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2章 藤原縄主とその妻
side縄主 結婚
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朝、俺は考えた。どうしたらいいのか。
薬子殿の憐れな境遇には同情する。どこの誰ともつかぬ男に輿入れするよりは俺が保護したほうが良いのだろうか。けれども薬子殿にとって、俺とその他の有象無象の男はさして変わらないだろう。
昨日一昨日、薬子殿は俺の話には何も反応しなかった。安殿親王のこと以外。そもそも薬子殿との間には通常の恋愛ごとと異なり手紙のやりとりも何もない。だから薬子殿のお考えは何もわからない。
だからもう少しだけ話をしよう。それで薬子殿が俺と結婚して、不幸にならなさそうならば、薬子殿を引き取ろう。引き取るというのも妙な話だ。結婚という感じはまるでないな。
まだ十だ。
そうだ、まだ十なのだ。種継様が亡くなられてまだ一年にも満たぬのになんとかしなければならないのか。もう少し待つことはできぬのか。せめて適齢になる十二ほど。
けれども未だ桓武様のご治世も盤石ではない。だから不確定要素は極力排除する必要があるし、すべき。だからやはり、急いでいるのだ。
そのうち薬子殿の気鬱も治るのかもしれない。
気鬱の病も早良様の祟りが原因かも知れぬ。今、桓武様は必死に早良様のお怒りを治めようとされている。
結局、俺は薬子殿を引き取るつもりだ。
昨日の所業を見ても仲成殿に細やかな配慮を求めるのは不可能だろう。そもそも仲成殿も未だ十二なのだ。それに仲成殿にとって重要なのは式家の復興であって、そのほかは二の次だ。そして仲成殿は薬子殿をどう扱ってよいのかわからないのだろう。よしんば婚儀が成立するとして、俺なぞが通ってくるのも鬱陶しいだろう。通ったとしても何をするものでもなく、互いに無為に朝まで時間を潰すだけだ。さりとて結婚するならば通わなければ薬子殿に悪い評判がたつ。
だから引き取る。
せめて結婚という形を取るのなら、俺の妻となるのであれば、安らかにお過ごし頂きたい。それが責任というものだ。けれどももし気鬱が治まった折に、気に食わぬ男に娶られていたというのも嫌だろう。
せめて有象無象にくらべて俺が嫌かどうか、くらいは確認したいのだ。俺としても。
そんなことを考えていると仕事中も気もそぞろで、同僚にも心配された。
商人を呼んで美しい絵の描かれた檜扇を1つ買い求める。香を焚いて香りをつける。恐らく今日も昨日と同じ目に合わされるだろう。御簾や衝立を運んでいくわけにもいかない。だから顔を隠せるものを。
その日の夜はやけに明るかった。満月が空高くに上り、夜というのに世界を淡い白に染めていた。妙に静まりきった灰青色に照らされた往来を仲成殿の屋敷まで進む。
視覚情報も聴覚情報も乏しく単純化された道すがら、思考は自然と自省を始めた。
俺は何をやっているのだろう。
この世はかくも暗闇に満ち、複雑だ。どこに沼や穴が潜んでいるかわからない。そのような中、助け合おうと、利用しようと縁と縁をつなげ合い、絡め合う。その結果、ひとつが沈めば周りもまとめて沈んでいく。静かにずぶずぶと沼の底まで。
けれども百川様は沼の底で明かりを灯された。その鬼火のような幽けき灯りは式家以外をその意識から極小化させ、必要な縁と縁だけを結び繋いで、式家を暗き沼の底から引き上げ浮かび上がらせたのだ。それを成すために百川様は全ての縁に軽重をつけ、俺たちに式家という枠組みを何より大切なものと刷り込んだ。
けれども。どの糸とどの糸が絡まり合っているか、そんなものは百川様ほどの方でなければわからない。俺などではとても。
俺たちは縁というものの恐ろしさを嫌というほど知っていた。広嗣様の折に式家の成人男子は全て処断されたのだから。
だから俺は極力縁を結ばないようにしていた。恐ろしかったのだ、その縁というものが。
