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4章 藤原種継の暗殺
side桓武 暗殺
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目の前で真っ青になった官吏の口の端からヒィという悲鳴が漏れた。そのことに愕然とした。口の中がねとつき、腐臭が漏れていることに気づいた。
俺は憤怒を顔に浮かべていたのだろう。しかしそれ以上に、俺は呪詛を吐いていた。それが口から漏れ出したことに慄いた。
駄目だ。俺がここを汚してはならぬ。なんとか深く呼吸をして、長岡の美しい気を取り込む。駄目だ、呪ってはならぬ。呪詛してはならぬ。なによりここは種継が作りあげようとする美しい都なのだ。
なんとか気を抑え込み、努めて冷静に振る舞う。代わりに呪詛の逆流した胃の腑が爛れ溶けそうだ。
「報告しろ」
「奏上仕ります! しかし、しかしその前にお人払いを!」
「ならぬ。ここにいる者は皆俺が信頼している者ばかりだ!」
「何卒!」
困惑した。けれども管理は頑なだった。人払いをせねばけして報告できぬという。
今ここには種継が襲われた当日に長岡宮にいた早良、是公を始め俺の腹心の部下しかいない。だから何も問題はない。そのはずだ。けれどもつまり、この官吏の意図は、まさか。
いや、しかし。
そんなはずは。
俺の逡巡を見て取った官吏は深く頭を下げ、もう顔を上げようとはしなかった。
まさか、いや。
ない、ありえない。
そんなはずがない。
更にさっと左右を眺め渡す。すべての者は鎮痛の面持ちを浮かべている。いずれも演技のようには思われぬ。
やはり、ない。
俺は皆を信用しといる。
けれど、何だ。何が起きている。
この官吏は何を告げようとしているのだ。飲み込んだ呪詛が俺を満たし、更に溢れ出そうとしている。
すでに俺は思い当たっていた。
俺は……俺は知っていた。
気がついたら予想もつかない事態に巻き込まれていることが……ある。知りもしないうちに全てのレールが敷かれているということが。
父が天皇となり俺が太子となり、そして俺も父も知らないうちに多くの血が流れていたことが……ある。そして俺自身も父の知らぬ内に様々な絵図を描いた。その結果、俺はここにいる。
俺の知らぬうちに新しい図絵が描かれていたというのか? まさか。俺はそうさせないために、長岡と平城を分離した。けれども分離した平城で、何かの絵図が書かれていたとしたら。
かぶりを振る。
ならばそれが何かを確かめねばならない。
信じられるかどうかではない。
真実であるかどうかすらも関係ない。
どのような話が出来上がっているのか。どこまで出来上がっているのか。それが問題だ。
「皆、下がれ」
「何をおっしゃいます!?」
「桓武様!?」
「よほどの……ことなのだろう。沙汰は追って伝える」
「……」
しぶしぶ、という形で皆が退室した。それが、俺が早良の姿を見た最後だった。
その御簾の隙間に、その後ろ姿ごしに半分にかけた月が見えた。俺にはそれが確かに、悪鬼羅刹が運命をあざ笑う口のよう見えたのだ。
官吏の『申し上げます』の言葉に続く詳細は次の通りだった。
種継が襲われたのは深夜巳の刻、異国の時刻で午後10時。
長岡宮の大極殿はすでに完成していたが、宮の全体は未完成である。そこで大工人夫も灯火を灯し、夜を徹しての工事が行われていた。種継は夜間造営の陣頭指揮にあたっていた折、何者かに矢を射掛けられ、その翌朝、つまり今日未明に死亡した。
そんな馬鹿な。
何故そんなことになる。
俺はまだ種継から事情を聞いておらぬ。握り込めた拳が皮膚を突き破ろうとする痛みに力を緩める。ここを汚してはならぬ。代わりに歯軋りが漏れた。
事情を聞けぬということは、見舞いに行けぬということは、やはり種継は死んたのだ。
死んだのか。
やはり、死んだのだな。
本当に?
