと見には全然わからない。
 でも、僕にはニヤがいる。ニヤは怪異の匂いはすぐわかる。
「ニヤ、ここに雨谷さんがいるのかな」
「いる」
 ニヤは断言する。これ以上なく明確だ。
 壁の中に空洞があれば音が変わるというのが推理小説の定番だけど。
 漆喰で塗られた白い壁をトントンと叩く。その途中、壁の下の方にはナナオさんがやったと思しき小さな傷を見つけた。何カ所か場所を変えてトントンしてみたけれど、空洞があるのかどうかとか壁の厚さとかはよくわからない。秘密の部屋があるとしても入口は屋敷の中だよなと考え込んでいると、ふいに視線を感じて振り返る。
「雨谷さん……」
 少し困った顔をした雨谷さんと目があった。
「来ないでって言ったのに……」
「どうしても話がしたくって。雨谷さんは昔からここに住んでるんだね?」
 雨谷さんはうっすらと頷き、困ったように笑った。。
「ここじゃなんだし中に入る? おもてなしも何もできないけど」

 雨谷さんについて勝手口から中に入る。初めて入る紅林邸はどこかよそよそしくて、時間が止まっているように感じる。紅林邸にはいくつかの家具が展示されていたけれど生活感は全くなかった。しっとりと黒く光る床を僕と雨谷さんが歩くとぺたぺたと音がする。
 おそるおそる座ったのは年代物のソファ。時間を量るみたいに僕を乗せてギシリと沈み込む。
「雨谷さんは、明治時代、100年以上も前からここに住んでいて、2週間くらい前に意識が戻った。これであってるのかな」
「そうだけど……どうして東矢くんがそんなことを?」
 雨谷さんは再び、今度は不思議そうに少し首をかしげる。
 僕は僕が知ってることを雨谷さんに話した。
 新谷坂山には昔から怪異を封印している存在がいること。明治時代に雨谷さんが封印されたこと。僕が1カ月くらい前に封印を解いてしまって、その結果雨谷さんの意識が戻ったのだと思う。
「そうなのかもしれない」
 雨谷さんは少し考えながら頷く。雨谷さんが暮らしていたのは確かに明治という時代で、いつのまにか気を失って、最近急に意識を取り戻したのだそうだ。
 それから最近の幽霊のうわさ、昔の動く死体の話の話をした。
「昨日僕はお父さんが見守ってるかもって言ったけど、僕の勘違いなんだ。今も昔もこの紅林邸で雨谷さんが動いているのを誰かが見て噂になったんだと思う。だから本当はお父さんの幽霊はいない、んだと思う」
 だから、雨谷さんは気にしないでいいってこと。
 雨谷さんは僕の話を肯定も否定もせずに、じっと聞いてくれた。
「それで……僕は今、封印から逃げ出したものを元に戻そうと思ってる。けどそれは危険なものだけで、危険じゃないものまで無理に封印するつもりはないんだ。その、雨谷さんも」
「このまま……でも私はこのままではいられないの」
「いられない?」
 雨谷さんはなんともつかない、けれどもその決意は決して覆らない、そんな表情で僕を見た。
「もし雨谷さんが望むなら、前と同じように眠り続けることもできる、と思う。何か望みがあるならそれを叶えてからでも」
 雨谷さんは窓の外を見つめた。
 じっと言葉を待つうちに、外はすっかり暗くなっていた。
「……封印っていうのはいつかまた、起きちゃうかもしれないんでしょう?」
「うん、絶対ないとは言い切れない」
 封印である以上、解ける可能性はある。僕が解いてしまったように。
「それは、もう嫌かな。でも、私のやらないといけないことは悪いことだから。だから封印されても仕方がないと思う」
 予想外の言葉に思わず目を瞬いた。やらないといけないこと。
「……やらないといけないことって何? 雨谷さんのお父さん? 紅林治一郎さんのお願いごとなんでしょう?」
「そう、なんだけど」

