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2章 藤原縄主とその妻
side 薬子 ある春の喪失
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わたくしが10歳の時で仲成兄様が12歳の時。
異国の暦で申せば785年のこと。
お父様が亡くなられた。
それは本当に突然のこと。
その報を聞いた時、お庭にさらさらと舞い降りていた色とりどりの美しい紅葉や銀杏の葉っぱの色は全て失われてしまったの。
どうして? 誰が?
なぜお父様が殺されてしまったの?
だって今朝、ご挨拶差し上げたわ。それにお守りだって。
「お父様!」
「これ薬子、大きな声を出してはいけないよ」
「申し訳ありません、お父様。あの、こちらをお持ちください」
「うん? 蘇民将来か。薬子が書いたのかい? 字も随分上手くなってきたね」
蘇民将来。
少し前に習ったお話。
あるところに裕福な弟巨旦将来と貧しい兄蘇民将来の将来の兄弟がいた。
ある時、須佐之男命が一夜の宿を借りようと裕福な巨旦を訪ねたが断られ、貧しい蘇民は喜んで迎え入れ、粟飯を御馳走になった。
須佐之男命は礼を述べ、「蘇民将来之子孫」と書いた茅の輪を腰に下げれば厄病を免れると伝えた。そのうち疫病が流行り、茅の輪を下げた蘇民将来の娘だけは助かったという。
だからわたくしは木片に蘇民将来と書き付けて茅の輪に通したのだ。
「たくさん練習しているもの」
「ああ、たくさん練習して良い殿方に娶って頂かなくてはな」
「もう、お父様。ええと、これをつけていらっしゃればきっとお元気になられます」
「おいおい薬子、俺は別に病気なわけじゃない。ちょっと仕事が忙しいのだよ。ひと段落ついたらまたみなで花でも見ようね」
「お戻りをお待ちしております」
お父様はそう言ってお外にいかれた。
連日のお仕事でとてもお疲れに見えたけれど、きっとお守りが守ってくれると思って。
お父様はとても優しくて、いつもにこにこされていて、たまにちょっとだけ怖いけれども、でも。
そうして昨日の本当に夜遅く、とても慌ただしくたくさんの人が出入りする音が聞こえた。何事だろうと思って恐る恐る身を起こし、そうすると誰かがお母様を呼びに来る声が聞こえた。
お母様は私に寝て待っていなさいとおっしゃられたけれど、夜に聞こえる鳥の声はとても不吉で、そのうち読経の音声がまじり、わたくしほまんじりともできないまま夜を迎えた。
「泣くな、俺がなんとかする」
涙にくれるお母様と私を抱いて仲成兄様が言う。その口調は気丈だけれど、肩に触れる手は震えていた。
お父様は弑されたと伺った。
一体誰が。
病であれば須佐之男命に守っていただけたのかもしれないけれど。
わたしたちの誰もにとって、お父様の死はあまりにも突然だったのだ。
お父様の死を耳にした日は一日涙に暮れた。それからしばらく記憶がない。いつのまにやら日は過ぎてしまい、いつのまにやら庭木からはすっかり葉が落ちて、あら、紅葉はどこへ行ったのかしら、とつぶやくと息が白く煙り手がかじかんでいることに気がついた。
冷たい風が吹くようになった。
それはどこに吹いていたのだろう。お庭? それともわたくしの心?
時折雲間から透明な光が差し込んでも、わたくしの心は真っ黒のままだった。いえ、より黒く染まってしまって区別がつかない。
お父様が亡くなったという、その意味がじわじわと心の中に滲み出てきたのだ。まるで清い水で筆で洗うように、じわりと私の世界を黒く塗りつぶしていき、そのうち阿鼻地獄の中にあるという黒闇地獄のようにすっかり何もかもが見えなくなっていた。
お父様の、正三位中納言藤原種継の後ろ盾がない、それの意味すること。
父様のかわりに仲成兄様が当主となり、12歳という若年ながら従五位の位階に叙された。衛門佐に任じられた。都を守るお役目。けれども12歳の身にとっては名目的なお役目で、実績もなく貴族としての最低限の位階。お兄様は後ろ盾にもなりはしないのだ。
わたくしはなんとなく、なんとなくだけれども、お父様が亡くなるまでは畏れ多くも安殿と婚儀をあげるのではないかと思っていた。もちろん安殿様は皇族であられる。だから多くのお妃を娶られるだろう。ご正室には皇族のお姫様がなられるのだ。
けれどもお父様と桓武様はとても親しくされていて、だからわたくしは夫人として安殿様と結ばれるのではないかと思っていた。わたくしは今10歳で、もうすぐ裳着の儀を迎える年頃だったから。
けれども、けれども安殿様は早良様の代わりに太子となられてしまった。皇太子となられた以上、次期の天皇。臣下でもより力のあるものでなければその妻としては迎えられない。そもそも妃には四品以上の内親王が選ばれる。夫人になるには三位以上の貴族の娘であることが必要。嬪になるのに五位。
けれどもわたくしを推してくれる後ろ盾などないのだ。絶望的だ。もう無理だ、無理なのだ。
そんな気持ちがぐるぐるぐるぐると、御簾越しに眺めるお池の内でぱくぱくと口を開けている鯉のような、諦めとともに虚無感というものが去来して、なんだかよくわからない無為な気持ちが、ぐるぐるぐるぐると、わたくしの頭の中と世界を駆け巡っていた。
そして先日、安殿様が藤原百川様の娘、藤原帯子様を皇太子妃としてお迎えになられたと伺った。わたくしとは関係ないところでいつのまにか時間は過ぎ去っていった。
目の前はますます暗くなり、これはもう駄目なのだ、お父様を殺した黒い何者かがわたくしと安殿様の間をすっぱりと断ち割ってしまったのだ、そう感じた。
住んでいる世界がもう、全く異なる。
そして更に悪いことが起こった。
桓武様が早良様の祟りを恐れてお父様の記録を全て正史から削除されてしまったのだ。お父様の功績も何もかも。
削除。
そもそも削除というものは謀反とか、悪しきことをされた方への処罰では?
