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2章 藤原縄主とその妻
side 縄主 百川の謀りごと
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仲麻呂を討伐?
今をときめく仲麻呂を? 都の隅に追いやられてしまった私たちが?
本当にそのような機会などあるのだろうか。そうしている間にも仲麻呂は恵美押勝と名を変え、最高位の大師・正一位を賜り位人臣を極めている。
けれども父は百川様に言われて初めて思い当たった。
昨天平宝字6年6月の暑い盛り、淳仁様は孝謙様のお言葉として次のように仰せになられた。
ー朕は大皇后の草壁皇子の皇統が途絶えることを避けるため、女子の身で政治を行った。そして朕は淳仁を帝と立てて年月を過ごしたが淳仁は朕に従わず、言うべからざることを述べてなすじき事をなす。朕は出家して仏弟子となったが、政のうち恒例の祭祀などの些事は淳仁が行い、国家の大事と賞罰の国の大本は朕が行う。これを理解せよ。
父は慄いた。
百川様の仰るとおり、この国で最も尊きは淳仁様ではなく孝謙様であることは既に明らかにされていたのだ。
そして今年、天平宝字7年の年明け、父は従五位下を賜り少納言に任じられた。その春、百川様は宮内で司法を司る智部少輔に任じられた。この他にも多くの任官があったと聞く。そして翌天平宝字8年の年明け、田麻呂様は正五位下となった。何かが着々と準備されていた。
「雄田麻呂兄様、本当に仲麻呂は謀反を起こすのでしょうか。仲麻呂はすでに位階を上り詰めております。何を欲するところがあるのでしょう。それに仲麻呂は淳仁様と孝謙様以外頼るところがありませんから謀反を起こしてどうなるとも思われません」
「起こすさ。欲するものがあるからね。それに私はたくさんの噂を撒いた」
「噂、でしょうか」
「ああ。こういうのは離間の計画と言うのだよ。昔からよく使われる手だ。現在孝謙様と仲麻呂の間は連絡の取りようがない。そのようにした。だから疑心暗鬼になるのだ」
「疑心暗鬼」
「孝謙様は思い込みが強く御気性が荒い。だから想像してしまうのさ。自らの行く末を。先年仲麻呂が道鏡を忌避するよう孝謙様を諌めたのも少しの告げ口によるものだ。道鏡が天皇になれば仲麻呂は天皇になれないからね」
「そのようなことがあるはずがない。そうではありませんか」
道鏡が天皇? 仲麻呂が天皇?
父は百川様の言葉の意味を理解しかねた。皇族の両親を持たなければ天皇にはなれない。
俺はそれが過去に過ぎ去った今だからこそわかるのだ。孝謙様が道鏡を天皇になされようとし、仲麻呂が皇帝になろうとしていたということを。けれども今の代、同じようなことが起こっても俺は信じられないに違いない。
「ああ。あるはずがないのだよ。誰もそのようなことを認めるわけがないのだ。けれども為せると思いこんでしまった当人はそうとは思わない。おかしなことだね」
「思い込む?」
「そう。仲麻呂には後ろ盾となれるほど力を持った味方などいない。傀儡のはずの淳仁様もすでに孝謙様のご指示通りにしか動かない。そして上ばかり見ているから下のことなど見ないのだ。手足のように動けば動くほどその存在は意識から外れていく。丁度仲麻呂のところに大津大浦という陰陽師を潜ませている。だからその動きは手にとるようにわかる。そして仲麻呂は御璽を持っている」
御璽。
それは一定の国務を任されている決済印だ。おおよそ裁量の範囲のことであれば変更が行える。
孝謙様と仲麻呂を繋いでいた叔母の光明子様が没した時、すでに孝謙様のお考えと仲麻呂のお考えはずれてしまっていたのだ。せっかく淳仁様を用意したのに、孝謙様と仲麻呂との間は自然と疎遠となり、道鏡の力が増していくのを感じたことだろう。それと引き換えに仲麻呂は自らの影響力がじわりじわりと削がれてを感じたのだろう。
おそらく仲麻呂の頭にあったのは広嗣様のことだ。
仲麻呂が権勢を登るのと引き換えのように、広嗣様、そして式家が没したのは仲麻呂の脳裏に深く刻み込まれたはずだ。そして政権の常として、身の危険を感じた。
