33 / 43
3章 長岡京の2人の兄弟
side早良 御仏と金
しおりを挟む
久しぶりに身に受ける明るい日差しと清涼な風に私は息を吹き返していた。
自然の息吹。するすると流れる清らかな風。
兄上と訪れた長岡のなだらかな丘の周囲には大小様々な河が横たわり、その流れによって悪しき者が留まることなど不可能であるように思われた。
「見よ、あの三方の清き山々を、南の美しき水を。長岡はかの史記に記された、まさしく四神相応の地ある。青龍、朱雀、白虎、玄武の全てに適う。東に桂川、南に巨椋池、西には山陽の街道、そして北に長岡の丘がある。陰陽助も太鼓判を押している。この地であれば悪縁を断ち切ることができよう」
「兄上、私には風水はわかりかねます。けれどもこの地が良き地というのはわかります。この吹き渡る風故に」
兄上は大きく頷いた。
けれども。
私は。
私はどうすれば。
兄上はこの明るさに満ちた長岡の地で古き悪縁を断ち切り、新たな縁を紡ぐと仰る。あるいは当座の対処としては一つの有り様なのかもしれない。私の目からも、それほど平城の都は穢れているように思われた。
特にその濁りの最奥に捕らわれている兄上のお気持ちを少しでも晴らすことができるのであれば……協力差し上げたい。心ではそう思うのだ。
本当に。
長岡の、特に眼下の乙訓では青々とした竹が生い茂り、さわさわと清涼な音を響かせる。どことなくここは東大寺を思い出す。あの清涼な空間。そうして頭を振る。
いや、仏寺は私が思ったほど清涼ではなかった、のだった。
還俗して親王として宮に来入り、最初に思ったこと。それは僧尼というのは仏寺以外にもいるのだなということだ。
今も東大寺とのやり取りを稲麻呂を通じて行っているが、どういう伝手だか僧尼と名乗る者やそれらの後ろ盾を名乗る貴族が配慮を求めてやってくる。
それらの僧尼は加持祈祷を生業にしており、貴族が病を得たとき、寺を通じてではなく直接個別に祈祷を高額で請け負っているようだ。そして都で管理している名籍には確かに名を連ねていた。
けれどもそれらの僧尼と話をしてみると、経文を諳んじることはできてもその意味を全く理解していない。それで効果が生じるのか、甚だ疑問だ。
そしてそのような僧尼が貴族と縁を結んで利を貪っている。
一部の貴族や僧尼は免税されている。そのため墾田永年私財法による重税に耐えかねた民は、せっかく耕した田畑を寺社や荘園に寄進して小作になることで税を免れている。その地を堂々と自らのものとして小作を使って私財を蓄え肥え太る僧尼寺社と藤原を筆頭とする貴族。その結果、国が得るべき税が減り、皇家は細り国家の運営が行えなくなってきている。
これが良弁僧正がおっしゃっていた悪しき縁というものなのだろうか。そしてそのような者こそ声が大きいのだ。そしてその寺社のうちには嘆かわしいことに我が東大寺を含む南都六宗も含まれている。
そもそも加持祈祷は国家鎮護において必要なものだ。だからこそ僧尼は律令で守られている。しかし現状、仏寺や貴族は役割を果たしているといえるのか。還って国に仇をなしているに等しい。
だから兄上の仰るご趣旨はよくわかる。
民は簡単にその身を売り買いする。それを吸い上げ寺社が肥え太ることも貴族が肥え太ることも正常な行いではない。そして兄上のおっしゃる政策でその縁を断ち切ることができるのやもしれぬ。
だから、だから。
兄上は私に仏寺を裏切れ、そう……言うのだ。
「早良よ、お前は御仏の道を探求したいのであろう? それは仏寺がなければできぬのか。すでに良弁師から華厳を預かったそなたが」
「しかし、しかし兄上」
「南都六宗こそ国難である。大和貴族こそ国悪である。精励に国事にあたればよいものを、金を得る道があるから財を増やすことにのみ注力して大事を怠るのだ。そこで全てが滞る。滞ってどうしようもなくなった澱みのうちにお互いを食い合うのだ。だから俺はあの腐りきった平城の地を捨て、この地に新たな都を立てる」
ひゅるりと清涼な風が吹きすさぶ丘の上で兄上は私にそう告げる。兄上こそが様々な血縁の最奥におられるのだ。だからいつもは窮屈そうになされている。
けれども今のお姿はどうだろう。本当に堂々としたものだ。背筋はまっすぐに伸び、誰憚ることなく遠くを眺め渡している。
全ての悪しきものを切り捨て、ここで新たな光となられるおつもりなのだ。兄上の発する光は私にとってとても眩しい。けれども私の後ろには私の築いたたくさんのご縁がある。兄上の光はそこには届かない。
良弁様のお言葉を思い出す。
良縁を増やして無明を打ち払い、世を光で満たす。この世界を薄暗きところから明るき所に。そして全ての民に救済をもたらす。
兄上のお考えでは兄上が照らす明るきところ以外の全ての闇は打ち捨てられ、救済がなされないのではないのだろうか。そうであれば今昏き所にいる者共は、永久に無明に陥り闇を彷徨い続けることになるのではないか。
それは御仏のお心とは異なるように思われる。
それに私の縁は東大寺で、仏寺で培われてきたものである。その御縁は、私と繋がるこの小さな光は、いったいどうなってしまうというのだ。
「早良よ、何も現在ある仏寺をどうこうしようというわけではないのだ。それは、わかるな」
「それは、はい」
「何も嘘をつけと言っているわけではない。寺社としても新しい寺が増えるのは好ましくはないだろう? なにせ新造寺に寄進がなされれば自分の貰いぶちが減るわけだからな。それに平城に寺が増えすぎていることは誰もが認識していることだ」
そうだ。聖武様で最高潮となった寺社優遇によって平城では歩けば寺に行き当たるというような有様だ。
「だから、説得を。勅が通りさえすれば後は既成事実である。どうとでもなる。心苦しければこの新しい都の、そうだな、この長岡の乙訓寺をお前にやろう。お前も縁を断ち切れば良い」
「乙訓寺、ですか」
「そうだ、ここは種継の実家が治める地だ。ここならお前を脅かすものなど何もおるまい。秦氏らがお前を守るだろう。そこで好きに修行に励むが良い。お主はその真実の姿を知ってしまった今でも東大寺に戻りたいか? 知った以上、それがお主の務めとなるであろう?」
東大寺。私は裏の顔を知ってしまった。
東大寺も多くの寺社や僧尼と同じなのだ。民から多くの小作地の寄進を受けて税を回避し、それで寺を回している。現在も建築途上のあの豪壮な寺社。仏の威を示すにしても、どれほどの金がかかったのか。そしてどれほどの中抜きによって懐を肥やした貴族や僧尼がいるのか。
そして……何よりあの巨大な盧遮那仏を建立するためにどれほどの人と金と物が動いたか。私は家持殿から、建立のために大津や多くの地は打ち捨てられ、民が路上で餓死する地獄のような様が広がっていたと聞いてしまった。
私が東大寺に戻ればその立場から金策に走り回らされ、結局御仏に帰依することはできないだろう。その金策の結果は還って民を苦しめ無明をもたらすものかもしれない。
しかし、そうだ、盧遮那仏。
「兄様、盧遮那仏様の御威光はいかがなさいますか。あれほどの御仏は人々を照らす光となりましょう」
「ならない」
「兄上?」
「今、なっていない。ならなかったのだ。平城にいる限り、盧遮那仏様ですら闇を晴らすことはできなかった。できていないのだ、それほどあの都の闇は深いのだ、早良よ」
「兄……上……」
自然の息吹。するすると流れる清らかな風。
兄上と訪れた長岡のなだらかな丘の周囲には大小様々な河が横たわり、その流れによって悪しき者が留まることなど不可能であるように思われた。
「見よ、あの三方の清き山々を、南の美しき水を。長岡はかの史記に記された、まさしく四神相応の地ある。青龍、朱雀、白虎、玄武の全てに適う。東に桂川、南に巨椋池、西には山陽の街道、そして北に長岡の丘がある。陰陽助も太鼓判を押している。この地であれば悪縁を断ち切ることができよう」
「兄上、私には風水はわかりかねます。けれどもこの地が良き地というのはわかります。この吹き渡る風故に」
兄上は大きく頷いた。
けれども。
私は。
私はどうすれば。
兄上はこの明るさに満ちた長岡の地で古き悪縁を断ち切り、新たな縁を紡ぐと仰る。あるいは当座の対処としては一つの有り様なのかもしれない。私の目からも、それほど平城の都は穢れているように思われた。
