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4章 藤原種継の暗殺
side桓武 説得
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ああ、俺はこの期に及んで早良自身に責任を押し付けようとしている。しかしそれでいい。そうであらねばならない。そうするしかない。他に方法はないのだ。天皇とはこの日の本を統べる者であり、依代だ。俺は何があっても顧みてはならぬ。正しくなくてはならぬ。正しい者でなければこの国の舵取りも……川を渡ることもできぬ。
「早良様がお食事をお取りになりません」
「なんとかならぬのか。命を取ろうなどとは思っておらぬ。せいぜいほとぼりが冷めるまで、どこかの寺で安らかに暮せば良い。そこで御仏に祈っておればよい。いずれ必ず呼び戻す。望まぬならもう呼び戻さぬ」
「それが、すでに早良様は正気を失われかけておられます。私どもの声はお耳にお入いれになりません。ただ、ただ種継様を殺してなどいないとおっしゃられるのみで」
「そんなことはわかっておる。わかっておるのだ。ただ、ただ一言、一言でよい。家持に種継のことを相談したと、それだけで」
それだけで。
何故その、『それだけ』が出来ぬのか。嗚呼、それは早良が早良である所以なのだろう。早良はなにより仏僧だ。自ら嘘を述べるということができるはずがない。
けれどもそれさえあれば、あとは家持が勝手にやったのだということにできるというのに。自分は種継について相談しただけで、あとは勝手に家持がやった。そのようなつもりはなく全く預かり知らないことであると言い切れるのに。
その一歩が、果てしなく遠いのだ。
「駄目なのです。すでに我々の声は届きませぬ。この上は桓武様からお話を……。早良様は桓武様をお呼びでいらっしゃいます。何卒、何卒」
「仕方がない」
俺は一体どのような顔で早良に合えばよいのだろう。俺が無理やりこの地獄に引きずり込んだ。そして死地に追いやった。早良は決して太子になりたかったわけではないのだ。
さらさらと竹が揺れる。ちろりと池が波立つ。
俺は最後の機会に早良に会うことにした。
けれども俺は、その室、乙訓寺の早良の居所の御簾の奥に足を踏み入れることはできなかった。俺の足元から声し、何者かが俺の両肩を引き止める。そこに立ち入ってはいけない。その御簾の内側はまるで空っぽで、その中に足を踏み入れれば全てを零し落としてしまいそうなゆらぎや不確かさを感じた。そしてその御簾の先では、やけに細く薄い影がぼんやりと揺れていた。その姿はすでにこの世のものではないように見えた。
だから俺は、その外側から影に向かって呼びかけた。
「早良、加減はどうだ」
「……」
「早良? 俺だ。何か食べないと体に触る。水も飲んでおらぬのだろう? そなたは御仏に祈るのだろう? 気をしっかり持たねばな」
「……御仏」
「ただ一言、『家持に相談した』と言ってくれれば、それでよいのだ。そうすればお前はしばらくどこかの寺で……」
「私はッ。私はけして種継様の暗殺など……!」
急に声が引き絞られる。まるで絹を裂く悲鳴のような、叫び。恐らく何度も繰り返された音。そして小さな嗚咽。胸を突くようにあふれる悲しみ。
「……種継様……種継様は何故お亡くなりになられたのか……けれども私はけして暗殺などと!」
「わかっておる。そんなことは重々わかっておるのだ」
「兄上……兄上はどこですか……兄上?」
「早良、俺はここにいる。早良。お前はしばらくこの乙訓寺で静養するがよい。悪いようにはせぬ。何も変わらぬ。もとよりお前のために広げた寺だ。お前は寺で御仏に祈りたかったのだろう?」
「……」
「お前と家持は親しかったな。だから『相談』した、とだけ」
暫く待つと、蚊がなくようなか細い音が聞こえた。注意して耳を傾けねば決して聞こえないような声だ。
「……嘘はつきたくないのです」
「嘘じゃない。断じて嘘ではない。『相談』した、と。それだけで」
「……嘘をつくと縁が遠くなるのです。灯りがどんどん小さくなって」
「早良?」
「……種継様も、家持様も、そうやってふつりと縁が切れてしまわれました」
「……」
「…………そうだ、兄上。兄上はどこですか? 兄上はどちらに? 灯りが……灯りが消えてしまう……」
「早良……」
ひゅぅ、と御簾の奥から生臭い風が吹いた。地獄の戸が開いた。そしてその風は俺の前にある御簾にぶち当たって拡散し、再び室の中を滞留し、早良が発していた清涼な気を飲み込んでいく。そしてとぷりと、その御簾の内が黒く染まった、気がした。その奥から聞こえる呻き声は、俺と同じ臭いがした。地獄に絡め取られた者の臭いが。もはや引き上げることのできないほどの闇の香りが。
清涼なはずの乙訓寺は今、魔に飲み込まれた。
俺は思わずかぶりを振った。
今更だ。もはや今更だ。どうにもできぬ。
ふと、東大寺で再開した時の早良の姿が思い浮かぶ。子どもの頃に別れた早良がずいぶん大きく凛々しくなっていて驚いたことを覚えている。けれども一目で早良とわかった。早良も俺と同じであったようで懐かしさが込み上げた。そしてその時の早良は青竹のように清々しく、僧尼であるのにこのように清廉な者もいるのだな、と思ったことも。