仲麻呂は都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使という職を作り就任し、各地から20名を集めて練兵を始めた。それはいざとなったとき自宅を守り、逃げるための数だろう。
「蔵下麻呂。間も無くだ。私たちは全てを整えた。全てを絵に書いて、可能であると判断したから始めるのだ。これは家族だけの秘密だよ。すでに白壁王様は私の意のままだ。山部王様は同志だ。とても強い魂をお持ちだ。そして大変優秀であられる。ご自身の立場を私が何を言うまでもなく完全に理解されておられる。そして山部王様には清成兄様の子種継殿が付いている」
お立場、と言われても、その時の父上には山部王が誰かすら認識はなかった。無位無官のただの官吏だ。なのに何故式家の皆で見守るのだろうか、と。
「私は貴族の間に、山部王様は官吏の間にすでに種を巻き終えた。高丘比良麻呂殿という方がいる。山部王殿と同じ大学寮で働かれている百済の渡来氏族だ。山部王様の御母上の縁の方だ。そして正月に大外記となった」
「大外記? 大外記といえば少納言の部下でしょう? 私のまわりにもおります。内務や調査、奏上文の下書きを行う役職です。何ができるとも思われません」
「そう。謀というのはコツコツ地道に積み上げるものだ。だから本当に信頼している者にだけ、惑わされないように真実を告げるのだよ。私たち家族と山部王様と、それから少数の私の信頼するものだけが真実を知っていれば良い」
百川様はうっすらと微笑み、これから訪れる真実を告げる。その姿は父の記憶の中にある八歳と七歳であった折の、たった二人で夜を超えた時と同じ怒りの満ちた笑みだった。そしてその口は本来なら人の身で知りうるはずのない、信じがたい未来を紡ぎ出す。
「蔵下麻呂、比良麻呂から上がる上奏文はそのまま上に上げておくれ。それから兵はきちんと鍛えてあるね? 仲麻呂は必ず、そして間も無く謀反を起こすことになる。宿奈麻呂兄様には詔勅が降りる。蔵下磨呂には別働隊としてすぐに動けるよう兵を待機させておくれ」
「|麻呂兄様は名も冠位も剥奪されておりますが」
「けれどもそうなるのさ。邪魔な大友家持や佐伯今蝦夷といった武人は西方遠くに飛ばした。そして仲麻呂は子の辛加知が国司をしている越前に逃げる。だから動けるのは官軍と式家のお前だけだ。協力して仲麻呂を打つのだ。頼んだよ蔵下麻呂」
そう述べて、百川様は父をふわりと抱擁した。
「私が真実、頼れるのはお前と兄様たちだけだ」
そうしてまもなく、比良麻呂から仲麻呂が20人であった兵を600人に無断で増員し、謀反の兆しがあるとの上奏がなされた。大津大浦からも謀反の密告があった。これで客観事実が整えられ、内部情報まで揃ったわけだ。
けれども仲麻呂が役職を受けたのが9月2日。そして謀反が確定したのが11日だ。その意味は推してしれよう。真実が真に事実であるかどうかなど、関係がないことは式家の者は身に染みていた。
もともと10国で200人。そんな人数では警護にもならない。6000人となれば話は違うかもしれないが、いずれ徴用したての新兵だ。それに文官の仲麻呂に指揮などできるはずがない。
挙兵する前に御璽は孝謙様に奪われ、仲麻呂は百川様が言われた通り越前方面に逃げた。宿奈麻呂様は官軍に加わり奮迅なされた。
そして仲麻呂が近江の高嶋三尾崎でのこと、父上は西に琵琶の海を眺める小高い山の上から長時間に及ぶ官軍と仲麻呂との戦闘を眺めおろしていた。干戈の声は昼過ぎから響き渡り、官軍賊軍問わず多くのものが倒れ屍と化し、今は僅かな声が聞こえるだけだ。
夕闇は迫り、すでに官軍は疲弊し尽くしていた。
「蔵下麻呂様! 雄田麻呂様! 宿奈麻呂様から連絡がまいりました!」
「蔵下麻呂。今です」
「本当に雄田麻呂兄様のおっしゃる通りになりました」
「ええ。勿論。ご武運を」
父上はその山上から仲麻呂軍に向けて一気呵成に下り降りたという。
突如、西日を背に受けて躍り現れた真っ黒な軍勢は瞬く間に仲麻呂軍を圧倒駆逐し、それに勢いをつけた官軍が仲磨呂を討ち果たしたのだ。それは本当にあっという間のことだった。
その報いとして、父上は従三位に叙勲され、近衛大将に任ぜられた。それを祝って式家の父上の家で祝宴が開かれた。
「蔵下麻呂。よくやりました。さすがです」
「兄様方、ありがとうございます。けれども兄様方を差し置いて私がこのような高位を頂いてよいのでしょうか」
「よいのだ蔵下磨呂。俺も無冠のところからいきなり従四位だしな」
「宿奈磨呂兄様はもとより何も咎がないでしょう。私はただ、雄田磨呂兄様のご指示の通りにしたままでです」
「いいえ。蔵下磨呂。この式家であれば誰が益を得てもかまわないのです。これからも助け合っていくのですから」
「けれどもこれで誰にも後ろ指を指されることはなくなりました。孝謙様の覚えもめでたい。式家の悲願は達成されました」
そこでぴゅうと冷たい風が吹き、その風を目で負うと不思議そうな顔をした百川様に行き着いた。その瞳はやはり、今ではなくさらにその先を見据えるようで、その瞳に目の前の蔵下麻呂を映していなかった。
「何を言っているのですか?」
「何を……」
「今、力は孝謙様のもとにあります。けれども孝謙様には後継がおられない。今後はわかりません。だからこれからなのですよ」
「これから?」
「そうです。わたくしたちは式家を盤石にしなければなりません。蔵下磨呂、あなたの子の縄主は未だ4歳。子らのためにも式家を守らねば」
「けれどもどのように」
「山部王様に天皇となられて頂きます」
また、山部王。父にとってどこの誰だかわからぬ者。
百川様と一緒にこの図絵を描いた者。
それは父にとって、それは道鏡や仲麻呂が天皇となる、という話と同じほど現実味がなく感じられたそうだ。
「わたくしと宿奈磨呂兄様は娘を山部王様に嫁がせることにしました。これで山部王様も式家の友となります。そして今根を張らせている良継はそのまま山部王様の側近とします」
「え……」
「大丈夫です。式家を盤石とする案はすでに私の腹中にあります。新しく都を作り、全ての敵を廃して成し遂げます。ですから安心してください」
そしてその後、全ては百川様の思惑通り動き、山部王様が桓武天皇として即位されたのだ。
けれども一つだけ、百川様には見通せなかったことがあった。
それはご自身の寿命だ。山部様の即位を見ることもなく、卒去されたのだ。
井上内親王の祟りによって。
今をときめく仲麻呂を? 都の隅に追いやられてしまった私たちが?
本当にそのような機会などあるのだろうか。そうしている間にも仲麻呂は恵美押勝と名を変え、最高位の大師・正一位を賜り位人臣を極めている。
けれども父は百川様に言われて初めて思い当たった。
昨天平宝字6年6月の暑い盛り、淳仁様は孝謙様のお言葉として次のように仰せになられた。
ー朕は大皇后の草壁皇子の皇統が途絶えることを避けるため、女子の身で政治を行った。そして朕は淳仁を帝と立てて年月を過ごしたが淳仁は朕に従わず、言うべからざることを述べてなすじき事をなす。朕は出家して仏弟子となったが、政のうち恒例の祭祀などの些事は淳仁が行い、国家の大事と賞罰の国の大本は朕が行う。これを理解せよ。
父は慄いた。
百川様の仰るとおり、この国で最も尊きは淳仁様ではなく孝謙様であることは既に明らかにされていたのだ。
そして今年、天平宝字7年の年明け、父は従五位下を賜り少納言に任じられた。その春、百川様は宮内で司法を司る智部少輔に任じられた。この他にも多くの任官があったと聞く。そして翌天平宝字8年の年明け、田麻呂様は正五位下となった。何かが着々と準備されていた。
「雄田麻呂兄様、本当に仲麻呂は謀反を起こすのでしょうか。仲麻呂はすでに位階を上り詰めております。何を欲するところがあるのでしょう。それに仲麻呂は淳仁様と孝謙様以外頼るところがありませんから謀反を起こしてどうなるとも思われません」
「起こすさ。欲するものがあるからね。それに私はたくさんの噂を撒いた」
「噂、でしょうか」
「ああ。こういうのは離間の計画と言うのだよ。昔からよく使われる手だ。現在孝謙様と仲麻呂の間は連絡の取りようがない。そのようにした。だから疑心暗鬼になるのだ」
「疑心暗鬼」
「孝謙様は思い込みが強く御気性が荒い。だから想像してしまうのさ。自らの行く末を。先年仲麻呂が道鏡を忌避するよう孝謙様を諌めたのも少しの告げ口によるものだ。道鏡が天皇になれば仲麻呂は天皇になれないからね」
「そのようなことがあるはずがない。そうではありませんか」
道鏡が天皇? 仲麻呂が天皇?
父は百川様の言葉の意味を理解しかねた。皇族の両親を持たなければ天皇にはなれない。
俺はそれが過去に過ぎ去った今だからこそわかるのだ。孝謙様が道鏡を天皇になされようとし、仲麻呂が皇帝になろうとしていたということを。けれども今の代、同じようなことが起こっても俺は信じられないに違いない。
「ああ。あるはずがないのだよ。誰もそのようなことを認めるわけがないのだ。けれども為せると思いこんでしまった当人はそうとは思わない。おかしなことだね」
「思い込む?」
「そう。仲麻呂には後ろ盾となれるほど力を持った味方などいない。傀儡のはずの淳仁様もすでに孝謙様のご指示通りにしか動かない。そして上ばかり見ているから下のことなど見ないのだ。手足のように動けば動くほどその存在は意識から外れていく。丁度仲麻呂のところに大津大浦という陰陽師を潜ませている。だからその動きは手にとるようにわかる。そして仲麻呂は御璽を持っている」
御璽。
それは一定の国務を任されている決済印だ。おおよそ裁量の範囲のことであれば変更が行える。
孝謙様と仲麻呂を繋いでいた叔母の光明子様が没した時、すでに孝謙様のお考えと仲麻呂のお考えはずれてしまっていたのだ。せっかく淳仁様を用意したのに、孝謙様と仲麻呂との間は自然と疎遠となり、道鏡の力が増していくのを感じたことだろう。それと引き換えに仲麻呂は自らの影響力がじわりじわりと削がれてを感じたのだろう。
おそらく仲麻呂の頭にあったのは広嗣様のことだ。
仲麻呂が権勢を登るのと引き換えのように、広嗣様、そして式家が没したのは仲麻呂の脳裏に深く刻み込まれたはずだ。そして政権の常として、身の危険を感じた。
仲麻呂は都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使という職を作り就任し、各地から20名を集めて練兵を始めた。それはいざとなったとき自宅を守り、逃げるための数だろう。
「蔵下麻呂。間も無くだ。私たちは全てを整えた。全てを絵に書いて、可能であると判断したから始めるのだ。これは家族だけの秘密だよ。すでに白壁王様は私の意のままだ。山部王様は同志だ。とても強い魂をお持ちだ。そして大変優秀であられる。ご自身の立場を私が何を言うまでもなく完全に理解されておられる。そして山部王様には清成兄様の子種継殿が付いている」
お立場、と言われても、その時の父上には山部王が誰かすら認識はなかった。無位無官のただの官吏だ。なのに何故式家の皆で見守るのだろうか、と。
「私は貴族の間に、山部王様は官吏の間にすでに種を巻き終えた。高丘比良麻呂殿という方がいる。山部王殿と同じ大学寮で働かれている百済の渡来氏族だ。山部王様の御母上の縁の方だ。そして正月に大外記となった」
「大外記? 大外記といえば少納言の部下でしょう? 私のまわりにもおります。内務や調査、奏上文の下書きを行う役職です。何ができるとも思われません」
「そう。謀というのはコツコツ地道に積み上げるものだ。だから本当に信頼している者にだけ、惑わされないように真実を告げるのだよ。私たち家族と山部王様と、それから少数の私の信頼するものだけが真実を知っていれば良い」
百川様はうっすらと微笑み、これから訪れる真実を告げる。その姿は父の記憶の中にある八歳と七歳であった折の、たった二人で夜を超えた時と同じ怒りの満ちた笑みだった。そしてその口は本来なら人の身で知りうるはずのない、信じがたい未来を紡ぎ出す。
「蔵下麻呂、比良麻呂から上がる上奏文はそのまま上に上げておくれ。それから兵はきちんと鍛えてあるね? 仲麻呂は必ず、そして間も無く謀反を起こすことになる。宿奈麻呂兄様には詔勅が降りる。蔵下磨呂には別働隊としてすぐに動けるよう兵を待機させておくれ」
「|麻呂兄様は名も冠位も剥奪されておりますが」
「けれどもそうなるのさ。邪魔な大友家持や佐伯今蝦夷といった武人は西方遠くに飛ばした。そして仲麻呂は子の辛加知が国司をしている越前に逃げる。だから動けるのは官軍と式家のお前だけだ。協力して仲麻呂を打つのだ。頼んだよ蔵下麻呂」
そう述べて、百川様は父をふわりと抱擁した。
「私が真実、頼れるのはお前と兄様たちだけだ」
そうしてまもなく、比良麻呂から仲麻呂が20人であった兵を600人に無断で増員し、謀反の兆しがあるとの上奏がなされた。大津大浦からも謀反の密告があった。これで客観事実が整えられ、内部情報まで揃ったわけだ。
けれども仲麻呂が役職を受けたのが9月2日。そして謀反が確定したのが11日だ。その意味は推してしれよう。真実が真に事実であるかどうかなど、関係がないことは式家の者は身に染みていた。
もともと10国で200人。そんな人数では警護にもならない。6000人となれば話は違うかもしれないが、いずれ徴用したての新兵だ。それに文官の仲麻呂に指揮などできるはずがない。
挙兵する前に御璽は孝謙様に奪われ、仲麻呂は百川様が言われた通り越前方面に逃げた。宿奈麻呂様は官軍に加わり奮迅なされた。
そして仲麻呂が近江の高嶋三尾崎でのこと、父上は西に琵琶の海を眺める小高い山の上から長時間に及ぶ官軍と仲麻呂との戦闘を眺めおろしていた。干戈の声は昼過ぎから響き渡り、官軍賊軍問わず多くのものが倒れ屍と化し、今は僅かな声が聞こえるだけだ。
夕闇は迫り、すでに官軍は疲弊し尽くしていた。
「蔵下麻呂様! 雄田麻呂様! 宿奈麻呂様から連絡がまいりました!」
「蔵下麻呂。今です」
「本当に雄田麻呂兄様のおっしゃる通りになりました」
「ええ。勿論。ご武運を」
父上はその山上から仲麻呂軍に向けて一気呵成に下り降りたという。
突如、西日を背に受けて躍り現れた真っ黒な軍勢は瞬く間に仲麻呂軍を圧倒駆逐し、それに勢いをつけた官軍が仲磨呂を討ち果たしたのだ。それは本当にあっという間のことだった。
その報いとして、父上は従三位に叙勲され、近衛大将に任ぜられた。それを祝って式家の父上の家で祝宴が開かれた。
「蔵下麻呂。よくやりました。さすがです」
「兄様方、ありがとうございます。けれども兄様方を差し置いて私がこのような高位を頂いてよいのでしょうか」
「よいのだ蔵下磨呂。俺も無冠のところからいきなり従四位だしな」
「宿奈磨呂兄様はもとより何も咎がないでしょう。私はただ、雄田磨呂兄様のご指示の通りにしたままでです」
「いいえ。蔵下磨呂。この式家であれば誰が益を得てもかまわないのです。これからも助け合っていくのですから」
「けれどもこれで誰にも後ろ指を指されることはなくなりました。孝謙様の覚えもめでたい。式家の悲願は達成されました」
そこでぴゅうと冷たい風が吹き、その風を目で負うと不思議そうな顔をした百川様に行き着いた。その瞳はやはり、今ではなくさらにその先を見据えるようで、その瞳に目の前の蔵下麻呂を映していなかった。
「何を言っているのですか?」
「何を……」
「今、力は孝謙様のもとにあります。けれども孝謙様には後継がおられない。今後はわかりません。だからこれからなのですよ」
「これから?」
「そうです。わたくしたちは式家を盤石にしなければなりません。蔵下磨呂、あなたの子の縄主は未だ4歳。子らのためにも式家を守らねば」
「けれどもどのように」
「山部王様に天皇となられて頂きます」
また、山部王。父にとってどこの誰だかわからぬ者。
百川様と一緒にこの図絵を描いた者。
それは父にとって、それは道鏡や仲麻呂が天皇となる、という話と同じほど現実味がなく感じられたそうだ。
「わたくしと宿奈磨呂兄様は娘を山部王様に嫁がせることにしました。これで山部王様も式家の友となります。そして今根を張らせている良継はそのまま山部王様の側近とします」
「え……」
「大丈夫です。式家を盤石とする案はすでに私の腹中にあります。新しく都を作り、全ての敵を廃して成し遂げます。ですから安心してください」
そしてその後、全ては百川様の思惑通り動き、山部王様が桓武天皇として即位されたのだ。
けれども一つだけ、百川様には見通せなかったことがあった。
それはご自身の寿命だ。山部様の即位を見ることもなく、卒去されたのだ。
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