今の世は互いの子を結婚させ合い、血を深めている。どことどこが繋がっているのかもわからない。時勢の風が吹けば、どのような憂き目浮沈に出合うのかもわからない。
俺はそのようなことを考えるのが面倒で、嫌気が差していた。だからこれまで、変人と呼ばれようとも誰とも婚姻も結ばなかった。これからも縁を結ぶつもりもなかった。
今は俺が父の蔵下麻呂の後継だが、弟の綱嗣の方が母方の血筋が良い。男子が生まれたばかりだ。だからそのうち後継を譲ろうと思っていた。
そんなことを普段から言っているものだから、弟には仏の道に帰依するのかなぞ聞かれることもある。
当面そんなつもりもない。ただ、面倒なのだ。
天高くから俺を見下ろす白い月は、その行く末を指し示すかのように俺から伸びる一本の長い影を道の上に伸ばす。その影の先には仲成殿の屋敷がある。この影の先に薬子殿がいる。
やはり、気は乗らない。
けれども薬子殿はおそらく、何処かと繋がることはないだろう。薬子殿ご自身のご縁は仲成殿と安殿親王だけだ。他に手紙をやりとりするような人もいない。俺が引き取ることで仲成殿とも縁は切れる。仲成殿はおそらく浮かび上がることもない。
だから薬子殿はぽつりと、このからまった世界に漂っているのだ。そのくらいの縁ならば、繋いでも悪くはないのだろう。
薬子殿の室に着く前に袖で顔を隠す。このような行為は普通は女がするものだろうと思いつつ、薬子殿は顔を隠さないだろうから仕方がないと思い直す。見上げた天井近くには、御簾が綺麗に折り畳まれていた。やはり。
「薬子様、まずはこれで顔をお隠しください」
「はい」
手から檜扇が離れた感触がある。
「顔は隠されましたか」
「はい」
恐る恐る袖を下げると、薬子殿は確かに顔を隠していて安心した。艶やかな美しい黒髪が波のように広がっている。
「薬子様、本日はお話に参りました」
「お話し」
昨日までと違い、幾分、こちらに興が向いているようだ。何か心境の変化でもあったのだろうか。
「私は藤原縄主と申します」
「ただぬしさま」
わずかに繋がりそうな鸚鵡返しと話の筋に少し心を落ち着け、次に何を話すべきかと逡巡して固まり、その次の瞬間には叫んでいた。
あまりにも予想外すぎて。
「何を、何をなさっているのですか⁉︎」
「何を。ただぬしさまがいらしたらこのようにせよと」
「しなくてよい。しなくてよいのです!」
ふわりと漂う香の匂いに気がつけば、薬子殿の肩を抱いていた。頭の中は混乱しきっている。
また、何ということを。
このようなことをせずとも俺は。
そして再び目が合う。檜扇の奥に隠されていたはずの顔はすぐ隣にあり、透き通った瞳が不思議そうに俺を見つめている。先程その白いうなじから垣間見えた体は未だ平たかった。目を閉じて着物の襟を整える。他人に着物を着せるなど初めてだが、仕方がない。
下がろうとして、俺が下がればまた服を脱ぐのではないか、そのような気配を感じた。思わずついたため息に、薬子殿はわずかに首を傾げた。
「薬子殿、どのようなおつもりですか」
「このようにせよ、と言われましたので」
「このようにして、それから?」
「ただぬしさまの妻になるように、と」
「私は安殿親王ではありませんよ」
「安殿様……」
その瞬間、薬子殿の瞳の奥が確かに揺らいで黒く瞬き、その端からたくさんの水滴がこぼれ落ちた。けれども薬子殿の表情は先ほどと同じ茫洋としたままで、僅かな嗚咽もあげることもなく、ただ静かに、涙だけがはたはたととめどなく静かにこぼれ落ちている。
俺はその落差に目を離すこともできず、その異様をただ、眺めるしかなかった。声をかけても何も返事はなかったから。
そしてその涙は夜が更けるまで流れ続け、そして薬子殿はいつしか疲れ果てたのか、私の腕の中で眠ってしまわれた。仕方なく用意されていた夜具まで運んで横たえると、その顔はやはり、十歳の子どもにしか見えなかった。顔を見てはならぬ、と思ったが何やらもう今更だ。
