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3章 長岡京の2人の兄弟
side桓武 弱い立場
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その日も内裏の奥深く、離れの協議は白熱していた。
今日ここにいるのは俺の両腕、最も信頼を置く藤原種継と弟の早良。それから東大寺を始めとした建築に実績のある佐伯今毛人老と神事に詳しい和気清麻呂だ。
協議の場は時折持たれメンバーは入れ変わるが、おおよそは天武系列との縁の薄い豪族や山背国に縁のあるものたちばかり。
天武系列に知られてはならぬ。決して。
誰にも知られぬよう御簾を深く垂らし衝立をたて、見張りも立てる。夜も深く宮の門も閉まっている。けれどもふいにゴゥと強い風が吹いて御簾を大きく揺らした。
その息吹に人ならざる者の気配を感じ、全員が思わず御簾の外に目を向ける。早良は何事か経文を唱え、種継はおもむろに立ち上がり外の様子を伺う。
しばらくの無音の後、暗闇から戻った種継は首を左右に振って異常がないことを示す。それを見て、ようやくため息で場が少しだけ温まった。
警戒すべきは人だけではないのだ。この平城の宮は血や様々の怨念に塗れ、呪いの深きに落ちている。
だが、祟りには屈さぬ。呪いになど負けるものか。
俺はこの呪われた平城の宮から秘密裏に長岡に遷都する計画を立てていた。
そもそもここはあまりにも場所が悪すぎるのだ。理由は複数ある。
一つ目は都を遷すことで皇家が天武様のお血筋から天智様の血筋である俺に移ったことを示すこと。そのためには地を変えることは極めて有効だ。
それに天武系列の巣窟である平城に巣食う輩と俺を物理的に切り離すことは必須だ。この場所では誰も俺を天皇だと認めない。
その証拠に俺が即位してすぐに天武様のひ孫である氷上川継が乱を起こした。天武様のお孫の塩焼王の子だ。そもそも皇子と呼ばれるのは二世までだ。だから三世の塩焼王は塩焼皇子ではなく王なのだ。そして塩焼王の代で臣籍降下し、四世目の川継は皇族であったことがそもそもない。問題外だ。
それにそもそも塩焼王は仲麻呂の乱で処刑され、母の不破内親王も称徳様を呪詛したとして皇親身分を剥奪されている。そんな血が何の証になろう。
けれども、そんな人間ですら俺の対抗馬となりうる。
だから俺が、俺こそが現在の天皇であるということを内外に示さなければならぬ。
そしてよしんば俺が天皇であると認められたとしても、この昏い都では操り人形となる将来しか見えぬ。ここは藤原の本拠にほど近い。父上の姿を見ていても聖武様の姿を思い起こしても碌なことにはならない。真っ平御免だ。
確かに藤原永手や百川は父が天皇となる強力な後ろ盾となったのだろう。同じ立場である父はまさに操り人形だった。井上の、そして藤原家の。平城における皇家とはそのようなものだった。藤原どもは人を権力の道具としかみておらぬ。
けれどもその中で百川だけは少し違った。
他の藤原どものような単純な権力への訴求という以上に、その底は自らの一族の不幸を断ち切ることに焦点が当てられていた。
それがあの奇妙に冷たくありつつも熱く滾る瞳にありありと浮かんでいた。
俺の立場も特殊だった。俺の前には死しかなく、俺は俺のためにその運命を断ち切らねばならなかった。百川との間には眼の前の運命を断ち切るという意味で、奇妙な共通点があった。
そして百川がいなければ、俺は早晩消されていただろう。他戸が存在する限り、俺は潜在的に皇位を争うことを運命づけられている。例えその可能性が極めて低いとしてもだ。
だから百川への恩は深い。恩。恩といえるのかどうかはわからないが、百川は後ろ盾というよりは同志だった。お互いに目的は違う。俺の目的は俺の生存、そして百川の目的は自らの一族の復権。
だからこそ目的は相反することなく、協力ができた。
