28 / 43
3章 長岡京の2人の兄弟
side種継 洋洋たる前途
しおりを挟む
「種継様、晴れると気持ちがいいですね」
「うむ、そうだな」
侍従の言う通り、春の長岡はぽかぽかと暖かく、若草がそよ風に揺れている。風につられて空を見上げると、うすい青に霞のような白い雲が細長くたなびいていた。
見晴らしがよい。
南の巨椋池を見下ろせば、豊かな水をたたえた湖面はキラキラと皐月の陽の光を反射していた。ここであれば平城の都のように水に困ることはないだろう。
それに今、淀川と三国川を結ぶ堀を作る計画を進めている。来年の冬には開通する。それによって難波宮の造営資材を運びやすくなり、宮の建設は加速するだろう。
明るい気持ちで将来を思うことは心地の良いことだ。ここに来るだけで心は晴れる。
うむ、とひとつ頷く。
結論として、様々な条件を差し置いてもこの場所自体が優れていると確信する。山に囲まれ鬱屈した空気が滞留する平城の都と比べ、この日当たりの良い南向きの小高い丘には清涼な風が吹き渡り、格段に清らかな場所のように思えた。
桓武様の仰る遷都の理由はこの清涼な場所を見れば納得がいくというものだ。
平城に巣食う権力構造との切り離し、それから渦巻く祟りへの対策。あの忌まわしき場所から離れるのだ。
昨年のおどろおどろしく蒸し暑い夏の夜、地図の上で遷都先が長岡の地に決まった。けれども本当に都に適するのか、あの会議から現在までこの土地の確認に何人もの人間が観相に訪れた。俺もここに来るのは何回目だろうか。どの季節に来ても悪い印象はなく、むしろホッとする。
やはりあの血なまぐさい平城の都では自然と病んでしまうのだ。特にその中心にいる者ほど。
ここであれば安殿様も回復されるだろうか。
安殿様はもともとお体が丈夫なほうではあられなかった。それが最近では体調を崩され内裏をお離れになれないことが多いそうだ。そこまでお悪くはないと伺っているが、安静にされていると聞く。
以前は我が家にも度々足をお運び頂いたが最近めっきりその機会はなくなった。それで娘によく安殿様のご様子を聞かれるのだ。それはもうチュンチュンと鳴く雀のようで可愛らしくはある。娘はまだ小さいながらもよほど安殿様に懸想しているのだろう。
長岡に出立する昨日の朝もこうだった。
「お父様、いってらっしゃいませ」
「ああ、明後日には戻るから、皆の言うことを聞いて勉学に励むのだよ」
「あの、安殿様のお加減はいかがでしょうか。ご回復なされましたでしょうか」
「一時よりは回復なされたようだがまだ完全ではあられないようだ。やはり土地が悪いのだろうな」
「お父様のお仕事が進まれましたら、またお越しいただけるでしょうか」
「うむ、きっとな」
とはいうものの、最近は少々返答に困っていた。安殿様は体調という以上に、そのお立場が微妙なのだ。
安殿様がご回復なされるならば、私の身分であれば薬子を夫人として後宮に入れることはできるだろう。
これまではそうしようと思っていた。だから様々なことを学ばせていた。安殿様のためといえば薬子は随分発奮するらしい。
それに安殿様も娘を悪くは思われていないようだ。
けれども正直なところ、今の安殿様には将来に不安がある。せっかくの娘だ。先の明るい方に嫁がせたい。
現在の皇太子は早良様であられるけれども、将来は譲位されて僧に戻られるご予定だ。だから早々に皇太子位を安殿様かどなたかにお譲りになられたいと仰られている。
けれども安殿様はお体が万全であられない。
とすれば早々に太子位を移せば火種となるのだ。今は桓武様が政権を固められようとしている時期だ。だから既に仏事を後ろ盾とし、お力のある早良様が皇太子位であるままなのだ。そのほうが四方に対する重しとなる。
ここで健康に不安のある安殿様を未来の象徴となる皇太子位につけることはできない。
安殿様はお優しいご気性であられるけれどもお体が弱い。皇太子となられても今のままでは天皇の執務をこなされるのは難しいのではないだろうか。
また皇太子となられない場合でも安殿様は皇后乙牟漏様の第一子であられる。何者かに祭り上げられれば紛争の火種となる。乱が起きた場合は妻子も道連れだ。
……この長岡に遷都して復調されるとよいのだが。
「種継様、用意が整いました。お越しください」
「失礼仕ります」
会談の準備ができたようだ。
この長岡の地は俺の母の実家にあたる。
俺は来月、造長岡宮使の長官に就任し、都造営の指揮を取る。
俺が長となる理由。
それは桓武様と親しくさせていただいていることもあるが、俺の実家がこの長岡の地に根を張る乙訓氏との縁が深いことが第一だろう。
俺の母はここ乙訓秦氏の分家の秦朝元の娘である。そのため今日、最終的な現地の確認と協力要請の挨拶回りに長岡を訪れた。この地に都を築くことの了承と協力を取り付けるために。そのためにこの地に長年この山背守として渡りをつけてきた。
川を超えた交野の地は桓武様のご母堂の高野新笠様とご縁がある。
