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ドーナツ・ホールの呪い
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ガチャリと玄関ドアが閉じる音で目が覚めた。
「買ってきたよ」
「ありがとう」
もぞもぞ気怠く布団から起き上がると、枕元の机にパサリと近所のドーナツショップの袋が置かれた。勝手知ったる俺の家のハンガーに遊里がコートをかけるのを横目に袋を開けると、ぷうんと甘い香りが漂った。
「俺のがオールドファッションとチョコリング、遊里がミートパイでいいのかな」
「そうそう」
遊里は冷蔵庫を開けてポカリを取り出しコップに注いでいる。
遊里と会うようになって3ヶ月ほどたつが、日曜の朝はいつも遊里がドーナツを買ってやってくる。俺はおまかせのドーナツ2個で、遊里はだいたいミートパイ。ドーナツを選んでるのは見たことがない。どうやら甘いのが苦手らしい。
俺と遊里が付き合っているのかはよくわからない。恐らくお互いをものすごく好きなわけでもないけれど、なんとなく居心地がいい。そんな中途半端な関係。
「パイしか食わないならパン屋でいいんじゃないの? 俺も別にドーナツ好きなわけじゃないぞ」
「うーん。でもパン屋のパイとドーナツ屋のパイってちょっと違うんだよね、何がってわけじゃないけど」
「ふぅん?」
少し油の染みた紙で包まれたドーナツをかじると、ぱさついた甘い味が口の中に広がる。そんな俺の様子を、遊里はいつものように少し首をかしげて伺っていた。
「何」
「いや別に」
「いつもドーナツ食ってる時見られてるの、気になってるんだけど。一口いる?」
「いらない」
軽く首を振る遊里をよそにテレビをつけると、朝のニュース。ナントカ関連法案。隣街の殺人事件。株価は下落。昼過ぎから雪。画面が流れていくうちにドーナツも食べ終わる。
「涼一、今日はなにしよっか」
「どっかいく? 雪みたいだけど」
「寒いのは嫌だな。ああ、見たいドラマあったんだよ。一気見していい?」
「いいよ」
答える前に遊里がリモコンを構えたのを横目に、シンクに向かって歯を磨いていると、テレビから激しい銃撃戦の音が聞こえてきた。遊里は海外のハードボイルドが好きで、うちはアメプラを入れてるからよく見ている。代わり映えのしないシャツとジーンズに着替えて戸棚からポテチを一袋引っ掛けて戻ると丁度CMで、アメリカンなめっちゃ甘そうなドーナツの映像が流れているのをチラ見しつつ、遊里の隣に腰を下ろした。
「ああいう甘すぎるのは俺もちょっとパス」
「僕はあの嘘くさい甘さはなんとなく好きなんだ。ガリガリ歯が痒くなる感じ」
「うん? 甘いもん苦手なんじゃなかったの? ドーナツ食わないじゃん?」
「あぁ、僕が食べないのは甘いからじゃなくて」
「なくて?」
何か気まずい感じで言葉が途切れて騒がしいCMが終わり、刑事役がどこか深刻な雰囲気で張り込みをしている映像に切り替わる。しばらく待っても返事はない。
「気になる」
「でも縁起みたいなものだからそんな大したことじゃない」
「縁起?」
「そう、僕にとってドーナツは縁起が悪い」
「食べすぎてお腹壊したとか?」
「ちょっとからかわないで」
頬を膨らませて肩をつつかれたのがかわいかったから肩に腕を回して頬に軽くキスをして、自然とそれからキスをした。ミートパイの味がして甘くはなかった。
「もう。ええと、本当に聞きたいの?」
「うん? そんな重大なこと?」
「ええと……後悔すると思うよ?」
「そう言われると余計気になる。教えてよ」
「ええと……僕はドーナツの穴が怖い」
「穴?」
……ドーナツの穴。
直径3センチくらい? 穴が怖いの? そういえば遊里が買ってくるのはマフィンやパイばかりだ。
「なんて言ったらいいのかな。ドーナツの穴って食べたらなくなるじゃない?」
「うん」
「その食べられた穴ってどこにいくんだと思う?」
「うん? ちょっと何言ってるかわからない」
「そうだよね」
つまらなさそうに呟いて、遊里は複雑な表情で話を切り上げてテレビに目を戻す。刑事が現場に突入する場面。
ドーナツの穴? それは穴があるからドーナツで、ドーナツの本質は何もない穴のほう、とかいう哲学的な話?
