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3章 長岡京の2人の兄弟
side早良 早良の立太子
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その後は兄上と直接会うことはあまりなかったものの、頻繁に文をやり取りした。おそらく父上と兄上が力を持ったため、その縁を遮っていた者の力が弱まったのだろう。
井上様が祟られ、川が枯れ病が満ちた。宮では多くの者が祟りで命を失っている。それを少しでも収めるため、父上の勅願で様々な寺社が作られ、華厳宗派でも神願寺都賀尾坊を建て祀った。
やはり、宮では悪い縁というものが渦巻いているようだ。無明により大きな苦しみが産まれている。世の中はどんどんと暗くなり、光が失われていく。
父上と兄上が心配だ。私の縁が良きように働けばよいのだけれど。
兄上との文は家族の縁の感じられるものから、そのお役目として頂くものがだんだんと割合を増していた。兄上の皇太子としてのお立場から私の親王禅師としての立場へ送られる文。
ー僧尼の名籍を整理するのは抵抗が大きいだろうか。諸国国分寺に在籍する僧の中で都に滞在しているものを帰国させることは?
ー私度僧が増えておりますから仕方ないでしょう。国分寺は諸国鎮護のための寺ですから、その寺で祭祀を行うのは道理でしょう。
ー無許可の私度僧が増えて風紀が乱れ、脱税が増えている。この者らを取り締まるのは反発が強いだろうか。
ーそれは……。恐らく長年のご政治で私度僧かどうかの区別が世で曖昧となっているのではないかと存じます。私度僧を取り締まるのと同時に正しく得度を得た僧には公験などの特権状を交付するというのであれば僧尼仏寺からの反発は抑えられると思います。
そういえば良弁僧正がご存命のころ、宮からは僧尼の風紀を取り締まる様々なご指示があった。良弁僧正はどのようになされていたのだろうか。それを思いながら、各僧や各寺に指示を与える。
いつしか私の東大寺での役割はそのようなことに大部分が占められ、御仏に祈る時間はどんどんと短くなった。
そして私はとうとう、兄上の手紙に絡みついてきた都の悪い縁というものに絡め取られてしまった。
異国の暦で781年4月3日。
兄上は桓武天皇となった。そして私はその翌日、太子となった。
私の住処は宮の春宮に移った。
そこはとても艶やかで、濁りきった場所だった。青々とした竹林に囲まれた清涼な寺とは異なり、血肉のような朱に塗られた欄干に象徴させる豪華絢爛な佇まい、鼻を麻痺させる香炉で彩りに満ちた布を染め、爛れきった肉の臭いを紛らわせていた。
ここは、光がない。無明だ。息苦しい。
そこで見た兄上は禍々しきものに捉えられきっているようで、それでもその目線はよどみながらもまっすぐ前を向いていた、気がする。
私はここに……いたくない。
兄上との間では、兄上のご治世が安定されるまでという約束の太子だ。
兄上のご治世が安定され、安殿様が健やかにご成長なされれば私は太子を辞して寺に戻る予定だった。
「早良、すまないな。こんなところに呼び込んでしまって」
「いえ、兄上に比べれば」
久しぶりに早良と親しく呼ばれた。
そのことで少しだけ私の心の内が暖かくなった。早良の名で呼ばれるのは一体いつぶりだろう。私が出家する前、最後に実家で兄と話したのはいったいいつのころだろう。
「お前が宮に慣れるには時間がかかるだろう。教育係の東宮傳に藤原田麻呂、統括たる春宮大夫として大伴家持、次官の春宮亮として林稲麻呂をつける。いずれも腐った政治の中枢からは少し離れた者たちだ」
「林稲麻呂様は存じております。これまでも東大寺で何度かお話させて頂いたことがあります」
「稲麻呂は造東大寺次官に任命する。お前と東大寺とのやり取りは今後は稲麻呂を通じて行うこととなる」
「ありがとうございます」
「それから田麻呂は遣唐副使に任命されたほど信心深い。きっとお前のよき相談相手となるだろう。家持は竹を割ったような武人だが風流人でもある。きっとお前の支えとなるだろう」
私の新しい生活が始まった。
兄上の配慮で私は表向きに出ることは少なく、妖しき者と関わることも少なかった。けれども僧籍にある身の私に婚姻を迫る者も多くいた。そんな時は家持が明晰に断ってくれたけれど。
ここは……嫌だ。
寺で祈っていた時は、祈りの先に御仏がいらっしゃるように思われた。
けれどもこの宮で祈っても分厚くどす黒い悪しき何かに阻まれて、祈りは雲散霧消してしまうような、そのような気がした。
早く寺に戻りたい。けれども兄上をここに一人残すのか。兄上はこのような中でずっとおられたのだ。さぞ苦しまれたことだろう。
けれどもこの宮の光は本当に乏しく、何もせずとも私と兄上の間を闇で満たしてゆき、そのうち私と兄上の間に繋がるかそけき縁がふつりと途切れてしまうような気がした。そのようなことを恐れたのだ。
井上様が祟られ、川が枯れ病が満ちた。宮では多くの者が祟りで命を失っている。それを少しでも収めるため、父上の勅願で様々な寺社が作られ、華厳宗派でも神願寺都賀尾坊を建て祀った。
やはり、宮では悪い縁というものが渦巻いているようだ。無明により大きな苦しみが産まれている。世の中はどんどんと暗くなり、光が失われていく。
父上と兄上が心配だ。私の縁が良きように働けばよいのだけれど。
兄上との文は家族の縁の感じられるものから、そのお役目として頂くものがだんだんと割合を増していた。兄上の皇太子としてのお立場から私の親王禅師としての立場へ送られる文。
ー僧尼の名籍を整理するのは抵抗が大きいだろうか。諸国国分寺に在籍する僧の中で都に滞在しているものを帰国させることは?