百川様は八歳で鬼になられた。そうせざるをえなかったのだろう。薬子殿もおそらくこうするより他にないのだ。ままならぬ、ものだな。このように幼いのに。
やがて夜が明ける。夫婦となるにはそのまま朝までいれば良い。そうでなければ早々に立ち去る。けれども俺は薬子殿の寝顔を見るにつけ、締め付けられるような思いが湧く。この薬子殿も様々な縁に絡め取られているのだ。そした今まさに、沼に沈もうとしている。
俺が断れば、仲成殿は薬子殿に他の男の前で同じことをさせるだろう。どこの誰ともわからぬ男を。
俺も薬子殿にとってどこの誰ともわからぬ輩だ。ため息を吐く。それは僅かに白く煙る。先ほど俺を照らしていたあの煌々と輝く満月が思い浮かぶ。ぽつりと孤独に空に浮かぶ満月。その白さは目の前の薬子殿の細い肩口の白さを思い起こさせた。
この一つの灯りくらいであれば、俺にも守ることはできるだろうか。この可哀想な光くらいならば。
ふと、そう思った。
そのままやる方もなく薬子殿の枕元で夜を過ごし、一番鶏の鳴声で薬子殿がゆっくりと瞼を上げる。
「おはようございます」
「どなたでしょうか」
「藤原縄主と申します」
「ただぬしさま」
「お伺いしたい。あなたは私と結婚してもよいのですか」
「……はい」
「どうしてです?」
「どうしようもありませんので」
薬子殿はぼんやりと私を見つめた。どうしようもないので。
本当にどうしようもないのだな。
感情も何もないその瞳の奥を覗き込んで、そう思う。
「薬子殿は結婚のお相手は誰でも良いのですね」
「はい」
「それであれば私と結婚しましょう」
「はい」
「では、私の家にお越しください。不自由はさせません」
「はい」
ようやく夜が明けた。
寒いはずだ。いつのまにやら雪が降っていて、下女が墨の入った火鉢を持って廊下を立ち動いているのが見える。やがてこの室にも火鉢が持ち込まれ、餅が焼かれる。三日目の朝。その餅を頂くと、それで婚儀は成立する。
俺は薬子殿の夫となった。
仲成殿に薬子殿を引き取ることを申し入れた。最初は驚かれたが、了承された。昼が近づくその頃には寒さは幾分和らぎ、火鉢の炭も白が増え、ぐずぐずと風に吹き飛ばされていた。
薬子殿の憐れな境遇には同情する。どこの誰ともつかぬ男に輿入れするよりは俺が保護したほうが良いのだろうか。けれども薬子殿にとって、俺とその他の有象無象の男はさして変わらないだろう。
昨日一昨日、薬子殿は俺の話には何も反応しなかった。安殿親王のこと以外。そもそも薬子殿との間には通常の恋愛ごとと異なり手紙のやりとりも何もない。だから薬子殿のお考えは何もわからない。
だからもう少しだけ話をしよう。それで薬子殿が俺と結婚して、不幸にならなさそうならば、薬子殿を引き取ろう。引き取るというのも妙な話だ。結婚という感じはまるでないな。
まだ十だ。
そうだ、まだ十なのだ。種継様が亡くなられてまだ一年にも満たぬのになんとかしなければならないのか。もう少し待つことはできぬのか。せめて適齢になる十二ほど。
けれども未だ桓武様のご治世も盤石ではない。だから不確定要素は極力排除する必要があるし、すべき。だからやはり、急いでいるのだ。
そのうち薬子殿の気鬱も治るのかもしれない。
気鬱の病も早良様の祟りが原因かも知れぬ。今、桓武様は必死に早良様のお怒りを治めようとされている。
結局、俺は薬子殿を引き取るつもりだ。
昨日の所業を見ても仲成殿に細やかな配慮を求めるのは不可能だろう。そもそも仲成殿も未だ十二なのだ。それに仲成殿にとって重要なのは式家の復興であって、そのほかは二の次だ。そして仲成殿は薬子殿をどう扱ってよいのかわからないのだろう。よしんば婚儀が成立するとして、俺なぞが通ってくるのも鬱陶しいだろう。通ったとしても何をするものでもなく、互いに無為に朝まで時間を潰すだけだ。さりとて結婚するならば通わなければ薬子殿に悪い評判がたつ。
だから引き取る。
せめて結婚という形を取るのなら、俺の妻となるのであれば、安らかにお過ごし頂きたい。それが責任というものだ。けれどももし気鬱が治まった折に、気に食わぬ男に娶られていたというのも嫌だろう。
せめて有象無象にくらべて俺が嫌かどうか、くらいは確認したいのだ。俺としても。
そんなことを考えていると仕事中も気もそぞろで、同僚にも心配された。
商人を呼んで美しい絵の描かれた檜扇を1つ買い求める。香を焚いて香りをつける。恐らく今日も昨日と同じ目に合わされるだろう。御簾や衝立を運んでいくわけにもいかない。だから顔を隠せるものを。
その日の夜はやけに明るかった。満月が空高くに上り、夜というのに世界を淡い白に染めていた。妙に静まりきった灰青色に照らされた往来を仲成殿の屋敷まで進む。
視覚情報も聴覚情報も乏しく単純化された道すがら、思考は自然と自省を始めた。
俺は何をやっているのだろう。
この世はかくも暗闇に満ち、複雑だ。どこに沼や穴が潜んでいるかわからない。そのような中、助け合おうと、利用しようと縁と縁をつなげ合い、絡め合う。その結果、ひとつが沈めば周りもまとめて沈んでいく。静かにずぶずぶと沼の底まで。
けれども百川様は沼の底で明かりを灯された。その鬼火のような幽けき灯りは式家以外をその意識から極小化させ、必要な縁と縁だけを結び繋いで、式家を暗き沼の底から引き上げ浮かび上がらせたのだ。それを成すために百川様は全ての縁に軽重をつけ、俺たちに式家という枠組みを何より大切なものと刷り込んだ。
けれども。どの糸とどの糸が絡まり合っているか、そんなものは百川様ほどの方でなければわからない。俺などではとても。
俺たちは縁というものの恐ろしさを嫌というほど知っていた。広嗣様の折に式家の成人男子は全て処断されたのだから。
だから俺は極力縁を結ばないようにしていた。恐ろしかったのだ、その縁というものが。
今の世は互いの子を結婚させ合い、血を深めている。どことどこが繋がっているのかもわからない。時勢の風が吹けば、どのような憂き目浮沈に出合うのかもわからない。
俺はそのようなことを考えるのが面倒で、嫌気が差していた。だからこれまで、変人と呼ばれようとも誰とも婚姻も結ばなかった。これからも縁を結ぶつもりもなかった。
今は俺が父の蔵下麻呂の後継だが、弟の綱嗣の方が母方の血筋が良い。男子が生まれたばかりだ。だからそのうち後継を譲ろうと思っていた。
そんなことを普段から言っているものだから、弟には仏の道に帰依するのかなぞ聞かれることもある。
当面そんなつもりもない。ただ、面倒なのだ。
天高くから俺を見下ろす白い月は、その行く末を指し示すかのように俺から伸びる一本の長い影を道の上に伸ばす。その影の先には仲成殿の屋敷がある。この影の先に薬子殿がいる。
やはり、気は乗らない。
けれども薬子殿はおそらく、何処かと繋がることはないだろう。薬子殿ご自身のご縁は仲成殿と安殿親王だけだ。他に手紙をやりとりするような人もいない。俺が引き取ることで仲成殿とも縁は切れる。仲成殿はおそらく浮かび上がることもない。
だから薬子殿はぽつりと、このからまった世界に漂っているのだ。そのくらいの縁ならば、繋いでも悪くはないのだろう。
薬子殿の室に着く前に袖で顔を隠す。このような行為は普通は女がするものだろうと思いつつ、薬子殿は顔を隠さないだろうから仕方がないと思い直す。見上げた天井近くには、御簾が綺麗に折り畳まれていた。やはり。
「薬子様、まずはこれで顔をお隠しください」
「はい」
手から檜扇が離れた感触がある。
「顔は隠されましたか」
「はい」
恐る恐る袖を下げると、薬子殿は確かに顔を隠していて安心した。艶やかな美しい黒髪が波のように広がっている。
「薬子様、本日はお話に参りました」
「お話し」
昨日までと違い、幾分、こちらに興が向いているようだ。何か心境の変化でもあったのだろうか。
「私は藤原縄主と申します」
「ただぬしさま」
わずかに繋がりそうな鸚鵡返しと話の筋に少し心を落ち着け、次に何を話すべきかと逡巡して固まり、その次の瞬間には叫んでいた。
あまりにも予想外すぎて。
「何を、何をなさっているのですか⁉︎」
「何を。ただぬしさまがいらしたらこのようにせよと」
「しなくてよい。しなくてよいのです!」
ふわりと漂う香の匂いに気がつけば、薬子殿の肩を抱いていた。頭の中は混乱しきっている。
また、何ということを。
このようなことをせずとも俺は。
そして再び目が合う。檜扇の奥に隠されていたはずの顔はすぐ隣にあり、透き通った瞳が不思議そうに俺を見つめている。先程その白いうなじから垣間見えた体は未だ平たかった。目を閉じて着物の襟を整える。他人に着物を着せるなど初めてだが、仕方がない。
下がろうとして、俺が下がればまた服を脱ぐのではないか、そのような気配を感じた。思わずついたため息に、薬子殿はわずかに首を傾げた。
「薬子殿、どのようなおつもりですか」
「このようにせよ、と言われましたので」
「このようにして、それから?」
「ただぬしさまの妻になるように、と」
「私は安殿親王ではありませんよ」
「安殿様……」
その瞬間、薬子殿の瞳の奥が確かに揺らいで黒く瞬き、その端からたくさんの水滴がこぼれ落ちた。けれども薬子殿の表情は先ほどと同じ茫洋としたままで、僅かな嗚咽もあげることもなく、ただ静かに、涙だけがはたはたととめどなく静かにこぼれ落ちている。
俺はその落差に目を離すこともできず、その異様をただ、眺めるしかなかった。声をかけても何も返事はなかったから。
そしてその涙は夜が更けるまで流れ続け、そして薬子殿はいつしか疲れ果てたのか、私の腕の中で眠ってしまわれた。仕方なく用意されていた夜具まで運んで横たえると、その顔はやはり、十歳の子どもにしか見えなかった。顔を見てはならぬ、と思ったが何やらもう今更だ。
百川様は八歳で鬼になられた。そうせざるをえなかったのだろう。薬子殿もおそらくこうするより他にないのだ。ままならぬ、ものだな。このように幼いのに。
やがて夜が明ける。夫婦となるにはそのまま朝までいれば良い。そうでなければ早々に立ち去る。けれども俺は薬子殿の寝顔を見るにつけ、締め付けられるような思いが湧く。この薬子殿も様々な縁に絡め取られているのだ。そした今まさに、沼に沈もうとしている。
俺が断れば、仲成殿は薬子殿に他の男の前で同じことをさせるだろう。どこの誰ともわからぬ男を。
俺も薬子殿にとってどこの誰ともわからぬ輩だ。ため息を吐く。それは僅かに白く煙る。先ほど俺を照らしていたあの煌々と輝く満月が思い浮かぶ。ぽつりと孤独に空に浮かぶ満月。その白さは目の前の薬子殿の細い肩口の白さを思い起こさせた。
この一つの灯りくらいであれば、俺にも守ることはできるだろうか。この可哀想な光くらいならば。
ふと、そう思った。
そのままやる方もなく薬子殿の枕元で夜を過ごし、一番鶏の鳴声で薬子殿がゆっくりと瞼を上げる。
「おはようございます」
「どなたでしょうか」
「藤原縄主と申します」
「ただぬしさま」
「お伺いしたい。あなたは私と結婚してもよいのですか」
「……はい」
「どうしてです?」
「どうしようもありませんので」
薬子殿はぼんやりと私を見つめた。どうしようもないので。
本当にどうしようもないのだな。
感情も何もないその瞳の奥を覗き込んで、そう思う。
「薬子殿は結婚のお相手は誰でも良いのですね」
「はい」
「それであれば私と結婚しましょう」
「はい」
「では、私の家にお越しください。不自由はさせません」
「はい」
ようやく夜が明けた。
寒いはずだ。いつのまにやら雪が降っていて、下女が墨の入った火鉢を持って廊下を立ち動いているのが見える。やがてこの室にも火鉢が持ち込まれ、餅が焼かれる。三日目の朝。その餅を頂くと、それで婚儀は成立する。
俺は薬子殿の夫となった。
仲成殿に薬子殿を引き取ることを申し入れた。最初は驚かれたが、了承された。昼が近づくその頃には寒さは幾分和らぎ、火鉢の炭も白が増え、ぐずぐずと風に吹き飛ばされていた。
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