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2章 藤原縄主とその妻
side 薬子 その婚儀と時間の経過
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「薬子、あなたの結婚のお相手が決まったわよ」
「……結婚相手?」
わたくしは僅かな期待を込めてお母様を見上げたけれど、その表情で全てがわかってしまったのだ。わたくしのお相手が安殿様ではないということが。
安殿様は太子として宮中にお住まいになられている。わたくしは宮中から離れて他の方に嫁ぐのだ。どんどん距離が遠くなる。
わたくしのお相手。それはどなただろう。
けれども安殿様でなければもう、どなただっていい。
なんだかひどく気が抜けて、なんだかひどくどうでもよくなり、まるで鞠が傷んでひしゃげるような、そのような気持ちになっていた。
兄様とお母様は始終申し訳無さそうなお顔をされていた。わたくしに一番よい方を選んだとおっしゃっていた。一番よい方。
そもそも貴族の結婚というものは親が決めるもの。だから親が決めたのであれば嫌やもなにもない。貴族の娘は家の外に出ることなどないのだから出会いの機会なんてない。父母が年頃の娘がいることを噂で流して、通いたいと思う者が父母に伺いをたてた上で通うのだ。
わたくしのお相手は夜、わたくしの室に忍んでこられた。3日連続。
3日連続で通うということは、そのただぬし様はわたくしとの結婚に異存存はないのだろう。わたくしは、安殿様でなければ、とりたててどうということもない。安殿様でなければどなたも存じ上げない殿方。
そういえばわたくしが自らお会いしたいと望んで会えたのは安殿様だけだったのだ。安殿様以外の男性はお父様のお客として時折家に見えることはあったけれどもお話することもなくて。だから、ただぬし様は家族と安殿様以外に初めて2人でお会いした男性だった。
「薬子、嫌ならお断りするかい? それはそれでいいんだよ」
「縄主様は良い方だとは思うのだけれども、貴方が嫌であればきちんとお断りしますから」
兄様とお母様は優しくそう言う。
世の中はいつのまにか春めいているみたい。ふわふわとした薫りが漂っている。
わたくしはいいも悪いもなかった。断ったとしても、おそらく別の男性がわたくしの部屋に忍んでくるのだろう。そういうものなのだ。貴族の暮らしというのは。兄様はその伝手をたよって選べるなかで最良の殿方をお選び頂いたのだろう。きっと。
だからこのただぬし様が一番よいの。
「はい。わかりました。ただぬし様とはどのような方でしょう」
「薬子……昨夜しのんでこられた方よ」
昨夜。そういえばそうだったような。
なんだかぼんやりとしている。ぼんやりとして、でも、確かにどなたかいらっしゃった。けれども誰でも、同じでしょう? 安殿様ではないのだから。
「そうですね。ではわたくしはただぬし様と結婚致します」
そう口にした瞬間、なんだか取り返しのつかないことを言ってしまった気がした。そこでバサリと世界が途切れた。そう思った。
わたくしの中で大切に保管していた安殿様を思う淡雪のような懐かしい気持ちはすっかり行き場を失ってわたくしの中のどろどろとした何だかよくわからないものと一緒くたに絡まり合い、冬の早朝にカチコチなって庭の隅でゴミと一緒に汚くまとめられている雪のように酷く異なるもののように思われて。
気がついたら、わたくしは藤原縄主様と祝言をあげていた。
縄主様。縄主様はとても優しい方だった。
わたくしが嫌ということは何もされなかったように思う。嫌な思い出などもなかったから。縄主様はわたくしより十七歳年上でいらしたけれど、いろいろなお話をしたようにも思う。それはちっとも思い出せないけれど。だからきっと、とてもよい方なのだ。仲成兄様とお母様がおっしゃっていたように。
そして、お努めの中で、五人の子ができた。どのような心持ちでも、体を重ねれば子はできる。縄主様との間の子にはいまいち愛着はわかず、その世話は全て乳母にまかせた。
それでも縄主様は相変わらずお優しかった。
縄主様はもとよりわたくしが安殿様をお慕いしていることをご存知で、それでも何もおっしゃられなかった。それはもうどうしようもないことで、わたくしが言ってもしようがないことで。この汚れた氷のようにわたくしの心にこびりついたなんだかよくわからないもの。
いっそ一言忘れろ、とおっしゃっていただければ何か違ったのかもしれないけれど。縄主様はお優しく、ただわたくしと一緒にいてくださった。
そのうち、だんだんと縄主様の位階は上がっていった。
桓武様にお近づきになり、安殿様が祟り病から回復されたというお話を伺ったそうだ。
よかった、と思うと自然に涙が出た。
なぜだろう。もう随分お会いしていない。もう10年ほどになるだろうか。それでも心の奥底に、わたくしの真ん中に横たわる記憶は幸福な記憶。お父様と仲成兄様、それから安殿様の記憶。わたくしの記憶の中にいらっしゃる安殿様と今の安殿様はお姿も随分かわっているだろうに。
けれども今はすべてが失われてしまった。わたくしの周りには、既になにも。
わたくしの暮らしからはわたくしの幸福の全てが失われてしまった。
でも、安殿様はこの世界のどこかにはいらっしゃる。わたくしがお会いできない尊き場所に。
悲しい。お会いできないことが。
