色は変わらず花は咲きけり〜平城太上天皇の変

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3章 長岡京の2人の兄弟

 side早良 私の選択

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 乙訓寺の拡張工事が進んでいるとの話を聞く。
 そのような噂が淡々と耳に入る。それを私に述べる者はあたかも喜ばしい報告のように私に告げるが、それを聞くたびに私の心は暗く冷えてゆくのを感じる。
 
 乙訓寺。
 都となる長岡の守りの寺。長岡にすでにある7つの寺の筆頭として、現在大増築がなされている。そして現在の平城の都にある各寺社は都が整った後、当然のように移築が許されると考えている。私のいた東大寺も同じことだ。

『此度の新しい寺社の建築を許可制とするとの勅は新たな寄進先が無為に増加しないようというに桓武様の配慮でございます。すでに平城のある大和の地は開発が進みきり、新たに寄進される可能性のある田畑も僅か。荘園を取り合うのは愚かしい行いではないでしょうか』

 そこまで木管に書き連ねて、ため息とともに筆を置く。
 何度目のことだろう。私は一体何度書き直しているのだろう。
 私、私は還俗した現在でも東大寺を束ねる者なのだ。宮中においても平城の都の仏寺に強い影響力がある。誰もが私を信用している。安牌として。
 太子ではあるけれども私は婚姻をせずに子をなさない。それは私が寺に戻るつもりであるからだ。つまり私を後ろから操り外戚となることはできない。けれども誰かが私の後ろ盾に立って操られることもない。私自身の野望もない。私自身の後ろ盾といえば、兄上を除けば長年育った東大寺くらいなのだ。
 だから私が、まさか私を最も信用している寺社をだまし討ちにしようとしているなど、誰が一体考えるだろう。

 私は、私は……。
 私は別に私の寺が欲しいわけではないのですよ、兄上。
 私はただ、良縁を紡いでこの世を明るく照らしたい。幼少の頃に感じた、そして最近また感じている世の儚さと冥さを少しでも晴らしたいのです。
 そして御仏に帰依したい、この世の衆生に幸福をもたらす。それだけなのです、兄上。
 なのに私は無明に囲まれ、囚われていく。
 いや、あの長岡に移ることができれば……。あの清涼な長岡に……。

 ふいに、びぃん、という音が響く。
 ビブラートのように揺れ続ける音、そこにだけ堆積する闇に隙間が空いて幽き光の道が垣間見えるような。
 目を上げると家持やかもちが弓の弦を弾いていた。

「家持様?」
「はは、またご気欝のように見えましたのでな。鬼でも近づいておるのかと陰陽師を真似てみました」

 これは伊邪那岐命いざなぎのみことが黄泉路で投げた桃で雷神と黄泉の軍勢を退けたことにあやかって桃の木で作った弓と、悪しきを払う葦の矢。それをつがえた家持は御年はもう65になるというのに実に堂々たる武官の出で立ちをさらしていた。
 清涼な方だ。大伴おおとも家の頭領。

「そう根をつめられますな。しょせんなるようにしかならぬのです、この世のことは」
「しかし……」
「さて、追儺のまねごとを続けましょうか。あるいは豆でも炒って食いながら和歌でも献上いたしましょうかね」

 家持様も不遇な人生であらせられたと聞く。
 けれどもその中でも腐らず、各地に向かわれ武官としてのお役目を全うされて何度も都に返り咲かれている。
 そして諸国を回れた際にお作りになられた、美しい風情が思い浮かぶ詩情をお持ちであられる。まるでその場にいるかのようだ。どうしてこのような涼やかなお方がこの無明に塗れた都にいらっしゃることができるのだろう。
 時折不思議な気持ちになる。
 そうだ、私などよりおそらくこの方のほうが……。

「それより早良様、新しい集をお持ちしましたぞ」
「ふふ、もう十九集目となりますか。家持様のお心は汲めども尽きぬ誌の泉のようですね」
「そうおっしゃって頂ければ幸いです。そうですねこれなどはいかがでしょうか。私も懐かしく思い出されますな」

 朝にとこで目を覚まして耳を傾けていると、射水川いみずがわを漕ぎながら歌っている舟人の声がはるか遠くに聞こえます
(朝床に 聞けば遙けし 射水川 朝こぎしつつ 唱ふ舟人 )

「これは私が越中に赴任していたころでしてな、そりゃぁもう田舎はうら寂しくて何もなくて、心寂しいものでしたよ」
「そういうものでしょうか。私はこの都より遠く離れたことなどなくて」
「それは羨ましいことですなぁ。わしなどはしょっちゅうあっちへ行け、こっちへ行けばかりです。まぁこれでも部門の出、お役目を頂きましたらどちらへでも馳せ参じますとも」

 家持様は魔を払うかのように朗らかに笑われた。

「私に何かありましたら是非守ってくださいましね」
「もちろんですぞ! 早良様をお守りするためであればわしは何でもいたしますからな! 安積あさか様がご存命であればきっと早良様のような……。いや、申してもせんのないことでした。もう、わしも清涼な方を失いたくはないですゆえ」

 かかと大笑する様は実に清々しいけれども、その瞳にふいに物悲しい光が宿った。長き生を生きてこられたのだ。色々悲喜こもごもを過ごされたのであろう。
 それに引き換えれば私の人生は恵まれているのかもしれない。守れる縁を選べるのだから。

 そう、つまりは私は兄上をとったのだ。寺社ではなく。
 生まれたときから繋がっていた縁。それは私の根源で、もっとも深い縁のはずなのだ。もちろん仏寺で得た縁も私にとってとても大切なものだった。けれども仏寺は仏寺で私がいなくてもなんとかなるだろう。
 むしろなんとかしなければならないのだ。私がいなくとも。
 確かに真面目に経典を学び国のために祈る僧も多くいる。そしてそれ以上に多くの層が荘園を手にし私服を肥やして堕落しているのを……私は知ってしまった。

 兄上には、私と少数の者しかお味方がいないのだ。ここで私までもがいなくなってしまったら。私はその縁を切り捨てることはできなかった。
 ここで私が兄上も仏寺も、両方の縁をつなごうとしていたら、何かかわっていたのかな。けれども平城の闇はそんなことすら見えなくなるほど昏きに沈み、もはや私自身もそのどちらかしか選べぬほど、雁字搦めになっていた。
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