色は変わらず花は咲きけり〜平城太上天皇の変

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4章 藤原種継の暗殺

 家持の閑話 都ははるか遠く

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 あれは恭仁くに京を少し離れた安積様のご邸宅で、市原王殿が宴を開いた折であったな。当時はよく聖武様や諸兄殿、北家の出であるが風流を解する藤原真楯まだて殿も含めて宴を開き歌を贈り合っていた。

 人の寿命はわからないものですが、だからこそ松の枝に布を結んでお互いの長寿を願うのです。
(たまきはる 命は知らず松が枝を 結ぶこころは長くとぞ思ふ:大伴家持)
 この一本松はどのくらいの年月を過ごしているのでしょう。松を吹く風の清らかさはこの年月から来ているのでしょうね
(一つ松 幾代か歴ぬる吹く風の 聲の清きは年深みかも:市原王)

 安積様は御年17歳であられた。
 基様が身罷られ、安倍様が太子となられたが、聖武様の男子のお子は安積様しかおられぬ。つまり安倍様のご治世の後は安積様が継がれる。寄生虫の藤原四家は長屋王様の祟りで傾き、皇家と古き家が力を取り戻そうとしている。その安積様の御代は清々しきものになるであろうと思い、皆で安積様のご長寿をご祈念したのだ。

 ところがだ。その翌月のことだった。
 安積様が聖武様とともに難波に行幸なされる折、桜井頓宮おういとんぐうにて脚気を患われ、恭仁京に一人、引き換えされた。そしてそのわずか2日後に身罷られた。
 その報はまさに寝耳に水で、その衝撃に私も諸兄殿も何が起こったのかわからなかった。

 脚気だと?
 確かにそれは死に至る病ではある。けれどもそんなはずはないのだ。
 先月にも私は安積様と宴をご同席したばかりで、その際には何らのお体の不調もあられなかった。脚気というものはまず食欲が不振となり、その後下肢に痺れが起こり浮腫が生じる。そうして悪化すれば寝たきりとなり、死に至る。つまり急に死ぬ病ではない。そもそも重篤な脚気であれば行幸など行えるはずがないのだ。
 それに桜井頓宮と難波京の距離はわずか10キロ。はるばる長い距離を恭仁京まで戻らずとも、難波京まで急げばよいだけなのだ。
 おかしなことばかりである。
 そしてその時の恭仁京の留守官は藤原仲麻呂なかまろであった。

 仲麻呂。
 藤原家の中でもひときわ薄暗く濃い闇。
 皇家は万世一系、帝を継ぐものは正しき皇と皇家から産まれたお子が継ぐべきなのだ。けれどもあの藤原家は光明皇后をたて、そのお血筋に初めて皇家の外、藤原を混ぜたのだ。あってはならぬことだ。
 そしてその皇家の異物の象徴たる光明皇后、それが後押しをしているのがその従兄弟であり、中国狂いの男仲麻呂だ。自らが皇位に着くことすら望んでさえいるようなあの男の気持ちの悪い瞳が、もともとどうにも好かなんだ。
 そして安積さまの薨去によって、その嫌悪が決定的となった。

 これは、陰謀だ。それは、明白だ。
 安倍様が太子となられお世継ぎをもうけられぬことが明白となった以上、次の太子として白羽の矢が立つのは藤原家ではないご母堂からお生まれになった安積様なのだ。だから藤原の寄生虫共は都合の悪い安積様を亡き者にされようと……!
 あいつらは何らかの理由で安積様の足を止め、恭仁に引きずり戻して暗殺なされたのだ。腹の底が怒りで煮えくり返る。その怒りは藤原に対してもそうだが、主にはわし自身に対して沸き起こった。
 我が大伴家は皇家の伴としてその御身をお守りすることが史上の役目、なのに、なのにわしはそれを果たせなかったのだ。

 ああ安積様。どうしてお亡くなりになられたのか。この山の端々まで照らし咲き誇っていた花が散ってしまったように感じられる。
(あしひきの 山さへ光り咲く花の 散りぬるごとき我が大君かも)
 近衛と知られた大伴の弓矢とともに万の世をお仕えしようと思っていたのにこの気持をどうせよと言われるのか。
(大伴の 名負ふ靫帯びて万代に 頼みし心いづくか寄せ)

 あれほど清涼な方であれば、これからの日の本を切り開くことができる方だと信じていた。
 それはすぐ目の前に迫っていた春。
 草木はそよぎ山には花が咲きほこり、川には鮎が泳ぐ。このように日増しにこの世は栄えていくその今日という日。わしらは白装束を身をまとい、天に向かわれた安積様を思ってただ地の上で這い回って涙を流す。大声をあげても、もはやどうにもする術はない。
 安積様。何故逝かれてしまわれたのか。そのような思いを胸に、越中守に任じられたわしは一人、長年を過ごした都を悲しみとともに離れた。

 奈良山を超え、近江の琵琶の海を超えて行く間に次第に雅は失われ、越中にたどり着くと既に時は秋の始まり。野には女郎花や萩が咲いていた。
 もの寂しいものだった。はるか遠くに立山の連峰、眼下を揺蕩う射水川。やはりここは都とは異なるのだ、そのように思われる一方、すぐ近くの二上山ふたかみやまは都を思い起こさせた。

 けれどもここが新しき大伴のお役目である。わしはそのように頭を改めた。皇家と離れてもわしにはこの日の本を守るという大事なお役目がある。
 この地の香島津現在の七尾港とその先の越前国加賀かが渤海ぼっかい国からの使者が訪れる外港でもある。更に先の出羽の当たりに拠点を置く蛮族蝦夷にも近い。
 わしはこの地を守るのだ。日の本を守るのだ。ここは大宰府と同じ国の要所であり、わしは父上とは異なり諸兄殿が定めた栄転であった。

 けれども越中の冬は大和とはまた異なる辛さがある。しんと重い雪に閉ざされ、貝のように閉じこもり、ひたすらに春を待つ。
 赴任は5年に及び、その間に様々なことがあった。仕事もあった。越中の地に東大寺の荘園とするための区分けを行った。そこで東大寺の知己を得た。けれども父とともに太宰府にも同行した弟の書持かきもちを失い、わし自身病も得た。
 そのような暮らしの中でわしは大宰府を思い出し、多くの歌を読んだ。

 春。たくさんの乙女が賑やかに水を汲む井戸のほとりにかたくりの花が可憐に咲いていた。
 (物部の 八十少女らが汲みまがふ 寺井の上の堅香子の花)
 夏。立山は神の山だ。夏でも立山の頂に降り積もった雪はいつまでも消えず飽きることはない。
 (立山に降り置ける雪を常夏に 見れども飽かず神からならし)
 秋。見上げる天の川を向かって一年もの長い間を恋い焦がれた織姫と彦星がようやく今夜出会えるその美しい空。
 (安の川 い向かひ立ちて年の恋 日長き児らが妻問ひの夜そ)
 冬。越中厳しい冬。けれども閉じこもらずにこの真っ白い雪が消えないうちに山橘の赤い実が照っているのを見に行こう。
 (この雪の消残る時にいざ行かな山橘の実の照るも見む)

 そして、赴任中に聖武様が身罷られたとの報が届いた。
 あぁ。また、わしはお側にはおれなかった。嘆息ばかりがこの越中重い雪のように降り積もってゆく。
 大伴は皇家の伴であるはずであるのに、この身は都を離れ、一人時の移り変わりから取り残されて過ごしている。ああ、父上は太宰府の地では国防こそがこの日の本を守るすべであるとよくおっしゃられていたが、やはりどれほど都に帰りたかったのだろうか。様々な思いが去来した。

 ようやく都に戻ろうとする時。往く方は来し方と比べて随分と荒れ果てていた。
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