もう100度を超えたであろう煩悶。
種継は数少なき苦楽を共にした股肱の臣で、友だ。けれども死は穢れだ。尊き俺はもう種継に会う事は叶わぬ。だから、会えぬのか。
死んだというのに会えぬのか。その事実が、俺の心の抵抗を突き抜け、心の臓に落ちてきた。
死んだのだ。死んだのだ本当に。種継。
ならば。ならばその仇は取る。必ずだ。何をしても取る。取らねばならぬ。そうでなければならぬのだ。
か細く胃の腑から漏れてくる嗚咽を飲み込む。
そう決意を新たにして、慄く官吏の報告に再び耳を傾ける。
月の出は子三刻、すなわち午前0時ごろ。だから闇夜だ。真っ暗闇に潜んだ何者かの強行である。
闇が不幸を招く。
ふいに、早良が時折つぶやいていた『無明』という言葉が思い浮かんだ。
風を切る音が聞こえて種継が崩れ落ちた時、その背には2本の矢が刺さっていた。
「卑怯な! だれが……一体誰が下手人だというのだ! 闇夜とは言え人夫は大勢いたはずだ。灯火は焚かれていたはずだ。誰かは見ていたはずだ。それに警備はどうなっている! 必ず護衛がいたはずだ」
「それが……非常に申し上げにくいことですが、下手人は近衛の伯耆桴麿と中衛の牡鹿木積麿です」
「何だと⁉︎ 何故警護の者が種継を襲う⁉︎ 間違いではないのか⁉︎ 他に、例えば遷都に反対をしている者共の兵が入り込んでいたなどの可能性はあろう⁉︎」
官吏は頭を深く垂れたまま、いいえ、と続ける。
俺はこの宮に関わりのある者を疑いたくない。俺は俺の周りの者を疑いたくない。つまりそれは手引した者が俺の近くに、信頼を置いた者の中にいるということだから。
昼に始まった報告は長く続き、次々と新しい報告が舞い込む。まだ新しい香りのする地図にも長い夕闇が伸び、いつの間にか灯火が灯されていた。
官吏が指し示す指の影が地図に落ち、その影は地図を黒く変えていく。まるでこの長岡の都が闇に落ちていくが如く。
「まず、僅かな灯りがあるとはいえ暗闇からの遠隔射撃です。これが可能な者は弓が巧みな武の者に限られます。しかし宮の門の衛士をあたったところ当日前後に武辺者の出入りはありませんでした」
「だからといって忍び込んだのかもしれぬではないか。長岡の北西方向からであれば侵入は可能であろう」
「あちらは乙訓秦氏の領分です。大切なこの都に怪しい者の立ち入りを許すとは思えません。……衛士をあたった際、当日多くの者の動きが変則的であったことに気がついたのです。当たりをつけ調査したところ先の2名の姿がなく、宮外でいるところを捕らえました」
「それで伯耆と牡鹿は誰が首謀者だと言っている⁉︎」
「それが……」
官吏は言いよどむ。その隙きにまた新たな闇が忍び込む。
じりじりとひり付くような沈黙。
「それが2人とも即日に処刑されました」
「何っ⁉︎ どういうことだ⁉︎ 誰が勝手にそのような!」
「2人を処刑されたのは五百枝王です」
俺は憤怒を顔に浮かべていたのだろう。しかしそれ以上に、俺は呪詛を吐いていた。それが口から漏れ出したことに慄いた。
駄目だ。俺がここを汚してはならぬ。なんとか深く呼吸をして、長岡の美しい気を取り込む。駄目だ、呪ってはならぬ。呪詛してはならぬ。なによりここは種継が作りあげようとする美しい都なのだ。
なんとか気を抑え込み、努めて冷静に振る舞う。代わりに呪詛の逆流した胃の腑が爛れ溶けそうだ。
「報告しろ」
「奏上仕ります! しかし、しかしその前にお人払いを!」
「ならぬ。ここにいる者は皆俺が信頼している者ばかりだ!」
「何卒!」
困惑した。けれども管理は頑なだった。人払いをせねばけして報告できぬという。
今ここには種継が襲われた当日に長岡宮にいた早良、是公を始め俺の腹心の部下しかいない。だから何も問題はない。そのはずだ。けれどもつまり、この官吏の意図は、まさか。
いや、しかし。
そんなはずは。
俺の逡巡を見て取った官吏は深く頭を下げ、もう顔を上げようとはしなかった。
まさか、いや。
ない、ありえない。
そんなはずがない。
更にさっと左右を眺め渡す。すべての者は鎮痛の面持ちを浮かべている。いずれも演技のようには思われぬ。
やはり、ない。
俺は皆を信用しといる。
けれど、何だ。何が起きている。
この官吏は何を告げようとしているのだ。飲み込んだ呪詛が俺を満たし、更に溢れ出そうとしている。
すでに俺は思い当たっていた。
俺は……俺は知っていた。
気がついたら予想もつかない事態に巻き込まれていることが……ある。知りもしないうちに全てのレールが敷かれているということが。