百川は藤原から連なる公卿や貴族の伝手を持っていた。俺は母新笠の地縁や官吏の伝手を持っていた。それぞれが関連づかぬまま、誰にも気がつかれないよう全ての計画をたててきた。
このように暑い夜に、何度百川と2人で話し合っただろう。盃を傾けながら何度未来を語っただろう。あの極めて濃密な時間はもはや懐かしさすら感じる。
あの鬼神のような男は、それでも俺を同志と呼んだ。それであれば俺も鬼神なのだろう。
あれはまだ全てが動く前だった。俺がいつ殺されもおかしくない、ヒリヒリとした時間。
「百川。適任を見つけた」
「ほう」
「裳喰咋足嶋という女だ。井上のところに古くからいる下働きで従七位上だ」
「へぇ、よく見つけましたね」
「酒人様にも確認をとった。昔から井上に仕えていたが、最近井上の不興を買ったようだな」
酒人内親王。俺の母違いの妹。
井上の娘だから本来的には敵方だが、この女も少々特殊な立ち位置にいる。
内親王は養老令によって四世以内の皇族としか結婚ができない。ところが今の適齢な皇族は他戸、俺、早良しかいない。他はみんな殺され尽くした。
他戸は同母だから不可能だし俺は早晩殺される。早良はすでに出家した。つまり酒人は生涯独り身なのだ。
もとより奔放で少々破滅的な性格をしているから現状に腐っている。権威主義的な井上や他戸と仲があまりよくない、というよりは性格的に会わないのだろう。
「この足嶋に巫蠱をかけたと偽証させる」
「ますます都合がよろしいね。終わったら始末するべきか」
「不要だろう。位階を上げてやれば漏らすことなどなかろうよ。漏らせば自らの破滅を呼び込むだけだ」
「さすが中務卿よ」
百川の涼やかな声が響く。
父が天皇となった余波で親王となった俺は、位階制度によって四品になり中務卿に就任した。詔勅の施行をはじめ、後宮女官の管理を行う役職だ。
だからどこにどのような女官がいるかは把握できる。
そして俺の手はこれだけではない。
これまでも大学頭や侍従として働く中で、貴族に満たない者の間で多くの伝手を作ってきた。だから欲しい情報を手に入れるのはそれなりに容易だ。そして貴族というものは下々の者に興味がない。だから下々を通じた動きはバレにくい。
「本当に2人を殺すのだな、百川」
「殺す。殺さねばいずれ他戸に子ができる。そうなれば殺されるぞ。お前かお前の子が。天武様の影響は大きいからな」
「そうだな。殺るか殺られるかだ。しかし祟る可能性がある」
「井上はおそらく祟るだろうよ。だからやはり酒人様を伊勢の斎王とする」
「他の勢力の影響力は極力抑えたいんじゃなかったのか」
「やむをえまいよ。井上も斎王だ。その祟りを抑えるには新たな斎王が必要だろう。それに山部、お前が娶ればいいだけだ。あの方はお前が天皇になって好き勝手できるほうが楽しいだろう。あの2人に押し込められているよりはな」
淡々と人を殺す予定を立てる。殺したあとの予定も立てる。そしてその後、祟られた時の方策まで立てる。
自ら修羅の道に足を踏み入れるようでなにやら滑稽ですらある。祟り殺されるのは恐ろしい。しかし結局、俺の生はこの死地の先にしか無い。背水の陣で、虎穴に入らずんば虎子を得ずというやつだ。殺さねば殺される。
「それより百川。お前はそれでいいのか。お前も恐らく祟られるのだぞ」
百川は俺とは違う。このままでも殺されることはあるまい。なのに俺の道連れになろうというのだ。
「そうだな。俺は死ぬかもしれん。けれども良継兄がいる。良継兄が祟られて死んでも種継がいる。あいつらは根はしっかりした奴だ。あとはあいつらが何とかするだろう」
「俺がいいたいのはそういうことじゃない。なぜお前が死なねばならぬのだ。こんな権力闘争で」
「権力ね。本当はさして興味はないのだが仕方がない。気がかりは俺の家族だけだが、俺が死んだら俺の家族はお前がなんとかしてくれよ。息子2人と娘2人だ」
「約束する。だが本当にお前はそれでいいのか。ここで死んで、お前の幸せはどこにある。お前は何故そこまでする」
百川は他の藤原どもとは異なり贅を尽くすということがない。いつも一人で策謀をめぐらし、遠くを眺めている。俺は百川の喜怒哀楽というものが動いたのを見たことがない。百川自身はなんのために俺に与するのだ。
今日ここにいるのは俺の両腕、最も信頼を置く藤原種継と弟の早良。それから東大寺を始めとした建築に実績のある佐伯今毛人老と神事に詳しい和気清麻呂だ。
協議の場は時折持たれメンバーは入れ変わるが、おおよそは天武系列との縁の薄い豪族や山背国に縁のあるものたちばかり。
天武系列に知られてはならぬ。決して。
誰にも知られぬよう御簾を深く垂らし衝立をたて、見張りも立てる。夜も深く宮の門も閉まっている。けれどもふいにゴゥと強い風が吹いて御簾を大きく揺らした。
その息吹に人ならざる者の気配を感じ、全員が思わず御簾の外に目を向ける。早良は何事か経文を唱え、種継はおもむろに立ち上がり外の様子を伺う。
しばらくの無音の後、暗闇から戻った種継は首を左右に振って異常がないことを示す。それを見て、ようやくため息で場が少しだけ温まった。
警戒すべきは人だけではないのだ。この平城の宮は血や様々の怨念に塗れ、呪いの深きに落ちている。
だが、祟りには屈さぬ。呪いになど負けるものか。
俺はこの呪われた平城の宮から秘密裏に長岡に遷都する計画を立てていた。
そもそもここはあまりにも場所が悪すぎるのだ。理由は複数ある。
一つ目は都を遷すことで皇家が天武様のお血筋から天智様の血筋である俺に移ったことを示すこと。そのためには地を変えることは極めて有効だ。
それに天武系列の巣窟である平城に巣食う輩と俺を物理的に切り離すことは必須だ。この場所では誰も俺を天皇だと認めない。
その証拠に俺が即位してすぐに天武様のひ孫である氷上川継が乱を起こした。天武様のお孫の塩焼王の子だ。そもそも皇子と呼ばれるのは二世までだ。だから三世の塩焼王は塩焼皇子ではなく王なのだ。そして塩焼王の代で臣籍降下し、四世目の川継は皇族であったことがそもそもない。問題外だ。
それにそもそも塩焼王は仲麻呂の乱で処刑され、母の不破内親王も称徳様を呪詛したとして皇親身分を剥奪されている。そんな血が何の証になろう。
けれども、そんな人間ですら俺の対抗馬となりうる。
だから俺が、俺こそが現在の天皇であるということを内外に示さなければならぬ。
そしてよしんば俺が天皇であると認められたとしても、この昏い都では操り人形となる将来しか見えぬ。ここは藤原の本拠にほど近い。父上の姿を見ていても聖武様の姿を思い起こしても碌なことにはならない。真っ平御免だ。
確かに藤原永手や百川は父が天皇となる強力な後ろ盾となったのだろう。同じ立場である父はまさに操り人形だった。井上の、そして藤原家の。平城における皇家とはそのようなものだった。藤原どもは人を権力の道具としかみておらぬ。
けれどもその中で百川だけは少し違った。
他の藤原どものような単純な権力への訴求という以上に、その底は自らの一族の不幸を断ち切ることに焦点が当てられていた。
それがあの奇妙に冷たくありつつも熱く滾る瞳にありありと浮かんでいた。
俺の立場も特殊だった。俺の前には死しかなく、俺は俺のためにその運命を断ち切らねばならなかった。百川との間には眼の前の運命を断ち切るという意味で、奇妙な共通点があった。
そして百川がいなければ、俺は早晩消されていただろう。他戸が存在する限り、俺は潜在的に皇位を争うことを運命づけられている。例えその可能性が極めて低いとしてもだ。
だから百川への恩は深い。恩。恩といえるのかどうかはわからないが、百川は後ろ盾というよりは同志だった。お互いに目的は違う。俺の目的は俺の生存、そして百川の目的は自らの一族の復権。
だからこそ目的は相反することなく、協力ができた。
百川は藤原から連なる公卿や貴族の伝手を持っていた。俺は母新笠の地縁や官吏の伝手を持っていた。それぞれが関連づかぬまま、誰にも気がつかれないよう全ての計画をたててきた。
このように暑い夜に、何度百川と2人で話し合っただろう。盃を傾けながら何度未来を語っただろう。あの極めて濃密な時間はもはや懐かしさすら感じる。