そうしているうちにまた銃撃戦が始まった。このままだときっと話の続きは聞けないな。
「ドーナツの穴は食べたらなくなるから怖くないと思う」
遊里はまだ続けるの? という顔で目を丸くして俺を振り返る。でもなんとなく気になったし。
「何で怖いんだよ」
「本当に聞くの……? 絶対後悔すると思うけどいいの?」
「うん」
「それじゃぁ。ええと、穴がなくなるから怖いんだ」
「ますます何を言っているのかわからない」
ドーナツの穴。そこには空気が詰まっている。詰まってるというのもおかしくて普通に空気なわけで、食べると周りの空気との境目がなくなる、それだけじゃないの?
「ねえ、涼一はドーナツの穴ってあると思う?」
「それは、あるんじゃないの? あるかないかで言えば」
「ほら、あるでしょ?」
「あるけど、そのどこが怖いのさ」
「食べたらなくなるところ」
「でもさ、マフィンもパイも食べたらなくなっちゃうから同じじゃないの」
「でももともと穴は空いてない」
「ドーナツも穴の部分まで食べちゃえばもう穴は開いてないじゃん」
ドーナツの穴。空気穴。外側のお菓子部分がなければ穴ではない。三日月型にしてしまえばもうドーナツじゃない、のかな。
「そう。食べた瞬間穴は口の中に繋がる」
「うん?」
「食べたら穴はなくなるでしょ?」
「うん」
「涼一にも穴が空いている。口とか、鼻とか、目とか」
「まぁ」
「食べた瞬間、ドーナツの穴は口の穴と繋がるんだ。穴と穴が繋がって体の中に吸い込まれる。ゼリーを吸い込む時みたいにひゅるっと」
「穴が?」
本気で何を言っているのかわからない。穴が、繋がる? 口とドーナツの穴が? それはまあ、2次元的にも3次元的にも口という穴でドーナツを齧るとそのヘリが一瞬繋がりはするのだろうけれど。うん?
「そうすると、体に穴が空いてしまう。ドーナツの穴相当分の穴が」
「でも、俺はどこにも穴はあいてない、その、口とかもともと開いている穴以外」
「本当に?」
「本当に」
「でもさ、よく考えてみてよ。ドーナツの穴は口を通って体の内側に吸い込まれるんだ。体の中に入るから見えないんだよ。それにもともと見えない」
「なんだかよくわからないけど、それなら胃や腸も同じじゃないの」
「そう。消化器官は外部と繋がっていて空気が出入りしている。ドーナツの穴と同じだ」
なんだか体の中に新しく空気穴が空いて腹の中がぷくっと膨らんだような、なんだか妙な気持ちになってきた。酒を飲みすぎた後に胃が膨らんだような空気過多な感じ。
ちょっと待て。本気で何の話だかわからなくなってきた。でもドーナツの穴が口を通って体内に入る。仮にそうだとしてその穴はどこに行くんだ? 俺の体の中は穴だらけなのか? まさかそんな馬鹿な。
そしてそんなことを本気で心配してそうな遊里がちょっと心配になってきた。
「遊里、穴は開いてないよ。結局の所、実際に体に穴が空いたりはしないんだ。だから心配しなくても大丈夫じゃないかな」
「うん。今はね」
「今は?」
「そう、ドーナツの穴ってのは見えない。だから穴が満ちるまでは何も起きない」
「穴が満ちる?」
「そう、例えば直径6センチのドーナツに直径7センチの穴が空いたらどうなると思う?」
「そりゃあ穴しかなくなるだろ?」
「ほら、やっぱり穴がある」
「いや、あるっていうか、何もないっていうか」
「そう、たとえば直径3センチのドーナツの穴の面積は約7立方センチ。人の男子の体表面積は約1.62立方メートルと言われている。センチに直すと16200立方センチ。つまり2314個分のドーナツの穴を食べればその面積が埋まってしまう」
「2314個? そんなに食わないぞ」
「そうだね、でも穴が空いた食べ物はたくさんある。オニオンリングとか、ちくわとか、バームクーヘンとかレンコンとか。合わせると合計面積がどんどん大きくなっていく」
穴。穴の空いた食品。
「まあ、たくさん穴が空いたものを食ってるのはわかった」
「あの、この話はそろそろやめたほうがいい」
「なんで。ここでやめるのはなんか気持ち悪い」
「じゃぁ、話が終わったらキスしていい? 約束して。必ず」
「今でもいいよ」
妙に深刻な遊里の表情に困惑しながらキスをする。遊里はゴクリとつばを飲み込み、何か妙に覚悟を決めたように視線を床にさまよわせている。
この話、そんなに真剣にする話なのか?
