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3章 僕と紅林邸の怪談 ~雨谷かざりの繰り返される日々~
雨谷かざりの回想
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私が初めて目が覚めたとき、目の前には眼鏡をかけた気難しそうな男性がどっしりとした革張りの椅子に座っていた。男性はピクリとも動かないまま、期待と不安を込めた瞳で私をじっと見つめる。
その重苦しい雰囲気に耐えられず、私はキョロキョロと辺りを見回す。窓の外は真っ暗で夜のようだ。室内は奇麗に整えられた、というより奇妙に物が少なく、薄暗かった。
「……あの、ここはどこでしょうか」
私は恐る恐るその男性に尋ねた。屋敷は静かで、他に誰も射なさそうだったから。
男性は難しい顔で私をじっと見つめ、眉間のしわを深くした。
「……ここはわしの家だ。わしは雨谷治一郎という。お前を作ったものだ」
私を作った人……つまり、お父さま?
お父さま、というつぶやきは自然に私の口から漏れ出ていた。
治一郎は驚いたように一瞬眉を大きくあげて、そして再び何かを期待するように私をじっと観察する。どうしていいかわからず、私は見つめ返す他なかった。
しばらくの無言の後、治一郎は私から視線を落とし、ひどく落胆した様子で目元に手を置いた。そして、何かを諦めるようにこう呟いた。
「ひより……いや、お前の名前はかざりだ。今日からここで暮らすといい」
それから私とお父さまの、2人で住むには少し広いこの屋敷での暮らしが始まった。
私ははじめ、お父さまのことを『治一郎様』と呼んだ。けれどもお父さまは酷く混乱したお顔をされた。つぎに『お父さま』と呼ぶと、居心地が悪そうな顔をしつつも、そう呼ぶようにと言われた。
2人での変化のない生活が続く。
お父さまは口数は少なかったけれど、私にいろいろなことを教えてくれた。家事にはじまり生活していくための知恵、ひよりさんの趣味だったという絵。
私はお父さまと生活するなかで、お父さまご自身のことやひよりさんのことを知った。
ひよりさんはこの屋敷から見える療養所で生活していたそうだ。調子がいい時にはこの屋敷で過ごすこともあったそうだけど、その機会はあまり多くなかった。
そして16歳の時に亡くなったと聞いた。
お父さまはひよりさんのことをあまり多くは話さなかったけれど、ひよりさんのことをとても大切に思っている。それを私をすり抜けてひよりさんを見つめるお父さまの視線で深く理解した。
お父さまは紅林という名前で建築家をしていた。芸号というのか、お父さまのお師匠様の名前を継いだらしい。お師匠様はもともとは宮大工だったそうだ。それからお師匠様やお父さまは外国の建築家ともよくお話をされていたらしい。
そこで、何かの話のはずみである外国人の従者から不思議な呪いを聞いた。
その従者いわく、彼は建築家の故郷の大きな国にほど近い島の出で、そこにはロアと呼ばれるさまざまな神の使いがいると考えられていた。海のロアや草のロア、いろいろなロアが存在した。ブードゥという考え方らしい。お師匠様にとって、この国の八百万の神々と似たような存在に思われたようだ。
お師匠様はその後も従者となにかにつけて親しく過ごし、ロアのことを聞き出した。その中にこんな話があった。ロアの神官と呼ばれる者は、ロアの力を借りて死者の魂の一部を捉えて死者を動かすらしい。
お師匠様は『死者を動かす』という考えにとらわれたそうだ。宮大工時代に培った神事の知識とブードゥの知識を混ぜ合わせ、得体の知れない何かの術式を構築していった。そして流行病に倒れたお師匠様は、その術式をご自身に用いるよう、お父さまに命じられた。
「治一郎、私の技術は残さねばならぬ」
そのような言葉とともに。
お父さまは暗い窓の外を眺めながら、遠い昔を思い出すように難しい顔をして話を続ける。私はソファに座って静かに耳を傾ける。
