色は変わらず花は咲きけり〜平城太上天皇の変

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2章 藤原縄主とその妻

 side縄主 新しい空

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 仕方なく下男に屋敷に上げろと伝える。しばらくすると不機嫌そうな仲成殿が現れた。仲成殿も二十五を数え、その顔貌は初めてこの屋敷であった折とは随分異なっていた。
 精悍になり、そしてわずかに癇気を帯びている。感情をそのうちに隠す術は身につけたようだが、俺は同じ式家であり、妹の夫だ。だから少し油断をしているのだろう。

「縄主殿、折いって願いがある」
「何度もお断り申し上げております」
「しかし、しかし今は空白なのだ。百川様の娘御であられる帯子おびこ様が早良殿の祟りでお亡くなりになられたのだ」

 安殿様の東宮妃太子妃には帯子様がなられていた。他の妃としてすでに伊勢嗣子いせのつぎこ様がおられたが、お父上の伊勢老人いせのおきな殿はすでに没し、後ろ盾がない。
 いずれ内親王が妃にもたてられようが、今は安殿様の東宮妃、つまり次期皇后に最も近い座が空いていた。
 桓武様と安殿様は式家が大切に囲い、隠してきた方々だ。だからその周りは式家で囲まれている。けれどもこの東宮妃の座に北家や南家の娘がつけば、式家の力は大きく減衰するだろう。

「もうよろしいでしょう。それになにも私の娘でなくとも式家には他にも女子がおります。それに娘はまだ十だ。婚儀を上げるには」
「貴殿が薬子を娶ったのも薬子が十の時ではないか」

 仲成殿が俺を睨みつける、と同時に後ろめたさが見え隠れする。薬子との成り行きは娶ったなどというものではない。それはお互い十分に承知していた。
 同時に出た長いため息はひどく湿っていた。

「縄主殿、俺は式家を復興させたい。いや、正直に申し上げよう。俺は式家というよりは父の記録を復させたいのだ」
「種継様の」
「そうです。父に一体なんの咎があるという。誠心誠意、公務についていただけだ。そこを暗殺された。広嗣殿とは」
「仲成様、それ以上仰られてはお帰りいただくほかありません」

 仲成殿はぐぅと口をつぐむ。
 確かに種継様は暗殺され、客観的にも咎がないのに記録を抹消された。しかし乱を起こしたとの記録が作られた広嗣様にも咎などないのだ。あぁ。嫌だ。嫌だ。この人が人を陥れ、親しき者に陥れられるという構造自体が嫌なのだ。
 だから俺は一人、誰とも縁を持たずに暮らしてきたはずだった。だが一人増え、それを守るために地位を固める必要がでてきた。少なくとも家族が寄って立てる地面を。
 けれどもそれがよくなかったのだろうか。

 俺は参議となることが内定していた。参議とは公卿だ。この国の中枢の一員となり、政策を形作る。尊き方に直接お声を頂ける地位だ。
 それにあたってさまざまな方とお会いした。そして現在の安殿様の状況も知っていた。これは一体何の符牒だというのだろう。

「縄主殿であれば後ろ盾になれるのです。参議になられるならば」
「しかし」
「今であればお子を東宮妃に推す事もできましょう。一体何が不満なのです。臣の女として最上の地位ではないですか」

 最上。最上ね。
 けれどもその最上に豪華な椅子は血に塗れている。俺の娘はそれなりに聡い。けれどもその腐海で生き抜くことはできやしまい。
 確かに子が産まれて外戚となれば権力など思うがままだろう。だがそんなものはいらぬのだ。近寄りたくもない。
 俺は家族を守るために参議となったのではなかったのか。

「気に食わぬ。その理由が気に食わぬのだ」
「縄主殿?」
「薬子は人前に出られる状況ではない」
「出る必要などない。室にこもっておれば」
「仲成殿! 貴殿は薬子を何だとお考えか!」

 思わず怒気が溢れでた。
 俺には許せなかったのだ。気がつけばギリギリと奥歯を食いしばっていた。
 許せぬ。何が許せぬのか。
 薬子は俺の妻だ。愛しているかと言われればそれはよくはわからぬ。けれども大切な家族なのだ。それをこの男はそのように利用することしか……。いや。
 無理に奥歯を緩める。無理なり心を落ち着かせる。貴族とは本来そのようなものだ。そのように縁を繋ぐ。駒のように子女をあちらこちらに配置するのだ。
 だからおかしいのは私の方なのだろう。