桓武様も先年の秋、この交野に狩猟の名目で行幸された。こことは淀の川を挟んだ向かいの山側で、おそらく俺と同じようにこの地を南側から眺められたことだろう。
交野の地は百済王氏の本拠地である。百済王氏は異国の暦で660年、唐の侵攻による百済亡国の折に日本におわした百済王善光を始祖とした一族である。陰陽道や薬学、建築、歌舞音曲等様々な技術文化を有している。東大寺の大仏建立に用いられた金は百済王氏が日本で初めて採掘したものだ。
高野氏はもともと百済系の和氏である。桓武様は百済王氏との関係を強められるためにこのところ交野の猟地で頻繁に狩りをなされ、百済王氏から多くの姫君を娶られている。
他にもこの長岡を観相した者はこの当たりに地縁のある者も多い。
藤原小黒麻呂殿も秦氏本家の秦島麻呂殿の息女を妻に向かえられている。坂上苅田麻呂殿もご先祖は朝鮮半島から帰化された東漢氏の家系である。
ここであれば地縁をもって十分に桓武様をお支えすることができるのだ。
「物理的に縁を切断するとはどういうことですかな」
「なに、貴族の立ち入らないところに都を立てればいいのだ」
会議の際に和気氏はそう尋ねたが、桓武様はこれまでの藤原家から離れてここ長岡の地に新しい国を形づくろうとされているのだ。これからの国造りの中心は桓武様のご母堂の縁である渡来の者やこの地の旧来の豪族である。
ここでなら、桓武様は鬱屈された平城の都と異なり、思うがままにお力を振るえるのだ。この丘の上の涼しい風はその未来を予測させた。
「うむ、そうだな」
侍従の言う通り、春の長岡はぽかぽかと暖かく、若草がそよ風に揺れている。風につられて空を見上げると、うすい青に霞のような白い雲が細長くたなびいていた。
見晴らしがよい。
南の巨椋池を見下ろせば、豊かな水をたたえた湖面はキラキラと皐月の陽の光を反射していた。ここであれば平城の都のように水に困ることはないだろう。
それに今、淀川と三国川を結ぶ堀を作る計画を進めている。来年の冬には開通する。それによって難波宮の造営資材を運びやすくなり、宮の建設は加速するだろう。
明るい気持ちで将来を思うことは心地の良いことだ。ここに来るだけで心は晴れる。
うむ、とひとつ頷く。
結論として、様々な条件を差し置いてもこの場所自体が優れていると確信する。山に囲まれ鬱屈した空気が滞留する平城の都と比べ、この日当たりの良い南向きの小高い丘には清涼な風が吹き渡り、格段に清らかな場所のように思えた。
桓武様の仰る遷都の理由はこの清涼な場所を見れば納得がいくというものだ。
平城に巣食う権力構造との切り離し、それから渦巻く祟りへの対策。あの忌まわしき場所から離れるのだ。
昨年のおどろおどろしく蒸し暑い夏の夜、地図の上で遷都先が長岡の地に決まった。けれども本当に都に適するのか、あの会議から現在までこの土地の確認に何人もの人間が観相に訪れた。俺もここに来るのは何回目だろうか。どの季節に来ても悪い印象はなく、むしろホッとする。
やはりあの血なまぐさい平城の都では自然と病んでしまうのだ。特にその中心にいる者ほど。
ここであれば安殿様も回復されるだろうか。
安殿様はもともとお体が丈夫なほうではあられなかった。それが最近では体調を崩され内裏をお離れになれないことが多いそうだ。そこまでお悪くはないと伺っているが、安静にされていると聞く。
以前は我が家にも度々足をお運び頂いたが最近めっきりその機会はなくなった。それで娘によく安殿様のご様子を聞かれるのだ。それはもうチュンチュンと鳴く雀のようで可愛らしくはある。娘はまだ小さいながらもよほど安殿様に懸想しているのだろう。
長岡に出立する昨日の朝もこうだった。
「お父様、いってらっしゃいませ」
「ああ、明後日には戻るから、皆の言うことを聞いて勉学に励むのだよ」
「あの、安殿様のお加減はいかがでしょうか。ご回復なされましたでしょうか」
「一時よりは回復なされたようだがまだ完全ではあられないようだ。やはり土地が悪いのだろうな」
「お父様のお仕事が進まれましたら、またお越しいただけるでしょうか」
「うむ、きっとな」
とはいうものの、最近は少々返答に困っていた。安殿様は体調という以上に、そのお立場が微妙なのだ。
安殿様がご回復なされるならば、私の身分であれば薬子を夫人として後宮に入れることはできるだろう。
これまではそうしようと思っていた。だから様々なことを学ばせていた。安殿様のためといえば薬子は随分発奮するらしい。
それに安殿様も娘を悪くは思われていないようだ。
けれども正直なところ、今の安殿様には将来に不安がある。せっかくの娘だ。先の明るい方に嫁がせたい。
現在の皇太子は早良様であられるけれども、将来は譲位されて僧に戻られるご予定だ。だから早々に皇太子位を安殿様かどなたかにお譲りになられたいと仰られている。
けれども安殿様はお体が万全であられない。
