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除霊始めました 陰陽師土御門太郎と金井武(全5話)
3.その家に潜むもの
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日常の些事に追われてその家に舞い戻ったのは、夜21時だった。
風呂も済ませて来たものだから、この時間になってしまったのはやむを得ない。この辺りは住宅街も外れで、既に随分と静まり返っていた。太郎以外は。
「ねえ、お腹すいたお腹すいた」
「わかったよ煩いな。すぐ飯にするからさ」
途中でピックアップした弁当からは香ばしい匂いが漂っている。バタバタと玄関扉を開けると、やはり昨日と同様、何者かの息遣いを感じる。昨日大騒ぎしたであろう太郎に辟易してどこかに去ったりはしなかったのか。いなくなっていればよかったのに。
軽くため息をつきつつ、真っ暗な中で持ち込んだ電池起動のLEDライトのスイッチを押すと、小さな明かりがぽぅと無人の家の中で広がる。他人の家に押し入ったような、なんだか嫌な感覚がするが、太郎は露ほども気にせず嬉々として弁当を開ける。ふわりと香ばしい香りが広がった。
「う! な! どーん! 美味しそうだねぇ」
「大人しく食えよ」
「だって南川の鰻丼でしょう? 上がる上がる」
南川というのは創業云十年というこのへんで有名な鰻屋だ。
蓋の内側に閉じ込められた蒸気と共に少し焦げたタレの香りとふっくらとした鰻の香り、それからきりりと炊き上げられた米、それらが一体に蒸らされて渾然一体となって鼻腔に触れるだけでヨダレが溢れ出すというものだ。
そしてガタリと音がした。
「ひゃっ何、何なの?」
「お前この家にお祓いに来てるんだろ」
「えっえっ、じゃあお化け? お化けが出たの?」
太郎はじたばたと俺の後ろに隠れた。ますます馬鹿馬鹿しい気分に陥る。
鰻の香りの充満する暗いリビングに緊張が満ち、ないな。
音がしたのは昼に太郎が指摘した和室の押入れの方角だ。暗闇での追いかけっこはごめん被る。だからお越し願えるのが1番いいと思っていたようだが、上手くいった、のかな。
太郎に静かにするよう手で指示し、太郎を引っ張って玄関口まで戻ってガチャリと扉を開ける。外に出たように装い、足音を立てずにリビング入り口まで戻って様子を伺う。
「あの、鰻丼冷めちゃう」
「ちょっと静かにしろ」
ねぇねぇと袖をゆする太郎を宥めて10分ほど、また、カタリ、と音がした。
太郎がヒィと小さく叫び、南無阿弥陀と唱え出す。本当にうるさいなぁ。
だんだん闇に目が慣れてきた。眼を凝らしていると、ドンと何かが落下するような音、ガと引っかかる音がして障子がするりとスライドし、そこからぬるりと黒い何かが這い出る。
「伽耶固、伽耶固だよ、怨呪! 何唱えればいいの⁉︎」
「テレビ局にでも聞けよ。それより黙れ、気づかれるだろ」
その闇に紛れた何者かは畳に腹がつくほど体勢を低くしながらぞりぞりと床を這うようにリビングに現れ、ライトの端にその細長い指とバリバリに剥がれかけたマニキュアが赤く照らされた。そして引きずるように長いぼさぼさの髪の間でわずかに光に照り返された痩せこけた頬は確かに映画の伽耶固のように白い。
そしてその指先がさらに前に押し出された時、太郎が飛び出した。
この伽耶固もどきが何なのかはもう太郎にもわかっただろう。
「これは俺の鰻丼なの! あげないからね!」
「……ごめんなさい」
「……俺のをやるよ」
LEDに哀れに照らされたのはボロボロの風体の20代の女だった。当然ながらお化けではない。お化けなら太郎が南無阿弥陀仏と唱えた瞬間、消し飛んでいる。
女は鰻丼を食わせたら泣きながら身の上話をこぼし始めた。
この家に住み着いたのは3年ほど前。食い詰めてクリームシチューの香りがした暖かそうなこの家にふらふらと忍びこむと誰もおらず、思わず盗み食いをしていたら奥から人がやって来る気配がしたから急いで押し入れに隠れ、その天袋が開くことに気がついてそのままそこで隠れ住んだそうな。
住人が寝静まった夜や全員が外出した昼にこっそり下りて冷蔵庫を漁り、トイレを借りていたらしい。時にはシャワーも。
図太いな。
そもそも素で退魔の力に溢れる太郎の近くで霊障を起こせるなんぞ神代から存在するような強大な霊や妖怪くらいだ。そんな雰囲気もないただの一軒家で音がするなら、それは純粋な自然現象か人間の仕業だ。押入れには天袋があって屋根裏に上がれる仕組みになっていることが多い。だから太郎が押し入れから音が聞こえたと言った時点で、屋根裏に誰かいるんだろうなと思っていた。
けれども誰がいるかわからない。危ないやつかもしれない。だから様子のわからん屋根裏に上って捕まえるのは御免被る。
草刈さんに伝えてお仕舞にしようと思ったけれど、それじゃ太郎の気がすまないだろう。なんとなく匂いでつられて降りてきたりしないかなと思ったわけだ。まさか本当に降りてくるとは。
案の定、太郎は酷く残念そうな複雑な声で呟いた。
「じゃあお化けなんていなかったんだ」
太郎は自分に霊能力があるとは思えないけどあったら格好いいなと思っている。
全く馬鹿馬鹿しい話だ。だからまぁ、ちょっとは溜飲が下がるようにしてやるというのが友達の役目だろう。
「いないわけでもない」
「でもこの人お化けじゃないじゃん」
「すみません……」