「本当に後悔しないでね。あの、今はきっと穴は体の内側に入って溜まっているんだ。メビウスの輪のように表面にはない。だからその穴は見えない。でもどんどん穴が溜まっていって、その人の表面積を超えた時、どうなると思う?」
まるで魔女の秘密でも明かすかのような遊里の雰囲気に飲まれて、今度は俺の喉がゴクリと鳴る。テレビの映像はいつのまにか途切れていた。
「……どうなるんだ?」
「穴以外のところがなくなって、何も無くなってしまうんだ。直径6センチのドーナツに直径7センチの穴が空いた時のように」
ハハ、……そんなバカな。そう笑い飛ばすには俺をまっすぐ見る遊里の目は真剣そのものだった。
でも真剣すぎてかえってちょっと冷静になって、肩の力がふっと抜けた。多分遊里は何故だかそう思い込んでしまっているんだろう。俺はぽんぽんと遊里の頭を叩いた。
「変なこと聞いて悪かったな」
「……信じてくれる?」
「まあ正直いうとよくわかんない」
けど、遊里の妙な勢いで半分信じそうになった。そうすると、遊里は瞳をうるませて、僕を抱きしめた。
「これまで誰も信じてくれなかった。私、本当はドーナツもオニオンリングも大好きでさ、もう一生食べられないかと思ったんだ」
「うん?」
「涼一が知りたいって言ったんだからね? ドーナツ・ホールの呪いを」
「呪い?」
「そう、これを知って信じてしまったら呪いにかかる」
ハハ、そんな馬鹿な。そう言おうと思ったけど遊里の視線は先ほどより更に真剣味を帯びていた。
本当に?
「僕は何人かの友達と一緒にこの話を聞いたんだ。その時、10人くらいいたんだけど話が終わった瞬間1人が目の前で消えた」
「は?」
思わず変な声が出る。
「その人は多分それまで表面積を超える量の穴を食べてたんだと思う」
「あの」
「人が消えるのを見てさらに2人消えた。ひょっとしたら解呪方法があったのかもしれないけど、その時消えた人の1人がこの呪いの話をした人だったから、もうどうしていいかわからなくなった」
「えと、どういう意味?」
「多分話した人はその時まで呪いを信じてなかったけど、人が消えるのを見て信じてしまったんだ。それで既に表面積を超えて穴を食べていたから、呪いが発動して消えたんだと思う。そのあとは阿鼻叫喚」
阿鼻、叫喚?
「そう、なの?」
「それで付き合ってる人らがいてさ、彼女さんの方がめっちゃ動転してて彼氏さんの方が彼女さんにキスしたら彼女さんが消えちゃった」
「えっなんで!?」
「これはさ、穴の呪いなんだよ。穴と穴が繋がるの。その時の光景をずっと覚えている」
遊里がぷるりと身震いをする。
それは何か……おかしくないか?
規定量の穴を食べた人が消える、その時穴の空いた何かを食べていたわけではないんだろう? なんでキスしたら消える。
「さっき涼一は体の中に穴があるって言ってたよね」
「うん」
「穴は多分大きい方に移るんだ。ドーナツより人間の穴の方が大きいだろう? だからドーナツの穴が人間に移る」
ドーナツ穴と食道。食道のほうが、大きい?
「だから呪われた者同士が穴と穴をつなげると、穴が大きい方に移るんだ。彼女さんが消えた時、彼氏さんのほうからにゅるんと出てきた何かが彼女さんに染みて、ぱちんと弾けて消えたの。だからね?」
遊里がそっと唇を近づける。俺は思わず腕で口を塞いで遊里と距離を取ろうとする。けれども遊里はやけに強い力で俺を押し倒して唇を近づける。唇が触れ合うまであと3センチ。近い。いや、さっき口でキスをした。何もなかったじゃないか。これはきっと遊里のイタズラ。俺を怖がらせようとするイタズラ。遊里の黒目がぱちぱちと瞬いた。だからただのイタズラ。
「涼一。この呪いは信じていないと発動しない。信じている者同士でなければ穴は繋がらない。ねえ涼一、もし信じちゃってるなら、涼一はもう穴があいたものは食べられない。困るよね?」
その瞳は嘘をついているようには見えなかった。そして真っ暗だった。
「僕はねぇ、穴にビクビク怯えて暮らすのはもう嫌なの。だからキスして。約束したでしょ? それに聞きたいっていったのは涼一のほうなんだから。穴をどちらかに移せばもう片方の穴はなくなる。もし僕が消えたら、涼一は誰にもこの話をしなければ、他の人の穴と繋がることはないから大丈夫。涼一の方が消えてしまったら、ごめんね」
唇がゆっくりと近づいてくる。遊里の吐息が熱っぽい。
嘘だ。まさか。きっとキスをしたら、『ごめんごめん、冗談』って言うはずだ。そうだ、そうに違いない。
そっと柔らかい下唇が触れる。ほら、大丈夫。なんだ、冗談か。舌先が触れ合って、遊里の唇を塞いだ瞬間、ぱちんという音がした。
Fin
「買ってきたよ」
「ありがとう」
もぞもぞ気怠く布団から起き上がると、枕元の机にパサリと近所のドーナツショップの袋が置かれた。勝手知ったる俺の家のハンガーに遊里がコートをかけるのを横目に袋を開けると、ぷうんと甘い香りが漂った。
「俺のがオールドファッションとチョコリング、遊里がミートパイでいいのかな」
「そうそう」
遊里は冷蔵庫を開けてポカリを取り出しコップに注いでいる。
遊里と会うようになって3ヶ月ほどたつが、日曜の朝はいつも遊里がドーナツを買ってやってくる。俺はおまかせのドーナツ2個で、遊里はだいたいミートパイ。ドーナツを選んでるのは見たことがない。どうやら甘いのが苦手らしい。
俺と遊里が付き合っているのかはよくわからない。恐らくお互いをものすごく好きなわけでもないけれど、なんとなく居心地がいい。そんな中途半端な関係。
「パイしか食わないならパン屋でいいんじゃないの? 俺も別にドーナツ好きなわけじゃないぞ」
「うーん。でもパン屋のパイとドーナツ屋のパイってちょっと違うんだよね、何がってわけじゃないけど」
「ふぅん?」
少し油の染みた紙で包まれたドーナツをかじると、ぱさついた甘い味が口の中に広がる。そんな俺の様子を、遊里はいつものように少し首をかしげて伺っていた。
「何」
「いや別に」
「いつもドーナツ食ってる時見られてるの、気になってるんだけど。一口いる?」
「いらない」
軽く首を振る遊里をよそにテレビをつけると、朝のニュース。ナントカ関連法案。隣街の殺人事件。株価は下落。昼過ぎから雪。画面が流れていくうちにドーナツも食べ終わる。
「涼一、今日はなにしよっか」
「どっかいく? 雪みたいだけど」
「寒いのは嫌だな。ああ、見たいドラマあったんだよ。一気見していい?」
「いいよ」
答える前に遊里がリモコンを構えたのを横目に、シンクに向かって歯を磨いていると、テレビから激しい銃撃戦の音が聞こえてきた。遊里は海外のハードボイルドが好きで、うちはアメプラを入れてるからよく見ている。代わり映えのしないシャツとジーンズに着替えて戸棚からポテチを一袋引っ掛けて戻ると丁度CMで、アメリカンなめっちゃ甘そうなドーナツの映像が流れているのをチラ見しつつ、遊里の隣に腰を下ろした。
「ああいう甘すぎるのは俺もちょっとパス」
「僕はあの嘘くさい甘さはなんとなく好きなんだ。ガリガリ歯が痒くなる感じ」
「うん? 甘いもん苦手なんじゃなかったの? ドーナツ食わないじゃん?」
「あぁ、僕が食べないのは甘いからじゃなくて」
「なくて?」
何か気まずい感じで言葉が途切れて騒がしいCMが終わり、刑事役がどこか深刻な雰囲気で張り込みをしている映像に切り替わる。しばらく待っても返事はない。
「気になる」
「でも縁起みたいなものだからそんな大したことじゃない」
「縁起?」
「そう、僕にとってドーナツは縁起が悪い」
「食べすぎてお腹壊したとか?」
「ちょっとからかわないで」
頬を膨らませて肩をつつかれたのがかわいかったから肩に腕を回して頬に軽くキスをして、自然とそれからキスをした。ミートパイの味がして甘くはなかった。
「もう。ええと、本当に聞きたいの?」
「うん? そんな重大なこと?」
「ええと……後悔すると思うよ?」
「そう言われると余計気になる。教えてよ」
「ええと……僕はドーナツの穴が怖い」
「穴?」
……ドーナツの穴。
直径3センチくらい? 穴が怖いの? そういえば遊里が買ってくるのはマフィンやパイばかりだ。
「なんて言ったらいいのかな。ドーナツの穴って食べたらなくなるじゃない?」
「うん」
「その食べられた穴ってどこにいくんだと思う?」
「うん? ちょっと何言ってるかわからない」
「そうだよね」
つまらなさそうに呟いて、遊里は複雑な表情で話を切り上げてテレビに目を戻す。刑事が現場に突入する場面。
ドーナツの穴? それは穴があるからドーナツで、ドーナツの本質は何もない穴のほう、とかいう哲学的な話?
そうしているうちにまた銃撃戦が始まった。このままだときっと話の続きは聞けないな。
「ドーナツの穴は食べたらなくなるから怖くないと思う」
遊里はまだ続けるの? という顔で目を丸くして俺を振り返る。でもなんとなく気になったし。
「何で怖いんだよ」
「本当に聞くの……? 絶対後悔すると思うけどいいの?」
「うん」
「それじゃぁ。ええと、穴がなくなるから怖いんだ」
「ますます何を言っているのかわからない」
ドーナツの穴。そこには空気が詰まっている。詰まってるというのもおかしくて普通に空気なわけで、食べると周りの空気との境目がなくなる、それだけじゃないの?
「ねえ、涼一はドーナツの穴ってあると思う?」
「それは、あるんじゃないの? あるかないかで言えば」
「ほら、あるでしょ?」
「あるけど、そのどこが怖いのさ」
「食べたらなくなるところ」
「でもさ、マフィンもパイも食べたらなくなっちゃうから同じじゃないの」
「でももともと穴は空いてない」
「ドーナツも穴の部分まで食べちゃえばもう穴は開いてないじゃん」
ドーナツの穴。空気穴。外側のお菓子部分がなければ穴ではない。三日月型にしてしまえばもうドーナツじゃない、のかな。
「そう。食べた瞬間穴は口の中に繋がる」
「うん?」
「食べたら穴はなくなるでしょ?」
「うん」
「涼一にも穴が空いている。口とか、鼻とか、目とか」
「まぁ」
「食べた瞬間、ドーナツの穴は口の穴と繋がるんだ。穴と穴が繋がって体の中に吸い込まれる。ゼリーを吸い込む時みたいにひゅるっと」
「穴が?」
本気で何を言っているのかわからない。穴が、繋がる? 口とドーナツの穴が? それはまあ、2次元的にも3次元的にも口という穴でドーナツを齧るとそのヘリが一瞬繋がりはするのだろうけれど。うん?
「そうすると、体に穴が空いてしまう。ドーナツの穴相当分の穴が」
「でも、俺はどこにも穴はあいてない、その、口とかもともと開いている穴以外」
「本当に?」
「本当に」
「でもさ、よく考えてみてよ。ドーナツの穴は口を通って体の内側に吸い込まれるんだ。体の中に入るから見えないんだよ。それにもともと見えない」
「なんだかよくわからないけど、それなら胃や腸も同じじゃないの」
「そう。消化器官は外部と繋がっていて空気が出入りしている。ドーナツの穴と同じだ」
なんだか体の中に新しく空気穴が空いて腹の中がぷくっと膨らんだような、なんだか妙な気持ちになってきた。酒を飲みすぎた後に胃が膨らんだような空気過多な感じ。
ちょっと待て。本気で何の話だかわからなくなってきた。でもドーナツの穴が口を通って体内に入る。仮にそうだとしてその穴はどこに行くんだ? 俺の体の中は穴だらけなのか? まさかそんな馬鹿な。
そしてそんなことを本気で心配してそうな遊里がちょっと心配になってきた。
「遊里、穴は開いてないよ。結局の所、実際に体に穴が空いたりはしないんだ。だから心配しなくても大丈夫じゃないかな」
「うん。今はね」
「今は?」
「そう、ドーナツの穴ってのは見えない。だから穴が満ちるまでは何も起きない」
「穴が満ちる?」
「そう、例えば直径6センチのドーナツに直径7センチの穴が空いたらどうなると思う?」
「そりゃあ穴しかなくなるだろ?」
「ほら、やっぱり穴がある」
「いや、あるっていうか、何もないっていうか」
「そう、たとえば直径3センチのドーナツの穴の面積は約7立方センチ。人の男子の体表面積は約1.62立方メートルと言われている。センチに直すと16200立方センチ。つまり2314個分のドーナツの穴を食べればその面積が埋まってしまう」
「2314個? そんなに食わないぞ」
「そうだね、でも穴が空いた食べ物はたくさんある。オニオンリングとか、ちくわとか、バームクーヘンとかレンコンとか。合わせると合計面積がどんどん大きくなっていく」
穴。穴の空いた食品。
「まあ、たくさん穴が空いたものを食ってるのはわかった」
「あの、この話はそろそろやめたほうがいい」
「なんで。ここでやめるのはなんか気持ち悪い」
「じゃぁ、話が終わったらキスしていい? 約束して。必ず」
「今でもいいよ」
妙に深刻な遊里の表情に困惑しながらキスをする。遊里はゴクリとつばを飲み込み、何か妙に覚悟を決めたように視線を床にさまよわせている。
この話、そんなに真剣にする話なのか?
「本当に後悔しないでね。あの、今はきっと穴は体の内側に入って溜まっているんだ。メビウスの輪のように表面にはない。だからその穴は見えない。でもどんどん穴が溜まっていって、その人の表面積を超えた時、どうなると思う?」
まるで魔女の秘密でも明かすかのような遊里の雰囲気に飲まれて、今度は俺の喉がゴクリと鳴る。テレビの映像はいつのまにか途切れていた。
「……どうなるんだ?」
「穴以外のところがなくなって、何も無くなってしまうんだ。直径6センチのドーナツに直径7センチの穴が空いた時のように」
ハハ、……そんなバカな。そう笑い飛ばすには俺をまっすぐ見る遊里の目は真剣そのものだった。
でも真剣すぎてかえってちょっと冷静になって、肩の力がふっと抜けた。多分遊里は何故だかそう思い込んでしまっているんだろう。俺はぽんぽんと遊里の頭を叩いた。
「変なこと聞いて悪かったな」
「……信じてくれる?」
「まあ正直いうとよくわかんない」
けど、遊里の妙な勢いで半分信じそうになった。そうすると、遊里は瞳をうるませて、僕を抱きしめた。
「これまで誰も信じてくれなかった。私、本当はドーナツもオニオンリングも大好きでさ、もう一生食べられないかと思ったんだ」
「うん?」
「涼一が知りたいって言ったんだからね? ドーナツ・ホールの呪いを」
「呪い?」
「そう、これを知って信じてしまったら呪いにかかる」
ハハ、そんな馬鹿な。そう言おうと思ったけど遊里の視線は先ほどより更に真剣味を帯びていた。
本当に?
「僕は何人かの友達と一緒にこの話を聞いたんだ。その時、10人くらいいたんだけど話が終わった瞬間1人が目の前で消えた」
「は?」
思わず変な声が出る。
「その人は多分それまで表面積を超える量の穴を食べてたんだと思う」
「あの」
「人が消えるのを見てさらに2人消えた。ひょっとしたら解呪方法があったのかもしれないけど、その時消えた人の1人がこの呪いの話をした人だったから、もうどうしていいかわからなくなった」
「えと、どういう意味?」
「多分話した人はその時まで呪いを信じてなかったけど、人が消えるのを見て信じてしまったんだ。それで既に表面積を超えて穴を食べていたから、呪いが発動して消えたんだと思う。そのあとは阿鼻叫喚」
阿鼻、叫喚?
「そう、なの?」
「それで付き合ってる人らがいてさ、彼女さんの方がめっちゃ動転してて彼氏さんの方が彼女さんにキスしたら彼女さんが消えちゃった」
「えっなんで!?」
「これはさ、穴の呪いなんだよ。穴と穴が繋がるの。その時の光景をずっと覚えている」
遊里がぷるりと身震いをする。
それは何か……おかしくないか?
規定量の穴を食べた人が消える、その時穴の空いた何かを食べていたわけではないんだろう? なんでキスしたら消える。
「さっき涼一は体の中に穴があるって言ってたよね」
「うん」
「穴は多分大きい方に移るんだ。ドーナツより人間の穴の方が大きいだろう? だからドーナツの穴が人間に移る」
ドーナツ穴と食道。食道のほうが、大きい?
「だから呪われた者同士が穴と穴をつなげると、穴が大きい方に移るんだ。彼女さんが消えた時、彼氏さんのほうからにゅるんと出てきた何かが彼女さんに染みて、ぱちんと弾けて消えたの。だからね?」
遊里がそっと唇を近づける。俺は思わず腕で口を塞いで遊里と距離を取ろうとする。けれども遊里はやけに強い力で俺を押し倒して唇を近づける。唇が触れ合うまであと3センチ。近い。いや、さっき口でキスをした。何もなかったじゃないか。これはきっと遊里のイタズラ。俺を怖がらせようとするイタズラ。遊里の黒目がぱちぱちと瞬いた。だからただのイタズラ。
「涼一。この呪いは信じていないと発動しない。信じている者同士でなければ穴は繋がらない。ねえ涼一、もし信じちゃってるなら、涼一はもう穴があいたものは食べられない。困るよね?」
その瞳は嘘をついているようには見えなかった。そして真っ暗だった。
「僕はねぇ、穴にビクビク怯えて暮らすのはもう嫌なの。だからキスして。約束したでしょ? それに聞きたいっていったのは涼一のほうなんだから。穴をどちらかに移せばもう片方の穴はなくなる。もし僕が消えたら、涼一は誰にもこの話をしなければ、他の人の穴と繋がることはないから大丈夫。涼一の方が消えてしまったら、ごめんね」
唇がゆっくりと近づいてくる。遊里の吐息が熱っぽい。
嘘だ。まさか。きっとキスをしたら、『ごめんごめん、冗談』って言うはずだ。そうだ、そうに違いない。
そっと柔らかい下唇が触れる。ほら、大丈夫。なんだ、冗談か。舌先が触れ合って、遊里の唇を塞いだ瞬間、ぱちんという音がした。
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