桓武様はお父様の御親友でいらしたのではなかったの?
けれどもお父様の功績の最たるものは長岡の都の造営。そのことを書いてしまえばことの顛末、長岡京で暗殺されたことも書かなくてはならない。それを紐解いていくと暗殺したとされる者、早良様に突き当たってしまう。早良様のお名前が残るとその言霊の力でいつまでも早良様の祟りが消えない。だから、お父様の記録ごと、早良様の祟りを正史からきれいさっぱり消されてしまったのだ。
だからお父様ご自身がそもそもわたくしの後ろ盾にはならない。どれほど桓武様がお父様と親しくされていたと訴えても、それは何らの記録にあるものではない。
だから、だから。
わたくしは。
わたくしはもう、安殿様と結婚するどころか、安殿様にお手紙を差し上げることすら、できない。安殿様が病に倒れられたと伺ってもお見舞いのお手紙一つ、差し上げることはできないんだ。
7歳までの奇跡のように光り輝いていた幸福な時間はもう過ぎてしまって、もどらないのだから。
あぁ。
異国の暦で申せば785年のこと。
お父様が亡くなられた。
それは本当に突然のこと。
その報を聞いた時、お庭にさらさらと舞い降りていた色とりどりの美しい紅葉や銀杏の葉っぱの色は全て失われてしまったの。
どうして? 誰が?
なぜお父様が殺されてしまったの?
だって今朝、ご挨拶差し上げたわ。それにお守りだって。
「お父様!」
「これ薬子、大きな声を出してはいけないよ」
「申し訳ありません、お父様。あの、こちらをお持ちください」
「うん? 蘇民将来か。薬子が書いたのかい? 字も随分上手くなってきたね」
蘇民将来。
少し前に習ったお話。
あるところに裕福な弟巨旦将来と貧しい兄蘇民将来の将来の兄弟がいた。
ある時、須佐之男命が一夜の宿を借りようと裕福な巨旦を訪ねたが断られ、貧しい蘇民は喜んで迎え入れ、粟飯を御馳走になった。
須佐之男命は礼を述べ、「蘇民将来之子孫」と書いた茅の輪を腰に下げれば厄病を免れると伝えた。そのうち疫病が流行り、茅の輪を下げた蘇民将来の娘だけは助かったという。
だからわたくしは木片に蘇民将来と書き付けて茅の輪に通したのだ。
「たくさん練習しているもの」
「ああ、たくさん練習して良い殿方に娶って頂かなくてはな」
「もう、お父様。ええと、これをつけていらっしゃればきっとお元気になられます」
「おいおい薬子、俺は別に病気なわけじゃない。ちょっと仕事が忙しいのだよ。ひと段落ついたらまたみなで花でも見ようね」
「お戻りをお待ちしております」
お父様はそう言ってお外にいかれた。
連日のお仕事でとてもお疲れに見えたけれど、きっとお守りが守ってくれると思って。
お父様はとても優しくて、いつもにこにこされていて、たまにちょっとだけ怖いけれども、でも。
そうして昨日の本当に夜遅く、とても慌ただしくたくさんの人が出入りする音が聞こえた。何事だろうと思って恐る恐る身を起こし、そうすると誰かがお母様を呼びに来る声が聞こえた。
お母様は私に寝て待っていなさいとおっしゃられたけれど、夜に聞こえる鳥の声はとても不吉で、そのうち読経の音声がまじり、わたくしほまんじりともできないまま夜を迎えた。
「泣くな、俺がなんとかする」
涙にくれるお母様と私を抱いて仲成兄様が言う。その口調は気丈だけれど、肩に触れる手は震えていた。
お父様は弑されたと伺った。
一体誰が。
病であれば須佐之男命に守っていただけたのかもしれないけれど。
わたしたちの誰もにとって、お父様の死はあまりにも突然だったのだ。
お父様の死を耳にした日は一日涙に暮れた。それからしばらく記憶がない。いつのまにやら日は過ぎてしまい、いつのまにやら庭木からはすっかり葉が落ちて、あら、紅葉はどこへ行ったのかしら、とつぶやくと息が白く煙り手がかじかんでいることに気がついた。
冷たい風が吹くようになった。
それはどこに吹いていたのだろう。お庭? それともわたくしの心?