とすれば早々に太子位を移せば火種となるのだ。今は桓武様が政権を固められようとしている時期だ。だから既に仏事を後ろ盾とし、お力のある早良様が皇太子位であるままなのだ。そのほうが四方に対する重しとなる。
ここで健康に不安のある安殿様を未来の象徴となる皇太子位につけることはできない。
安殿様はお優しいご気性であられるけれどもお体が弱い。皇太子となられても今のままでは天皇の執務をこなされるのは難しいのではないだろうか。
また皇太子となられない場合でも安殿様は皇后乙牟漏様の第一子であられる。何者かに祭り上げられれば紛争の火種となる。乱が起きた場合は妻子も道連れだ。
……この長岡に遷都して復調されるとよいのだが。
「種継様、用意が整いました。お越しください」
「失礼仕ります」
会談の準備ができたようだ。
この長岡の地は俺の母の実家にあたる。
俺は来月、造長岡宮使の長官に就任し、都造営の指揮を取る。
俺が長となる理由。
それは桓武様と親しくさせていただいていることもあるが、俺の実家がこの長岡の地に根を張る乙訓氏との縁が深いことが第一だろう。
俺の母はここ乙訓秦氏の分家の秦朝元の娘である。そのため今日、最終的な現地の確認と協力要請の挨拶回りに長岡を訪れた。この地に都を築くことの了承と協力を取り付けるために。そのためにこの地に長年この山背守として渡りをつけてきた。
川を超えた交野の地は桓武様のご母堂の高野新笠様とご縁がある。
桓武様も先年の秋、この交野に狩猟の名目で行幸された。こことは淀の川を挟んだ向かいの山側で、おそらく俺と同じようにこの地を南側から眺められたことだろう。
交野の地は百済王氏の本拠地である。百済王氏は異国の暦で660年、唐の侵攻による百済亡国の折に日本におわした百済王善光を始祖とした一族である。陰陽道や薬学、建築、歌舞音曲等様々な技術文化を有している。東大寺の大仏建立に用いられた金は百済王氏が日本で初めて採掘したものだ。
高野氏はもともと百済系の和氏である。桓武様は百済王氏との関係を強められるためにこのところ交野の猟地で頻繁に狩りをなされ、百済王氏から多くの姫君を娶られている。
他にもこの長岡を観相した者はこの当たりに地縁のある者も多い。
藤原小黒麻呂殿も秦氏本家の秦島麻呂殿の息女を妻に向かえられている。坂上苅田麻呂殿もご先祖は朝鮮半島から帰化された東漢氏の家系である。
ここであれば地縁をもって十分に桓武様をお支えすることができるのだ。
「物理的に縁を切断するとはどういうことですかな」
「なに、貴族の立ち入らないところに都を立てればいいのだ」
会議の際に和気氏はそう尋ねたが、桓武様はこれまでの藤原家から離れてここ長岡の地に新しい国を形づくろうとされているのだ。これからの国造りの中心は桓武様のご母堂の縁である渡来の者やこの地の旧来の豪族である。
ここでなら、桓武様は鬱屈された平城の都と異なり、思うがままにお力を振るえるのだ。この丘の上の涼しい風はその未来を予測させた。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

猿の内政官の息子 ~小田原征伐~
橋本洋一
歴史・時代
※猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~という作品の外伝です。猿の内政官の息子の続編です。全十話です。
猿の内政官の息子、雨竜秀晴はある日、豊臣家から出兵命令を受けた。出陣先は関東。惣無事令を破った北条家討伐のための戦である。秀晴はこの戦で父である雲之介を超えられると信じていた。その戦の中でいろいろな『親子』の関係を知る。これは『親子の絆』の物語であり、『固執からの解放』の物語である。
天狗の囁き
井上 滋瑛
歴史・時代
幼少の頃より自分にしか聞こえない天狗の声が聞こえた吉川広家。姿見えぬ声に対して、時に従い、時に相談し、時に言い争い、天狗評議と揶揄されながら、偉大な武将であった父吉川元春や叔父の小早川隆景、兄元長の背を追ってきた。時は経ち、慶長五年九月の関ヶ原。主家の当主毛利輝元は甘言に乗り、西軍総大将に担がれてしまう。東軍との勝敗に関わらず、危急存亡の秋を察知した広家は、友である黒田長政を介して東軍総大将徳川家康に内通する。天狗の声に耳を傾けながら、主家の存亡をかけ、不義内通の誹りを恐れず、主家の命運を一身に背負う。


【新訳】帝国の海~大日本帝国海軍よ、世界に平和をもたらせ!第一部
山本 双六
歴史・時代
たくさんの人が亡くなった太平洋戦争。では、もし日本が勝てば原爆が落とされず、何万人の人が助かったかもしれないそう思い執筆しました。(一部史実と異なることがあるためご了承ください)初投稿ということで俊也さんの『re:太平洋戦争・大東亜の旭日となれ』を参考にさせて頂きました。
これからどうかよろしくお願い致します!
ちなみに、作品の表紙は、AIで生成しております。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる