色は変わらず花は咲きけり〜平城太上天皇の変

Tempp

文字の大きさ
上 下
10 / 43
1章 光仁天皇の二つの家族

 百川の思惑

しおりを挟む
 そして藤原の用意した偽勅によって指名された者が次の天皇に即位した。
 つまりそれが、私だ。
 人生50年の時代。この時の私は62歳で老境の極みである。このような年齢で即位した天皇は、誰も、いない。誰が見てもわずかな間、とりあえずつけられた天皇位。
 絢爛な即位式の後、1つの歌が市下に出回った。

『志貴皇子 石走る垂水の上のさわらびの 萌え出る春になりにけるかも』
 志貴皇子にお喜び申し上げます。激しい滝が岩を打ち付けるその脇に生えた蕨が芽吹く春になりました。

 この歌は一体誰が読んだのだろう。
 粛清の嵐を生き延びて私が即位したことを父上に寿ことほぐ歌。
 負けを喫した天智系列の手の者だろうか。それとも吉備に連なる者か。
 読み手の名はわからない。
 言えるわけがない。

 はぁ、とため息が漏れる。
 私はいったい誰なのだろう。
 志貴皇子の子として愛する新笠とともに気楽に田舎暮らしをしていた私はもうはるか遠くに過ぎ去った。生臭い血で錆びぬいた鎖のような、この宮中にがんじがらめに囚われたこの私は、一体何ものだ。
 いや、最早人ですらないのかもしれぬ。
 全ての話は私を除外して粛々と進められていた。

 私も藤原には頭があがらぬ。
 私がこの、真の意味で望外・・の地位についたのは藤原のおかげであるのは間違いない。そして私が何か彼らの意に反することがあれば、おそらくわしも崩御する、のだろう。

 結局のところは私は藤原どもの陰謀に巻き込まれたのだ。
 私の知らないうちに、どこかで称徳様が崩御めされることが決まった。そうすると次の天皇を用意しなければならない。

 騒動の中心であった藤原北家の藤原永手は天武系統とつながりが深かった。
 だからその即位してまもなくの冬、天武様の血を印象付けるために聖武様の娘である井上は私の皇后となった。そしてこの年明けに井上と私の間に生まれたという他戸親王は皇太子となったのだ。
 既に私を除外して規定されたその一連の流れはあっという間に過ぎ去った。

 そして称徳様の遺宣で指名されたということになっている他戸親王はとても、とても丁度よかった。
 他戸。
 他戸親王。
 他戸は両親が皇家である。
 天皇であられた天智様の孫である私と天皇であられた聖武様の子である井上の子である。つまり他戸は天智様と天武様両方の血を引く……ことになっている。

 私の……息子。けれども私はどうしても愛着が持てなかった。
 宮中でたまに出会う、私を侮蔑する目で見るその表情。その全てが井上を思わせた。やはりこの子は私の子ではない。似てもいない。
 私にとって家族とは新笠と山部と、随分と会っていない早良だけ。

 私は62歳だ。先は長くはないだろう。私が死ねば速やかに他戸が天皇となる。そうなると新笠や山部はどうなるのだ。昏く冷たい宮中で、私の即位を機に百川と名を変えた雄田麻呂はそっと囁いた。
 百川が私にいうことはいつも一緒だ。
 新笠と山部のこと。
 私はそれまで百川が私の親身になってくれている、と思い込もうとしていた。けれどもそのころには段々とわかってきていた。百川が見ているのが井上ではないことは間違いない。井上はそもそも北家の手駒で、式家のものではない。そして私自身でもない。百川が見ていたのはずっと山部であったことをそのころにようやく気がついた。
 百川は誰よりも、藤原だった。

 傀儡として即位した私はもはや宮中を出ることすら困難であった。
 頭に浮かぶのは新笠と山部、そして早良のことばかり。焦がれるように懐かしく、そして薄らいできた記憶の光景。もはや私はその思い出に縋るしか術がない。
 そしてその私の家族の情報を持ってくるのはもはや百川しかいなかったのだ。だからそれでも私は百川の訪れを心待ちにするしかなかった。

 そしてその年、他戸を太子に推して後ろ盾になっていた北家の永手が没した。

 それもまた、春のことだった。
 私が即位してまだ半年もたたぬ春。
 梅の花が散るように、これまでとは全く異なる地位につけられてしまった私にとって、見えるものは全て変質していた。さらさらと風に舞う梅の花弁は、既に赤いものは血にしかみえず、白いものは骨にしか見えぬ。

 その永手の死を携えた百川の表情を私はよく覚えている。
 3月12日の夜、吉野の山からやわらかくぬるい風が吹き、空はうっすらと灰色に曇り、春先の生暖かさを溜め込んでいた。
 朝堂院ちょうどういんの北側にある内裏の私の室に上がり込んだ百川は、隠しきれぬ笑みをその表にくふくふとこぼしていた。