父が天皇となり俺が太子となり、そして俺も父も知らないうちに多くの血が流れていたことが……ある。そして俺自身も父の知らぬ内に様々な絵図を描いた。その結果、俺はここにいる。
俺の知らぬうちに新しい図絵が描かれていたというのか? まさか。俺はそうさせないために、長岡と平城を分離した。けれども分離した平城で、何かの絵図が書かれていたとしたら。
かぶりを振る。
ならばそれが何かを確かめねばならない。
信じられるかどうかではない。
真実であるかどうかすらも関係ない。
どのような話が出来上がっているのか。どこまで出来上がっているのか。それが問題だ。
「皆、下がれ」
「何をおっしゃいます!?」
「桓武様!?」
「よほどの……ことなのだろう。沙汰は追って伝える」
「……」
しぶしぶ、という形で皆が退室した。それが、俺が早良の姿を見た最後だった。
その御簾の隙間に、その後ろ姿ごしに半分にかけた月が見えた。俺にはそれが確かに、悪鬼羅刹が運命をあざ笑う口のよう見えたのだ。
官吏の『申し上げます』の言葉に続く詳細は次の通りだった。
種継が襲われたのは深夜巳の刻、異国の時刻で午後10時。
長岡宮の大極殿はすでに完成していたが、宮の全体は未完成である。そこで大工人夫も灯火を灯し、夜を徹しての工事が行われていた。種継は夜間造営の陣頭指揮にあたっていた折、何者かに矢を射掛けられ、その翌朝、つまり今日未明に死亡した。
そんな馬鹿な。
何故そんなことになる。
俺はまだ種継から事情を聞いておらぬ。握り込めた拳が皮膚を突き破ろうとする痛みに力を緩める。ここを汚してはならぬ。代わりに歯軋りが漏れた。
事情を聞けぬということは、見舞いに行けぬということは、やはり種継は死んたのだ。
死んだのか。
やはり、死んだのだな。
本当に?
もう100度を超えたであろう煩悶。
種継は数少なき苦楽を共にした股肱の臣で、友だ。けれども死は穢れだ。尊き俺はもう種継に会う事は叶わぬ。だから、会えぬのか。
死んだというのに会えぬのか。その事実が、俺の心の抵抗を突き抜け、心の臓に落ちてきた。
死んだのだ。死んだのだ本当に。種継。
ならば。ならばその仇は取る。必ずだ。何をしても取る。取らねばならぬ。そうでなければならぬのだ。
か細く胃の腑から漏れてくる嗚咽を飲み込む。
そう決意を新たにして、慄く官吏の報告に再び耳を傾ける。
月の出は子三刻、すなわち午前0時ごろ。だから闇夜だ。真っ暗闇に潜んだ何者かの強行である。
闇が不幸を招く。
ふいに、早良が時折つぶやいていた『無明』という言葉が思い浮かんだ。
風を切る音が聞こえて種継が崩れ落ちた時、その背には2本の矢が刺さっていた。
「卑怯な! だれが……一体誰が下手人だというのだ! 闇夜とは言え人夫は大勢いたはずだ。灯火は焚かれていたはずだ。誰かは見ていたはずだ。それに警備はどうなっている! 必ず護衛がいたはずだ」
「それが……非常に申し上げにくいことですが、下手人は近衛の伯耆桴麿と中衛の牡鹿木積麿です」
「何だと⁉︎ 何故警護の者が種継を襲う⁉︎ 間違いではないのか⁉︎ 他に、例えば遷都に反対をしている者共の兵が入り込んでいたなどの可能性はあろう⁉︎」
官吏は頭を深く垂れたまま、いいえ、と続ける。
俺はこの宮に関わりのある者を疑いたくない。俺は俺の周りの者を疑いたくない。つまりそれは手引した者が俺の近くに、信頼を置いた者の中にいるということだから。
昼に始まった報告は長く続き、次々と新しい報告が舞い込む。まだ新しい香りのする地図にも長い夕闇が伸び、いつの間にか灯火が灯されていた。
官吏が指し示す指の影が地図に落ち、その影は地図を黒く変えていく。まるでこの長岡の都が闇に落ちていくが如く。
「まず、僅かな灯りがあるとはいえ暗闇からの遠隔射撃です。これが可能な者は弓が巧みな武の者に限られます。しかし宮の門の衛士をあたったところ当日前後に武辺者の出入りはありませんでした」
「だからといって忍び込んだのかもしれぬではないか。長岡の北西方向からであれば侵入は可能であろう」
「あちらは乙訓秦氏の領分です。大切なこの都に怪しい者の立ち入りを許すとは思えません。……衛士をあたった際、当日多くの者の動きが変則的であったことに気がついたのです。当たりをつけ調査したところ先の2名の姿がなく、宮外でいるところを捕らえました」
「それで伯耆と牡鹿は誰が首謀者だと言っている⁉︎」
「それが……」
官吏は言いよどむ。その隙きにまた新たな闇が忍び込む。
じりじりとひり付くような沈黙。
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