特にその濁りの最奥に捕らわれている兄上のお気持ちを少しでも晴らすことができるのであれば……協力差し上げたい。心ではそう思うのだ。
本当に。
長岡の、特に眼下の乙訓では青々とした竹が生い茂り、さわさわと清涼な音を響かせる。どことなくここは東大寺を思い出す。あの清涼な空間。そうして頭を振る。
いや、仏寺は私が思ったほど清涼ではなかった、のだった。
還俗して親王として宮に来入り、最初に思ったこと。それは僧尼というのは仏寺以外にもいるのだなということだ。
今も東大寺とのやり取りを稲麻呂を通じて行っているが、どういう伝手だか僧尼と名乗る者やそれらの後ろ盾を名乗る貴族が配慮を求めてやってくる。
それらの僧尼は加持祈祷を生業にしており、貴族が病を得たとき、寺を通じてではなく直接個別に祈祷を高額で請け負っているようだ。そして都で管理している名籍には確かに名を連ねていた。
けれどもそれらの僧尼と話をしてみると、経文を諳んじることはできてもその意味を全く理解していない。それで効果が生じるのか、甚だ疑問だ。
そしてそのような僧尼が貴族と縁を結んで利を貪っている。
一部の貴族や僧尼は免税されている。そのため墾田永年私財法による重税に耐えかねた民は、せっかく耕した田畑を寺社や荘園に寄進して小作になることで税を免れている。その地を堂々と自らのものとして小作を使って私財を蓄え肥え太る僧尼寺社と藤原を筆頭とする貴族。その結果、国が得るべき税が減り、皇家は細り国家の運営が行えなくなってきている。
これが良弁僧正がおっしゃっていた悪しき縁というものなのだろうか。そしてそのような者こそ声が大きいのだ。そしてその寺社のうちには嘆かわしいことに我が東大寺を含む南都六宗も含まれている。
そもそも加持祈祷は国家鎮護において必要なものだ。だからこそ僧尼は律令で守られている。しかし現状、仏寺や貴族は役割を果たしているといえるのか。還って国に仇をなしているに等しい。
だから兄上の仰るご趣旨はよくわかる。
民は簡単にその身を売り買いする。それを吸い上げ寺社が肥え太ることも貴族が肥え太ることも正常な行いではない。そして兄上のおっしゃる政策でその縁を断ち切ることができるのやもしれぬ。
だから、だから。
兄上は私に仏寺を裏切れ、そう……言うのだ。
「早良よ、お前は御仏の道を探求したいのであろう? それは仏寺がなければできぬのか。すでに良弁師から華厳を預かったそなたが」
「しかし、しかし兄上」
「南都六宗こそ国難である。大和貴族こそ国悪である。精励に国事にあたればよいものを、金を得る道があるから財を増やすことにのみ注力して大事を怠るのだ。そこで全てが滞る。滞ってどうしようもなくなった澱みのうちにお互いを食い合うのだ。だから俺はあの腐りきった平城の地を捨て、この地に新たな都を立てる」
ひゅるりと清涼な風が吹きすさぶ丘の上で兄上は私にそう告げる。兄上こそが様々な血縁の最奥におられるのだ。だからいつもは窮屈そうになされている。
けれども今のお姿はどうだろう。本当に堂々としたものだ。背筋はまっすぐに伸び、誰憚ることなく遠くを眺め渡している。
全ての悪しきものを切り捨て、ここで新たな光となられるおつもりなのだ。兄上の発する光は私にとってとても眩しい。けれども私の後ろには私の築いたたくさんのご縁がある。兄上の光はそこには届かない。
良弁様のお言葉を思い出す。
良縁を増やして無明を打ち払い、世を光で満たす。この世界を薄暗きところから明るき所に。そして全ての民に救済をもたらす。
兄上のお考えでは兄上が照らす明るきところ以外の全ての闇は打ち捨てられ、救済がなされないのではないのだろうか。そうであれば今昏き所にいる者共は、永久に無明に陥り闇を彷徨い続けることになるのではないか。
それは御仏のお心とは異なるように思われる。
それに私の縁は東大寺で、仏寺で培われてきたものである。その御縁は、私と繋がるこの小さな光は、いったいどうなってしまうというのだ。
「早良よ、何も現在ある仏寺をどうこうしようというわけではないのだ。それは、わかるな」
「それは、はい」