古い傷がちくちくと痛む。
そのようなわたくしの姿を縄主様は見守っていらっしゃったのだろう。
「……結婚相手?」
わたくしは僅かな期待を込めてお母様を見上げたけれど、その表情で全てがわかってしまったのだ。わたくしのお相手が安殿様ではないということが。
安殿様は太子として宮中にお住まいになられている。わたくしは宮中から離れて他の方に嫁ぐのだ。どんどん距離が遠くなる。
わたくしのお相手。それはどなただろう。
けれども安殿様でなければもう、どなただっていい。
なんだかひどく気が抜けて、なんだかひどくどうでもよくなり、まるで鞠が傷んでひしゃげるような、そのような気持ちになっていた。
兄様とお母様は始終申し訳無さそうなお顔をされていた。わたくしに一番よい方を選んだとおっしゃっていた。一番よい方。
そもそも貴族の結婚というものは親が決めるもの。だから親が決めたのであれば嫌やもなにもない。貴族の娘は家の外に出ることなどないのだから出会いの機会なんてない。父母が年頃の娘がいることを噂で流して、通いたいと思う者が父母に伺いをたてた上で通うのだ。
わたくしのお相手は夜、わたくしの室に忍んでこられた。3日連続。
3日連続で通うということは、そのただぬし様はわたくしとの結婚に異存存はないのだろう。わたくしは、安殿様でなければ、とりたててどうということもない。安殿様でなければどなたも存じ上げない殿方。
そういえばわたくしが自らお会いしたいと望んで会えたのは安殿様だけだったのだ。安殿様以外の男性はお父様のお客として時折家に見えることはあったけれどもお話することもなくて。だから、ただぬし様は家族と安殿様以外に初めて2人でお会いした男性だった。
「薬子、嫌ならお断りするかい? それはそれでいいんだよ」
「縄主様は良い方だとは思うのだけれども、貴方が嫌であればきちんとお断りしますから」
兄様とお母様は優しくそう言う。
世の中はいつのまにか春めいているみたい。ふわふわとした薫りが漂っている。
わたくしはいいも悪いもなかった。断ったとしても、おそらく別の男性がわたくしの部屋に忍んでくるのだろう。そういうものなのだ。貴族の暮らしというのは。兄様はその伝手をたよって選べるなかで最良の殿方をお選び頂いたのだろう。きっと。
だからこのただぬし様が一番よいの。
「はい。わかりました。ただぬし様とはどのような方でしょう」
「薬子……昨夜しのんでこられた方よ」
昨夜。そういえばそうだったような。
なんだかぼんやりとしている。ぼんやりとして、でも、確かにどなたかいらっしゃった。けれども誰でも、同じでしょう? 安殿様ではないのだから。
「そうですね。ではわたくしはただぬし様と結婚致します」
そう口にした瞬間、なんだか取り返しのつかないことを言ってしまった気がした。そこでバサリと世界が途切れた。そう思った。
わたくしの中で大切に保管していた安殿様を思う淡雪のような懐かしい気持ちはすっかり行き場を失ってわたくしの中のどろどろとした何だかよくわからないものと一緒くたに絡まり合い、冬の早朝にカチコチなって庭の隅でゴミと一緒に汚くまとめられている雪のように酷く異なるもののように思われて。
気がついたら、わたくしは藤原縄主様と祝言をあげていた。
縄主様。縄主様はとても優しい方だった。
わたくしが嫌ということは何もされなかったように思う。嫌な思い出などもなかったから。縄主様はわたくしより十七歳年上でいらしたけれど、いろいろなお話をしたようにも思う。それはちっとも思い出せないけれど。だからきっと、とてもよい方なのだ。仲成兄様とお母様がおっしゃっていたように。
そして、お努めの中で、五人の子ができた。どのような心持ちでも、体を重ねれば子はできる。縄主様との間の子にはいまいち愛着はわかず、その世話は全て乳母にまかせた。
それでも縄主様は相変わらずお優しかった。
縄主様はもとよりわたくしが安殿様をお慕いしていることをご存知で、それでも何もおっしゃられなかった。それはもうどうしようもないことで、わたくしが言ってもしようがないことで。この汚れた氷のようにわたくしの心にこびりついたなんだかよくわからないもの。
いっそ一言忘れろ、とおっしゃっていただければ何か違ったのかもしれないけれど。縄主様はお優しく、ただわたくしと一緒にいてくださった。
そのうち、だんだんと縄主様の位階は上がっていった。
桓武様にお近づきになり、安殿様が祟り病から回復されたというお話を伺ったそうだ。
よかった、と思うと自然に涙が出た。
なぜだろう。もう随分お会いしていない。もう10年ほどになるだろうか。それでも心の奥底に、わたくしの真ん中に横たわる記憶は幸福な記憶。お父様と仲成兄様、それから安殿様の記憶。わたくしの記憶の中にいらっしゃる安殿様と今の安殿様はお姿も随分かわっているだろうに。
けれども今はすべてが失われてしまった。わたくしの周りには、既になにも。
わたくしの暮らしからはわたくしの幸福の全てが失われてしまった。
でも、安殿様はこの世界のどこかにはいらっしゃる。わたくしがお会いできない尊き場所に。
悲しい。お会いできないことが。
古い傷がちくちくと痛む。
そのようなわたくしの姿を縄主様は見守っていらっしゃったのだろう。
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