「いや、あんたが謝る必要はない。こいつの誤解なんだから。なあ、それより天井裏に上がってもいいか」
「それは……はい」
風呂も済ませて来たものだから、この時間になってしまったのはやむを得ない。この辺りは住宅街も外れで、既に随分と静まり返っていた。太郎以外は。
「ねえ、お腹すいたお腹すいた」
「わかったよ煩いな。すぐ飯にするからさ」
途中でピックアップした弁当からは香ばしい匂いが漂っている。バタバタと玄関扉を開けると、やはり昨日と同様、何者かの息遣いを感じる。昨日大騒ぎしたであろう太郎に辟易してどこかに去ったりはしなかったのか。いなくなっていればよかったのに。
軽くため息をつきつつ、真っ暗な中で持ち込んだ電池起動のLEDライトのスイッチを押すと、小さな明かりがぽぅと無人の家の中で広がる。他人の家に押し入ったような、なんだか嫌な感覚がするが、太郎は露ほども気にせず嬉々として弁当を開ける。ふわりと香ばしい香りが広がった。
「う! な! どーん! 美味しそうだねぇ」
「大人しく食えよ」
「だって南川の鰻丼でしょう? 上がる上がる」
南川というのは創業云十年というこのへんで有名な鰻屋だ。
蓋の内側に閉じ込められた蒸気と共に少し焦げたタレの香りとふっくらとした鰻の香り、それからきりりと炊き上げられた米、それらが一体に蒸らされて渾然一体となって鼻腔に触れるだけでヨダレが溢れ出すというものだ。
そしてガタリと音がした。
「ひゃっ何、何なの?」
「お前この家にお祓いに来てるんだろ」
「えっえっ、じゃあお化け? お化けが出たの?」
太郎はじたばたと俺の後ろに隠れた。ますます馬鹿馬鹿しい気分に陥る。
鰻の香りの充満する暗いリビングに緊張が満ち、ないな。
音がしたのは昼に太郎が指摘した和室の押入れの方角だ。暗闇での追いかけっこはごめん被る。だからお越し願えるのが1番いいと思っていたようだが、上手くいった、のかな。
太郎に静かにするよう手で指示し、太郎を引っ張って玄関口まで戻ってガチャリと扉を開ける。外に出たように装い、足音を立てずにリビング入り口まで戻って様子を伺う。
「あの、鰻丼冷めちゃう」
「ちょっと静かにしろ」
ねぇねぇと袖をゆする太郎を宥めて10分ほど、また、カタリ、と音がした。
太郎がヒィと小さく叫び、南無阿弥陀と唱え出す。本当にうるさいなぁ。
だんだん闇に目が慣れてきた。眼を凝らしていると、ドンと何かが落下するような音、ガと引っかかる音がして障子がするりとスライドし、そこからぬるりと黒い何かが這い出る。
「伽耶固、伽耶固だよ、怨呪! 何唱えればいいの⁉︎」
「テレビ局にでも聞けよ。それより黙れ、気づかれるだろ」
その闇に紛れた何者かは畳に腹がつくほど体勢を低くしながらぞりぞりと床を這うようにリビングに現れ、ライトの端にその細長い指とバリバリに剥がれかけたマニキュアが赤く照らされた。そして引きずるように長いぼさぼさの髪の間でわずかに光に照り返された痩せこけた頬は確かに映画の伽耶固のように白い。
そしてその指先がさらに前に押し出された時、太郎が飛び出した。
この伽耶固もどきが何なのかはもう太郎にもわかっただろう。
「これは俺の鰻丼なの! あげないからね!」
「……ごめんなさい」
「……俺のをやるよ」
LEDに哀れに照らされたのはボロボロの風体の20代の女だった。当然ながらお化けではない。お化けなら太郎が南無阿弥陀仏と唱えた瞬間、消し飛んでいる。
女は鰻丼を食わせたら泣きながら身の上話をこぼし始めた。
この家に住み着いたのは3年ほど前。食い詰めてクリームシチューの香りがした暖かそうなこの家にふらふらと忍びこむと誰もおらず、思わず盗み食いをしていたら奥から人がやって来る気配がしたから急いで押し入れに隠れ、その天袋が開くことに気がついてそのままそこで隠れ住んだそうな。
住人が寝静まった夜や全員が外出した昼にこっそり下りて冷蔵庫を漁り、トイレを借りていたらしい。時にはシャワーも。
図太いな。
そもそも素で退魔の力に溢れる太郎の近くで霊障を起こせるなんぞ神代から存在するような強大な霊や妖怪くらいだ。そんな雰囲気もないただの一軒家で音がするなら、それは純粋な自然現象か人間の仕業だ。押入れには天袋があって屋根裏に上がれる仕組みになっていることが多い。だから太郎が押し入れから音が聞こえたと言った時点で、屋根裏に誰かいるんだろうなと思っていた。
けれども誰がいるかわからない。危ないやつかもしれない。だから様子のわからん屋根裏に上って捕まえるのは御免被る。
草刈さんに伝えてお仕舞にしようと思ったけれど、それじゃ太郎の気がすまないだろう。なんとなく匂いでつられて降りてきたりしないかなと思ったわけだ。まさか本当に降りてくるとは。
案の定、太郎は酷く残念そうな複雑な声で呟いた。
「じゃあお化けなんていなかったんだ」
太郎は自分に霊能力があるとは思えないけどあったら格好いいなと思っている。
全く馬鹿馬鹿しい話だ。だからまぁ、ちょっとは溜飲が下がるようにしてやるというのが友達の役目だろう。
「いないわけでもない」
「でもこの人お化けじゃないじゃん」
「すみません……」
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「それは……はい」
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