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1章 光仁天皇の二つの家族
百川の思惑
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そして藤原の用意した偽勅によって指名された者が次の天皇に即位した。
つまりそれが、私だ。
人生50年の時代。この時の私は62歳で老境の極みである。このような年齢で即位した天皇は、誰も、いない。誰が見てもわずかな間、とりあえずつけられた天皇位。
絢爛な即位式の後、1つの歌が市下に出回った。
『志貴皇子 石走る垂水の上のさわらびの 萌え出る春になりにけるかも』
志貴皇子にお喜び申し上げます。激しい滝が岩を打ち付けるその脇に生えた蕨が芽吹く春になりました。
この歌は一体誰が読んだのだろう。
粛清の嵐を生き延びて私が即位したことを父上に寿ぐ歌。
負けを喫した天智系列の手の者だろうか。それとも吉備に連なる者か。
読み手の名はわからない。
言えるわけがない。
はぁ、とため息が漏れる。
私はいったい誰なのだろう。
志貴皇子の子として愛する新笠とともに気楽に田舎暮らしをしていた私はもうはるか遠くに過ぎ去った。生臭い血で錆びぬいた鎖のような、この宮中にがんじがらめに囚われたこの私は、一体何ものだ。
いや、最早人ですらないのかもしれぬ。
全ての話は私を除外して粛々と進められていた。
私も藤原には頭があがらぬ。
私がこの、真の意味で望外の地位についたのは藤原のおかげであるのは間違いない。そして私が何か彼らの意に反することがあれば、おそらくわしも崩御する、のだろう。
結局のところは私は藤原どもの陰謀に巻き込まれたのだ。
私の知らないうちに、どこかで称徳様が崩御めされることが決まった。そうすると次の天皇を用意しなければならない。
騒動の中心であった藤原北家の藤原永手は天武系統とつながりが深かった。
だからその即位してまもなくの冬、天武様の血を印象付けるために聖武様の娘である井上は私の皇后となった。そしてこの年明けに井上と私の間に生まれたという他戸親王は皇太子となったのだ。
既に私を除外して規定されたその一連の流れはあっという間に過ぎ去った。
そして称徳様の遺宣で指名されたということになっている他戸親王はとても、とても丁度よかった。
他戸。
他戸親王。
他戸は両親が皇家である。
天皇であられた天智様の孫である私と天皇であられた聖武様の子である井上の子である。つまり他戸は天智様と天武様両方の血を引く……ことになっている。
私の……息子。けれども私はどうしても愛着が持てなかった。
宮中でたまに出会う、私を侮蔑する目で見るその表情。その全てが井上を思わせた。やはりこの子は私の子ではない。似てもいない。
私にとって家族とは新笠と山部と、随分と会っていない早良だけ。
私は62歳だ。先は長くはないだろう。私が死ねば速やかに他戸が天皇となる。そうなると新笠や山部はどうなるのだ。昏く冷たい宮中で、私の即位を機に百川と名を変えた雄田麻呂はそっと囁いた。
百川が私にいうことはいつも一緒だ。
新笠と山部のこと。
私はそれまで百川が私の親身になってくれている、と思い込もうとしていた。けれどもそのころには段々とわかってきていた。百川が見ているのが井上ではないことは間違いない。井上はそもそも北家の手駒で、式家のものではない。そして私自身でもない。百川が見ていたのはずっと山部であったことをそのころにようやく気がついた。
百川は誰よりも、藤原だった。
傀儡として即位した私はもはや宮中を出ることすら困難であった。
頭に浮かぶのは新笠と山部、そして早良のことばかり。焦がれるように懐かしく、そして薄らいできた記憶の光景。もはや私はその思い出に縋るしか術がない。
そしてその私の家族の情報を持ってくるのはもはや百川しかいなかったのだ。だからそれでも私は百川の訪れを心待ちにするしかなかった。
そしてその年、他戸を太子に推して後ろ盾になっていた北家の永手が没した。
それもまた、春のことだった。
私が即位してまだ半年もたたぬ春。
梅の花が散るように、これまでとは全く異なる地位につけられてしまった私にとって、見えるものは全て変質していた。さらさらと風に舞う梅の花弁は、既に赤いものは血にしかみえず、白いものは骨にしか見えぬ。
その永手の死を携えた百川の表情を私はよく覚えている。
3月12日の夜、吉野の山からやわらかくぬるい風が吹き、空はうっすらと灰色に曇り、春先の生暖かさを溜め込んでいた。
朝堂院の北側にある内裏の私の室に上がり込んだ百川は、隠しきれぬ笑みをその表にくふくふとこぼしていた。
「百川、今晩はやけに遅くだなどうしたのだ」
流石にこの夜中だ。内裏に訪れるというのは危急の時でしかありえない。本来はここは皇家のプライベートスペースなのだ。最近はそうでもないのだが……。
そして百川はさらに笑みを深める。
「光仁様、時は満ちましたよ」
「時。時とは」
「永手が没しました」
その瞬間、百川の目はすぅと細くなり、わずかに湛えていた光が失せた。藤原家は闇そのもの。だから冬を超えて世界が明るくなり始める春に呪われる。その真髄は光の内にはなく、皇家を表に立たせて全てを貪り、お互いを食べ尽くす。
ふいに、ぷるりと身震いがした。
サァと冷たい風が吹き、灰色の雲が吹き散らされた。そして背後の夜空を切り取る青く細い三日月に照らされながら百川は私を見下ろす。それとともに私の足元に向けて全てを凍り付かせるような冷気が吹き込んでいた。
春分の少し前、春と冬のせめぎあいで未だ冬が強い時分。
射竦められたように足が動かぬ。
そして私は次の言葉を待つしかなかった。私の次に訪れる運命を。私は他戸を即位させるために死ぬのだろうか。
けれどもその月の影から投げかけられた言葉は私の想像を遥かに超えていた。
「わたくしは山部様に次の天皇となって頂きとうございます」
「な、何を……何をいうのだ? 太子は他戸と決まっている」
宮中は誰の耳があるかもわからない。そしてこの内裏は井上と他戸の本拠地だ。人払はしてあるとはいえ急いで左右を眺め渡す。
万一、万一山部が皇位を狙っているなどと噂が流れれば、山部はあっという間に殺されるだろう。噂が事実かどうかなど、ここでは関係がないのだ。
けれども百川はそんなことは全く気にもしていないようで、少し浮かれた声で続ける。
「他戸様の御尊父についてはいろいろとお噂がございますからなぁ。廃位の理由は如何様にも立ちましょう」
「みなまでいうな。しかしだからといって山部が皇位が継げるはずはない」
他戸の父は私ではない。そのような噂は他戸が生まれた時から漂っている。中には親は山部であるというような愚にもつかない噂すらあるのだ。
けれども、そんな他戸であっても山部が皇位を継げるはずはない。なにせ私ですら皇位に着いたのは井上と婚姻し、井上を皇后にたてたからだ。そうでなければ誰も私が皇位につくことを認めたりなどしないのだ。
山辺は井上など全く関係ない庶子だ。皇位につくいわれはない。
私は心のなかでそう念じた。
「このままだとどうなるでしょう」
「どう……?」
「誠に申し上げにくいことながら、光仁様はご高齢であられる。残念ながらそのうち身罷られるでしょう」
「ま、まぁ、そうだな」
「そうすると他戸様が天皇となられるわけでしょう? 山部様は異母兄であられる。」
「そう……だな……」
異母兄。確かに異母兄だ。その言葉はとても不吉に聞こえた。この都で異なる父母の子というのは、家族ではなく権力を争う潜在敵なのだ。
つまりそれが、私だ。
人生50年の時代。この時の私は62歳で老境の極みである。このような年齢で即位した天皇は、誰も、いない。誰が見てもわずかな間、とりあえずつけられた天皇位。
絢爛な即位式の後、1つの歌が市下に出回った。
『志貴皇子 石走る垂水の上のさわらびの 萌え出る春になりにけるかも』
志貴皇子にお喜び申し上げます。激しい滝が岩を打ち付けるその脇に生えた蕨が芽吹く春になりました。
この歌は一体誰が読んだのだろう。
粛清の嵐を生き延びて私が即位したことを父上に寿ぐ歌。
負けを喫した天智系列の手の者だろうか。それとも吉備に連なる者か。
読み手の名はわからない。
言えるわけがない。
はぁ、とため息が漏れる。
私はいったい誰なのだろう。
志貴皇子の子として愛する新笠とともに気楽に田舎暮らしをしていた私はもうはるか遠くに過ぎ去った。生臭い血で錆びぬいた鎖のような、この宮中にがんじがらめに囚われたこの私は、一体何ものだ。
いや、最早人ですらないのかもしれぬ。
全ての話は私を除外して粛々と進められていた。
私も藤原には頭があがらぬ。
私がこの、真の意味で望外の地位についたのは藤原のおかげであるのは間違いない。そして私が何か彼らの意に反することがあれば、おそらくわしも崩御する、のだろう。
結局のところは私は藤原どもの陰謀に巻き込まれたのだ。
私の知らないうちに、どこかで称徳様が崩御めされることが決まった。そうすると次の天皇を用意しなければならない。
騒動の中心であった藤原北家の藤原永手は天武系統とつながりが深かった。
だからその即位してまもなくの冬、天武様の血を印象付けるために聖武様の娘である井上は私の皇后となった。そしてこの年明けに井上と私の間に生まれたという他戸親王は皇太子となったのだ。
既に私を除外して規定されたその一連の流れはあっという間に過ぎ去った。
そして称徳様の遺宣で指名されたということになっている他戸親王はとても、とても丁度よかった。
他戸。
他戸親王。
他戸は両親が皇家である。
天皇であられた天智様の孫である私と天皇であられた聖武様の子である井上の子である。つまり他戸は天智様と天武様両方の血を引く……ことになっている。
私の……息子。けれども私はどうしても愛着が持てなかった。
宮中でたまに出会う、私を侮蔑する目で見るその表情。その全てが井上を思わせた。やはりこの子は私の子ではない。似てもいない。
私にとって家族とは新笠と山部と、随分と会っていない早良だけ。
私は62歳だ。先は長くはないだろう。私が死ねば速やかに他戸が天皇となる。そうなると新笠や山部はどうなるのだ。昏く冷たい宮中で、私の即位を機に百川と名を変えた雄田麻呂はそっと囁いた。
百川が私にいうことはいつも一緒だ。
新笠と山部のこと。
私はそれまで百川が私の親身になってくれている、と思い込もうとしていた。けれどもそのころには段々とわかってきていた。百川が見ているのが井上ではないことは間違いない。井上はそもそも北家の手駒で、式家のものではない。そして私自身でもない。百川が見ていたのはずっと山部であったことをそのころにようやく気がついた。
百川は誰よりも、藤原だった。
傀儡として即位した私はもはや宮中を出ることすら困難であった。
頭に浮かぶのは新笠と山部、そして早良のことばかり。焦がれるように懐かしく、そして薄らいできた記憶の光景。もはや私はその思い出に縋るしか術がない。
そしてその私の家族の情報を持ってくるのはもはや百川しかいなかったのだ。だからそれでも私は百川の訪れを心待ちにするしかなかった。
そしてその年、他戸を太子に推して後ろ盾になっていた北家の永手が没した。
それもまた、春のことだった。
私が即位してまだ半年もたたぬ春。
梅の花が散るように、これまでとは全く異なる地位につけられてしまった私にとって、見えるものは全て変質していた。さらさらと風に舞う梅の花弁は、既に赤いものは血にしかみえず、白いものは骨にしか見えぬ。
その永手の死を携えた百川の表情を私はよく覚えている。
3月12日の夜、吉野の山からやわらかくぬるい風が吹き、空はうっすらと灰色に曇り、春先の生暖かさを溜め込んでいた。
朝堂院の北側にある内裏の私の室に上がり込んだ百川は、隠しきれぬ笑みをその表にくふくふとこぼしていた。
「百川、今晩はやけに遅くだなどうしたのだ」
流石にこの夜中だ。内裏に訪れるというのは危急の時でしかありえない。本来はここは皇家のプライベートスペースなのだ。最近はそうでもないのだが……。
そして百川はさらに笑みを深める。
「光仁様、時は満ちましたよ」
「時。時とは」
「永手が没しました」
その瞬間、百川の目はすぅと細くなり、わずかに湛えていた光が失せた。藤原家は闇そのもの。だから冬を超えて世界が明るくなり始める春に呪われる。その真髄は光の内にはなく、皇家を表に立たせて全てを貪り、お互いを食べ尽くす。
ふいに、ぷるりと身震いがした。
サァと冷たい風が吹き、灰色の雲が吹き散らされた。そして背後の夜空を切り取る青く細い三日月に照らされながら百川は私を見下ろす。それとともに私の足元に向けて全てを凍り付かせるような冷気が吹き込んでいた。
春分の少し前、春と冬のせめぎあいで未だ冬が強い時分。
射竦められたように足が動かぬ。
そして私は次の言葉を待つしかなかった。私の次に訪れる運命を。私は他戸を即位させるために死ぬのだろうか。
けれどもその月の影から投げかけられた言葉は私の想像を遥かに超えていた。
「わたくしは山部様に次の天皇となって頂きとうございます」
「な、何を……何をいうのだ? 太子は他戸と決まっている」
宮中は誰の耳があるかもわからない。そしてこの内裏は井上と他戸の本拠地だ。人払はしてあるとはいえ急いで左右を眺め渡す。
万一、万一山部が皇位を狙っているなどと噂が流れれば、山部はあっという間に殺されるだろう。噂が事実かどうかなど、ここでは関係がないのだ。
けれども百川はそんなことは全く気にもしていないようで、少し浮かれた声で続ける。
「他戸様の御尊父についてはいろいろとお噂がございますからなぁ。廃位の理由は如何様にも立ちましょう」
「みなまでいうな。しかしだからといって山部が皇位が継げるはずはない」
他戸の父は私ではない。そのような噂は他戸が生まれた時から漂っている。中には親は山部であるというような愚にもつかない噂すらあるのだ。
けれども、そんな他戸であっても山部が皇位を継げるはずはない。なにせ私ですら皇位に着いたのは井上と婚姻し、井上を皇后にたてたからだ。そうでなければ誰も私が皇位につくことを認めたりなどしないのだ。
山辺は井上など全く関係ない庶子だ。皇位につくいわれはない。
私は心のなかでそう念じた。
「このままだとどうなるでしょう」
「どう……?」
「誠に申し上げにくいことながら、光仁様はご高齢であられる。残念ながらそのうち身罷られるでしょう」
「ま、まぁ、そうだな」
「そうすると他戸様が天皇となられるわけでしょう? 山部様は異母兄であられる。」
「そう……だな……」
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