あの鬼神のような男は、それでも俺を同志と呼んだ。それであれば俺も鬼神なのだろう。
あれはまだ全てが動く前だった。俺がいつ殺されもおかしくない、ヒリヒリとした時間。
「百川。適任を見つけた」
「ほう」
「裳喰咋足嶋という女だ。井上のところに古くからいる下働きで従七位上だ」
「へぇ、よく見つけましたね」
「酒人様にも確認をとった。昔から井上に仕えていたが、最近井上の不興を買ったようだな」
酒人内親王。俺の母違いの妹。
井上の娘だから本来的には敵方だが、この女も少々特殊な立ち位置にいる。
内親王は養老令によって四世以内の皇族としか結婚ができない。ところが今の適齢な皇族は他戸、俺、早良しかいない。他はみんな殺され尽くした。
他戸は同母だから不可能だし俺は早晩殺される。早良はすでに出家した。つまり酒人は生涯独り身なのだ。
もとより奔放で少々破滅的な性格をしているから現状に腐っている。権威主義的な井上や他戸と仲があまりよくない、というよりは性格的に会わないのだろう。
「この足嶋に巫蠱をかけたと偽証させる」
「ますます都合がよろしいね。終わったら始末するべきか」
「不要だろう。位階を上げてやれば漏らすことなどなかろうよ。漏らせば自らの破滅を呼び込むだけだ」
「さすが中務卿よ」
百川の涼やかな声が響く。
父が天皇となった余波で親王となった俺は、位階制度によって四品になり中務卿に就任した。詔勅の施行をはじめ、後宮女官の管理を行う役職だ。
だからどこにどのような女官がいるかは把握できる。
そして俺の手はこれだけではない。
これまでも大学頭や侍従として働く中で、貴族に満たない者の間で多くの伝手を作ってきた。だから欲しい情報を手に入れるのはそれなりに容易だ。そして貴族というものは下々の者に興味がない。だから下々を通じた動きはバレにくい。
「本当に2人を殺すのだな、百川」
「殺す。殺さねばいずれ他戸に子ができる。そうなれば殺されるぞ。お前かお前の子が。天武様の影響は大きいからな」
「そうだな。殺るか殺られるかだ。しかし祟る可能性がある」
「井上はおそらく祟るだろうよ。だからやはり酒人様を伊勢の斎王とする」
「他の勢力の影響力は極力抑えたいんじゃなかったのか」
「やむをえまいよ。井上も斎王だ。その祟りを抑えるには新たな斎王が必要だろう。それに山部、お前が娶ればいいだけだ。あの方はお前が天皇になって好き勝手できるほうが楽しいだろう。あの2人に押し込められているよりはな」
淡々と人を殺す予定を立てる。殺したあとの予定も立てる。そしてその後、祟られた時の方策まで立てる。
自ら修羅の道に足を踏み入れるようでなにやら滑稽ですらある。祟り殺されるのは恐ろしい。しかし結局、俺の生はこの死地の先にしか無い。背水の陣で、虎穴に入らずんば虎子を得ずというやつだ。殺さねば殺される。
「それより百川。お前はそれでいいのか。お前も恐らく祟られるのだぞ」
百川は俺とは違う。このままでも殺されることはあるまい。なのに俺の道連れになろうというのだ。
「そうだな。俺は死ぬかもしれん。けれども良継兄がいる。良継兄が祟られて死んでも種継がいる。あいつらは根はしっかりした奴だ。あとはあいつらが何とかするだろう」
「俺がいいたいのはそういうことじゃない。なぜお前が死なねばならぬのだ。こんな権力闘争で」
「権力ね。本当はさして興味はないのだが仕方がない。気がかりは俺の家族だけだが、俺が死んだら俺の家族はお前がなんとかしてくれよ。息子2人と娘2人だ」
「約束する。だが本当にお前はそれでいいのか。ここで死んで、お前の幸せはどこにある。お前は何故そこまでする」
百川は他の藤原どもとは異なり贅を尽くすということがない。いつも一人で策謀をめぐらし、遠くを眺めている。俺は百川の喜怒哀楽というものが動いたのを見たことがない。百川自身はなんのために俺に与するのだ。
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