「何も嘘をつけと言っているわけではない。寺社としても新しい寺が増えるのは好ましくはないだろう? なにせ新造寺に寄進がなされれば自分の貰いぶちが減るわけだからな。それに平城に寺が増えすぎていることは誰もが認識していることだ」
そうだ。聖武様で最高潮となった寺社優遇によって平城では歩けば寺に行き当たるというような有様だ。
「だから、説得を。勅が通りさえすれば後は既成事実である。どうとでもなる。心苦しければこの新しい都の、そうだな、この長岡の乙訓寺をお前にやろう。お前も縁を断ち切れば良い」
「乙訓寺、ですか」
「そうだ、ここは種継の実家が治める地だ。ここならお前を脅かすものなど何もおるまい。秦氏らがお前を守るだろう。そこで好きに修行に励むが良い。お主はその真実の姿を知ってしまった今でも東大寺に戻りたいか? 知った以上、それがお主の務めとなるであろう?」
東大寺。私は裏の顔を知ってしまった。
東大寺も多くの寺社や僧尼と同じなのだ。民から多くの小作地の寄進を受けて税を回避し、それで寺を回している。現在も建築途上のあの豪壮な寺社。仏の威を示すにしても、どれほどの金がかかったのか。そしてどれほどの中抜きによって懐を肥やした貴族や僧尼がいるのか。
そして……何よりあの巨大な盧遮那仏を建立するためにどれほどの人と金と物が動いたか。私は家持殿から、建立のために大津や多くの地は打ち捨てられ、民が路上で餓死する地獄のような様が広がっていたと聞いてしまった。
私が東大寺に戻ればその立場から金策に走り回らされ、結局御仏に帰依することはできないだろう。その金策の結果は還って民を苦しめ無明をもたらすものかもしれない。
しかし、そうだ、盧遮那仏。
「兄様、盧遮那仏様の御威光はいかがなさいますか。あれほどの御仏は人々を照らす光となりましょう」
「ならない」
「兄上?」
「今、なっていない。ならなかったのだ。平城にいる限り、盧遮那仏様ですら闇を晴らすことはできなかった。できていないのだ、それほどあの都の闇は深いのだ、早良よ」
「兄……上……」
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

猿の内政官の息子 ~小田原征伐~
橋本洋一
歴史・時代
※猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~という作品の外伝です。猿の内政官の息子の続編です。全十話です。
猿の内政官の息子、雨竜秀晴はある日、豊臣家から出兵命令を受けた。出陣先は関東。惣無事令を破った北条家討伐のための戦である。秀晴はこの戦で父である雲之介を超えられると信じていた。その戦の中でいろいろな『親子』の関係を知る。これは『親子の絆』の物語であり、『固執からの解放』の物語である。
天狗の囁き
井上 滋瑛
歴史・時代
幼少の頃より自分にしか聞こえない天狗の声が聞こえた吉川広家。姿見えぬ声に対して、時に従い、時に相談し、時に言い争い、天狗評議と揶揄されながら、偉大な武将であった父吉川元春や叔父の小早川隆景、兄元長の背を追ってきた。時は経ち、慶長五年九月の関ヶ原。主家の当主毛利輝元は甘言に乗り、西軍総大将に担がれてしまう。東軍との勝敗に関わらず、危急存亡の秋を察知した広家は、友である黒田長政を介して東軍総大将徳川家康に内通する。天狗の声に耳を傾けながら、主家の存亡をかけ、不義内通の誹りを恐れず、主家の命運を一身に背負う。


【新訳】帝国の海~大日本帝国海軍よ、世界に平和をもたらせ!第一部
山本 双六
歴史・時代
たくさんの人が亡くなった太平洋戦争。では、もし日本が勝てば原爆が落とされず、何万人の人が助かったかもしれないそう思い執筆しました。(一部史実と異なることがあるためご了承ください)初投稿ということで俊也さんの『re:太平洋戦争・大東亜の旭日となれ』を参考にさせて頂きました。
これからどうかよろしくお願い致します!
ちなみに、作品の表紙は、AIで生成しております。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる