色は変わらず花は咲きけり〜平城太上天皇の変

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3章 長岡京の2人の兄弟

 side早良 東大寺の暮らし2

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 そういえばこれまで私はまつりごととは無縁の暮らしをしていた。私の生活といえば毎日祈り、修行してお釈迦様のお言葉について考えることに費やしていた。

「貴族というものはな。考え方がわしらと全く異なる。それは禅師の想像もつかぬほどに」
「そうなのでしょうか」
「そうだ。貴族は微笑みながら近づいて来る。そしてある日突然刃を突き立てる者なのだ。わしは道鏡を見てきた。あの者は生真面目で衆生救済を願っていた。そして何より御仏の事を一番に考えていた。世の中をより良くしようということと御仏のことしか考えておらなんだ。だから貴族のことなど何もわからなかったのだろう。そして味方は称徳様しかおらなんだ。称徳様は御仏に深く帰依されていたが少々きついお方であられたからのう」
「御仏に帰依されるのはよいことなのではないのでしょうか」

 良弁僧正は整然と整えられた庭を眺めながら、禅師はやはり世事に疎いな、と呟かれた。
 木々が光の下、様々な色に染まっている。このような移ろいも全て御仏のもとで全てが繋がっている。この泰然自若とした景色を眺めれば、全てを明るく照らすことはさほど難しいように思われない。けれどもこの世には、そしてすぐ隣の都には無明の闇が広がっている。
 全てをそのままに悟りのことだけを考えておられればよいものを。

「人は仏の理とは別の理を作って全てをその内に押し込めようとしておるのよ。生きるには金がいる。禅師が日々の糧を得るのも寺の荘園があるからじゃ。そして仏寺に財を得れば貴族が得る財が減るのよ。取り合いなのだ。御仏に祈り帰依するにもそういったものが必要なのだ。とくに今は時勢が定まらぬ。禅師はこれから朝廷で味方を得てうまく立ち回らねばならぬ」
「……朝廷に知己はおりません」
「いいや、おる。禅師の父と兄がおる」
「光仁……様と山部……様」
「ほほ、父と兄とは呼んでやらんのかの」

 私は出家した身。俗世からは離れたのだ。
 それにもう随分お会いしていない。便りもない。
 もはや父様と兄様は私など覚えていないかもしれない。
 わずかに首を振るしかできなかった。

「これ禅師よ。そのような悲しそうな顔をするでない。お主は時折子供のような顔をする」
「お戯れはおやめ下さい」
「ほほ。禅師のことは光仁様も山部様もしっかりと覚えておられるよ。ままならぬ現世の理がその仲を遠く隔てておったが、今でも縁は繋がっておる、ほらその証拠に」

 取次の僧が次の客の来訪を告げた。
 御簾をくぐって一人の男が現れる。
 初めて見る顔に思える。なんだか気まずそうにもみえ、仏頂面のような拭きぜんそうな顔にもみえ、そして妙な生真面目さをたたえ、けれども勢力旺盛な30も後半に差し掛かろうとする男だ。
 けれども私はすぐにわかった。心にぽぅと明かりが灯った。暖かい。

「兄様……」
「早、良……」

 気がつけば涙を流して抱き合っていた。

「お前は……その、寺での暮らしはどのようなものであったであろうか。辛くはなかったか」

 一通りの寺社に関する交渉を終えた後、良弁僧正はわしは用事があると席を立ち、私と……兄上が残された。
 兄上の表情からは気後れが滲み出ている。
 寺での暮らし。寺では日がな一日祈り、議論をしている。そのような生活が合わぬ者も一定いる。

「私はここの暮らしに満足しております。外とはだいぶ違うのでしょうが、今更外に戻りたいとは思いません」
「そうか」
「それより兄上は息災であられたのでしょうか。文を出しても全く音沙汰がありませんでしたので
「やはりそうか。俺も出したのだ。だがひとたび仏門に入れば俗世との縁は切れるのだと門前払いだったのだ」

 兄上は腹立たしげに息を吐く。
 やはり何者かが私と家族の間を隔てていたのか。縁が途切れたわけではなかったのだ。よかった。そしてまた縁が繋がり強くなったのだ。
 そう思ううちにも兄上は難しい顔をしながら話を続ける。その時の私はその縁を隔てたり繋げたりする者がいるなど考えてもいなかった。

