7 / 32
その長い闇の向こうへ 呪術師円城環(全8話)
暗闇と影と光
しおりを挟む
環は改めて観察を始めた。
トンネルの中はコンクリ舗装されているようだ。けれどもトンネル自体が丘陵の崖地に突き刺さるように作られていて、今にも入り口が倒壊しそうな風情だ。こちらにせり出すよう威圧的にそびえ立つ分厚いコンクリートの壁には深いヒビが入り、そのヒビの隙間から生臭い甘い風が流れていた。
トンネルを囲う上部や左右の擁壁は古く劣化し、ところどころぽろぽろと剥落している。
つまり、黄泉に繋がるかどうか以前に、物理的にも危険性がある。
いっそこのままトンネル自体を破壊してしまえば難を逃れられるのだろうか。環の脳裏にそのような考えが浮かんだが、すぐ打ち消された。そんな単純なことで済むのなら、きっと誰かが既にそうしているだろう。
「それでは入って下さい」
「本当に?」
「ええ。大丈夫です。おじいさんの宗派を調査しまして、新しい札を書いてきました。これをお持ちになって、何かあれば投げて下さい」
環は三枚の札を成康にわたす。描いたばかりの墨の香りの未だ鮮やかなものだ。そのしっかりとした和紙の手触りと温かみに、成康は思わず懐かしさと安心感を覚えた。
「そして、こちらもお持ち下さい」
「これは?」
「命綱です。決して離さないよう」
差し出された細い紅白の組紐を手に取る。太さも1センチほどだ。命綱というにはあまりに細い。けれどもトンネルに入るよう促された。
そして恐る恐るトンネルに踏み込む。靴の裏にシタリ、と湿った音が響いた。
黄泉の路。たしかにそう言われればそうだ。一歩歩くがごとに次第に光は後ろに流れ遠ざかり、世界は真っ黒に塗り込められていく。
心細い。
夢の中と同じ、いや、それ以上にリアリティのある闇。俺は確かに夢の中でここを走っていた。
けれども、俺は本当にこんなところに昔入ったのだろうか。
けれども、その鼻孔を擽る香りは身に覚えがある。妙に南国を思わせる甘い香りだ。
あの円城環という男の言っていたのと同じように。
したり、したりと音を響かせながら進むと、奥から強い風が吹いてきた。いや、風自体は先程から吹いてはいたのだ。けれどもそれが急に強まった。
何もないように見える真っ暗な奥。光を通さない闇。思わず振り返れば、光は既に一点に修練されている。遠い。まるで夢と同じだ。
そう思ってふぅ、と息を吐いた。
そうすると急に、空気が対流を初めた。俺の息がこの空気を動かし、それがドミノ倒しのように回りに回ってその何者かの眠りを妨げ、身を起き上がらせる。
耳をすますと確かにフウフウ、という音が聞こえた。
聞こえれば入り口に戻るように言われている。
踵を返し、脱兎の如く走り出す。夢と同じく、遠くに見える幽き光を目指して一直線に。
走る。
走る。光をめがけて。
夢の中と同じように、息を荒げ、肺をフル活用させる。心臓はバクバクと波打ち、全身に血液を巡らせる。その一方で、夢と同じだと感じる。いや、あの夢は夢ではなかったのだろうか。
すると夢とは異なり後ろから明確な音が聞こえた。
タッ。
タッタッタッ。
その僅かで明確な足音は次第に大きくなり、そしてタンッタンッと地面を蹴る振動まで響き始めた。それはあっという間に彼我の距離を詰め、背中に接しそうになり、首筋の後ろに生臭い息が吹きかけられた時、札の一枚を投げた。
「ぎゃおう」
動物のような、人間のような、悍ましい声が洞窟内に響き渡り、成康の魂を恐怖に震わせた。
それは反響し、やがて静かになった。けれども安心はできない。今のうちに距離を確保しようと更に全力を出す。
ホッとしたのもつかの間、すぐに後方の足取りは復活し、あと一歩という時、更に一枚、札を投げた。
「ぎゃうルル」
同じように足音は一瞬は遠ざかる。けれども今度は先程より早く、足音が復活した。やばい、やばい、まずい、札はあと、一枚しかない。
あの光はどれほど遠い。
この真っ暗な闇。脱出口である光。
この世界には黒と白の二つしかなく、物事を片目で見ているように遠近感がまるでない。
あの光は遠いのか、近いのか。
息が上がるより早く、滂沱のごとく背筋を汗が垂れ落ちる。
タッ。
騙されないぞ、と言うがのごとく、その足音は瞬く間に背後に迫る。
ぎうと心臓が絞られたように波打つ。
全速力で走るなど何年ぶりだ。
夢の中と異なり体力は限界を迎え、既に息は途切れ途切れで、顔面はおそらくうっ血し、全身から玉のように汗が流れおちている。けれども足を止めるわけにはいかない。もうその足音と息遣いは、再びすぐ後ろに迫っているのだから。
たいして効かないじゃないか!