ー私度僧が増えておりますから仕方ないでしょう。国分寺は諸国鎮護のための寺ですから、その寺で祭祀を行うのは道理でしょう。
ー無許可の私度僧が増えて風紀が乱れ、脱税が増えている。この者らを取り締まるのは反発が強いだろうか。
ーそれは……。恐らく長年のご政治で私度僧かどうかの区別が世で曖昧となっているのではないかと存じます。私度僧を取り締まるのと同時に正しく得度を得た僧には公験などの特権状を交付するというのであれば僧尼仏寺からの反発は抑えられると思います。
そういえば良弁僧正がご存命のころ、宮からは僧尼の風紀を取り締まる様々なご指示があった。良弁僧正はどのようになされていたのだろうか。それを思いながら、各僧や各寺に指示を与える。
いつしか私の東大寺での役割はそのようなことに大部分が占められ、御仏に祈る時間はどんどんと短くなった。
そして私はとうとう、兄上の手紙に絡みついてきた都の悪い縁というものに絡め取られてしまった。
異国の暦で781年4月3日。
兄上は桓武天皇となった。そして私はその翌日、太子となった。
私の住処は宮の春宮に移った。
そこはとても艶やかで、濁りきった場所だった。青々とした竹林に囲まれた清涼な寺とは異なり、血肉のような朱に塗られた欄干に象徴させる豪華絢爛な佇まい、鼻を麻痺させる香炉で彩りに満ちた布を染め、爛れきった肉の臭いを紛らわせていた。
ここは、光がない。無明だ。息苦しい。
そこで見た兄上は禍々しきものに捉えられきっているようで、それでもその目線はよどみながらもまっすぐ前を向いていた、気がする。
私はここに……いたくない。
兄上との間では、兄上のご治世が安定されるまでという約束の太子だ。
兄上のご治世が安定され、安殿様が健やかにご成長なされれば私は太子を辞して寺に戻る予定だった。
「早良、すまないな。こんなところに呼び込んでしまって」
「いえ、兄上に比べれば」
久しぶりに早良と親しく呼ばれた。
そのことで少しだけ私の心の内が暖かくなった。早良の名で呼ばれるのは一体いつぶりだろう。私が出家する前、最後に実家で兄と話したのはいったいいつのころだろう。
「お前が宮に慣れるには時間がかかるだろう。教育係の東宮傳に藤原田麻呂、統括たる春宮大夫として大伴家持、次官の春宮亮として林稲麻呂をつける。いずれも腐った政治の中枢からは少し離れた者たちだ」
「林稲麻呂様は存じております。これまでも東大寺で何度かお話させて頂いたことがあります」
「稲麻呂は造東大寺次官に任命する。お前と東大寺とのやり取りは今後は稲麻呂を通じて行うこととなる」
「ありがとうございます」
「それから田麻呂は遣唐副使に任命されたほど信心深い。きっとお前のよき相談相手となるだろう。家持は竹を割ったような武人だが風流人でもある。きっとお前の支えとなるだろう」
私の新しい生活が始まった。
兄上の配慮で私は表向きに出ることは少なく、妖しき者と関わることも少なかった。けれども僧籍にある身の私に婚姻を迫る者も多くいた。そんな時は家持が明晰に断ってくれたけれど。
ここは……嫌だ。
寺で祈っていた時は、祈りの先に御仏がいらっしゃるように思われた。
けれどもこの宮で祈っても分厚くどす黒い悪しき何かに阻まれて、祈りは雲散霧消してしまうような、そのような気がした。
早く寺に戻りたい。けれども兄上をここに一人残すのか。兄上はこのような中でずっとおられたのだ。さぞ苦しまれたことだろう。
けれどもこの宮の光は本当に乏しく、何もせずとも私と兄上の間を闇で満たしてゆき、そのうち私と兄上の間に繋がるかそけき縁がふつりと途切れてしまうような気がした。そのようなことを恐れたのだ。
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