色は変わらず花は咲きけり〜平城太上天皇の変

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2章 藤原縄主とその妻

 side 薬子 2人の娘の婚姻

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「薬子や、安殿親王にお会いしたいか」

 ある日、そんなことを問われた。わたくしは何を聞かれたかわからなかったし、縄主様の問に答えることはできなかった。だってどう答えても、もうどうしようもないことだから。

「私は参議となることが内定している。そなたの後ろ盾になれるのだ」
「後ろ盾、でしょうか」
「そうだ、安殿親王の東宮妃皇太子妃であられた藤原帯子様が近頃薨去なされた。だからそこに、お前との間に生まれた娘を東宮妃として推すことができる。その後ろ盾となる力を得た」

 わたくしの、娘?
 わたくしの娘が安殿様の妃に?
 何を言っているのかよくわからなかった。わたくしに娘なんていたかしら。それに、ええと、わたくしの娘?

「お前はちゃんと役目を果たしてくれただろう? 私の子を5人も生んでくれた。けれども娘はまだ小さい、ようやく裳着の儀を迎えるころだ。宮中のしきたりや貴族としての暮らしなど何もわからないだろう。娘が一人で参内したとして、うまく生活することは難しいとは思わないか」
「はぁ」

 お世話は役目の女官がするのではないのかしら。この話は一体何に繋がっているのだろう。
 そのわたくしの娘という人が宮中にあがるということなのだろうか。ああ、もしそれがわたくしであれば。せめて一言、快癒のお祝いを申し上げることができれば、わたくしは最早それだけで。
 娘という人にお手紙を差し入れていただくわけにはいくまいか。

「だからお前が娘の後見として一緒に後宮に上がってはどうかな」
「後見?」
「そう、後見だ。娘の世話をやいてほしい」
「私が?」
「そう、ひと目でも安殿親王にお目にかかりたいのなら」

 安殿様にお目にかかる?
 縄主様は何をいっているのかしら。
 おそらくわたくしはぽかんとしていたのだろう。お返事すらできなかった。
 だって、わたくしと安殿様はもはや世界がはっきり隔たって、お手紙1つ差し上げることなどできなかったのに。
 なのにわたくしが、宮中へ?
 そして安殿様に、お目に?

「話を勧めてもいいね?」

 優しく尋ねるその問いに頷いたのかどうかはわからない。けれども、手続きは進んでいて、まるで何者かに手を惹かれて夢の中を歩くようにその日が来た。
 その先では陽の光が燦然と輝いていた。わたくしは十二年ぶりに、昏きところからまろびい出て尊き光に照らされた。

 わたくしは娘と参内した。ともに歩む娘を見る。
 まだ小さい娘。これはわたくしの娘なのだろうか。
 そういえば仲成兄様によく似ている気の強そうな眉と縄主様に似ているような優しげな口元。
 縄主様と過ごしていた十数年間は霧の中にいたように思えてはっきりしない。おそらくわたくしの心はお父様が亡くなられた10歳の時で止まってしまっていたのかもしれない。
 10歳、裳着の儀を迎える前だ。この子、わたくしの娘というこの子はもう裳着の儀を終えたのだろうか、いえ、そうね。きちんとお化粧をしているもの。

「お母様、どうしてそのような不思議なお顔をなされているのですか」
「あの、ごめんなさい」

 言われてみるとわたくしに似た顔の娘が幼さの残る高い声でそのように問いかけた。
 霧の中の記憶を探っても、わたくしはこの娘と話した記憶がない。
 とても不思議な心持ちだ。

 美しく着飾った式の後、桓武様より縄主様に様々な祝物が御下賜された。
 随分と久しぶり、幼少ぶりにお目見えした桓武様は随分お歳を召されてはいたものの、その鷹のような目は鋭く当たりを見渡し、一瞬わたくしを見て複雑な表情をなされた。けれども、何もおっしゃられはしなかった。

 そしてそれは慌ただしい婚礼を終えたその夜、わたくしが女官として与えられた室で安殿様にお手紙をしたためようと筆をとった。最初にどのように書き始めようか、文というものはその最初が大切だ。そう頭をひねっていた時だった。静な室内にカタリと何かの音がした。
 宮中にはもののけが住まうと聞く。だから思わず震える腕で守り刀を握りしめた。
 けれどもその次に聞こえたのは懐かしい声。

「薬子、いるのか薬子」
「あの……まさか」
「薬子なのだな」

 記憶より少し太い声。すらりと現れたのは記憶よりも随分成長成されたそのお姿。けれども大昔にお会いした時も安殿さまはわたくしより少し背が高くあらせられた。今も。
 そうしてふわりと抱きしめられ、わたくしの額にぽたぽたと粒がおちた。梅の薫りのような爽やかな薫りがした。わたくしに春が戻ってきた。

「薬子、薬子。お会いしたかった」
「安殿さま、わたくしもです。けれどもどうして」
「私は長い間、病に臥せっていたのだ。何が何やらよくわからぬ朦朧とした世界の中で、熱にうかされながら思い出したのはそなたのことだけであった。そうして、ふと気がつけば、既に何もなかったのだ。そなたが縄主という男のところに嫁いだと聞き、まさかと思った」

 ぎりりと歯が軋む音がして、わたくしを包む両腕のちからが増した。自然と体は密着し、安殿さまから香ばしい鬢付け油の薫りがただよう。動揺する。小さいころですらこれほど近くでお会いしたことなどなかったのだ。

 そして安殿さまはわたくしを見つめた。
 そしてわたくしに笑いかけた。
 そのかけがえのない瞳はわたくしが最後にみたあの幼き頃から何ら変わらなかった。いえ、少しその瞳は記憶より昏みに沈み、やつれてはおられた。長い間祟りに倒れられていたと聞いたからそのせいかもしれない。
 けれど、安殿さまのお心は小さいころと変わりがないように思われた。祟りが安殿さまのお時間を止められてしまっていたのかもしれない。それはわたくしの時間をも。
 再び巡り会えたから、わたくしの心の底で汚れ濁った醜い雪の塊がするりと溶け失せ、再び輝かしい春が輝き始めたのかもしれない。もはやわたくしには安殿さま以外見えなかった、何も。
 そして安殿さまは改めて、かつてと同じようにわたくしの手をとって、それから。

 小さなころから望んでいたこと。
 安殿さま。お慕い申しております。
 誰にいうこともできないけれど、誰に見られることもできないけれど。
 このまま時間が止まってしまえばいいのに、そう思う。
 白檀の香の不思議な香りが夢とも現ともつかぬ世界を運んでいた。
 そうして夜があければ、何事もないような1日が始まる。

 わたくしの宮中での新しい暮らしが始まった。
 わたくしは娘に付いている。娘は既に成人しているが幼い。だから女官として娘の身の回りの世話をする。つまりわたくしは娘付の女官なのだ。
 後宮の中なんて初めてでよくわからなかったけれど、その暮らしはとても新鮮だった。これまでは実家でも縄主様の家でもずっと部屋にこもっていたから。だから後宮内を歩き回り、いろいろなことを習いながら様々なお仕事をする。その生活がとても新鮮だった。
 わたくしは喜びに満ちた生活をしていた。
 これまでの生活はなんだったのだろうというほど。安殿さまにお手紙を描くどころか、お会いすることができたのだ。
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