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3章 長岡京の2人の兄弟

 side早良 東大寺の暮らし1

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 私が東大寺を初めて訪れたとき、最初はとても心細かった。11歳の時だ。その年に私は正式に出家し、仏門の徒となった。これまでと生活が一変した。景色も、環境も、考え方も全て異なる。
 東大寺は全ての国分寺の総本山である。
 私は日夜、お釈迦様の言葉がそのまま残されたという華厳経を学んだ。大変難解な経文だ。

 仏様は4つの目で世界を見ているという。
 ままならない現実の世界、全ての実態がない空の世界、この2つが混然と混ざり合う世界、それから悟りの世界であるこれらの全てが混ざりあった世界がある。
 そしてこの4つの世界のあらゆるものは縁起で繋がっている。
 光を失い無明となった者が輪廻にとどまり続けて大きな苦しみを生んでいるという。だから全てが移り変わる空、ゆえに全てに定まった形がない無相、ゆえに全てに執着しない無願といった修行を行い、この無明を滅して悟りに至り、全ての苦しみを消滅させるのだという。

 正直なところ、よくわからない。まさに雲を掴むようだ。悟りは果てしなく遠い。
 けれどもお釈迦様の言葉を一つ一つ考え、議論し、解きほぐしていく。この世が少しでもよくなるように祈りながら。そして良い縁が繋がっていきますように。
 理屈はよくわからぬものの、私は既に自分の心のうちに他者と繋がる暖かい光を感じていた。それについてよく他の僧侶に問うた。おそらくこれが無明から脱するための何かの手がかりで、これを突き詰めていけば遠い先で涅槃に繋がっているのではないだろうか、そう思って。

 そのように日々考え、率直にに尋ね、たどたどしくも考えを披露し、そのように真面目に学んでいたせいか、ありがたいことにいつしか私の周りには人が増えていった。同じように議論する僧が増え、可愛がられるようになった。
 いつしか私は一人ではなく、寂しくもなくなっていた。

 転機が訪れたのは私が21歳になった時。
 父が天皇となった時だ。
 父が天皇?
 何故そんなことになったのか全くわからない。

 私はあの幼き頃、初めて東大寺を訪れたとき以来、父に会っていない。母にも兄にもだ。手紙を出したことはあったが返事はなかった。どことなく、色々な事情が絡まりあって何かが途切れているのだろうと思った。このままならない現世の理。けれども心の奥底では繋がっている。幽き光のように。そう信じて。
 家族と離れて寂しくはあった。けれども私はもうこの御仏の世界で生きていくと決めていた。
 毎日学び、考え、議論をする。それはとても充実した毎日だった。昔の野山での暮らし、普通の生活とは少し異なるかもしれないが、その規律正しくわかりやすい生活に、いつのまにやら深く満足していた。

 そう、それで21歳のとき。
 私は受戒した。仏教に帰依し仏徒としての名前が与えられる。それ自体はとても喜ばしいことだ。けれども私に与えられた名前は。いや、私の呼び名は。

『親王禅師』

 親王。天皇の、子。
 つまり私は私としてではなく。

 ひゅうと、嫌な風が吹いた気がした。何かがパリリと剥がれたような心持ちがした。
 私を取り囲む暖かなたくさんの光がその風に一瞬揺らぎ、ふいにその隙間にできた暗闇から禍々しいものがこちらを睨めつけているような。

 それは一瞬のこと、だったような気がする。
 いや、名が何だというのだ。そんなものは悟りの前では些細なことだ。だから私はこれまで通り仏門の徒として経文を学んでいこう。そう思っていた。そう。けれども。
 外行きの装いをして東大寺の代表たる良弁りょうべん僧正とともに寺外の者と会う。そのような仕事が増えた。

「禅師よ、悪いことだけではあるまい」
「良弁僧正……」
「なに、皆が安心して学べるような環境を整えるというのも一つの役目だ。それ自体が縁を繋ぐことにもなろうよ」
「そうでしょうか……」
「それが新しいお主の縁にもなるのであろう」

 これまでの私はただただ寺内で生活をまかない経文の研究を行っていただけだった。そのシンプルな生活に、寺外の者との交渉や指示という仕事が増えた。
 東大寺の大仏が建立されてまだ20数年である。御本尊である盧舎那仏様は宇宙の真理を全ての民に照らし悟りに導く大切な仏様だ。副柱や様々なもの、造営すべきものは多くある。
 仏教は日の本においてはまだ新しく、華厳経はただでさえ教義が難しい。このように威光を示さなければならないのだろう。そう考えると、確かにこれも寺社の担わなければならない役目であろう。

 そのような仕事が増えるにつれ、学ぶ時間がどんどんと減ってゆく。私一人で悟りが成し遂げられるとはそもそも思ってはいなかったが、それでも心のうちを静めて仏に向き合う時間は早朝と夜がふけた後のわずかな時間しか確保できなくなっていた。
 現世はままならない。なんとかならないものだろうか。

 良弁僧正と話し合ううちになんとなく現在の私の置かれた状況が見えてきた。それから父と兄が巻き込まれているこのままならない現世の理が。
 私の昔の、大切な縁。
 仏寺を取り巻く情勢は私がそれまで考えていたよりもずっと複雑だった。

 異国の暦で538年、宣化せんか様の御世に百済くだらより伝えられた仏教は当初、国つ神の怒りをかうとして排斥された。けれどもその後、物部もののべ氏と蘇我そが氏との間で仏教の取り入れについて争いが起こり、この争いに打ち勝った聖徳しょうとく太子様の時代に定められた十七条の憲法によって三宝、つまり仏陀と法と僧を厚く敬うことを定められ、国家鎮護の手法として仏教は日の本に広がった。

 その後、天武様や持統じとう様といった歴代の天皇が護国のために寺を建立し、聖武様の御世でそれは最大に達した。それはもう、私などが想像がつかない規模で各地に仏寺が建てられた。

 私は国つ神に連なる皇家と御仏のどちらが上かなど考えたこともない。そもそも比べるものではない。けれどもこのままならない現世の理では、こと国を治める政治というものではその序列が重要となるらしい。

 聖武様より前は国つ神が御仏の上に立ち、僧尼は国が管理するものとされていた。出家は国に管理され、許可なく出家すれば私度僧として厳しく罰せられる。その一方、国家鎮護の役割として僧尼には税が免除されている。そういった関係だった。
 ところが聖武様が東大寺に行幸された折、自らを「三宝のやっこ」であると申されたそうだ。つまり国つ神の上に御仏が立ったのだ。

 なんと馬鹿馬鹿しいことであろう。御仏は現世におけるそのような些末なことはお考えにならないであろうに。なんだか酷く空虚な気持ちになった。
 そしておそらくその影響だけでもないのだろうけれど、称徳様は法王となった僧道鏡禅師を天皇になされようとした。
 道教禅師も良弁僧正の下で学ばれた方だ。お人柄清明な方であったと伺っている。

「禅師よ、この朝廷との交渉というものは慎重に行わねばならぬ」
「はい」
「仏の教えをあまねく広めるためにはまつりごとに関わらねばならぬのだ。御仏の徒であるとしても我らは現世に生き、現世の理に縛られる。僧尼となるにも許可がいり、日々暮らすにも荘園での収入が必要だ」
「これまであまり考えておりませんでした」
「わしはむしろ禅師には関わってほしくなかったのだ。その立場が複雑故にな」

 私に?
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