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その長い闇の向こうへ 呪術師円城環(全8話)
暗闇と影と光
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環は改めて観察を始めた。
トンネルの中はコンクリ舗装されているようだ。けれどもトンネル自体が丘陵の崖地に突き刺さるように作られていて、今にも入り口が倒壊しそうな風情だ。こちらにせり出すよう威圧的にそびえ立つ分厚いコンクリートの壁には深いヒビが入り、そのヒビの隙間から生臭い甘い風が流れていた。
トンネルを囲う上部や左右の擁壁は古く劣化し、ところどころぽろぽろと剥落している。
つまり、黄泉に繋がるかどうか以前に、物理的にも危険性がある。
いっそこのままトンネル自体を破壊してしまえば難を逃れられるのだろうか。環の脳裏にそのような考えが浮かんだが、すぐ打ち消された。そんな単純なことで済むのなら、きっと誰かが既にそうしているだろう。
「それでは入って下さい」
「本当に?」
「ええ。大丈夫です。おじいさんの宗派を調査しまして、新しい札を書いてきました。これをお持ちになって、何かあれば投げて下さい」
環は三枚の札を成康にわたす。描いたばかりの墨の香りの未だ鮮やかなものだ。そのしっかりとした和紙の手触りと温かみに、成康は思わず懐かしさと安心感を覚えた。
「そして、こちらもお持ち下さい」
「これは?」
「命綱です。決して離さないよう」
差し出された細い紅白の組紐を手に取る。太さも1センチほどだ。命綱というにはあまりに細い。けれどもトンネルに入るよう促された。
そして恐る恐るトンネルに踏み込む。靴の裏にシタリ、と湿った音が響いた。
黄泉の路。たしかにそう言われればそうだ。一歩歩くがごとに次第に光は後ろに流れ遠ざかり、世界は真っ黒に塗り込められていく。
心細い。
夢の中と同じ、いや、それ以上にリアリティのある闇。俺は確かに夢の中でここを走っていた。
けれども、俺は本当にこんなところに昔入ったのだろうか。
けれども、その鼻孔を擽る香りは身に覚えがある。妙に南国を思わせる甘い香りだ。
あの円城環という男の言っていたのと同じように。
したり、したりと音を響かせながら進むと、奥から強い風が吹いてきた。いや、風自体は先程から吹いてはいたのだ。けれどもそれが急に強まった。
何もないように見える真っ暗な奥。光を通さない闇。思わず振り返れば、光は既に一点に修練されている。遠い。まるで夢と同じだ。
そう思ってふぅ、と息を吐いた。
そうすると急に、空気が対流を初めた。俺の息がこの空気を動かし、それがドミノ倒しのように回りに回ってその何者かの眠りを妨げ、身を起き上がらせる。
耳をすますと確かにフウフウ、という音が聞こえた。
聞こえれば入り口に戻るように言われている。
踵を返し、脱兎の如く走り出す。夢と同じく、遠くに見える幽き光を目指して一直線に。
走る。
走る。光をめがけて。
夢の中と同じように、息を荒げ、肺をフル活用させる。心臓はバクバクと波打ち、全身に血液を巡らせる。その一方で、夢と同じだと感じる。いや、あの夢は夢ではなかったのだろうか。
すると夢とは異なり後ろから明確な音が聞こえた。
タッ。
タッタッタッ。
その僅かで明確な足音は次第に大きくなり、そしてタンッタンッと地面を蹴る振動まで響き始めた。それはあっという間に彼我の距離を詰め、背中に接しそうになり、首筋の後ろに生臭い息が吹きかけられた時、札の一枚を投げた。
「ぎゃおう」
動物のような、人間のような、悍ましい声が洞窟内に響き渡り、成康の魂を恐怖に震わせた。
それは反響し、やがて静かになった。けれども安心はできない。今のうちに距離を確保しようと更に全力を出す。
ホッとしたのもつかの間、すぐに後方の足取りは復活し、あと一歩という時、更に一枚、札を投げた。
「ぎゃうルル」
同じように足音は一瞬は遠ざかる。けれども今度は先程より早く、足音が復活した。やばい、やばい、まずい、札はあと、一枚しかない。
あの光はどれほど遠い。
この真っ暗な闇。脱出口である光。
この世界には黒と白の二つしかなく、物事を片目で見ているように遠近感がまるでない。
あの光は遠いのか、近いのか。
息が上がるより早く、滂沱のごとく背筋を汗が垂れ落ちる。
タッ。
騙されないぞ、と言うがのごとく、その足音は瞬く間に背後に迫る。
ぎうと心臓が絞られたように波打つ。
全速力で走るなど何年ぶりだ。
夢の中と異なり体力は限界を迎え、既に息は途切れ途切れで、顔面はおそらくうっ血し、全身から玉のように汗が流れおちている。けれども足を止めるわけにはいかない。もうその足音と息遣いは、再びすぐ後ろに迫っているのだから。
たいして効かないじゃないか!
