色は変わらず花は咲きけり〜平城太上天皇の変

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1章 光仁天皇の二つの家族

 光仁天皇の死

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「異母兄弟が殺し合うのは宮中のならいではございませんか」
「な……」
「わたくしは光仁様が身罷られましたら山部様をお立てします。わたくしがしなくても誰かがするでしょう」

 その身罷るという表現で、百川はやはり私を天皇と見ていないのだな、と直感した。百川にとって私は文鎮なのだ。この天皇という位を留めておくための手の内の貴重な文鎮。
 けれども山部が天皇となるのは無理なのだ。
 そもそも天皇となるには両親が皇家である必要がある。そう思って恐る恐る百川を見上げる。
 そんな私の考えなど見通しているのか、百川は三日月のように薄っすらと上がる口の形は動かさぬまま、陰気を吐いた。

「すでに淳仁様のご前例がございます。淳仁様のお母君は当麻山背たいまのやましろ様。そのお父上は従五位にすぎない当麻老たいまのおゆ様。問題はありますまい?」
「山部の母の新笠の親は貴族ですら、豪族ですらない無冠の官吏だぞ。母親の家格が低すぎる」
「何をおっしゃるのです。位階など贈れば良いのです。山部様のお母君の新笠様は渡来のお血筋ですから多少は条件は悪うございましょうが……なに、さほどの違いはございますまい。他戸様はそもそも父系に疑問が……ございますからね。ふふ」

 百川は考えの読み取れぬ目で宙空をぼんやりと眺め、そして私などいないかのように語り続ける。いや、私などそもそも目に入っていないのだ。けれどもふと、私が居たことに気づいたように話しかける。

「光仁様、どうしてそれほど後ろ向きなのですか。ご安心ください。光仁様は既に『天智天皇の孫』でも『聖武天皇の娘の夫』でもなく『天皇』そのものとなられたのですよ。ですから光仁様のご子息であられる山部様は、既に紛れもなく天皇の子、一世皇子なのです」

 私は百川の言に二の句が継げなかった。
 私が天皇……?
 そんなことは誰も思っていないではないか。
 山部が皇子……?
 それは、そんなことは今の今まで考えたことすらなかった。なぜなら私の都での生活に新笠も山部も存在しなかったのだから。だから都でのことは新笠や山部に関係しないと思っていた。

「山部が、太子に……?」
「そうです。山部様のご意思はこの際関係ありません。光仁様が身罷られれば、いずれにしても山部様は権力闘争に巻き込まれるでしょう。それは最早、この宮中においては動かし難いことなのです」

 山部が皇子……。
 聖武様のお子は傍系も含めて全て絶えた。だから、だからこそ私がここにいるのだ。唯一の私が。そして他戸にとって山部は唯一無二の継承権を持ちうる相手で、そうすると山部は……。
 足先や手先から染み込んだ冷気が毒のように私の体内をぐるぐると回る。

「ご安心下さい、光仁様。わたくしが山部様をお守り致します。光仁様がいつの間にか天皇となられたのと同様、わたくしが全てを整えます」

 その時私に去来したのは、幼少の頃に聞いた父うえの言葉だった。
『白壁、これは脅しなのだ。皇位を狙うことなかれ。つまりもし狙うのであれば……一族郎党皆殺しだ。子孫を絶やすぞ』
 これの裏返しだ。百川以外に山部の後ろ盾がない以上、百川が保護しなければ消される。そう述べているのだ。
『白壁。だからお前は都を見てはならぬ。目が腐る』 
 けれども私は既にこの最も昏き座に座ってしまった。
 私がこれを断れば、山部はどうなる。

「それであれば今のうちに光仁様が山部様の難を排して太子にしてさしあげるのが親心というもの。けれどもわたくしの後ろ盾を光仁様が望まれないのでしたら致し方がありません」

 百川は口を三日月のように持ち上げてニタリと笑った。その奥は赤かった。
 私が、山部を太子に。この呪われた地位に?
 しかし山部も既に私と同じようにここ以外に生きることの出来る場所がない……のか?
 しかしすでに他戸が太子なのだ。太子を廃するには理由がいる、理由が。ぱくぱくと無意識に口が動き泡が溢れる。

「なぁに、そんなものは簡単ですよ。何事も、よくあることです。何事もね。後はわたくしどもが差配いたします。よろしいですね」

 その百川の断定的な物言いに、私はなにも答えることはできなかった。
 けれども百川は確かに私の瞳を覗き込み、そして大きく頷き室を出た。いつの間にやら再び黒い雲が空に溢れ、ごろごろと遠雷が不吉に響いていた。月まで闇に塗りつぶされたかのような漆黒で、百川はその闇にするりと溶け去った。

 まもなくして、井上が私に巫蠱の呪いをかけたという報告が上がり、儀式を行ったという巫女が捉えられた。あっという間のことだった。他戸は私が天皇となるためにはとても都合のよい皇子であったが、私が天皇となってしまった以上、その重要性は下がってしまったのだ。
 申開きの場で見た井上は、初めてまみえた人間であるかのように思えた。というより初めて井上と目が会った気がした。

「光仁様、何故このような馬鹿馬鹿しいことをお疑いなのですか! 私が今更光仁様を呪う必要など何もありません。呪ってどんな益があるというのです!」
「そうだな。しかし巫女がそなたに依頼されたといっておるらしいぞ」
「そんな巫女など知りません。そもそも! そもそももう62歳であられるではありませんか! つまり……」