時折雲間から透明な光が差し込んでも、わたくしの心は真っ黒のままだった。いえ、より黒く染まってしまって区別がつかない。
お父様が亡くなったという、その意味がじわじわと心の中に滲み出てきたのだ。まるで清い水で筆で洗うように、じわりと私の世界を黒く塗りつぶしていき、そのうち阿鼻地獄の中にあるという黒闇地獄のようにすっかり何もかもが見えなくなっていた。
お父様の、正三位中納言藤原種継の後ろ盾がない、それの意味すること。
父様のかわりに仲成兄様が当主となり、12歳という若年ながら従五位の位階に叙された。衛門佐に任じられた。都を守るお役目。けれども12歳の身にとっては名目的なお役目で、実績もなく貴族としての最低限の位階。お兄様は後ろ盾にもなりはしないのだ。
わたくしはなんとなく、なんとなくだけれども、お父様が亡くなるまでは畏れ多くも安殿と婚儀をあげるのではないかと思っていた。もちろん安殿様は皇族であられる。だから多くのお妃を娶られるだろう。ご正室には皇族のお姫様がなられるのだ。
けれどもお父様と桓武様はとても親しくされていて、だからわたくしは夫人として安殿様と結ばれるのではないかと思っていた。わたくしは今10歳で、もうすぐ裳着の儀を迎える年頃だったから。
けれども、けれども安殿様は早良様の代わりに太子となられてしまった。皇太子となられた以上、次期の天皇。臣下でもより力のあるものでなければその妻としては迎えられない。そもそも妃には四品以上の内親王が選ばれる。夫人になるには三位以上の貴族の娘であることが必要。嬪になるのに五位。
けれどもわたくしを推してくれる後ろ盾などないのだ。絶望的だ。もう無理だ、無理なのだ。
そんな気持ちがぐるぐるぐるぐると、御簾越しに眺めるお池の内でぱくぱくと口を開けている鯉のような、諦めとともに虚無感というものが去来して、なんだかよくわからない無為な気持ちが、ぐるぐるぐるぐると、わたくしの頭の中と世界を駆け巡っていた。
そして先日、安殿様が藤原百川様の娘、藤原帯子様を皇太子妃としてお迎えになられたと伺った。わたくしとは関係ないところでいつのまにか時間は過ぎ去っていった。
目の前はますます暗くなり、これはもう駄目なのだ、お父様を殺した黒い何者かがわたくしと安殿様の間をすっぱりと断ち割ってしまったのだ、そう感じた。
住んでいる世界がもう、全く異なる。
そして更に悪いことが起こった。
桓武様が早良様の祟りを恐れてお父様の記録を全て正史から削除されてしまったのだ。お父様の功績も何もかも。
削除。
そもそも削除というものは謀反とか、悪しきことをされた方への処罰では?
桓武様はお父様の御親友でいらしたのではなかったの?
けれどもお父様の功績の最たるものは長岡の都の造営。そのことを書いてしまえばことの顛末、長岡京で暗殺されたことも書かなくてはならない。それを紐解いていくと暗殺したとされる者、早良様に突き当たってしまう。早良様のお名前が残るとその言霊の力でいつまでも早良様の祟りが消えない。だから、お父様の記録ごと、早良様の祟りを正史からきれいさっぱり消されてしまったのだ。
だからお父様ご自身がそもそもわたくしの後ろ盾にはならない。どれほど桓武様がお父様と親しくされていたと訴えても、それは何らの記録にあるものではない。
だから、だから。
わたくしは。
わたくしはもう、安殿様と結婚するどころか、安殿様にお手紙を差し上げることすら、できない。安殿様が病に倒れられたと伺ってもお見舞いのお手紙一つ、差し上げることはできないんだ。
7歳までの奇跡のように光り輝いていた幸福な時間はもう過ぎてしまって、もどらないのだから。
あぁ。
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