 雨谷さんは少し考え、ぽつりと口を開いた。
「お父さまには娘がいたの。それで私はその娘、ひよりさんの体を使って魔法で作られたの」
「体、を……?」
 確かにあのぐねりとした感触は、人ではなかった。
「ええ。信じられないかもしれないけれど。それでお父さまが死ぬときに、一緒にこの館を燃やすように言われたわ。時間は経ってしまったけれどもその願いをかなえようと思っている」
「そんな!? 治一郎さんが亡くなってもう随分経ってる。今更?」
 雨谷さんはふるふると首を振る。
「私もそう思う……。でもこれは私とお父さまと、ひよりさんのお葬式。私はきっとこのためにお父さまに作られた。私にはお父さま以外、なにもないの」
「雨谷さんは絵が好きなんでしょう?」
 雨谷さんの視線につられて外を見る。そこにはいつしか、しずしずと闇が降り積もり、この屋敷を囲む公園の、その外側に灯る僅かな該当だけがうっすらと蛍のように灯っていた。
「絵はもう描いちゃった。ここを出て生きていけると思えない」
「そんな」
「この屋敷の外は全てが何もかもが変わってしまった。お父さまと過ごした時と同じものなんて、ほとんどない。だから私ももう、過ぎ去らないと」
「でも、新しい生活だって、やってみれば」
 けれどもそれが現実的ではないこともなんとなくわかっていた。
 ここから雨谷さんが新しく生活を始める。けれども雨谷さんは人間じゃない。雨谷さんに触れてみれば、それはわかる。人ではない体温と感触。だからこの紅林邸の外で人間らしい生活ができる体じゃないのかもしれない。かといってずっと秘密の部屋で過ごすのも幸せとは思えない。
 けれども屋敷と一緒にその身を焼いてしまう、そんな悲しい終わり方がいいとはとても思えなかった。
 雨谷さんは寂しそうに微笑んだ。
「……東矢くん。私の体、もうあんまり持たないんだ」
 雨谷さんはそう言って、カーディガンの長い袖をめくった。雨谷さんの皮膚は乾いてポロポロと剥がれ落ちた。その体の内側の方から、土が乾いたときにできるような亀裂が走っていた。
「私の体はお父さまのひよりさんに対する願いで動いてる。お父さまが亡くなってから、動くたびにちょっとずつ減ってって、もうすぐ全部なくなって、完全に崩れてしまう。ずっと寝てたときは動かなかったせいか、ほとんど減らなかったみたいだけど」
 雨谷さんの命の終わり。それはもう、物理というどうしようもない形で目の前に迫っていた。
「だからね、私、ここを私とお父さまのお墓にしようと思って」
「そんなの駄目だ!」
 けれども理屈を持たない僕の叫びは何かに遮られて、雨谷さんに届かなかった。
 雨谷さんは目を伏せる。それはきっと強い拒絶。
 けれども寂しそうに見えた。本当に寂しそうに。
「本当にそれでいいの?」
 まるで、無理やりそう思い込もうとしているように見えた。
 だから僕はわかったんだ。きっと本心じゃないってこと。
 お墓にして喜ぶのは誰?
 それは治一郎さんの望みで、雨谷さんの望みじゃない。最後のだって後付けだ。
 じゃあ、雨谷さんは?



「雨谷さんは本当にここを燃やしたいの? 今ここを燃やしたって治一郎さんが喜ぶとは思えない。治一郎さんが亡くなってから幽霊が出たって話はない。きっと治一郎さんはもう成仏しちゃってて、きっともう天国でひよりさんと暮らしてる」
「お父さまが、成仏?」
 お父さまが成仏された。それは一瞬だけ考えた。
 その言葉に、私の心はふいに軽くなった。羽が生えたように。
 けれどもわからない、そんなことはわからないよ。成仏したかなんて。
 また、私の中でなにかが萎みかける。
「もし雨谷さんがお墓がほしいなら、僕が紅林邸に会いに来るよ、毎日とは言えないけど年に何回かは雨谷さんに会いに来る。燃やして何もなくなっちゃうより、そちらの方がいいでしょう?」
「私に……?」
「残り時間が少ないんでしょう? だからこそ、雨谷さんがしたいことをしてもいいと思うんだ。時間がないならせめて、僕と一緒にしたいことを探さない?」
 東矢君はまっすぐに私を見た。
 そしてその瞳の中には確かに私が映っていた。
 その時、私心の中に風が吹いた。
 私のしたいことを探す?
 お父さまやひよりさんではなく、私のしたいこと……そんなことがあるのかな?
 ひよりさんなら健康になってお父さまと暮らしたいと思うのかもしれない。
 お父さまならひよりさんと生きていたいと思うのかもしれない。
 けれども、その願いの中に私はいない。
 確かに、私がこのまま消えてしまったら、私の魂はなんの痕跡も残さないまま泡のように消えてしまうんだろう。
 私。
 私は。
 とまどいながら、改めて東矢くんを見る。
 東矢くんは私に手を伸ばす。
の、本当にしたいことは、何?」
 東矢くんが私をじっと見ていたことに気づく。お父さまと違ってひよりさんじゃなくて私を。
 そういえば、東矢くんはいつもひよりさんではなく私をみてくれていた。
 私はひよりさんの飾りではなくて、私が私として存在してもいいんだろうか?
 そんなことを、初めて思った。

 私は確かに、今、ここに存在する。
 私は、飾りではない私として、ここにいてもいいのかな。
 東矢くんの目に今映っている、私自身として。

 東矢くんの手を取ったのは多分無意識だ。
 その手はとても暖かかった。そういえば、お父さまは私に触れることなんて全然なかった。
 私の中の何かが決壊して、目から、乾いたこの体にあるはずのない液体がこぼれ落ちた。
 私は……お父さま……ごめんなさい。
 私は、私でいたい。初めて私を見つけてくれる人を見つけてしまったから。
「私は……私のことを知っていてほしい。私がここにいたことを」

 それから、私は1週間ほど、東矢くんと過ごした。
 不思議で大切な毎日だった。初めての私としての暮らし。ひよりさんじゃなく私の。
 朝に少し会って何をするか少し話して、放課後にまた会う。
 日曜日にはショッピングモールにも行った。初めて乗る電車がカタコトと線路を動くのに驚き、駅ビルの大きさに驚き、人の多さに驚いた。
 そして、あふれかえる物の量にも。ここには本当になんでもあって、私とお父さまが過ごしていた時代とは全く違うってことが実感としてわかった。断ったのに東矢くんは薄いショールを買ってくれた。
「安物だけど」
「……ありがとう」
 ひよりではなく私のためだけに買ってくれた、私だけの宝物だ。
 私が学校や友達のことを羨ましいって言うと、次の日友達を連れてきてくれた。末井ナナオさんっていう女の子で、髪が金色でびっくりした。少しだけ男の子みたいな、とても楽しい人。一緒にお洒落な喫茶店でケーキを食べていろんなことをお話しした。だいたいは聞いてたけれど。
 他の日は、庭で絵を描いたりおしゃべりしたりした。
「東矢くんの絵を描きたい」
「え、僕なんか描いても」
「簡単なのしかかけないけど、わたしのやりたいこと」
 そう言うと、しぶしぶ了解してくれた。無理にまじめな表情を作ろうとして面白かったな。
 それから、1週間前。私は東矢くんに、本当のお別れをした。
 私がもう動けないことはわかってくれていたと思う。その頃の私の体はもうぼろぼろだったから。
 怖がらないでいてくれたことが不思議。
「じゃあ、本当にさようなら。僕はちょくちょく尋ねに来るよ。来世ではもっといいことがありますように」
 最後にそっと握手をして、立ち去っていく東矢くんの姿を見守った。
 それから1週間、私は秘密の部屋にこもりきり。ゆっくり最後を待っている。
 東矢くんが返してくれたお父さまとこの家の絵と、東矢くんの絵を並べて眺めながらぼんやり過ごした。
 絵の中のお父さまも優しく微笑んでいる。きっとこれで、よかったんだと思う。
 東矢くんとの思い出を思い浮かべて、とても幸せな気分に浸りながら。

 それで僕が雨谷さんとお別れして10日ほどたった頃だ。
 その日の日差しは特に眩しく風はすがすがしくて、夏のわずかな訪れと春の終わりを運んできた。授業中、珍しくニヤが教室のベランダを伝って窓際にある僕の席までやってきた。
「アマガイが消滅した」
 それだけ言ってニヤはトコトコと去っていった。
 雨谷さんは、少しでも幸せに眠れただろうか。
 紅林邸の秘密の部屋で眠る、雨谷さんと絵が思い浮かんだ。
 最後に会ったとき、雨谷さんはとても満足した表情をしていたと思う。
 これでよかったのかどうかはわからないけど、僕が解放した怪異の1つが消滅した。
 今週末にでも紅林邸にお墓参りに行こうかなと思う。ナナオさんも誘って。
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