色は変わらず花は咲きけり〜平城太上天皇の変

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1章 光仁天皇の二つの家族

 想像の埒外の即位

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「どうしてこうなってしまったのだろう」

 それは異国の暦で言えば770年のことだった。
 夏の終わりに称徳しょうとく天皇が崩御なされた。
 今日はそれからおよそ1ヶ月と少し先の10月1日である。
 宮中で一人、そう呟いてもせんがない。
 いや、呟くことすら許されない。誰が聞いているともしれないのだから。

 この流れは想像すらしていなかった。いや、百川ももかわが何度かそのような話をしてきたことはある。けれども本気にはしていなかったのだ。本当に。まさかこのようなことになるとは。
 押し付けられた煌びやかな衣装は窮屈だった。
 これから大極殿で私の即位式が執り行われる。
 その本来寿ぐべき事柄は、まるで私を縛る金蘭の牢獄としか思えない。

「何故だ。何故こんなことに」

 無意識に、再び言葉がまろび出る。何か発していなければブクブクと沼地の底に沈みきり、息の根が止まりそうなのだ。
 そもそも少し前までは自分どころか、誰もがこんなことになるとは思っていなかった。
 私が、齢62のこの私が天皇になるなどと。このような血に塗れた尊き席に登るなどと。
 けれどもあれよあれよという間に私の運命は決まってしまった。
 光仁こうにん天皇というなんだかよくわからないものになることが決定されたのだ。
 なんだか、よくわからないうちに。
 取り返しのつかないことになってしまった、気分。
 そもそも皇位など遥か彼方。思うことすら想像に及ばなかったのだ。

 私はもともと政争とは無縁のところで生きてきた。子供の頃は平城ならの都から随分離れた丘や森に住んでいた。野山に遊び、都の暮らしなど想像もしていなかった。

 お祖父様、天智てんぢ天皇には多くのお子がおられた。ご存命当時は父上の異母兄である大友皇子おおとものおうじが太子となられていた。
 けれども天智様が亡くなられた年、天智様の弟君であられる大海人皇子おおあまのおうじが挙兵して大友皇子を討ち果たし、天武てんむ天皇として即位された。以降、天武系列が天皇筋となった。そして天智系列、つまりお祖父様の一族には天皇となる道が途絶えたのだ。
 これがいわゆる壬申じんしんの乱と呼ばれているあらましである。
 ようは、叔父が甥を殺して皇位を簒奪した、のだ。

 けれども私にとってはそれ以前の話だった。乱がなくても私が即位するなどありえなかった。

 皇族というものは高天原たかまがはらから邇邇芸命ににぎのみことが三種の神器を携えて地上に降り立ってからの万世一系、尊き血筋だ。だからその長たる天皇として即位するには父が天皇であるだけでなく母の血筋も皇族でなければならない。

 そして私の父上、志貴皇子しきのみこは天智様と宮中の女官との間の子である。つまりお祖母様である越道君娘こしのみちのきみのいらつめの身分はとても低かった。都から遠く離れた加賀の豪族の娘にすぎなかった。
 だから父上の身分も低く、他の皇子たちが冠位を頂いても父上だけは冠位を受けることもなく無位として過ごし、ようやく位階を得たのは大宝律令の制定により位階制度が開かれて後のことだった。

 本来男子として生まれたからには出世を目指すものであるとはいわれるけれど、父上は政などさして興味はなく和歌や雅の道に、ある意味気楽に生きていた。そのように思っていた。
 私はその父上と豪族の娘であった紀橡姫きのとちひめの間に生まれた。母は草木と花の香りにあふれる優しい人だった。父上が母上の家に足繁く通って結婚されたと聞いた。いわゆる通い婚だ。母上の身分は高くない。だから母上は側室だった。けれども父は好き会って母と結婚したのだと聞いている。
 私の目から見える父母の姿もそうであったように思う。

 私も天皇の孫にあたるから、一応は白壁しらかべ王と、王の名をいただいている。けれどもこのような血筋ゆえにそんなものにはさして意味はない。栄華というものからは程遠い暮らしをしていたのだ。
 こんな時に思い出すのはやはり父上の言葉だった。
 あれもやはり春。けれども未だ草木生い茂る豊かな春だった。

「白壁よ。帝というものは誠に尊きものである。それゆえに、尊きを全うすると言うのはとても大変なことなのだ」
「そうなのですか、お父様」
「ああ。俺もな……」

 父上はそこで一旦音を切り、一瞬だけ嘲るように口の端を上げかけ、そしてふたたび薄い唇を優雅にならして微笑んだ。

「お前はまだ小さい。だからまだわからぬだろう。特にここは都から離れているのだ。都の濁りというものは感じ取れまい。だがそれでいい」
「濁り、でしょうか」
「ああ。都とは……いや、せんなきことだ。お前に累がおよばないようにはする。大丈夫だ。盟約を結んでいるからな」
「盟約、でしょうか」

 父上が珍しく吐き捨てるように述べたその内容はこのようなことだった。
 私が生まれる前、天武様とその皇后であられる鸕野讃良後の持統天皇様に6人の皇子が呼び出された。そしてそのうちの鸕野讃良うののさらら様の実子の草壁皇子くさかべのおうじを次期天皇とし、異母兄弟同士互いに助けて争わないことを誓わされたそうだ。

 その晴れた野には白々しい風が飄々と吹いていた。
 天武様が、朕は本日、そなたらとともにここで千年の楽土を誓いたい。どうか、と尋ねる。
 草壁様が進み出てこう宣言した。
 天の神よ地の神よ、そして天皇よ。私とその兄弟、長幼あわせて10名余りおります。同腹異腹かかわらず等しく天皇のご命令に従い、互いに助け合うことをここに誓います。これより以後、この誓いを忘れればその者は滅び子孫は絶えるでしょう。決して忘ません。

「そして俺らも天地神明に誓わされた。とんだ茶番よ」
「茶番なのでしょうか。兄弟が争わないことは良き行いなのでは」

 その時父上は鼻で笑い、続いて小さくため息をつき、そして慈しむように目を細めた。

「お前はいい奴だな、白壁。だからお前は都を見てはならぬ。目が腐る」
「父上?」
「そもそも俺の母の身分は低い。争うも何もないのさ。なのに俺にまで誓わせたのだ。よほど後ろ暗いのであろうなぁ甥を殺し全てを奪うという行いは」
「甥」
「天武様は甥である弘文こうぶん天皇を弑したのだよ? 同腹で同じ家で暮らした実の兄の子を殺してその位を簒奪したのだ。天智様が亡くなられ、弘文様は即位してまだ半年程度だったのにな」

 父上の言葉にはこれまで聞いたことのないような重昏さがわだかまっていた。

「異腹だから俺と弘文様はさほど親しくもなかったが、それでも俺にとっては弘文様は兄なのだ。そして殺した本人とその子が目の前で俺には同じことをするなと誓わせる。こんな滑稽なことがあるものかね。白壁、これは脅しなのだ。皇位を狙うことなかれ。つまりもし狙うのであれば……一族郎党皆殺しだ。子孫を絶やすぞ」

 その時、父上の細い唇の隙間から吹き出た風はひどく淀み昏かった。襟口を濡らしたのはその風の冷たさなのか、あるいはいつのまにか噴き出ていた汗なのか。私は酷く慄いていた。
 ともあれその風は、父上のお言葉とともに、都の怨念というものを遥か遠くに離れたこの野山まで運んできたのだ。
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