 そこで井上は口をつぐんだが、その後に続く言葉は口に出さずともこの場の誰にも明白だった。
 つまり私は放っておいてもまもなく死ぬ。今更わざわざ呪殺し、まだ11歳の他戸を皇位につける意味はない。もう少し育ってからのほうが面倒もなく、下手なことを勘ぐられなくていい。
 私は酷く、つまらない目で井上を見ていたのだと思う。井上にとっての私とはこのようなものだったのだろうか。けれども私はこのような目で井上を見つめることに、酷く良心の呵責を覚えていた。 

 井上もよく考えれば僅か5歳で巫女に定選されてのちは都から長く離れて押し込められ、婚期もすっかり過ぎた頃にようやく退下した時にはわずかに記憶に残るか残らないかわからぬ他人のような両親と見知らぬ妹しか知るものはいなかった。そして血筋のみを目論みにして、老境にさしかかる私と婚姻させられたのだ。
 そう考えれば気づかぬ内に担ぎ上げられた私と何が違うものがあるのだろう。

「井上、ままならぬものだな」
「私は! 私は許しません! このような行いが許されるはずがない!」

 初めて井上が私に向けた感情はこの呪詛だったように思う。
 けれども他戸、つまり井上の後ろ盾となっていた永手は丁度没していた。そして私が老境の私が死ねば井上が幼い他戸の繋ぎとして即位する可能性は十分にある。古くは敏達びだつ天皇の皇后であられた推古すいこ天皇、近くでは天武様の皇后であられた持統様。前例は多い。
 そして井上の有する伊勢神宮を背景とした巨大な影響力が、仏寺を背景とした称徳様が万世一系の天皇というものを廃そうとされたのと被って見え、忌避されたのだろう。おそらく百川がそのような話を撒いたのだ。

 それがつまり、後ろ盾というものなのだ。
 井上にはなく、私、というより山部にはあった。
 この宮中で薄氷を踏むように、その奇跡のような関係が山部をこの椅子に登らせるのだ。
 結局の所、私が返事をしようがしまいが、この流れは既に決定されていた。
 いつもと同じように。

 宝亀3772年、井上は廃后とされ、廃后の子という理由で他戸も太子を廃された。そして翌年、山部は太子となった。
 これで、よかったのだろうか。私の時とは違い、山部はそのままであれば官吏として穏やかな一生を過ごせていたかもしれない。けれどもこの瞬間、山部はこの魍魎と怨嗟渦巻く宮の頂点となり、私と同じく腐臭漂う穢れた鎖に絡み取られてしまったのだ。

 そして私の預かり知らぬ間に井上には私の姉である難波なにわ内親王を呪殺したという罪も加わった。姉上はもう70になろうか。今更呪詛することに何の意味があろう。
 けれどもそれによって井上は他戸とともに庶人におとされ宇智うちに流罪となって幽閉された。そして宝亀6775年、井上と他戸は同じ日に死んだ、そうだ。

 全てが報告として上がってきた。
 私にとって全てが夢うつつのようで現実感がなどまるでなかった。私にとってはいつものことだ。けれども私は伝聞ではなく、天皇として百川から様々な呪詛にまみれた書状を直接手に取るのが恐ろしかった。とても。
 それは私に絡まる生臭い鎖を通じてどこか深く昏い、地獄にでも通じていたように思われたから。

 そして全てが順調に見えた百川にも誤算があった。
 いや、誤算ではないのかもしれない。もともと井上は長年斎王を勤め上げた女だ。神に仕えた女だ。
 私の目の前に地獄が現れた。
 井上は怨霊となったのだ。荒ぶる狐となり都中、時には内裏の奥深くまで跋扈したのである。

 白い虹がかかり昼間なのに金星が輝いた。凶兆である。
 都では夜になると瓦や石、土が降りそそいだ。冬に雨が振らず井戸が枯れ、宇治川うじがわが干上がった。
 夜な夜な多くの兵に責められる夢に苛まれた。私も百川も。疫病が流行り私も倒れた。そして百川は井上に祟り殺された。山部も倒れた。
 私はあわてて井上の遺骨を改葬し、その墓を御墓と追称して慰撫した。けれども祟りはやまず私も死の床にいた。

 どうすれば、どうすればよかったのだろう。
 私が反対しても永手が死んだ時におそらく井上と他戸が廃される運命は決まってしまっていたのだ。私はまもなく死ぬ。山部をこの呪詛と怨嗟と怨霊に満ちた都に残して。
 だから私は最後の願いで早良を太子と遺勅した。寺院に、巨大な大仏のおわす東大寺にいた早良を呼び戻した。これが私にできた唯一のことだ。
 早良であれば祟りから山部を守ってくれるのではないか。そう淡く期待して。

「どうか、兄弟仲良く過ごすように。お前たち2人は私と新笠の大切な子どもなのだから」

 私はその時、山部が冷ややかな目で私を見ていたことには気づいていなかった。いや、気づいていたのかも知れぬ。そしてまた、目をそらしていたのかもしれぬ。
 そして山部王は即位して桓武天皇となり、桓武の子である安殿ではなく早良が皇太子となった。
 天応元781年のことである。
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