「俺は細々と官吏の仕事をしていたのだが、今年突然、親王となり四品、貴族となった」
「親王と……! それでは父上が天皇になられたのも本当なのですね」
「そうだ。何を驚く。お前も『親王禅師』ではないか」
「それは……そうなのですが、寺にいると実感が全く湧かないのです。父上にももう随分お会いしておりませんし。父上と母上はいかがお過ごしでしょうか」
「今は父上も母上とともに宮で暮らしている」
「そう……なのですね。私には宮など想像もつきません」

 宮。どのような場所なのだろう。
 良弁僧正から伺った話から、宮はなんだか昏きものがはびこっているような、そのような印象を抱いている。

「早良よ、還俗してともに暮らしたいか。正直、今はあまり勧められぬ。宮は魑魅魍魎の巣だ。色々なものにとらえられ、雁字搦めとなり足を掬われる未来しか見えぬ」
「やはり……宮とはそのように恐ろしい場所なのですね。それであれば私は寺に留まりたいと思います」

 兄上はほっとしたような、羨ましそうな、そのような複雑な顔をした。
 おそらく本当に、宮には魑魅魍魎が住まうのだろう。そのような中に身を置かねばならないとは、お気の毒な。私に何か力になれることがあればよいのだけれど。

「そうか。俺も本音を言えば官吏として官吏のまま、細々と暮らしたかったのだよ。だがそうは言ってもおれぬ。俺も父上も張り子の虎よ。宮には鬼の尾の切れ端のような輩ばかりだ。常に俺と父上は狙われている。全てが定まらぬ。いまにも朽ちて落ちるかもしれぬ」

 そう語る兄上の声は自嘲に満ちてはいたものの、それを跳ね除けようとする強さが垣間見えた。良弁僧正の言葉を思い出し、思わず兄上の手を取る。

「そうおっしゃいますな兄上。この世の中は全て縁というもので繋がっております」
「縁?」
「そうです。お釈迦様は全てが縁で繋がっていると申されております。私も兄上も縁は繋がっております。そして勿論父上も」

 そこまで告げたところで兄上は私の手を振り払った。
 兄上……?

「俺は、俺は全ての縁を切り捨てたい」

 兄上の瞳はさらに昏きに染まり、不意に揺れる灯火でその目線の方向は隠された。
 私は知らなかったのだ。この時兄上が置かれていた状況を。

 この時は他戸が太子だった。
 急に人に使われる官吏から人を使う貴族となった兄上はさぞかし肩身が狭かったであろう。そして様々なしがらみの糸に塗れる中で必死にもがき、息のできる場所を模索していたのだ。
 悠々と暮らしてきた私などには想像もつかない修羅の暮らし。そして私の暮らしている仏寺も一皮剥けばそのような輩に塗れていて、私は良弁僧正に守られていたことをも知らなかった。
 私の役割に、これまでの仏寺の運営と対外交渉に宮との橋渡しが加わった。

 私が23の時、兄上が太子となったと聞いた。
 混乱した。母上の身分を考えると兄上が太子となれるはずがないのだ。
 いったいどのような理が蠢いているのだろう。宮という場所は。

 そしてその翌年、良弁僧正が亡くなられた。
 前年からお体を悪くされておられた。亡くなられるその日まで、私は良弁僧正に付き従い、その教えを乞うた。御仏の教えも、そしてこのままならぬ現世を泳ぐ術も。
 そして仏門の徒の中にも御仏の教えなど投げやって財に耽るものが多いことも知った。そして財とは力である。そう言い切る者の方が力を通しやすいのだ。嘆かわしい。
 そして私もその一角に立ってしまった。
 良弁僧正から花厳一乗をお預かりした。これで私は、このままならぬ現世の言葉で述べれば、この東大寺で『一番偉く』なった。そして東大寺は全国の国分寺の総本山である。この日の本の仏寺の中で『一番偉く』なってしまった。
 ふぅ。
 御仏の道が遠ざかり、道が少し昏くなったような。

「禅師よ、よい縁を繋ぐのだ。そうすればきっと」

 良弁僧正の最後の言葉が耳に残る。
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