それをこのように穢し、闇に塗り込めてしまったのは俺自身なのだ。
早良……。
「早良様がお食事をお取りになりません」
「なんとかならぬのか。命を取ろうなどとは思っておらぬ。せいぜいほとぼりが冷めるまで、どこかの寺で安らかに暮せば良い。そこで御仏に祈っておればよい。いずれ必ず呼び戻す。望まぬならもう呼び戻さぬ」
「それが、すでに早良様は正気を失われかけておられます。私どもの声はお耳にお入いれになりません。ただ、ただ種継様を殺してなどいないとおっしゃられるのみで」
「そんなことはわかっておる。わかっておるのだ。ただ、ただ一言、一言でよい。家持に種継のことを相談したと、それだけで」
それだけで。
何故その、『それだけ』が出来ぬのか。嗚呼、それは早良が早良である所以なのだろう。早良はなにより仏僧だ。自ら嘘を述べるということができるはずがない。
けれどもそれさえあれば、あとは家持が勝手にやったのだということにできるというのに。自分は種継について相談しただけで、あとは勝手に家持がやった。そのようなつもりはなく全く預かり知らないことであると言い切れるのに。
その一歩が、果てしなく遠いのだ。
「駄目なのです。すでに我々の声は届きませぬ。この上は桓武様からお話を……。早良様は桓武様をお呼びでいらっしゃいます。何卒、何卒」
「仕方がない」
俺は一体どのような顔で早良に合えばよいのだろう。俺が無理やりこの地獄に引きずり込んだ。そして死地に追いやった。早良は決して太子になりたかったわけではないのだ。
さらさらと竹が揺れる。ちろりと池が波立つ。
俺は最後の機会に早良に会うことにした。
けれども俺は、その室、乙訓寺の早良の居所の御簾の奥に足を踏み入れることはできなかった。俺の足元から声し、何者かが俺の両肩を引き止める。そこに立ち入ってはいけない。その御簾の内側はまるで空っぽで、その中に足を踏み入れれば全てを零し落としてしまいそうなゆらぎや不確かさを感じた。そしてその御簾の先では、やけに細く薄い影がぼんやりと揺れていた。その姿はすでにこの世のものではないように見えた。
だから俺は、その外側から影に向かって呼びかけた。
「早良、加減はどうだ」
「……」
「早良? 俺だ。何か食べないと体に触る。水も飲んでおらぬのだろう? そなたは御仏に祈るのだろう? 気をしっかり持たねばな」
「……御仏」
「ただ一言、『家持に相談した』と言ってくれれば、それでよいのだ。そうすればお前はしばらくどこかの寺で……」
「私はッ。私はけして種継様の暗殺など……!」
急に声が引き絞られる。まるで絹を裂く悲鳴のような、叫び。恐らく何度も繰り返された音。そして小さな嗚咽。胸を突くようにあふれる悲しみ。
「……種継様……種継様は何故お亡くなりになられたのか……けれども私はけして暗殺などと!」
「わかっておる。そんなことは重々わかっておるのだ」
「兄上……兄上はどこですか……兄上?」
「早良、俺はここにいる。早良。お前はしばらくこの乙訓寺で静養するがよい。悪いようにはせぬ。何も変わらぬ。もとよりお前のために広げた寺だ。お前は寺で御仏に祈りたかったのだろう?」
「……」
「お前と家持は親しかったな。だから『相談』した、とだけ」
暫く待つと、蚊がなくようなか細い音が聞こえた。注意して耳を傾けねば決して聞こえないような声だ。
「……嘘はつきたくないのです」
「嘘じゃない。断じて嘘ではない。『相談』した、と。それだけで」
「……嘘をつくと縁が遠くなるのです。灯りがどんどん小さくなって」
「早良?」
「……種継様も、家持様も、そうやってふつりと縁が切れてしまわれました」
「……」
「…………そうだ、兄上。兄上はどこですか? 兄上はどちらに? 灯りが……灯りが消えてしまう……」
「早良……」
ひゅぅ、と御簾の奥から生臭い風が吹いた。地獄の戸が開いた。そしてその風は俺の前にある御簾にぶち当たって拡散し、再び室の中を滞留し、早良が発していた清涼な気を飲み込んでいく。そしてとぷりと、その御簾の内が黒く染まった、気がした。その奥から聞こえる呻き声は、俺と同じ臭いがした。地獄に絡め取られた者の臭いが。もはや引き上げることのできないほどの闇の香りが。
清涼なはずの乙訓寺は今、魔に飲み込まれた。
俺は思わずかぶりを振った。
今更だ。もはや今更だ。どうにもできぬ。
ふと、東大寺で再開した時の早良の姿が思い浮かぶ。子どもの頃に別れた早良がずいぶん大きく凛々しくなっていて驚いたことを覚えている。けれども一目で早良とわかった。早良も俺と同じであったようで懐かしさが込み上げた。そしてその時の早良は青竹のように清々しく、僧尼であるのにこのように清廉な者もいるのだな、と思ったことも。
それをこのように穢し、闇に塗り込めてしまったのは俺自身なのだ。
早良……。
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