「わしにはそのまじないが未完成に思えたし、成功するとは思えなかった。異なる国の神のことわりどうしを混ぜるのだ。そんな恐れ多いことが成功するはずがない。それにわしには、このまじないがひどく中途半端で恐ろしいものに思えた」
それはそうだろうな、と私でも思う。
例えばある神様をたたえる祝詞を他の神様の前で唱えるようなもので、普通はむしろ嫌がられるだろう。いろいろな祝詞を混ぜ合わせても、何が何だかわからないものが出来上がるだけだと思う。
「一応わしは呪物をそろえて用意だけはした。師匠はあっという間に亡くなったが、どうしてもそのまじないを使う気にはなれなかった。使ってしまったら何か恐ろしいものが呼び出され、たちまちに飲み込まれてしまうような気がしたのだ。だから、わしは師匠の言葉に逆らいまじないをせず、すっかり忘れることにしたのだ」
お父さまはそこで、何とも言えない表情で私をチラと見て、話を続ける。
「だかわしは……。ひよりが死んで、わしも一緒に死んでしまおうかと思ったとき、急に師匠のことを思い出したのだ。思えば師匠にも、建築の他に何もなかったのだろう」
お父さまは倉庫にしまい込まれた書物やメモを探し、お師匠様の記録をみつけた。
お師匠様が亡くなったときは、うまくいくはずがないと思っていた。けれどもひよりさんが亡くなった時、お父さまにはひよりさんしかいなかった。うまくいかなくてもいい、失敗して一緒に死ぬならそれでもよい。そう思ってまじないを発動させた。
結果として、ひよりの死体から私は生まれた。
体はひよりそのものだったけど、中身はひよりさんではない、のだと思う。少なくとも私にはひよりさんの記憶はないし、お父さまのことも何も覚えていない。
お父さまは、ひよりさんではない私を見て、一瞬やはり一緒に死のうか、と思ったそうだ。
でも、一見健康そうな、喘鳴で苦しむこともない私を見て、ひよりが元気だったらこんなふうだっただろうかと考えると、もう少しだけ健康なひよりを見ていたくなったそうだ。
ひよりさんとの思い出のあるこの家で、姿だけとは言えどひよりさんと暮らしたい、お父さまはそう願った。
それからも私とお父さまは、一定の距離を保ってそのような生活を長く続けていった。
時にはお父さまと庭のベンチでお弁当を食べることもあった。父さまは嬉しそうに私を通してひよりさんを見て微笑んでいた。お父さまの目は私を見ていなかった。
私はひよりの形をした飾りだ。
そんな生活が10年も続いただろうか。その中でお父さまは少しずつ老いていった。
時間というものは生命に付着するものなのだろう。ひよりさんは死んで、その体は時間を止めた。私は何も変わらなかったけれども人は変化する。お父さまはだんだんと弱り、いつしかベッドから出ることはなくなった。長くないのは命を持たない私でも、よくわかった。
お父さまはひよりさんではなく私に言った。
「私が死んだら、この屋敷ごと燃やすように」
誰にもここに足を踏み入れてほしくない、そうだ。
お父さまにはひよりさんしかいない。この屋敷にはひよりさんと過ごした記憶が残っている。お父さまはそれを誰にも踏みにじってほしくなかったのだろう。
お父さまはひよりさんが亡くなった日に考えたように、館も自分も私というひよりの体もすべてを燃やして一緒に灰になろうと考えている。
私はお父さまにつくられた。それならお父さまの言うことには従わなければならない。それに私を通してひよりさんを見ていたのだとしても、お父さまは私を大切にしてくれた。お父さまの希望は叶えたいと思う。
お父さまに新しいお茶をいれながら、うなずいた。
間もなくお父さまが亡くなった。
春のはじめのことだった。
お父さまには身寄りもなく、親しい者もいなかった。
お父さまの身を簡単に清めた。お父さまの望みをかなえる前に、最後に屋敷を見回ろうと思った。
庭に出て、屋敷を眺める。
ふわりとした春のあたたかな風を感じる。
この庭は緑の木々ばかりだが、目を少し上げた新谷坂山、療養所のあたりには少しばかりの桜が咲いている。
そこから風に紛れて淡い桃色の桜の花びらがそよそよと流れ着き、私の肩におちた。
私はまた、庭を見渡す。たくさんの思い出とともに。
春はお父さまと新谷坂山の桜を眺めた。
夏は青々と茂る木陰で休んで、池の端から新谷坂山を眺めた。
秋は赤や黄色に色づく紅葉や銀杏を眺め、
冬はしんしんと木々に雪が降り積もるのを館の窓から眺めた。
お父さまは屋敷や新谷坂山の風景、私を通じて、ひよりさんの思い出だけにすがっていた。そして私も気づいた。私の世界にもお父さましかいなかったことに。
お父さまにとって私がひよりさんの思い出のかけらに過ぎなかったとしても、私にもお父さま一人しかいなかった。お父さまにとってこの屋敷や庭がひよりさんと過ごした大切な思い出だったのと同じように、私にとってはお父さまと過ごした大切な場所だった。お父様との思い出がたくさん詰まっている。
ひとりぼっちになった私は、広い屋敷と庭になんとも言えない懐かしみを覚えていた。
その夜、私は台所の薪を屋敷の玄関に移して火をつけた。
けれどもそこまでだった。私にはできなかった。ぱちぱちと火を上げ始める薪を見つめていると、私の全てが失われてしまうような、悲しい気持ちがしずしずと湧き上がり、無意識に台所から水を運び、消し止めてしまった。
もう少しだけ、あと伸ばしにしてはだめだろうか。せめて。
だから私は屋敷の絵を描き始めた。この屋敷を燃やしてしまうとしても、せめて何かの形で残したいと思った。
描き終えたらすべてを燃やしてしまおう。
そう思って筆を構え、池のほとりのベンチに座って絵を描き始める。
ふと、新谷坂山のほうから視線を感じた。
なんだか、ゆるゆると引き寄せられる感じがした。ふっと意識が途切れるような感覚がある。こんな感覚ははじめてだ。
私はその日、早々にキャンバスを片付け、屋敷に戻った。
翌日も絵を描き始める。
しばらくたつと、意識がだんだんと朦朧としはじめる。
なんだかうまく頭が働かない。目をこする。意識が液体だったなら、ストローでゆっくり吸い取られるかのような気持ち。嫌な感じではなかったけど、なにもかもどうでもいいような心地になった。私は屋敷に隠された秘密の部屋にこもって目と閉じた。
それから随分長い間、目覚めることはなかった。
その重苦しい雰囲気に耐えられず、私はキョロキョロと辺りを見回す。窓の外は真っ暗で夜のようだ。室内は奇麗に整えられた、というより奇妙に物が少なく、薄暗かった。
「……あの、ここはどこでしょうか」
私は恐る恐るその男性に尋ねた。屋敷は静かで、他に誰も射なさそうだったから。
男性は難しい顔で私をじっと見つめ、眉間のしわを深くした。
「……ここはわしの家だ。わしは雨谷治一郎という。お前を作ったものだ」
私を作った人……つまり、お父さま?
お父さま、というつぶやきは自然に私の口から漏れ出ていた。
治一郎は驚いたように一瞬眉を大きくあげて、そして再び何かを期待するように私をじっと観察する。どうしていいかわからず、私は見つめ返す他なかった。
しばらくの無言の後、治一郎は私から視線を落とし、ひどく落胆した様子で目元に手を置いた。そして、何かを諦めるようにこう呟いた。
「ひより……いや、お前の名前はかざりだ。今日からここで暮らすといい」
それから私とお父さまの、2人で住むには少し広いこの屋敷での暮らしが始まった。
私ははじめ、お父さまのことを『治一郎様』と呼んだ。けれどもお父さまは酷く混乱したお顔をされた。つぎに『お父さま』と呼ぶと、居心地が悪そうな顔をしつつも、そう呼ぶようにと言われた。
2人での変化のない生活が続く。
お父さまは口数は少なかったけれど、私にいろいろなことを教えてくれた。家事にはじまり生活していくための知恵、ひよりさんの趣味だったという絵。
私はお父さまと生活するなかで、お父さまご自身のことやひよりさんのことを知った。
ひよりさんはこの屋敷から見える療養所で生活していたそうだ。調子がいい時にはこの屋敷で過ごすこともあったそうだけど、その機会はあまり多くなかった。
そして16歳の時に亡くなったと聞いた。
お父さまはひよりさんのことをあまり多くは話さなかったけれど、ひよりさんのことをとても大切に思っている。それを私をすり抜けてひよりさんを見つめるお父さまの視線で深く理解した。
お父さまは紅林という名前で建築家をしていた。芸号というのか、お父さまのお師匠様の名前を継いだらしい。お師匠様はもともとは宮大工だったそうだ。それからお師匠様やお父さまは外国の建築家ともよくお話をされていたらしい。
そこで、何かの話のはずみである外国人の従者から不思議な呪いを聞いた。
その従者いわく、彼は建築家の故郷の大きな国にほど近い島の出で、そこにはロアと呼ばれるさまざまな神の使いがいると考えられていた。海のロアや草のロア、いろいろなロアが存在した。ブードゥという考え方らしい。お師匠様にとって、この国の八百万の神々と似たような存在に思われたようだ。
お師匠様はその後も従者となにかにつけて親しく過ごし、ロアのことを聞き出した。その中にこんな話があった。ロアの神官と呼ばれる者は、ロアの力を借りて死者の魂の一部を捉えて死者を動かすらしい。
お師匠様は『死者を動かす』という考えにとらわれたそうだ。宮大工時代に培った神事の知識とブードゥの知識を混ぜ合わせ、得体の知れない何かの術式を構築していった。そして流行病に倒れたお師匠様は、その術式をご自身に用いるよう、お父さまに命じられた。
「治一郎、私の技術は残さねばならぬ」
そのような言葉とともに。
お父さまは暗い窓の外を眺めながら、遠い昔を思い出すように難しい顔をして話を続ける。私はソファに座って静かに耳を傾ける。
「わしにはそのまじないが未完成に思えたし、成功するとは思えなかった。異なる国の神のことわりどうしを混ぜるのだ。そんな恐れ多いことが成功するはずがない。それにわしには、このまじないがひどく中途半端で恐ろしいものに思えた」
それはそうだろうな、と私でも思う。
例えばある神様をたたえる祝詞を他の神様の前で唱えるようなもので、普通はむしろ嫌がられるだろう。いろいろな祝詞を混ぜ合わせても、何が何だかわからないものが出来上がるだけだと思う。
「一応わしは呪物をそろえて用意だけはした。師匠はあっという間に亡くなったが、どうしてもそのまじないを使う気にはなれなかった。使ってしまったら何か恐ろしいものが呼び出され、たちまちに飲み込まれてしまうような気がしたのだ。だから、わしは師匠の言葉に逆らいまじないをせず、すっかり忘れることにしたのだ」
お父さまはそこで、何とも言えない表情で私をチラと見て、話を続ける。
「だかわしは……。ひよりが死んで、わしも一緒に死んでしまおうかと思ったとき、急に師匠のことを思い出したのだ。思えば師匠にも、建築の他に何もなかったのだろう」
お父さまは倉庫にしまい込まれた書物やメモを探し、お師匠様の記録をみつけた。
お師匠様が亡くなったときは、うまくいくはずがないと思っていた。けれどもひよりさんが亡くなった時、お父さまにはひよりさんしかいなかった。うまくいかなくてもいい、失敗して一緒に死ぬならそれでもよい。そう思ってまじないを発動させた。
結果として、ひよりの死体から私は生まれた。
体はひよりそのものだったけど、中身はひよりさんではない、のだと思う。少なくとも私にはひよりさんの記憶はないし、お父さまのことも何も覚えていない。
お父さまは、ひよりさんではない私を見て、一瞬やはり一緒に死のうか、と思ったそうだ。
でも、一見健康そうな、喘鳴で苦しむこともない私を見て、ひよりが元気だったらこんなふうだっただろうかと考えると、もう少しだけ健康なひよりを見ていたくなったそうだ。
ひよりさんとの思い出のあるこの家で、姿だけとは言えどひよりさんと暮らしたい、お父さまはそう願った。
それからも私とお父さまは、一定の距離を保ってそのような生活を長く続けていった。
時にはお父さまと庭のベンチでお弁当を食べることもあった。父さまは嬉しそうに私を通してひよりさんを見て微笑んでいた。お父さまの目は私を見ていなかった。
私はひよりの形をした飾りだ。
そんな生活が10年も続いただろうか。その中でお父さまは少しずつ老いていった。
時間というものは生命に付着するものなのだろう。ひよりさんは死んで、その体は時間を止めた。私は何も変わらなかったけれども人は変化する。お父さまはだんだんと弱り、いつしかベッドから出ることはなくなった。長くないのは命を持たない私でも、よくわかった。
お父さまはひよりさんではなく私に言った。
「私が死んだら、この屋敷ごと燃やすように」
誰にもここに足を踏み入れてほしくない、そうだ。
お父さまにはひよりさんしかいない。この屋敷にはひよりさんと過ごした記憶が残っている。お父さまはそれを誰にも踏みにじってほしくなかったのだろう。
お父さまはひよりさんが亡くなった日に考えたように、館も自分も私というひよりの体もすべてを燃やして一緒に灰になろうと考えている。
私はお父さまにつくられた。それならお父さまの言うことには従わなければならない。それに私を通してひよりさんを見ていたのだとしても、お父さまは私を大切にしてくれた。お父さまの希望は叶えたいと思う。
お父さまに新しいお茶をいれながら、うなずいた。
間もなくお父さまが亡くなった。
春のはじめのことだった。
お父さまには身寄りもなく、親しい者もいなかった。
お父さまの身を簡単に清めた。お父さまの望みをかなえる前に、最後に屋敷を見回ろうと思った。
庭に出て、屋敷を眺める。
ふわりとした春のあたたかな風を感じる。
この庭は緑の木々ばかりだが、目を少し上げた新谷坂山、療養所のあたりには少しばかりの桜が咲いている。
そこから風に紛れて淡い桃色の桜の花びらがそよそよと流れ着き、私の肩におちた。
私はまた、庭を見渡す。たくさんの思い出とともに。
春はお父さまと新谷坂山の桜を眺めた。
夏は青々と茂る木陰で休んで、池の端から新谷坂山を眺めた。
秋は赤や黄色に色づく紅葉や銀杏を眺め、
冬はしんしんと木々に雪が降り積もるのを館の窓から眺めた。
お父さまは屋敷や新谷坂山の風景、私を通じて、ひよりさんの思い出だけにすがっていた。そして私も気づいた。私の世界にもお父さましかいなかったことに。
お父さまにとって私がひよりさんの思い出のかけらに過ぎなかったとしても、私にもお父さま一人しかいなかった。お父さまにとってこの屋敷や庭がひよりさんと過ごした大切な思い出だったのと同じように、私にとってはお父さまと過ごした大切な場所だった。お父様との思い出がたくさん詰まっている。
ひとりぼっちになった私は、広い屋敷と庭になんとも言えない懐かしみを覚えていた。
その夜、私は台所の薪を屋敷の玄関に移して火をつけた。
けれどもそこまでだった。私にはできなかった。ぱちぱちと火を上げ始める薪を見つめていると、私の全てが失われてしまうような、悲しい気持ちがしずしずと湧き上がり、無意識に台所から水を運び、消し止めてしまった。
もう少しだけ、あと伸ばしにしてはだめだろうか。せめて。
だから私は屋敷の絵を描き始めた。この屋敷を燃やしてしまうとしても、せめて何かの形で残したいと思った。
描き終えたらすべてを燃やしてしまおう。
そう思って筆を構え、池のほとりのベンチに座って絵を描き始める。
ふと、新谷坂山のほうから視線を感じた。
なんだか、ゆるゆると引き寄せられる感じがした。ふっと意識が途切れるような感覚がある。こんな感覚ははじめてだ。
私はその日、早々にキャンバスを片付け、屋敷に戻った。
翌日も絵を描き始める。
しばらくたつと、意識がだんだんと朦朧としはじめる。
なんだかうまく頭が働かない。目をこする。意識が液体だったなら、ストローでゆっくり吸い取られるかのような気持ち。嫌な感じではなかったけど、なにもかもどうでもいいような心地になった。私は屋敷に隠された秘密の部屋にこもって目と閉じた。
それから随分長い間、目覚めることはなかった。
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