「薬子は確かに仲成殿の妻だ。だから本来俺が口を出せる話ではない。しかしそれ以前に式家の人間だ。このままでは式家が再び浮かび上がることなどできぬ」
「俺は薬子を道具のように扱いたくない。薬子は十分に苦しんでいる。今更だ。苦しみを増やしてどうするのだ」
「しかし縄主殿、これは薬子の望みだったはずだ。薬子も……」
「黙れ! 今更だ! 今更……」

 そんなことは重々に承知している。
 仲成殿はもう十数年薬子に会っていない。だから薬子の今の状況などご存じないはずだ。薬子の時間は種継殿が亡くなってから経過していないことなど。
 薬子の望み。そんなものは知ってる。安殿様の妻となることだ。それは叶わない。それでも一目、会うことができれば薬子は救われるのだろうか。

「今更ではなく今なのです。安殿様も望んでおられます」

 安殿様も望んでおられる。それは知っているのだ。宮中の噂で。祟りによって病が深まり、熱に浮かされ安殿様が呼ぶ名は薬子なのだ。安殿様はよく病に倒れられる。その度に熱に浮かされながら薬子を呼ぶそうだ。
 だからこそ、許せないのは仲成殿が俺の娘と薬子をセットで宮に押し込めようとしていることだ。俺の娘を東宮妃にして式家の外戚としての力を保持する。そして薬子をその世話役として入内させることで次期天皇であられる安殿様の機嫌を取り、つなぎを作りたいのだ。
 結局のところ、安殿様と薬子は幼少の折とはいえ思い合っていたのだろう。互いが運命の相手だったのだ。
 その事実を知ってから、ひどく胸が痛い。

「安殿様は一目だけでも薬子を見れば心安らかになるのでは」
「そのために娘を魍魎の巣に投げ込めというのか」
「そのようなことは」

 薬子は俺の妻だ。
 安殿様と薬子の間はもはやどうにもならぬ。そんなことはわかっている。俺も仲成殿も宮中の誰もが。しかし薬子はわかってはいないのだろう。何故なら時が止まっているからだ。
 けれども、それでも薬子は安殿様にお会いしたいのだろうか。お会いしたいのだろうな。それしか言わないほどには。

 ひどく手元が暗く見えた。
 ひどく世界が悍ましく見えた。
 その少し先に見える未来は、人がなんとか立てるほどの光が一筋だけ差し、他は全て暗黒に染まっている。
 薬子にとって光の中以外は全てが暗闇だ。今はその記憶の中にある光を遠くから眺めて何とか心を留めている。けれども生臭い現実では、あの光の中に立つ者を引き摺り下ろそうと多くの手がその外縁に待ち構えている。死霊が蠢く暗黒。わずかでもその身が光の外にはみ出れば、あっという間に引き摺り込まれ、闇に飲まれる。

 けれどもおそらく、今のままでは薬子は幸福に至る道は見つからぬ。いずれにしても。
 薬子も一目安殿様を見れば新しい道に歩き出せるのだろうか。いや。それが薬子にとって幸せなのだろうか。薬子の症状が改善する道が少しでもあるのであれば人並みの幸せというものを探し求めることができるのだろうか。わからない。

「薬子に話す」
「それでは!」
「薬子が人前に出、きちんと勤めを果たせる状態まで回復すれば検討する」
「そんな!」
「薬子を宮中の一室に閉じ込めるなぞ御免だ。それであればこの家にいた方が良い」

 ああ、本当に気が向かぬ。何故薬子ばかり、いや、式家はこのような運命なのかも知れぬな。
 寝殿母屋から薬子の室のある北の対に繋がる渡殿渡り廊下には月が静かに照っていた。
 北の対は俺の屋敷の中で独立している。薬子のために新しく作らせた室だ。ここには寝殿からしか出入りできない。そして寝殿と北の対の間には小さな庭を設え、そこに薬子が好きな木花を植えた。つまりここから先が薬子の世界だ。
 北の対に立ち入れるのは俺と少数の下女しかいない。寝殿に住む子らも立ち入ることはない。
 そう思っていたらにゃあと空から声がした。

「おっと。お前を忘れていたな、白姫しらひめ。すまないすまない」

 白姫と名付けられたねこは北の対の屋根からひょいと飛び降り、トトトとコチラにやってくる。夜の中でその白は月の光を反射してぼんやりと不思議に浮かび上がっていた。このねこだけはこの家の敷地の往来が自由なのだ。

「姫、今日は薬子はまだ起きているかな」

 抱え上げて首筋を撫でるとくすぐったそうに目を細めた。白姫を撫でながら、どう話したものかなとかんがえあぐねる。良い案はちっとも浮かばない。
 薬子は起きてはいるのだろう。いつも夜は遅い。真っ暗な中で何するともなく、ただ夢の中で起きている。
 そしてやはり、起きていた。

「こんばんは、薬子」
「主様」
「今日は月が明るい。ここまで出てこないか」

 しずしずと暗い室から現れる薬子を月が照らす。正直、美しいと思う。白姫は薄情にも俺の腕からひょいと飛び降り、薬子の足下まで行ってしまった。見ていると、薬子は渡殿にぺたりと座り込み、白姫を撫で始める。
 やはり人前に出せる状況ではない。けれどもこのままでは薬子はずっと、死ぬまでここで白姫以外に心を許すこともなく、ぽつりと暮らすことになる。
 それはそれで、平穏な気はする。そしてそれは幸せなのだろうかとも思う。思い出の中の安殿様以外の誰からも切り離された暮らし。
 どう切り出していいか悩みに悩んでいた言葉はするりと出てきた。

「薬子、安殿親王にお会いしたいか」

 薬子の肩がピクリと震え、そっと私に目が向けられたが、焦点は微妙に会ってはいない。返事もない。

「私は参議となることが内定している。そなたの後ろ盾になれるのだ」
「後ろ盾、でしょうか」
「そうだ、安殿親王の東宮妃皇太子妃であられた藤原帯子様が近頃薨去なされた。だからそこに、お前との間に生まれた娘を東宮妃として推すことができる」

 薬子は随分と不思議そうな表情で俺を眺めた。けれども話は聞いているようだ。いつも、聞こえてはいる。返事がないだけで。
 だからきっと、いつも通り意味はない。何を話しても同じだ。やるせなく、思わず月を見上げる。

「だからお前が娘の後見として一緒に後宮に上がることもできなくはない。ひと目でも安殿親王にお目にかかりたいのなら」
「安殿様に?」
「そうだ。けれどもそれには条件がある」
「条件」
「お前は今のままでは宮に上がることなど不可能だ。きちんと仕事をこなせるようにならなければならない。それはとても大変な」
「どのようにすれば宜しいのでしょうか」

 不意に、隣から聞こえたそのはっきりした声に驚き、振り向く。そこにいたのは薬子で、他に誰もいなかった。
 薬子は俺をまっすぐに見ていた。いつものように茫洋とした風情は失せ、その黒い瞳の焦点はしっかりと俺の目に合わされていた。
 俺はひどく動転した。
 これは誰なのだ。透き通った美しい瞳で俺を見つめるこの姫は。

「縄主様。わたくしは、どのようにすれば」
「あ、ぁ。まずは宮中のしきたりを覚えねばならぬ。それから勉強もせねばならないね。宮中では教養がなければ話にならない」
「論語、文選であればある程度はおさめております」
「そうか。優秀だな。しかし宮で働くのであれば五経もおさめた方がよかろうな」
「何卒、ご教示くださいますよう、あっ」

 難しい話に飽きたのか、白姫が薬子の手を抜け出して、また私の方に戻ってきた。そして見上げた薬子の表情には残念さが漂っていた。初めて見た、感情の発露かもしれない。

「薬子? お前は薬子なのか?」
「はい。縄主様」
「……それほど安殿親王にお会いしたいのか」
「……はい。申し訳ありません」
「今更どうとにもならぬのだぞ」
「今更?」
「ああ。既に13年の月日が経ったのだ」

 薬子は不思議そうな表情を浮かべた。けれどもそれは先程とはまったく違う表情だった。そしてそれが明るい月の光でよくわかった。

 そしてわずかに正気を取り戻した薬子は聡明だった。種継様の聡明さは仲成殿より薬子の方が受け継いだのかも知れぬ。それほどに覚えがよく、渇いた地が水を吸収するように四書五経もあらゆる漢籍も、すらりすらりと吸収していった。
 挙動に未だ不審なところはあるし、時折茫洋とすることもある。けれどもそれをカバーできるほどの才知があった。

「薬子、本当に宮に上がるのか」
「はい、縄主様」
「上がってもどうにもできぬのだぞ」
「はい。けれども一目垣間見る機会があるのであれば、それで満足なのでございます」

 それであれば仕方がない。
 私が籠に保護したと思っていた小鳥は元気を取り戻し、空に飛び立っていくのか。そう思って欄干から眺めた空はどんよりと濁っていた。
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