色は変わらず花は咲きけり〜平城太上天皇の変

Tempp

文字の大きさ
上 下
32 / 43
3章 長岡京の2人の兄弟

 side早良 早良の立太子

しおりを挟む
 その後は兄上と直接会うことはあまりなかったものの、頻繁に文をやり取りした。おそらく父上と兄上が力を持ったため、その縁を遮っていた者の力が弱まったのだろう。
 井上様が祟られ、川が枯れ病が満ちた。宮では多くの者が祟りで命を失っている。それを少しでも収めるため、父上の勅願で様々な寺社が作られ、華厳宗派でも神願寺都賀尾坊じんがんじとがのおぼうを建て祀った。
 やはり、宮では悪い縁というものが渦巻いているようだ。無明により大きな苦しみが産まれている。世の中はどんどんと暗くなり、光が失われていく。
 父上と兄上が心配だ。私の縁が良きように働けばよいのだけれど。

 兄上との文は家族の縁の感じられるものから、そのお役目として頂くものがだんだんと割合を増していた。兄上の皇太子としてのお立場から私の親王禅師としての立場へ送られる文。

ー僧尼の名籍戸籍を整理するのは抵抗が大きいだろうか。諸国国分寺に在籍する僧の中で都に滞在しているものを帰国させることは?
私度無許可の僧が増えておりますから仕方ないでしょう。国分寺は諸国鎮護のための寺ですから、その寺で祭祀を行うのは道理でしょう。
ー無許可の私度僧が増えて風紀が乱れ、脱税が増えている。この者らを取り締まるのは反発が強いだろうか。
ーそれは……。恐らく長年のご政治で私度僧かどうかの区別が世で曖昧となっているのではないかと存じます。私度僧を取り締まるのと同時に正しく得度とくどを得た僧には公験くげんなどの特権状を交付するというのであれば僧尼仏寺からの反発は抑えられると思います。

 そういえば良弁僧正がご存命のころ、宮からは僧尼の風紀を取り締まる様々なご指示があった。良弁僧正はどのようになされていたのだろうか。それを思いながら、各僧や各寺に指示を与える。
 いつしか私の東大寺での役割はそのようなことに大部分が占められ、御仏に祈る時間はどんどんと短くなった。

 そして私はとうとう、兄上の手紙に絡みついてきた都の悪い縁というものに絡め取られてしまった。
 異国の暦で781年4月3日。
 兄上は桓武天皇となった。そして私はその翌日、太子となった。


 私の住処は宮の春宮に移った。
 そこはとても艶やかで、濁りきった場所だった。青々とした竹林に囲まれた清涼な寺とは異なり、血肉のような朱に塗られた欄干に象徴させる豪華絢爛な佇まい、鼻を麻痺させる香炉で彩りに満ちた布を染め、爛れきった肉の臭いを紛らわせていた。
 ここは、光がない。無明だ。息苦しい。
 そこで見た兄上は禍々しきものに捉えられきっているようで、それでもその目線はよどみながらもまっすぐ前を向いていた、気がする。
 私はここに……いたくない。

 兄上との間では、兄上のご治世が安定されるまでという約束の太子だ。
 兄上のご治世が安定され、安殿様が健やかにご成長なされれば私は太子を辞して寺に戻る予定だった。

「早良、すまないな。こんなところに呼び込んでしまって」
「いえ、兄上に比べれば」

 久しぶりに早良と親しく呼ばれた。
 そのことで少しだけ私の心の内が暖かくなった。早良の名で呼ばれるのは一体いつぶりだろう。私が出家する前、最後に実家で兄と話したのはいったいいつのころだろう。

「お前が宮に慣れるには時間がかかるだろう。教育係の東宮傳に藤原田麻呂たまろ、統括たる春宮大夫として大伴家持、次官の春宮亮として林稲麻呂はやしのいなまろをつける。いずれも腐った政治の中枢からは少し離れた者たちだ」
「林稲麻呂様は存じております。これまでも東大寺で何度かお話させて頂いたことがあります」
「稲麻呂は造東大寺次官に任命する。お前と東大寺とのやり取りは今後は稲麻呂を通じて行うこととなる」
「ありがとうございます」
「それから田麻呂は遣唐副使に任命されたほど信心深い。きっとお前のよき相談相手となるだろう。家持は竹を割ったような武人だが風流人でもある。きっとお前の支えとなるだろう」

 私の新しい生活が始まった。
 兄上の配慮で私は表向きに出ることは少なく、妖しき者と関わることも少なかった。けれども僧籍にある身の私に婚姻を迫る者も多くいた。そんな時は家持が明晰に断ってくれたけれど。

 ここは……嫌だ。
 寺で祈っていた時は、祈りの先に御仏がいらっしゃるように思われた。
 けれどもこの宮で祈っても分厚くどす黒い悪しき何かに阻まれて、祈りは雲散霧消してしまうような、そのような気がした。
 早く寺に戻りたい。けれども兄上をここに一人残すのか。兄上はこのような中でずっとおられたのだ。さぞ苦しまれたことだろう。
 けれどもこの宮の光は本当に乏しく、何もせずとも私と兄上の間を闇で満たしてゆき、そのうち私と兄上の間に繋がるかそけき縁がふつりと途切れてしまうような気がした。そのようなことを恐れたのだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】斎宮異聞

黄永るり
歴史・時代
平安時代・三条天皇の時代に斎宮に選定された当子内親王の初恋物語。 第8回歴史・時代小説大賞「奨励賞」受賞作品。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

猿の内政官の息子 ~小田原征伐~

橋本洋一
歴史・時代
※猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~という作品の外伝です。猿の内政官の息子の続編です。全十話です。 猿の内政官の息子、雨竜秀晴はある日、豊臣家から出兵命令を受けた。出陣先は関東。惣無事令を破った北条家討伐のための戦である。秀晴はこの戦で父である雲之介を超えられると信じていた。その戦の中でいろいろな『親子』の関係を知る。これは『親子の絆』の物語であり、『固執からの解放』の物語である。

天狗の囁き

井上 滋瑛
歴史・時代
幼少の頃より自分にしか聞こえない天狗の声が聞こえた吉川広家。姿見えぬ声に対して、時に従い、時に相談し、時に言い争い、天狗評議と揶揄されながら、偉大な武将であった父吉川元春や叔父の小早川隆景、兄元長の背を追ってきた。時は経ち、慶長五年九月の関ヶ原。主家の当主毛利輝元は甘言に乗り、西軍総大将に担がれてしまう。東軍との勝敗に関わらず、危急存亡の秋を察知した広家は、友である黒田長政を介して東軍総大将徳川家康に内通する。天狗の声に耳を傾けながら、主家の存亡をかけ、不義内通の誹りを恐れず、主家の命運を一身に背負う。

天明奇聞 ~たとえば意知が死ななかったら~

ご隠居
歴史・時代
タイトル通りです。意知が暗殺されなかったら(助かったら)という架空小説です。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

【新訳】帝国の海~大日本帝国海軍よ、世界に平和をもたらせ!第一部

山本 双六
歴史・時代
たくさんの人が亡くなった太平洋戦争。では、もし日本が勝てば原爆が落とされず、何万人の人が助かったかもしれないそう思い執筆しました。(一部史実と異なることがあるためご了承ください)初投稿ということで俊也さんの『re:太平洋戦争・大東亜の旭日となれ』を参考にさせて頂きました。 これからどうかよろしくお願い致します! ちなみに、作品の表紙は、AIで生成しております。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

処理中です...