そう思いながら祈る気持ちで最後の一枚を投げ捨て、痙攣する足をなんとか動かし前を向いた時、その先の光景に目を奪われた。
鮮烈に真っ青な空。
きらめく白い入道雲。
青々とした木々の枝葉。
そして三つの楽しそうに踊る黒い四角。
これが俺を守ってくれていた、爺さんの三枚の札。
俺はその隙間をまっすぐに走りぬけた。
今度こそ、迷いはなかった。
そしてその影を抜ける瞬間、爺ちゃんの声が聞こえた、気がした。
そのまま駆け抜け倒れ込み、擦り切れた膝の痛みと衝撃で巻き上がった土埃のいがらっぽさにむせ返ると、突然ジィジィという蝉の音が響いたのに気がついた。
そして俺を追いかけていた足音と息が消え失せていることも。
振り向けば真っ暗な闇を孕む暗いトンネル。けれどもそのトンネルの中と外は夏の光で完全に遮断されている。光のこちら側に闇は漏れてはこないのだ。
当然のことながら、そのことに酷く安堵した。
トンネルの中はコンクリ舗装されているようだ。けれどもトンネル自体が丘陵の崖地に突き刺さるように作られていて、今にも入り口が倒壊しそうな風情だ。こちらにせり出すよう威圧的にそびえ立つ分厚いコンクリートの壁には深いヒビが入り、そのヒビの隙間から生臭い甘い風が流れていた。
トンネルを囲う上部や左右の擁壁は古く劣化し、ところどころぽろぽろと剥落している。
つまり、黄泉に繋がるかどうか以前に、物理的にも危険性がある。
いっそこのままトンネル自体を破壊してしまえば難を逃れられるのだろうか。環の脳裏にそのような考えが浮かんだが、すぐ打ち消された。そんな単純なことで済むのなら、きっと誰かが既にそうしているだろう。
「それでは入って下さい」
「本当に?」
「ええ。大丈夫です。おじいさんの宗派を調査しまして、新しい札を書いてきました。これをお持ちになって、何かあれば投げて下さい」
環は三枚の札を成康にわたす。描いたばかりの墨の香りの未だ鮮やかなものだ。そのしっかりとした和紙の手触りと温かみに、成康は思わず懐かしさと安心感を覚えた。
「そして、こちらもお持ち下さい」
「これは?」
「命綱です。決して離さないよう」
差し出された細い紅白の組紐を手に取る。太さも1センチほどだ。命綱というにはあまりに細い。けれどもトンネルに入るよう促された。
そして恐る恐るトンネルに踏み込む。靴の裏にシタリ、と湿った音が響いた。
黄泉の路。たしかにそう言われればそうだ。一歩歩くがごとに次第に光は後ろに流れ遠ざかり、世界は真っ黒に塗り込められていく。
心細い。
夢の中と同じ、いや、それ以上にリアリティのある闇。俺は確かに夢の中でここを走っていた。
けれども、俺は本当にこんなところに昔入ったのだろうか。
けれども、その鼻孔を擽る香りは身に覚えがある。妙に南国を思わせる甘い香りだ。
あの円城環という男の言っていたのと同じように。
したり、したりと音を響かせながら進むと、奥から強い風が吹いてきた。いや、風自体は先程から吹いてはいたのだ。けれどもそれが急に強まった。
何もないように見える真っ暗な奥。光を通さない闇。思わず振り返れば、光は既に一点に修練されている。遠い。まるで夢と同じだ。
そう思ってふぅ、と息を吐いた。
そうすると急に、空気が対流を初めた。俺の息がこの空気を動かし、それがドミノ倒しのように回りに回ってその何者かの眠りを妨げ、身を起き上がらせる。
耳をすますと確かにフウフウ、という音が聞こえた。
聞こえれば入り口に戻るように言われている。
踵を返し、脱兎の如く走り出す。夢と同じく、遠くに見える幽き光を目指して一直線に。
走る。
走る。光をめがけて。
夢の中と同じように、息を荒げ、肺をフル活用させる。心臓はバクバクと波打ち、全身に血液を巡らせる。その一方で、夢と同じだと感じる。いや、あの夢は夢ではなかったのだろうか。
すると夢とは異なり後ろから明確な音が聞こえた。
タッ。
タッタッタッ。
その僅かで明確な足音は次第に大きくなり、そしてタンッタンッと地面を蹴る振動まで響き始めた。それはあっという間に彼我の距離を詰め、背中に接しそうになり、首筋の後ろに生臭い息が吹きかけられた時、札の一枚を投げた。
「ぎゃおう」
動物のような、人間のような、悍ましい声が洞窟内に響き渡り、成康の魂を恐怖に震わせた。
それは反響し、やがて静かになった。けれども安心はできない。今のうちに距離を確保しようと更に全力を出す。
ホッとしたのもつかの間、すぐに後方の足取りは復活し、あと一歩という時、更に一枚、札を投げた。
「ぎゃうルル」
同じように足音は一瞬は遠ざかる。けれども今度は先程より早く、足音が復活した。やばい、やばい、まずい、札はあと、一枚しかない。
あの光はどれほど遠い。
この真っ暗な闇。脱出口である光。
この世界には黒と白の二つしかなく、物事を片目で見ているように遠近感がまるでない。
あの光は遠いのか、近いのか。
息が上がるより早く、滂沱のごとく背筋を汗が垂れ落ちる。
タッ。
騙されないぞ、と言うがのごとく、その足音は瞬く間に背後に迫る。
ぎうと心臓が絞られたように波打つ。
全速力で走るなど何年ぶりだ。
夢の中と異なり体力は限界を迎え、既に息は途切れ途切れで、顔面はおそらくうっ血し、全身から玉のように汗が流れおちている。けれども足を止めるわけにはいかない。もうその足音と息遣いは、再びすぐ後ろに迫っているのだから。
たいして効かないじゃないか!
そう思いながら祈る気持ちで最後の一枚を投げ捨て、痙攣する足をなんとか動かし前を向いた時、その先の光景に目を奪われた。
鮮烈に真っ青な空。
きらめく白い入道雲。
青々とした木々の枝葉。
そして三つの楽しそうに踊る黒い四角。
これが俺を守ってくれていた、爺さんの三枚の札。
俺はその隙間をまっすぐに走りぬけた。
今度こそ、迷いはなかった。
そしてその影を抜ける瞬間、爺ちゃんの声が聞こえた、気がした。
そのまま駆け抜け倒れ込み、擦り切れた膝の痛みと衝撃で巻き上がった土埃のいがらっぽさにむせ返ると、突然ジィジィという蝉の音が響いたのに気がついた。
そして俺を追いかけていた足音と息が消え失せていることも。
振り向けば真っ暗な闇を孕む暗いトンネル。けれどもそのトンネルの中と外は夏の光で完全に遮断されている。光のこちら側に闇は漏れてはこないのだ。
当然のことながら、そのことに酷く安堵した。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
叫ぶ家と憂鬱な殺人鬼(旧Ver
Tempp
ホラー
大学1年の春休み、公理智樹から『呪いの家に付き合ってほしい』というLIMEを受け取る。公理智樹は強引だ。下手に断ると無理やり呪いの家に放りこまれるかもしれない。それを避ける妥協策として、家の前まで見に行くという約束をした。それが運の悪い俺の運の尽き。
案の定俺は家に呪われ、家にかけられた呪いを解かなければならなくなる。
●概要●
これは呪いの家から脱出するために、都合4つの事件の過去を渡るホラーミステリーです。認識差異をベースにした構成なので多分に概念的なものを含みます。
文意不明のところがあれば修正しますので、ぜひ教えてください。
●改稿中
見出しにサブ見出しがついたものは公開後に改稿をしたものです。
2日で1〜3話程度更新。
もともと32万字完結を22万字くらいに減らしたい予定。
R15はGの方です。人が死ぬので。エロ要素は基本的にありません。
定期的にホラーカテゴリとミステリカテゴリを行ったり来たりしてみようかと思ったけど、エントリの時点で固定されたみたい。
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子
ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。
Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
【ショートショート】雨のおはなし
樹(いつき)@作品使用時は作者名明記必須
青春
◆こちらは声劇、朗読用台本になりますが普通に読んで頂ける作品になっています。
声劇用だと1分半ほど、黙読だと1分ほどで読みきれる作品です。
⚠動画・音声投稿サイトにご使用になる場合⚠
・使用許可は不要ですが、自作発言や転載はもちろん禁止です。著作権は放棄しておりません。必ず作者名の樹(いつき)を記載して下さい。(何度注意しても作者名の記載が無い場合には台本使用を禁止します)
・語尾変更や方言などの多少のアレンジはokですが、大幅なアレンジや台本の世界観をぶち壊すようなアレンジやエフェクトなどはご遠慮願います。
その他の詳細は【作品を使用する際の注意点】をご覧下さい。
後悔と快感の中で
なつき
エッセイ・ノンフィクション
後悔してる私
快感に溺れてしまってる私
なつきの体験談かも知れないです
もしもあの人達がこれを読んだらどうしよう
もっと後悔して
もっと溺れてしまうかも
※感想を聞かせてもらえたらうれしいです
ダークサイド・クロニクル
冬青 智
ホラー
日常の裏側、非日常に跋扈するモノから呪術を以てして人々の生活を守るのが呪術師である。
ある雨の日に漂白の魔物、青鬼梟は悪霊《アン・シーリー》との闘いに敗れた瀕死の女呪術師と出逢う。 彼女の名は藤咲文音。
婚姻という人生の門出の日に母親と親族凡てを悪霊に殺されてから、真犯人を追い続けてきた。
《後生だ。カサイ・シュウヘイという名の怪異を、殺して欲しい。そしてどうか、私がここで死んだことを誰にも知らせないで》
彼女に身体と悲願を託された青鬼梟は、新たなる名を対価に受けとる代わり、魔物として在りながら藤咲文音として活動する道を選ぶ。 奇々怪々な怪異たち、そして様々な人間模様を織り交ぜながら青鬼梟・ソラは真犯人を追い詰めていく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる