色は変わらず花は咲きけり〜平城太上天皇の変

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2章 藤原縄主とその妻

 side縄主 平穏な日々

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 薬子殿との暮らしが始まった。
 とはいえ、何ということもない。自宅に子どもといえど、女がいるというのは何か落ち着かぬものだ。それに容態が気にかかる。
 下女をつけた。熱を出したり暴れたりといったことはないようだ。ただ、生気が抜けたかのようにぼんやりと日がな一日暮らしているそうだ。
 
「薬子殿、お加減は如何かな」
「あの」
「私は縄主と申します」
「主様?」
「ええ、そうです。本日は瓜をお持ちしましたよ。とてもよい香りです」
「……ありがとうございます」

 しばらく俺の家の離れに住んで落ち着いたのか、そのような簡単な会話なら行うことができるようにはなっていた。相変わらず俺が誰だか定かではなかったようだし、顔を隠そうともしなかったからどことなく所在がない思いはしたが、なにやらもう今さらだ。
 父蔵下麻呂の子は男9人、女2人だ。けれども女2人は母が違う。だから俺の身の回りで女子というものがいたことはこれまでなかった。このような様子でも、いれば華やかなものだな、と思った。
 その艶やかな黒髪は美しく、顔立ちも種継殿に似て少々厳ついが、美人の部類だとは思う。あと2,3年すればいい女にはなろうな。
 なんとなく、妹というものがいればこんなような感じなのだろうか。ぽつぽつも紡がれる誰に向けての話かわからぬ呟きを聞くともなく聞いていると、小さな動物が好きらしいことがわかった。

 伝手を頼ってねこを手に入れた。
 背中だけ黒くて他は真っ白なねこだ。少々気性が荒そうであったが、そこがぼんやりとした薬子殿にはあったのだろう。下女によるとねこを興味深そうに眺めているということだった。時には欄干に赤い綱で繋がれたねこが綱に戯れているのをにこにこと見ているそうだ。
 薬子殿は日がな一日、その室を出ない。出てもそもそも人と話せる状態にはないのもあって、その生活はどことも繋がらず寂しいものだ。だからその日々の慰めになるとよい。俺はあまり家にいないのだから。
 
 俺の仕事はそれなりに忙しかった。
 2年前に従五位下を叙勲し、中衛少将という仕事についた。それは尊き方々の周辺を警護する職だ。
 現在はそれはもう大変なのだ。なにせ早良様の祟りによって様々な異事変事が巻き起こっているからだ。だから時には昼夜問わず宮中に詰めていた。
 それで俺は薬子殿と結婚するまではそれなりに漫然と職務をこなしていたのだが、種継殿の一件があり、念のため宮中の情勢というものを眺め渡すことにした。

 この中衛府という場所は藤原仲麻呂がその権力基盤の拠点とした場所だ。仲麻呂の乱の後、新しく近衛府が建てられ、その権力は分散された。けれどもその記憶は未だ新しく、木っ端貴族でも尊き方々と接触すると目が厳しい。だから警護をしていても貴人に話しかける機会もない。
 仲成殿は同じ衛門府の中で衛門佐えもんのすけで、立場としては少将の1つ下に当たる。けれども乙牟漏様の手のものとやりとりをしているような様子が垣間見える。
 俺はやはりその胡散臭いところには関わりたくはない。

 そもそも昇殿を許され天皇の側近くに仕える者というのは限られている。六位蔵人雑用係を除けば従五位以上のものばかりで、そこからが貴族と呼ばれる。太政官文官でいえば少納言以上、衛府軍部であれば衛門佐と兵衛佐ひょうえのすけ内侍司秘書課であれば掌侍ないしのじょう以上だ。それら全てを合わせても100人より少ない。
 人間関係が絡まりあったこの世だ。だからこそ、なるべく近寄りたくなかったのだ。それぞれの官職の間は目えない蜘蛛の糸が張り巡らされ、裏に回ればそれなりに密接親しい。だから表面的な情報を得ようと思えば、そこまでは難しくはない。
 そして俺は最近薬子殿を娶ったばかりだったから、やいのやいのと話しかけられることも多かったのだ。だからそれなりにこの国の情勢というものを嗅ぎ分けようとした。

 種継様が暗殺され、その首魁として早良様と大友一族が処断された。けれどもこれは冤罪だ。それは早良様の祟りの大きさからも明らかだ。
 言われもないことで殺されたからこそその無念によって祟るのだ。言われがあるのであれば祟ったりしない。だからこそ、井上様も祟られた。そして仲麻呂が祟らないのは、謀反を起こす気があったかはともかく、実際に天皇位を狙い、そして敗れたからだ。自業自得なのだ。
 正直なところ、種継様の暗殺は北家と仏寺の企みだろうとは思う。北家はもともと他戸親王を次期天皇と目論み操ろうとしていた。そこを北家を代表されていた永手殿が没した隙に百川様が盤をひっくり返し、誰も予想だにしていなかった桓武様を天皇位に立てられたのだ。
 だからおそらく、種継様を消して式家の勢力を削ぎ、不都合な早良様を消したのだ。そしてついでに古い豪族である大友家を消したかったのだ。
 やはりここは一見絢爛に見えたとしても恐ろしい場所だ。

 それで現在の情勢だ。
 現在は安殿様が早良様にかわり太子となられている。そうして安殿様は……お体がお悪いらしい。お体がお強くあられないのは以前からのようだが、早良様の祟りで悪化されている。
 この情報は薬子殿に伝えたほうがよいだろうか。伝えてもどうすることもできない。俺の地位では安殿様につなぎをつける方法などない。けれども薬子殿の意識の俎上に登るのは安殿様だけなのだ。

「薬子。今日も安殿様のことを教えておくれ。春にお花見をしたんだろう?」
「ええ。お庭から吉野のお山の梅が見えるの。それで安殿様がお越しになる時に梅の枝をお持ちになられて」

 いつしか時は流れ、私は三十九、薬子は二十三になっていた。このような仲でも情が湧き、子を成した。子は乳母に任せ、すでに1番上は十を数える。けれども薬子は十のままだ。白痴のままにいつも同じ話をする。
 薬子の時間はもう、十三年も止まったままだ。その美しい黒髪に似合わない、子供じみた表情。ずっと変わらず、薬子の頭の中には安殿しかなかった。
 けれどもそれはそれでもよい、仕方がないと思っていた。いずれ叶わぬ望みなのだ。幸せなのかどうかはわからないが、薬子は安殿様の話をしている限りは不幸せにはならなかった。
 けれどもそんな私の家の戸を叩く者があった。

「どうしてもお目にかかりたいとのことです」
「帰られそうにないか」
「お目通りが叶うまで動かぬと」

 ふうと吐いた息は思いのほか長く、尾長鳥の尾のようにその夜の長さを想起させた。
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