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雨、落ちる。 円城環+公理智樹(全5話)

3.雨の切除

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 結局、2人は5時間ほど廃校をさまよった。
 音がするかどうか。その判断は通常でも極めて繊細な判断を要する。辺縁にいけばいくほど、定かではなくなる。
 智樹のつぶやく『音がするような』とか『しないような』といったあやふやな言葉で世界をわたり、ようやく法則を見つけた頃には日が暮れかけていた。当然廃校に灯りなどない。車に乗せてあった懐中電灯で辺りを照らし、環は暮れきる前に当たりがついて良かったと胸を撫で下ろした。
 正直朽ちた廃校は物理的に危険だ。けれども智樹にとっては物理的危険よりもっと気にすべきことがあった。
「酒飲みてぇ」
「今飲んだらぶっ殺すぞ」
「だってぇ。そろそろ幽霊出る時間じゃん。帰りに道路に幽霊が飛び出したら轢いちゃうじゃん? びっくりして事故るから嫌なんだよ、酒のんでない限り夜に車に乗りたくない」

 公理智樹は酒乱である。
 夜になると幽霊が現れ絡まれすぎるので、酔っ払って前後不覚になるのを毎日の習性にしている駄目人間だ。ろくでもないが、智樹の目を考えると心情的には仕方がない、と思うのは環くらいだった。
 けれども環も飲酒運転を是とするわけではないし、環は免許を持っていない。
 だから環は既にここで一泊することを決めていた。今日は飯抜きだと残念な気分に陥っていることを、その無表情の下に隠した。
「それってクレンザーなの?」
「意味合い的にはそうだな」
 環は理科室に残っていた数少ない割れていないビーカーに車から持ち出したペットボトルの水を入れ、持ち歩いているペンの1本を解体してそのインクを投入した。懐から取り出したたくさんの小さな石をより分け、いくつかの粒をビーカーに投下すれば奇妙な匂いが漂う。それを2つのビーカーに均等に分ける。
「調整してるからさ、あの異界の匂いと同じ匂いになったら教えてくれ」
「異界の匂い? 匂いなんてわかんないよ」
「さっき雨を採取しただろう? それとなるべく似た匂いにしろ」
 環は智樹に空に見える小瓶を渡すと、智樹は小瓶の口を掴んで掻き回すように軽く回した。環には既に小瓶の中の水は見えなかったが、智樹には確かに見えているようだ。

「わかるかなぁ?」
「ここでは俺には雨が見えない。幽霊・・になっているからな。智樹が判断するしか無いんだよ」
 難しい顔をしながら小瓶に鼻をくっつける智樹の様子を観察しながら、環は少しずつ石を足したり引いたりしていく。智樹の様子からはやはり一定の匂いの区別はついているのだろう。環にはその差異は全くわからなかったけれども。
「これで同じだと思う」
「そうか? なるべく合わせた方が成功率が高い」
「うう、さっぱり同じ匂いに思えるんだけど。それでそれ何?」
「異界の土だ。土は濡れていなかった。だから雨はあの人間が作り出すこの現世に属するもので、土は異界に属するのものだ。俺もあんまり鼻がいい方じゃないんだけどな」
「あの子が?」
 環は智樹が水を嗅ぎ分けたのと同じように、土の匂いを嗅ぎ分ける。自分でやる分には手慣れているから、智樹の3分の1ほどの時間でその作業は終わった。そうして目を上げると世界はすっかり真っ暗で、環はため息をつき、智樹は悲鳴を上げた。

「さっさと終わらせよう。手順を説明する」
「うん。早く帰りたい。お化け出る」
「まず昇降口に一番近い水場に異界の祓い水を流す。それが浸透し、この学校から異界を祓いきる前にもう一度異界に入ってあの木に現世の祓い水を流す。そうするとその青い人間の現世に所属する部分があの異界の木から分離する。それを捕まえて、異界と現世の両方を祓いきる前に廃校まで逃げる。急がないと異界に取り残される、OK?」
「う、うん。急がないと駄目なんだね」
 智樹は力強く頷く。わかってなさそうだが、取るべき行動を把握できていれば問題はない。
 智樹は魂がどうのとよく分からないことを言っていたが、幽霊ではないとは明言していた。とするならば、その青い人間は肉体と魂がセットで異界に捕らえられている。
 そして異界側で青い人間が降らせた雨は世界の境界に染み渡り、廃校側の排水管にまで流れ込んでいた。智樹が聞いたのはその配管を流れる雨水の音や、腐蝕した配管やその切れ目からぽたぽたと流れ落ちる水滴音で、それは異界側で降った雨の音だ。この世界の水が蒸発して雨になり、その水が異界を通して再び流れ込んでくる。だから異界に近い昇降口では音が反響し、重複しすぎて何が何だかわからなくなる。

 昇降口近くに洗い場をみつけた。
 そこに環が土の匂いから調合した異界の祓い水を流す。そうすれば配管を伝って現世と異界が混ざりあった雨のうち、異界部分だけを打ち消しその繋がりを断ち切る。智樹がその耳で調べた範囲では、配管は思ったより遠くまで伸びている。だからこの祓い水が染み渡り、この廃校から異界を消し去るまでしばらく猶予はあるだろう。けれども決して余裕はない。
「最終確認だ。現世に連れてく、でいいんだな?」
「うん。あの子がそう望んでたもの」
「わかった。いくぞ、智樹」
「うん」
 環が意を決して昇降口から異界に飛び出すと、雨は一層激しく、バラバラと散弾銃のように環に降り注ぐ。これはあの青い人間の悲鳴だ。そう思いながら雨の中を走り抜け、環はさきほど木の周囲に敷いた紙片を確認する。環にはこれほど雨脚が強く感じられるのに、紙片は全く濡れていなかった。
 その紙片に沿って環は智樹が水の匂いから調合した現世の祓い水を流す。これによってこの異界に混じり合った現世の成分が祓われ剥がれ落ちるはずだ。
 そしてそれを表すように、智樹が青い人間に貼り付けたはずの中空に浮かぶ紙片がぐらりとゆれ、それを智樹は抱き止め、担いで走り出し、そして慌てた声を上げた。
「どうしよう! 昇降口が分かんなくなった!」
「異界側から現世の縁を断ったからな。現世の昇降口に目印を付けてある。こっちだ」
 環の目には先程昇降口に設置した文字を描いた木切れだけがはっきりと見えていた。世界の目印のためにそれを置いたのだ。木切れを飛び越えると視界は急に暗転し、激しい雨音が聞こえた。

「えっ? 雨音? 世界は切れたんじゃ」
「落ち着け智樹。これは現世の雨だ。俺にも聞こえる」
「そ、そっか。よかった」
 環にはこの世界の雨の音が確かに聞こえていた。振り返ると真っ暗な中庭の先はただの空き地に見え、森など影も形もなかった。環は現世に戻ったことを確認し胸をなで下ろす。
 そして再度振り返り、智樹の担いでいるものを見た。ようやく環は智樹が見ていたものを見ることができたのだ。
「何とか間に合ったな。そこに下ろせ」
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