「百川、今晩はやけに遅くだなどうしたのだ」

 流石にこの夜中だ。内裏に訪れるというのは危急の時でしかありえない。本来はここは皇家のプライベートスペースなのだ。最近はそうでもないのだが……。
 そして百川はさらに笑みを深める。

「光仁様、時は満ちましたよ」
「時。時とは」
「永手が没しました」

 その瞬間、百川の目はすぅと細くなり、わずかに湛えていた光が失せた。藤原家は闇そのもの。だから冬を超えて世界が明るくなり始める春に呪われる。その真髄は光の内にはなく、皇家を表に立たせて全てを貪り、お互いを食べ尽くす。
 ふいに、ぷるりと身震いがした。
 サァと冷たい風が吹き、灰色の雲が吹き散らされた。そして背後の夜空を切り取る青く細い三日月に照らされながら百川は私を見下ろす。それとともに私の足元に向けて全てを凍り付かせるような冷気が吹き込んでいた。
 春分の少し前、春と冬のせめぎあいで未だ冬が強い時分。

 射竦められたように足が動かぬ。
 そして私は次の言葉を待つしかなかった。私の次に訪れる運命を。私は他戸を即位させるために死ぬのだろうか。
 けれどもその月の影から投げかけられた言葉は私の想像を遥かに超えていた。

「わたくしは山部様に次の天皇となって頂きとうございます」
「な、何を……何をいうのだ? 太子は他戸と決まっている」

 宮中は誰の耳があるかもわからない。そしてこの内裏は井上と他戸の本拠地だ。人払はしてあるとはいえ急いで左右を眺め渡す。
 万一、万一山部が皇位を狙っているなどと噂が流れれば、山部はあっという間に殺されるだろう。噂が事実かどうかなど、ここでは関係がないのだ。
 けれども百川はそんなことは全く気にもしていないようで、少し浮かれた声で続ける。

「他戸様の御尊父についてはいろいろとお噂がございますからなぁ。廃位の理由は如何様にも立ちましょう」
「みなまでいうな。しかしだからといって山部が皇位が継げるはずはない」

 他戸の父は私ではない。そのような噂は他戸が生まれた時から漂っている。中には親は山部であるというような愚にもつかない噂すらあるのだ。
 けれども、そんな他戸であっても山部が皇位を継げるはずはない。なにせ私ですら皇位に着いたのは井上と婚姻し、井上を皇后にたてたからだ。そうでなければ誰も私が皇位につくことを認めたりなどしないのだ。
 山辺は井上など全く関係ない庶子だ。皇位につくいわれはない。
 私は心のなかでそう念じた。

「このままだとどうなるでしょう」
「どう……?」
「誠に申し上げにくいことながら、光仁様はご高齢であられる。残念ながらそのうち身罷られるでしょう」
「ま、まぁ、そうだな」
「そうすると他戸様が天皇となられるわけでしょう? 山部様は異母兄であられる。」
「そう……だな……」

 異母兄。確かに異母兄だ。その言葉はとても不吉に聞こえた。この都で異なる父母の子というのは、家族ではなく権力を争う潜在敵なのだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】斎宮異聞

黄永るり
歴史・時代
平安時代・三条天皇の時代に斎宮に選定された当子内親王の初恋物語。 第8回歴史・時代小説大賞「奨励賞」受賞作品。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

猿の内政官の息子 ~小田原征伐~

橋本洋一
歴史・時代
※猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~という作品の外伝です。猿の内政官の息子の続編です。全十話です。 猿の内政官の息子、雨竜秀晴はある日、豊臣家から出兵命令を受けた。出陣先は関東。惣無事令を破った北条家討伐のための戦である。秀晴はこの戦で父である雲之介を超えられると信じていた。その戦の中でいろいろな『親子』の関係を知る。これは『親子の絆』の物語であり、『固執からの解放』の物語である。

天狗の囁き

井上 滋瑛
歴史・時代
幼少の頃より自分にしか聞こえない天狗の声が聞こえた吉川広家。姿見えぬ声に対して、時に従い、時に相談し、時に言い争い、天狗評議と揶揄されながら、偉大な武将であった父吉川元春や叔父の小早川隆景、兄元長の背を追ってきた。時は経ち、慶長五年九月の関ヶ原。主家の当主毛利輝元は甘言に乗り、西軍総大将に担がれてしまう。東軍との勝敗に関わらず、危急存亡の秋を察知した広家は、友である黒田長政を介して東軍総大将徳川家康に内通する。天狗の声に耳を傾けながら、主家の存亡をかけ、不義内通の誹りを恐れず、主家の命運を一身に背負う。

天明奇聞 ~たとえば意知が死ななかったら~

ご隠居
歴史・時代
タイトル通りです。意知が暗殺されなかったら(助かったら)という架空小説です。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した 若き日の滝川一益と滝川義太夫、 尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として 天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。

処理中です...