そう思いながら祈る気持ちで最後の一枚を投げ捨て、痙攣する足をなんとか動かし前を向いた時、その先の光景に目を奪われた。
鮮烈に真っ青な空。
きらめく白い入道雲。
青々とした木々の枝葉。
そして三つの楽しそうに踊る黒い四角。
これが俺を守ってくれていた、爺さんの三枚の札。
俺はその隙間をまっすぐに走りぬけた。
今度こそ、迷いはなかった。
そしてその影を抜ける瞬間、爺ちゃんの声が聞こえた、気がした。
そのまま駆け抜け倒れ込み、擦り切れた膝の痛みと衝撃で巻き上がった土埃のいがらっぽさにむせ返ると、突然ジィジィという蝉の音が響いたのに気がついた。
そして俺を追いかけていた足音と息が消え失せていることも。
振り向けば真っ暗な闇を孕む暗いトンネル。けれどもそのトンネルの中と外は夏の光で完全に遮断されている。光のこちら側に闇は漏れてはこないのだ。
当然のことながら、そのことに酷く安堵した。
トンネルの中はコンクリ舗装されているようだ。けれどもトンネル自体が丘陵の崖地に突き刺さるように作られていて、今にも入り口が倒壊しそうな風情だ。こちらにせり出すよう威圧的にそびえ立つ分厚いコンクリートの壁には深いヒビが入り、そのヒビの隙間から生臭い甘い風が流れていた。
トンネルを囲う上部や左右の擁壁は古く劣化し、ところどころぽろぽろと剥落している。
つまり、黄泉に繋がるかどうか以前に、物理的にも危険性がある。
いっそこのままトンネル自体を破壊してしまえば難を逃れられるのだろうか。環の脳裏にそのような考えが浮かんだが、すぐ打ち消された。そんな単純なことで済むのなら、きっと誰かが既にそうしているだろう。
「それでは入って下さい」
「本当に?」
「ええ。大丈夫です。おじいさんの宗派を調査しまして、新しい札を書いてきました。これをお持ちになって、何かあれば投げて下さい」
環は三枚の札を成康にわたす。描いたばかりの墨の香りの未だ鮮やかなものだ。そのしっかりとした和紙の手触りと温かみに、成康は思わず懐かしさと安心感を覚えた。
「そして、こちらもお持ち下さい」
「これは?」
「命綱です。決して離さないよう」
差し出された細い紅白の組紐を手に取る。太さも1センチほどだ。命綱というにはあまりに細い。けれどもトンネルに入るよう促された。
そして恐る恐るトンネルに踏み込む。靴の裏にシタリ、と湿った音が響いた。
黄泉の路。たしかにそう言われればそうだ。一歩歩くがごとに次第に光は後ろに流れ遠ざかり、世界は真っ黒に塗り込められていく。
心細い。
夢の中と同じ、いや、それ以上にリアリティのある闇。俺は確かに夢の中でここを走っていた。
けれども、俺は本当にこんなところに昔入ったのだろうか。
けれども、その鼻孔を擽る香りは身に覚えがある。妙に南国を思わせる甘い香りだ。
あの円城環という男の言っていたのと同じように。
したり、したりと音を響かせながら進むと、奥から強い風が吹いてきた。いや、風自体は先程から吹いてはいたのだ。けれどもそれが急に強まった。
何もないように見える真っ暗な奥。光を通さない闇。思わず振り返れば、光は既に一点に修練されている。遠い。まるで夢と同じだ。
そう思ってふぅ、と息を吐いた。
そうすると急に、空気が対流を初めた。俺の息がこの空気を動かし、それがドミノ倒しのように回りに回ってその何者かの眠りを妨げ、身を起き上がらせる。
耳をすますと確かにフウフウ、という音が聞こえた。
聞こえれば入り口に戻るように言われている。
踵を返し、脱兎の如く走り出す。夢と同じく、遠くに見える幽き光を目指して一直線に。
走る。
走る。光をめがけて。
夢の中と同じように、息を荒げ、肺をフル活用させる。心臓はバクバクと波打ち、全身に血液を巡らせる。その一方で、夢と同じだと感じる。いや、あの夢は夢ではなかったのだろうか。
すると夢とは異なり後ろから明確な音が聞こえた。
タッ。
タッタッタッ。
その僅かで明確な足音は次第に大きくなり、そしてタンッタンッと地面を蹴る振動まで響き始めた。それはあっという間に彼我の距離を詰め、背中に接しそうになり、首筋の後ろに生臭い息が吹きかけられた時、札の一枚を投げた。
「ぎゃおう」
動物のような、人間のような、悍ましい声が洞窟内に響き渡り、成康の魂を恐怖に震わせた。
それは反響し、やがて静かになった。けれども安心はできない。今のうちに距離を確保しようと更に全力を出す。
ホッとしたのもつかの間、すぐに後方の足取りは復活し、あと一歩という時、更に一枚、札を投げた。
「ぎゃうルル」
同じように足音は一瞬は遠ざかる。けれども今度は先程より早く、足音が復活した。やばい、やばい、まずい、札はあと、一枚しかない。
あの光はどれほど遠い。
この真っ暗な闇。脱出口である光。
この世界には黒と白の二つしかなく、物事を片目で見ているように遠近感がまるでない。
あの光は遠いのか、近いのか。
息が上がるより早く、滂沱のごとく背筋を汗が垂れ落ちる。
タッ。
騙されないぞ、と言うがのごとく、その足音は瞬く間に背後に迫る。
ぎうと心臓が絞られたように波打つ。
全速力で走るなど何年ぶりだ。
夢の中と異なり体力は限界を迎え、既に息は途切れ途切れで、顔面はおそらくうっ血し、全身から玉のように汗が流れおちている。けれども足を止めるわけにはいかない。もうその足音と息遣いは、再びすぐ後ろに迫っているのだから。
たいして効かないじゃないか!
そう思いながら祈る気持ちで最後の一枚を投げ捨て、痙攣する足をなんとか動かし前を向いた時、その先の光景に目を奪われた。
鮮烈に真っ青な空。
きらめく白い入道雲。
青々とした木々の枝葉。
そして三つの楽しそうに踊る黒い四角。
これが俺を守ってくれていた、爺さんの三枚の札。
俺はその隙間をまっすぐに走りぬけた。
今度こそ、迷いはなかった。
そしてその影を抜ける瞬間、爺ちゃんの声が聞こえた、気がした。
そのまま駆け抜け倒れ込み、擦り切れた膝の痛みと衝撃で巻き上がった土埃のいがらっぽさにむせ返ると、突然ジィジィという蝉の音が響いたのに気がついた。
そして俺を追いかけていた足音と息が消え失せていることも。
振り向けば真っ暗な闇を孕む暗いトンネル。けれどもそのトンネルの中と外は夏の光で完全に遮断されている。光のこちら側に闇は漏れてはこないのだ。
当然のことながら、そのことに酷く安堵した。
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